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モンテーニュとは わかりやすい世界史用語2519 |
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著作名:
ピアソラ
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モンテーニュとは
モンテーニュは、16世紀後半のフランスに生きた思想家であり、随筆(エセー)という文学形式の創始者として、西洋思想史に不滅の足跡を残しました。彼の名は、その主著『エセー』と分かちがたく結びついていますが、その生涯は書斎に閉じこもった単なる文人のものではありませんでした。彼は、ボルドー地方の貴族であり、有能な司法官であり、思慮深い市長であり、そして国王の信頼を得た交渉人でもありました。カトリックとプロテスタントが血で血を洗う宗教戦争の嵐が吹き荒れる、狂信と暴力の時代にあって、彼は自らの内面に深く分け入り、「私とは何か?」という問いを執拗に探求し続けました。その思索の軌跡である『エセー』は、特定の哲学体系を構築するのではなく、移ろいやすく、矛盾に満ちた自己を、あるがままに描き出すという、前代未聞の試みでした。
形成期=特異な教育と公的生活への道(1533年-1571年)
ミシェル=エイケム=ド=モンテーニュは、1533年2月28日、フランス南西部、ボルドー近郊に位置するモンテーニュ城で、その生を受けました。彼の家系であるエイケム家は、もともとボルドーの裕福な商人であり、祖父の代に貴族の称号とモンテーニュの領地を買い取ることで、法服貴族の仲間入りを果たした新興貴族でした。彼の父、ピエール=エイケムは、イタリア戦争に従軍した経験を持つ実直な人物で、ボルドー市長を務めるなど、地域の尊敬を集める名士でした。彼は、ルネサンス人文主義の新しい思想に深い関心を寄せており、自らの長男であるミシェルに、ユニークで実験的な教育を施すことを決意します。
ラテン語の揺りかご=人文主義教育の実践
モンテーニュの教育法は、彼の『エセー』の中で詳しく語られており、その特異さで知られています。父ピエールは、息子が書物との間に苦痛な関係を結ぶことを恐れ、学習が自然で楽しいものであるべきだと考えました。そのために、彼はミシェルがまだ乳飲み子であった頃から、ドイツからラテン語しか話さない家庭教師を呼び寄せ、彼に世話をさせました。さらに、両親はもちろん、城の使用人たちに至るまで、ミシェルの前ではラテン語以外の言葉を話すことを禁じました。その結果、モンテーニュは、フランス語を覚えるよりも先に、ラテン語を母語として習得したのです。彼が7歳になる頃には、キケロやウェルギリウスの言葉が、彼にとって最も自然な言語となっていました。毎朝、彼が目を覚ますのは、音楽家が奏でる優しい楽器の音色でした。これもまた、厳しい規律ではなく、快い刺激によって学習意欲を引き出そうとする、父の教育方針の表れでした。
この特異な教育は、モンテーニュの知的形成に決定的な影響を与えました。ラテン語は、彼にとって単なる学問の対象ではなく、思考そのものを形作る生きた言語となりました。彼の『エセー』が、セネカ、キケロ、ホラティウスといった古代ローマの思想家や詩人からの引用で満ち溢れているのは、彼が単に知識をひけらかしているのではなく、彼らとの対話の中で自らの思索を深めていったことの自然な現れなのです。
6歳になると、モンテーニュはこの自由な学習環境を離れ、ボルドーにある当時フランスで最も評価の高かったコレージュ=ド=ギュイエンヌに寄宿生として入学します。しかし、そこでの画一的で厳格な学校教育は、彼にとって苦痛以外の何物でもありませんでした。彼は、後年、『エセー』の中で、当時の学校教育が、生徒の自主性を無視し、ただ知識を詰め込むだけの非人間的なものであったと、厳しく批判しています。彼は、この学校で7年間を過ごしましたが、その間に得たものよりも、母語として身につけたラテン語の純粋さが損なわれたことへの嘆きの方が大きかったようです。
法服貴族としてのキャリアとエティエンヌ=ド=ラ=ボエシとの出会い
コレージュを卒業した後、モンテーニュは法学を学ぶために大学へ進んだと考えられていますが、その具体的な場所や期間については明らかではありません。いずれにせよ、彼は法服貴族の子息として、司法官の道を歩むことが期待されていました。1554年、21歳の時、彼はまずペリグーの租税法院の判事に任命されます。そして1557年、この法院がボルドー高等法院に統合されたことに伴い、彼はボルドー高等法院の評定官という、より重要な地位に就くことになりました。
ボルドー高等法院は、フランス南西部の広大な地域を管轄する、国王の司法権を代表する重要な機関でした。モンテーニュは、ここで約13年間にわたり、民事から刑事まで、様々な訴訟の審理や判決に関わりました。この司法官としての経験は、彼に人間社会の複雑さや、法律の限界、そして人間の判断の不確かさを痛感させることになります。『エセー』の中で彼が繰り返し言及する、人間の行動の多様性や矛盾に対する鋭い観察眼は、この法廷での経験によって培われた部分が大きいと言えるでしょう。彼は、絶対的な正義を振りかざすのではなく、個々の具体的な状況を注意深く考察する、現実的な思考法を身につけていきました。
しかし、モンテーニュにとって、このボルドー高等法院での日々が持つ最も重要な意味は、一人の人物との運命的な出会いにありました。その人物とは、同じく高等法院の評定官であった、エティエンヌ=ド=ラ=ボエシです。ラ=ボエシは、モンテーニュより3歳年長で、卓越した詩人であり、古典学者であり、そして若き日に『自発的隷従論』という、圧政に対する市民の抵抗権を説いた情熱的な論文を書き上げた、非凡な才能の持ち主でした。
二人は出会うやいなや、互いの精神の気高さに引かれ合い、瞬く間に深い友情で結ばれます。モンテーニュは、後年、『エセー』の「友情について」の章で、このラ=ボエシとの友情を、これ以上ないほどの賛辞で語っています。「もし私になぜ彼を愛したのか問うならば、私はこう答えるしかないように思う。『彼が彼であったから、私が私であったから』と」。彼らの友情は、利害や偶然に基づいたありふれた関係ではなく、二つの魂が完全に融合し、一つになるような、完璧で絶対的なものでした。彼らは、互いの思考や感情を、言葉を尽くさずとも理解し合える、まさに「もう一人の自己」を見出したのです。
しかし、この奇跡的な友情は、長くは続きませんでした。1563年、ラ=ボエシはペストに罹り、わずか32歳の若さでこの世を去ります。モンテーニュは、友の最期を看取り、その激しい苦痛と、死に直面してもなお失われなかった精神の気高さを、その目に焼き付けました。ラ=ボエシの死は、モンテーニュの心に、決して癒えることのない深い傷と、埋めようのない空虚感を残しました。彼は、人生の儚さと、死という抗いようのない現実を、痛切に突きつけられたのです。この友の早すぎる死という経験が、モンテーニュを内面的な探求へと向かわせ、最終的に『エセー』の執筆へと導く、最も重要な契機の一つとなったことは間違いありません。
公的生活からの引退=書斎への退隠
ラ=ボエシを失った後も、モンテーニュはしばらくの間、高等法院での職務を続けます。1565年には、フランソワーズ=ド=ラ=シャサーニュという女性と結婚し、6人の娘をもうけますが、成人したのは一人のみでした。彼はこの結婚を、愛情よりも家と家との結びつきを重んじた、理性的な取り決めであったと淡々と語っています。1568年には父ピエールが亡くなり、モンテーニュは家督と領地を相続し、モンテーニュ家の当主となります。
公人としての生活は、彼に一定の社会的地位と安定をもたらしましたが、彼の心は満たされませんでした。法廷での争いや、宮廷での儀礼的な付き合いは、彼の性には合いませんでした。ラ=ボエシという魂の友を失った孤独感も、彼を公的な生活から遠ざける一因となったでしょう。彼は、自らの内面と向き合い、思索に没頭するための自由な時間を切望するようになります。
そして1571年、38歳の誕生日を迎えた日、モンテーニュは一つの大きな決断を下します。彼は、ボルドー高等法院の職を辞し、公的な生活から完全に引退することを宣言したのです。彼は、モンテーニュ城の塔の三階にある円形の部屋を自らの書斎と定め、そこに千冊以上の蔵書を運び込みました。そして、書斎の梁に、ラテン語やギリシャ語で書かれた、彼が愛する思想家たちの言葉や、自らの決意を示す句を刻みつけました。その一つには、こう記されています。
「キリスト紀元1571年、38歳の年、2月の末日、彼の誕生日に、ミシェル=ド=モンテーニュは、長きにわたり高等法院での隷属的な職務に倦み、また公務に疲れ果て、今や壮健なうちに、学問の女神たちの懐なる、静かで安らかな隠れ家へと退いた。もし運命が許すならば、彼はこの場所で、残された生涯を過ごすであろう。彼は、父祖伝来のこの甘美な隠れ家を、自らの自由、平穏、そして閑暇のために捧げたのである。」
この宣言と共に、モンテーニュの人生の第二幕が上がります。彼は、外部の世界の喧騒から離れ、書物と自己との対話という、内面への長い旅を始めたのです。この書斎での孤独な思索の日々から、近代精神の最も独創的な産物の一つである『エセー』が生まれることになります。
『エセー』の執筆と自己探求の深化(1572年-1580年)
モンテーニュが書斎に引きこもった1570年代のフランスは、宗教戦争(ユグノー戦争)が最も激化した時代でした。1572年8月24日、パリでは「サン=バルテルミの虐殺」が起こり、数千人ものプロテスタント(ユグノー)がカトリック教徒によって虐殺されました。この狂信的な暴力の嵐は、フランス全土に広がり、社会は深い分断と混乱に陥りました。モンテーニュの領地がある南西部は、特に両派の対立が激しい地域であり、彼の城のすぐそばでも、略奪や殺戮が日常的に行われていました。
このような外部世界の狂気と暴力とは対照的に、モンテーニュは自らの書斎という砦の中で、静かな執筆活動を開始します。彼が最初に着手したのは、亡き友ラ=ボエシの遺稿を整理し、出版することでした。これは、友への追悼であると同時に、その優れた知性を世に知らしめたいという願いの表れでした。しかし、ラ=ボエシの最も重要な著作である『自発的隷従論』は、その内容の過激さから、プロテスタントの過激派によって反政府的なプロパガンダとして利用される危険性がありました。モンテーニュは、友の思想が党派的な争いに悪用されることを恐れ、最終的にその公刊を断念します。
『エセー』の誕生=「試み」としての執筆
ラ=ボエシの著作を出版するという試みが頓挫した後、モンテーニュは、自らのために、自らの思考を書き留めるという、新しい試みを始めます。これが、『エセー』の始まりでした。『エセー』(Essais)という言葉は、フランス語の動詞「essayer」(試みる)に由来し、「試み、試行、実験」といった意味を持ちます。彼がこのタイトルを選んだこと自体が、彼の執筆の目的を物語っています。彼は、完成された哲学体系や、絶対的な真理を提示しようとしたのではありません。彼はただ、様々なテーマについて、自らの判断力や理性を「試み」、その思考の過程を、ありのままに記録しようとしたのです。
彼が執筆の対象としたのは、彼自身でした。「読者よ、この書物で私自身がその主題なのだ」と、彼は序文で宣言します。これは、文学史上、前代未聞のことでした。それまでの作家たちが、神や英雄、あるいは歴史上の偉大な出来事を主題としてきたのに対し、モンテーニュは、ごく普通の一人の人間である「ミシェル=ド=モンテーニュ」の、移ろいやすく、矛盾に満ちた内面世界を、探求の対象としたのです。彼は、自分自身を解剖し、観察し、その気まぐれな思考や感情の動きを、正直に描き出すことこそが、人間という存在の普遍的な姿を理解するための、唯一の道であると考えました。
初期の『エセー』は、比較的短く、プルタルコスやセネカといった古代の著作家からの引用や逸話をもとに、特定のテーマについて考察するという形式をとっていました。例えば、「怠惰について」「嘘つきについて」「悲しみについて」といった章では、古典からの引用をきっかけに、自らの経験や見解を付け加えていくというスタイルが見られます。この段階では、彼はまだ、ストア派の哲学に強く影響されており、感情の動揺に打ち勝ち、理性によって自己を律し、死に備えることの重要性を説いています。これは、ラ=ボエシの死という衝撃的な経験と、周囲に渦巻く暴力の時代を生き抜くための、知的武装であったのかもしれません。
懐疑主義への傾倒
しかし、執筆を進めるにつれて、モンテーニュの思索は、ストア派的な確信から、より深い懐疑主義(スケプティシズム)へと傾いていきます。彼は、人間の理性が、いかに傲慢で、独善的で、そして不確かなものであるかを、痛感するようになります。彼は、古代ギリシャの懐疑論者たちの思想、特にセクストス=エンペイリコスの著作に深く傾倒し、あらゆる独断的な主張に対して「判断を保留する」(エポケー)という態度を、自らの信条とするようになります。
この懐疑主義的転回を象徴するのが、『エセー』の中でも最長の章である「レーモン=スボンの弁護」です。この章は、もともと、15世紀のスペインの神学者レーモン=スボンの著作『自然神学』を、父ピエールの依頼で翻訳した経験から出発しています。スボンは、人間の理性が、自然界を観察することによって、キリスト教の真理を証明できると主張しました。モンテーニュは、当初はこの主張を弁護する体裁をとりながら、議論を進めるうちに、その前提となっている人間の理性の能力そのものを、徹底的に解体していきます。
彼は、人間が、自らを「万物の霊長」とみなし、他の動物よりも優れていると考えるのは、根拠のない傲慢であると論じます。動物たちもまた、独自の言語や社会、そして驚くべき知恵を持っているではないか、と彼は問いかけます。さらに彼は、人間の感覚がいかに不確かで、欺かれやすいものであるかを、数々の例を挙げて示します。同じものでも、健康な時と病気の時では、全く違って見えます。文化や習慣が異なれば、善悪の基準も全く異なってきます。では、一体何が、絶対的な真理の基準となりうるのでしょうか。
この徹底的な懐疑の果てに、モンテーニュは、人間の知性が到達できる唯一の結論は、「知の無知」であるとします。彼は、自らの紋章に、一つの問いを刻みつけました。それは、「Que sçay-je?」(私は何を知るか?)という、彼の懐疑主義を象徴する句です。この問いは、あらゆる独断論や狂信に対する、最も強力な解毒剤でした。自分が何も知らないということを知る者だけが、他者の意見に耳を傾け、寛容になることができるのです。宗教戦争の時代にあって、カトリックもプロテスタントも、自らが絶対的な真理を所有していると信じ、そのために互いを殺し合っていました。モンテーニュの懐疑主義は、このような狂信に対する、最もラディカルな批判であり、平和共存の可能性を探るための、知的基盤であったのです。
『エセー』第一版の完成
約8年間にわたる執筆の末、1580年、モンテーニュはボルドーの印刷業者シモン=ミランジュのもとで、『エセー』の最初の版(第一巻と第二巻からなる二分冊)を出版します。この時、彼は47歳でした。この第一版の完成は、彼の人生における一つの大きな区切りとなりました。彼は、書斎での孤独な自己探求の旅に一区切りをつけ、再び外部の世界へと目を向けるようになります。彼は、自らが書き上げた「自己の肖像画」を携えて、新たな経験と知識を求める旅に出ることを決意したのです。
旅と公務=世界と自己の再発見(1580年-1588年)
『エセー』の第一版を世に送り出したモンテーニュは、長年の書斎生活から解放され、新たな経験を求める旅に出ます。この旅の表向きの目的は、彼が長年苦しんでいた腎臓結石の治療のために、ドイツやイタリア各地の温泉を巡ることでした。しかし、その真の動機は、書物を通じてではなく、自らの目と足で、多様な文化や人々の暮らしに触れ、自己の視野を広げたいという、尽きることのない好奇心にあったのでしょう。
ヨーロッパ大旅行と『旅日記』
1580年6月、モンテーニュは、弟や数人の友人を含む一行と共に、モンテーニュ城を出発します。この旅は、約17ヶ月にも及ぶ壮大なものでした。彼らはまずフランス東部を抜け、スイス、ドイツ、オーストリアを経て、イタリアへと入ります。彼は、訪れた各地の風俗、習慣、政治制度、食事、建築などを、鋭い観察眼で記録しました。この記録は、彼の死後、『旅日記』として発見され、出版されることになります。『エセー』が内面への旅の記録であるとすれば、『旅日記』は外面への旅の記録であり、両者はモンテーニュの精神の両面を映し出す、貴重な資料となっています。
『旅日記』から浮かび上がるのは、モンテーニュの驚くべき寛容さと、異文化に対する開かれた精神です。彼は、プロテスタントの儀式にも、ユダヤ教の儀式にも、好奇心を持って参加し、その違いを評価するのではなく、ありのままに記述します。彼は、ドイツの宿の快適さや、スイスの都市の自由な統治システムを称賛する一方で、イタリアの洗練された文化や古代ローマの壮大な遺跡に深い感銘を受けます。
特に、ローマでの長期滞在は、彼にとって大きな意味を持つものでした。彼は、教皇グレゴリウス13世に謁見し、ローマ市民権を授与されるという名誉を得ます。また、彼はヴァチカンの図書館で、自著『エセー』が禁書目録の審査対象となっていることを知ります。審査官たちは、運命や異教の詩人の引用についていくつかの指摘をしましたが、最終的にはモンテーニュの良心に任せるという、異例の寛大な処置をとりました。この経験は、彼の思想が、カトリック教会の中心部においても、一定の理解を得られるものであるという自信を、彼に与えたかもしれません。
この旅を通じて、モンテーニュは、自らがフランス人であり、ボルドー人であるというアイデンティティを再確認すると同時に、それを超えた普遍的な人間性への眼差しを深めていきました。彼は、人間の習慣や価値観がいかに多様で、相対的なものであるかを、身をもって体験したのです。この経験は、後の『エセー』の増補改訂において、彼の思索にさらなる深みと具体性を与えることになります。
ボルドー市長としての重責
1581年9月、モンテーニュがイタリアのバーニ=ディ=ルッカで温泉治療を受けていた最中、彼のもとに一通の急報が届きます。それは、彼が不在の間に、ボルドー市の市長に選出されたという知らせでした。彼は、この予期せぬ任命に、当初は戸惑いを感じ、辞退しようと考えます。彼は、公務の煩わしさから逃れるために書斎に引きこもったのであり、再びその重責を担うことには、強い抵抗感がありました。
しかし、フランス国王アンリ3世からの直々の要請もあり、彼は最終的にその職務を受け入れることを決意します。彼は、1581年の末にフランスに帰国し、ボルドー市長としての任に就きました。市長の任期は2年でしたが、彼はその手腕を評価され、再選されて、1585年まで、計4年間にわたり、この重要な役職を務めることになります。
モンテーニュが市長を務めた時期は、宗教戦争が再び激化し、ボルドー周辺の政治情勢が極めて緊迫していた時代でした。ボルドー市はカトリックの拠点でしたが、その周辺はプロテスタントの勢力が強く、特にプロテスタント側の指導者であったナヴァール王アンリ(後のフランス国王アンリ4世)の領地に隣接していました。モンテーニュは、カトリックの国王アンリ3世と、プロテスタントのナヴァール王アンリという、対立する二人の指導者の間にあって、慎重かつ巧みな舵取りを要求されました。
彼は、どちらかの党派に偏することなく、常に中立と穏健の立場を貫きました。彼は、ナヴァール王アンリとしばしば会見し、個人的な信頼関係を築く一方で、国王アンリ3世への忠誠も忘れませんでした。彼の目標は、ボルドー市の平和と安全を守り、狂信的な対立が市内に持ち込まれるのを防ぐことでした。彼は、派手な行動や英雄的なジェスチャーを好まず、むしろ目立たず、着実に日々の務めをこなすことを信条としました。彼は、『エセー』の中で、「最も美しい人生とは、私の考えでは、ありふれた人間的な模範に従って、秩序正しく、しかし奇跡もなければ、常軌を逸することもなく、過ごされる人生である」と書いていますが、彼の市長としての振る舞いは、まさにこの言葉を体現するものでした。
1585年、彼の任期の最後の年に、ボルドーは恐ろしいペストの大流行に見舞われます。市の人口の3分の1以上が死亡するという、壊滅的な事態となりました。モンテーニュは、任期満了時に市を離れており、ペストが猛威を振るう市内に戻らなかったことで、後世の一部の歴史家から批判されることもあります。しかし、当時の状況を考えれば、彼の判断は、家族や自身の安全を守るための、やむを得ない選択であったとも言えます。この悲惨な経験は、彼に再び、人間の生の脆さと、運命の非情さを痛感させたことでしょう。
『エセー』の増補改訂と第三の書の追加
市長の任期を終えた後、モンテーニュは再びモンテーニュ城の書斎に戻ります。しかし、彼の生活は、以前のような完全な隠遁生活ではありませんでした。彼は、国王アンリ3世とナヴァール王アンリの間の調停役として、重要な外交交渉に関わるようになります。彼は、両者の間を行き来し、フランスの平和と統一のために尽力しました。1588年には、パリで三部会が開かれた際、カトリック同盟の過激派によって、一時的にバスティーユ牢獄に投獄されるという経験もしています。
このような公的な活動と並行して、モンテーニュは『エセー』の執筆を再開します。彼は、ヨーロッパ旅行や市長としての経験を通じて得た、新たな洞察や逸話を、既存の章句に大量に書き加えていきました。さらに、彼は全く新しい章からなる「第三の書」を執筆します。
この「第三の書」は、モンテーニュの思索が到達した、最終的な円熟の境地を示しています。ここでの彼は、もはやストア派的な禁欲や、懐疑主義的な判断保留に留まりません。彼は、矛盾に満ち、移ろいやすい自己を、あるがままに受け入れ、肯定することを学びます。彼は、「経験について」の章で、「私は、私自身を研究する以上に、良い学問はないと思う」と述べ、自己探求こそが最高の哲学であると宣言します。彼は、自らの老い、病(腎臓結石の激しい痛み)、そして気まぐれな習慣などを、驚くほど率直に、そしてユーモアを交えて語ります。
彼は、理性と身体、精神と物質を対立させるのではなく、両者が分かちがたく結びついた、人間という存在の全体性を肯定します。「他人が人間を形成するのなら、私は人間を物語る」「私は、私の書物を作った以上に、私の書物によって作られた」といった言葉は、執筆という行為を通じて、自己が絶えず形成され、変化していくという、彼のダイナミックな自己認識を示しています。
1588年、モンテーニュはパリを訪れ、この増補改訂版の『エセー』(第三の書を含む)を、高名な印刷業者アベル=ランジュリエのもとで出版します。これが、彼が生前に刊行した、最後の版となりました。このパリ滞在中、彼は、マリー=ド=グルネーという、彼の『エセー』を読んで深く感銘を受けた、若い才気あふれる女性と出会います。彼女は、モンテーニュの「養女」となり、彼の晩年の忠実な弟子であり、彼の死後、その著作の編集と出版に重要な役割を果たすことになります。
晩年と死=ボルドー標本と『エセー』の完成(1588年-1592年)
1588年版の『エセー』を出版した後、モンテーニュは故郷のモンテーニュ城へと戻り、人生の最後の4年間を過ごします。この時期、フランスの政治情勢は劇的な変化を遂げていました。1589年、国王アンリ3世が暗殺され、プロテスタントであったナヴァール王アンリが、アンリ4世としてフランス国王に即位します。モンテーニュが長年信頼関係を築いてきた人物が、ついにフランスの王座に就いたのです。アンリ4世は、モンテーニュに宮廷顧問官としての地位を提示しますが、モンテーニュは、老いと病を理由に、その申し出を丁重に断り、故郷に留まることを選びました。
ボルドー標本=絶えざる自己探求
公的な舞台から完全に身を引いたモンテーニュは、その残された時間のすべてを、自らの主著『エセー』のさらなる推敲と増補に捧げました。彼は、1588年版の『エセー』一部を、自らの手稿として用い、その余白や行間に、びっしりと新しい考察や引用、逸話を書き込んでいきました。その書き込みの量は膨大で、元のテクストの3分の1以上にも達すると言われています。この、モンテーニュ自身による最終的な手沢本は、後にボルドー市立図書館で発見されたことから、「ボルドー標本」として知られています。
この「ボルドー標本」に加えられた書き込みは、モンテーニュの思考が、その最晩年に至るまで、決して停滞することなく、絶えず動き続け、深化し続けていたことを、雄弁に物語っています。彼は、以前の自分の意見を訂正したり、新たな視点を加えたり、あるいは全く逆の結論を導き出したりすることを、少しもためらいませんでした。彼にとって、『エセー』は完成された作品ではなく、生きている自己と共に、常に生成し続ける、開かれたテクストだったのです。
この最後の加筆修正において、モンテーニュの思索は、より個人的で、身体的な次元へと向かっていきます。彼は、自らの老い、病の痛み、そして死への恐れといった、人間存在の根源的なテーマについて、より率直かつ具体的に語るようになります。しかし、彼の態度は、もはやストア派的な克己でも、懐疑主義的な逃避でもありません。彼は、避けられない運命を、あるがままに受け入れ、その中でいかに「よく生きるか」を問い続けます。彼は、「生きることこそ、私の職業であり、私の芸術である」と宣言し、日常生活の些細な営みの中にこそ、人間の生の価値と尊厳があることを見出していきます。
静かなる死
長年、腎臓結石の激しい痛みに苦しめられてきたモンテーニュですが、彼の直接の死因は、扁桃腺の炎症であったと考えられています。1592年9月、彼の病状は悪化し、喉の腫れのために、声を出すことができなくなりました。彼は、自らの最期を悟り、筆談で近隣の隣人たちを呼び集め、ミサを執り行うよう依頼します。
1592年9月13日、モンテーニュは、彼の寝室で執り行われたミサの最中、聖体を掲げる神聖な瞬間に、最後の力を振り絞って身を起こそうとしましたが、そのまま静かに息を引き取ったと伝えられています。彼は、59年の生涯を閉じました。その死は、彼の人生哲学を反映するかのように、劇的なものではなく、穏やかで、威厳に満ちたものでした。
死後の遺産=『エセー』の決定版
モンテーニュの死後、彼の「養女」であったマリー=ド=グルネーは、彼の未亡人フランソワーズから、「ボルドー標本」を含む遺稿を託されます。彼女は、モンテーニュの最後の加筆修正を忠実に反映させた、新しい版の『エセー』を出版するために、精力的に活動しました。そして1595年、彼女の献身的な努力により、モンテーニュの最終的な意図を反映した、決定版と見なされる『エセー』が出版されました。この1595年版は、その後のすべての『エセー』の版の基礎となり、モンテーニュの思想を後世に伝える上で、決定的に重要な役割を果たしました。
ミシェル=ド=モンテーニュの生涯は、激動の時代にあって、外部の世界の喧騒から自らの内面へと深く沈潜し、「自己」という未知の大陸を探検した、一人の人間の知的冒険の記録でした。彼は、特異な人文主義教育によって古典古代の知恵を血肉とし、司法官、そして市長としての公的な経験を通じて人間社会の現実を学び、そして最愛の友の死によって人生の有限性を痛感しました。これらの経験のすべてが、彼の主著『エセー』へと流れ込んでいます。
彼は、絶対的な真理を打ち立てることを目指すのではなく、「私は何を知るか?」という根源的な問いから出発し、移ろいやすく、矛盾に満ちた自己を、あるがままに記述するという、全く新しい執筆のスタイルを創造しました。彼の懐疑主義は、あらゆる独断論や狂信を退け、寛容と人間理解のための道を開きました。そして、その思索の旅の果てに、彼は、理性と身体、精神と生が分かちがたく結びついた、人間存在の全体性を肯定し、日常生活の中にこそ「よく生きる」ための知恵があることを見出しました。
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- 東南アジアの植民地化
- 東アジアの対応
- 帝国主義と世界の変容
- 帝国主義と列強の展開
- 世界分割と列強対立
- アジア諸国の改革と民族運動(辛亥革命、インド、東南アジア、西アジアにおける民族運動)
- 二つの大戦と世界
- 第一次世界大戦とロシア革命
- ヴェルサイユ体制下の欧米諸国
- アジア・アフリカ民族主義の進展
- 世界恐慌とファシズム諸国の侵略
- 第二次世界大戦
- 米ソ冷戦と第三勢力
- 東西対立の始まりとアジア諸地域の自立
- 冷戦構造と日本・ヨーロッパの復興
- 第三世界の自立と危機
- 米・ソ両大国の動揺と国際経済の危機
- 冷戦の終結と地球社会の到来
- 冷戦の解消と世界の多極化
- 社会主義世界の解体と変容
- 第三世界の多元化と地域紛争
- 現代文明
- 国際対立と国際協調
- 国際対立と国際協調
- 科学技術の発達と現代文明
- 科学技術の発展と現代文明
- これからの世界と日本
- これからの世界と日本
- その他
- その他
























