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辮髪とは わかりやすい世界史用語2459 |
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著作名:
ピアソラ
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辮髪とは
清朝(1636年-1912年)の時代、中国の男性に義務付けられた特異な髪型である辮髪は、単なるファッションではなく、満洲族の支配に対する服従、そして漢民族の抵抗とアイデンティティの複雑な象徴でした。 この髪型は、頭の前部を剃り上げ、残りの髪を後頭部で長く伸ばして一本の三つ編みにするものでした。 辮髪の強制は、中国史上最大級の文化的・政治的変革の一つであり、その歴史は支配と被支配の力学、文化的アイデンティティの葛藤、そして最終的には近代化への道を映し出す鏡と言えます。
辮髪令の起源と背景
辮髪の歴史は、清朝を建国した満洲族、そしてその前身である女真族の文化に深く根差しています。 女真族や満洲族の男性にとって、この髪型は彼らの民族的アイデンティティの一部でした。 17世紀初頭、ヌルハチが満洲の諸部族を統一し、後金を建国する過程で、彼が征服した地域の男性に対して辮髪を強制し始めました。 これは、満洲族の支配下に入ったことを示す視覚的な証であり、支配者への忠誠を誓う象徴的な行為でした。
1644年、満洲族は明朝の混乱に乗じて万里の長城を越え、北京を占領し、清朝を樹立しました。 当初、摂政王ドルゴンは、万里の長城以南の漢民族に対しては辮髪を強制しないという布告を出していました。 しかし、この方針は長くは続きませんでした。翌1645年7月21日、ドルゴンは全ての漢民族の男性に対し、10日以内に満洲族と同じように前頭部を剃り、辮髪にするよう命じる「剃髪令」を発布しました。 この命令に従わない者は、反逆者と見なされ死刑に処されるという厳しいものでした。 この政策は「髪を留める者は頭を留めず、頭を留める者は髪を留めず」というスローガンで知られ、その非情さを物語っています。
この剃髪令が発布された背景には、いくつかの要因が考えられます。一つは、山東省出身の漢民族の役人であった孫之獬らが自発的に辮髪にし、ドルゴンに対して全土の人民にこの髪型を強制するよう進言したことです。 また、軍事的な観点からも、辮髪は実用的な意味を持っていました。清軍にとって、誰が味方で誰が敵かを瞬時に見分けるための有効な手段となったのです。 辮髪は、満洲族の支配を受け入れた者と、それに抵抗する者を明確に区別する印でした。
漢民族の抵抗と儒教的価値観
剃髪令は、漢民族社会に激しい衝撃と広範な抵抗を引き起こしました。 この抵抗の根底には、儒教の教え、特に「孝」の思想が深く関わっていました。 儒教では、「身体髪膚、これを父母に受く、敢えて毀傷せざるは、孝の始めなり」とされ、親から授かった身体、髪、皮膚を傷つけないことが親孝行の第一歩であると考えられていました。 このため、伝統的に漢民族の男女は髪を切らず、長く伸ばした髪を束ねて様々な髪型にしていました。 前頭部を剃るという行為は、この儒教的な価値観に真っ向から反するものであり、多くの漢民族にとって屈辱的な行為と受け止められたのです。
彼らは、後頭部の髪を三つ編みにすること自体には、伝統的に髪を長く伸ばしていたため、それほど強い抵抗感はありませんでした。 抵抗の核心は、前頭部を剃るという行為にあったのです。 このため、清朝初期の反乱者の中には、三つ編みはしつつも前頭部を剃ることを拒否して抵抗の意思を示す者もいました。
この抵抗は、単なる個人的な信条の表明にとどまらず、大規模な反乱へと発展しました。 著名な学者であった顧炎武は、剃髪令を「夷狄(いてき)の風習への同化」であると激しく非難しました。また、魯迅は、当時の人々が国が滅びることよりも、辮髪にしなければならないことに反発して立ち上がったと指摘しています。 1645年の江陰での80日間にわたる籠城戦は、剃髪令に対する抵抗がいかに熾烈であったかを示す象徴的な出来事です。 この戦いでは、学者や民兵が中心となって清軍に抵抗しましたが、最終的には都市は陥落し、大規模な虐殺が行われました。 このような悲劇は各地で繰り返され、辮髪の強制は多くの血を流すことによって成し遂げられたのです。
辮髪の強制と支配の確立
清朝は、抵抗に対して容赦ない弾圧をもって臨みました。 「髪を留めるか、頭を留めるか」という選択を迫られた人々の多くは、死を避けるためにやむなく辮髪を受け入れました。 清朝がこの政策を強力に推進できた背景には、漢民族の協力者の存在も無視できません。 満洲族の軍隊である八旗には、満洲旗、蒙古旗と並んで漢軍旗が存在し、その兵力の大部分は漢民族で構成されていました。 また、明から清に降った緑営と呼ばれる軍隊も、そのほとんどが漢民族兵士でした。 これらの漢民族兵士が、同胞である漢民族に対して辮髪を強制するという皮肉な状況が生まれていたのです。 例えば、1645年に江南地方で辮髪を強制したのは、漢民族の将軍である洪承疇の配下の兵士たちでした。
清朝は、辮髪を強制する一方で、衣服に関しては比較的寛容な政策をとりました。 役人には満洲族の服装を義務付けましたが、一般の漢民族の民間人が漢服を着用し続けることは許可されていました。 しかし、多くの漢民族男性は自発的に満洲族の衣服である長衫などを着るようになりました。 一方で、漢民族の女性は清朝の終わりまで伝統的な漢服を着続け、満洲族の女性の髪型である両把頭を強制されることはありませんでした。 なぜ男性にのみ辮髪が強制されたのか、その明確な理由は記録に残っていませんが、一説には、女性は社会的に低い地位に置かれており、支配を確立する上で彼女たちの髪型を変える必要がなかったためと考えられています。
例外として、仏教の僧侶と道教の道士は剃髪令から免除されました。 仏教僧は頭を完全に剃り、道教の道士は伝統的な髷を結うことが許されていました。 また、新疆のムスリムのように、自ら進んで辮髪を受け入れることで清朝への忠誠を示そうとした人々もいました。
辮髪の定着と象徴性の変化
時が経つにつれて、辮髪は中国社会に定着していきました。 世代が変わり、辮髪以外の髪型を知らない人々が大多数を占めるようになると、かつての抵抗の記憶は薄れていきました。辮髪は、もはや屈辱の象徴ではなく、清朝の臣民であることの証、そして「中国人」としてのアイデンティティの一部と見なされるようになっていきました。 この髪型は、10日に一度は前頭部を剃る必要があるなど、維持には手間がかかりましたが、人々の日常生活に深く浸透していきました。
しかし、19世紀後半になると、辮髪の持つ意味合いは再び大きく変化します。西欧列強との接触が増え、中国が国際社会の中で劣位に立たされるようになると、辮髪は西洋人から嘲笑の対象となりました。 西洋では「ピッグテイル(豚の尻尾)」などと侮蔑的に呼ばれ、辮髪は中国の「後進性」や「未開さ」の象徴と見なされるようになったのです。 このような状況は、海外に渡った中国人にとっても深刻な問題でした。彼らは辮髪を理由に差別や暴力を受けることがありましたが、一方で、辮髪を切り落とすことは清朝への反逆を意味し、故郷に帰れなくなる可能性をはらんでいました。
国内でも、辮髪に対する見方は変わり始めます。日清戦争(1894-1895年)の敗北は、多くの知識人や革命家に清朝の支配に対する絶望感を与え、辮髪を断ち切るという行為が、旧体制との決別と近代化への意志を示す象徴的なジェスチャーとなりました。 孫文をはじめとする革命家たちは、自らの辮髪を切り落とし、反満洲・反清朝の旗印としたのです。 太平天国の乱の参加者たちは「長髪賊」と呼ばれましたが、彼らは後頭部の三つ編みは残しつつ、前頭部の髪を伸ばすことで清朝への抵抗を示しました。 これは、清朝政府が三つ編みそのものよりも、前頭部を剃ることを忠誠の証として重視していたことを示唆しています。
辮髪の終焉とその後
1911年の辛亥革命によって清朝が倒れると、辮髪の強制も終わりを告げました。 人々は抑圧の象徴であった辮髪を切り落とし、西洋風の短髪など、新しい髪型を次々と取り入れました。 革命家たちが街頭で人々の辮髪を強制的に切り落とす光景も見られ、それは新しい時代の到来を告げる象徴的な出来事でした。 しかし、中には伝統への固執から辮髪を維持し続ける人々もおり、政治的な混乱の中で、偽の辮髪が出回ることもあったといいます。
最後の皇帝である溥儀が自らの辮髪を切り落としたのは、退位から10年後の1922年のことでした。 これをもって、2世紀半以上にわたって中国の男性を規定してきた辮髪の歴史は、名実ともに幕を閉じたのです。
清朝の辮髪は、単なる髪型の変遷史にとどまりません。それは、征服者が被征服民に自らの文化を強制し、服従を強いるという権力の発動そのものでした。 同時に、それは漢民族が自らの文化的アイデンティティと尊厳をかけて抵抗した記憶でもあります。 そして時代が下ると、かつて屈辱の象徴であったものが、今度は西洋に対する「中国」の象徴として扱われ、最終的には近代化の過程で断ち切られるべき旧弊の象徴へと変化していきました。
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