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黄帽派(ゲルク派)とは わかりやすい世界史用語2421
著作名: ピアソラ
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黄帽派(ゲルク派)とは

チベット仏教の四大宗派の中で最も新しく、かつ最も影響力のある宗派として知られるゲルク派は、「黄帽派」としても広く認識されています。 この宗派は、14世紀後半から15世紀初頭にかけて活躍した偉大な学者であり、ヨーガ行者でもあったジェ・ツォンカパ(1357年-1419年)によって創始されました。 ゲルク派の成立は、単に新しい仏教宗派の誕生を意味するだけでなく、当時のチベット仏教界に存在した様々な課題に対するツォンカパの深い洞察と改革への情熱の結晶でした。 その教えは、顕教と密教の統合、分析的な理性とヨーガ的瞑想の融合を特徴とし、チベット仏教哲学と実践の歴史において画期的な転換点となりました。
ゲルク派は、その教義的特徴から「善律派」を意味する「ゲルク」という名で呼ばれるようになりました。 これは、創始者ツォンカパが特に戒律(ヴィナヤ)の厳格な遵守を重視したことに由来します。 また、ツォンカパが1409年にラサ郊外に建立したガンデン寺にちなんで「ガンデン派」とも呼ばれます。 このガンデン寺は、後にデプン寺、セラ寺と共にゲルク派三大寺院と称され、中央チベットの宗教的・政治的中心地として何世紀にもわたり絶大な影響力を誇ることになります。
ゲルク派の歴史を理解する上で不可欠なのは、その前身ともいえるカダム派との関係です。 11世紀にインドの偉大な師アティーシャによってチベットにもたらされたカダム派の教えは、ゲルク派の思想的基盤の多くを形成しました。 ツォンカパはアティーシャの教えを深く尊敬し、特に「心の修行」(ロジョン)や「菩提道次第」(ラムリム)といったカダム派の教義を、サキャ派、カギュ派、ジョナン派などの密教の教えと統合しました。 このため、ゲルク派は自らを「新カダム派」と位置づけることもあります。
ゲルク派の発展は、ツォンカパの死後、その主要な弟子たちによって精力的に推し進められました。 ケードゥプ・ジェ、ギャルツァプ・ジェ、ドゥルジン・ダクパ・ギェルツェンといった弟子たちは、師の教えを広め、チベット各地に新たな僧院を建立することで、宗派の急速な拡大に貢献しました。 特に、後に初代ダライ=ラマとして知られることになるゲンドゥン・ドゥプは、タシルンポ僧院を建立するなど、ゲルク派の発展に大きな足跡を残しました。
16世紀末以降、ゲルク派はモンゴルの指導者たちとの同盟関係を築くことで、チベットとモンゴルにおいて宗教的・政治的に支配的な宗派としての地位を確立しました。 特に、5世ダライ=ラマ、ガワン・ロサン・ギャツォの時代には、チベット全土の政治的統一が達成され、ゲルク派の権威は不動のものとなりました。 この時代に建設が始まったポタラ宮は、ダライ=ラマの権威とゲルク派の栄華を象徴する建造物として、今日までその姿を伝えています。
ツォンカパの生涯と教え:ゲルク派の思想的源流

ゲルク派の創始者であるジェ・ツォンカパ・ロサン・ダクパは、1357年、チベット北東部アムド地方のツォンカという谷間に生まれました。 彼の誕生名はクンガ・ニンポでした。 彼の生家は遊牧民の家系であり、父親はモンゴル系、母親はチベット系であったと伝えられています。 幼少期から並外れた知性と精神的な資質を示し、ごく自然に菩薩行を実践するなど、普通の子供とは一線を画していました。
彼の誕生に際しては様々な奇跡的な出来事が起こったとされ、その噂は高名なカダム派の僧侶であったチョジェ・ドンドゥプ・リンチェンの耳にも届きました。 ツォンカパが3歳の時、ドンドゥプ・リンチェンは彼の父親に贈り物をし、その子の教育を任せてほしいと申し出ました。父親は喜んでこれを受け入れました。 7歳になるまでツォンカパは自宅でドンドゥプ・リンチェンの指導を受け、読み書きをいとも簡単に習得したと言われています。 7歳でドンドゥプ・リンチェンから沙弥戒を受け、「ロサン・ダクパ」という法名を授かりました。
16歳になるまで、ツォンカパはアムドでドンドゥプ・リンチェンの下で学び続けましたが、更なる知識を求めて中央チベットへ旅立つことを決意します。 当時の中央チベットには、最も名高い学僧や僧院が集まっていました。 彼は故郷のアムドに二度と戻ることはありませんでした。 この旅立ちは、彼の広範な学問探求の始まりであり、後のゲルク派創設へと繋がる重要な一歩でした。 彼は特定の場所に留まることなく、カギュ派の僧院でチベット医学やマハームドラーの実践、アティーシャのタントラ・ヨーガを学び、サキャ派の僧院では哲学を学びました。 彼は常に新鮮な思想を持つ独立した教師を求め、50人以上の著名な師の下で学びました。
諸宗派からの学びと独自の思想形成

ツォンカパは、特定の宗派に偏ることなく、当時のチベットに存在した主要な仏教宗派の教えを遍く学びました。 彼はカダム派、サキャ派、カギュ派、ジョナン派、ニンマ派など、様々な師から教えを受けました。 特に、サキャ派の偉大な学者であったレンダワ(1349年-1412年)は、彼の思想形成に大きな影響を与えた人物の一人です。 また、彼はカダム派の教え、特にアティーシャに由来する「心の修行」(ロジョン)と「菩提道次第」(ラムリム)を深く尊敬していました。
ツォンカパが特に強い関心を寄せたのは、ナーガールジュナ(龍樹)の中観(マディヤミカ)哲学でした。 彼は、当時チベットに存在した仏教解釈、特に空性の理解について、いくつかの問題点を認識していました。 彼は、戒律の弛緩や、顕教と密教の教えに関する杜撰な解釈を深く憂慮し、仏教を活性化させ、釈尊の教えの本質を取り戻すことを目指しました。
1397年、集中的な瞑想修行中に、ツォンカパは空性の見解に関する「大いなる悟り」を得たと伝えられています。 彼は、ナーガールジュナ、ブッダパーリタ、アーリヤデーヴァ、チャンドラキールティといった中観の偉大な師たちの夢を見ました。夢から覚めた後、彼はブッダパーリタによるナーガールジュナの『中論』への注釈書を研究し始め、第18章を読んでいる時に、彼の理解は完全に明晰になり、全ての疑念が消え去ったと言われています。 この経験の中心にあったのは、「空性と縁起の同一性」という深遠な認識でした。
この悟りに基づき、ツォンカパは顕教と密教、分析的理性とヨーガ的瞑想を統合した、包括的な仏教哲学と実践の体系を構築しました。 彼は、厳格な戒律の遵守を僧院生活の基盤として強調し、それを広範かつ独自の仏教哲学、認識論、そして実践に関する著作と組み合わせました。 彼の思想は、アティーシャのカダム派の教えを基盤としながらも、サキャ派、カギュ派、ジョナン派などの密教の教えを巧みに融合させたものでした。
主要な著作とゲルク派教学の確立

ツォンカパの思想は、彼の膨大な著作群の中に体系的に示されています。 その中でも特に重要なのが、『菩提道次第広論』(ラムリム・チェンモ)と『秘密道次第広論』(ガクリム・チェンモ)です。
『菩提道次第広論』(1402年頃完成)は、大乗仏教における悟りへの道を段階的に解説したテキストであり、ツォンカパの空性と中観の見解が示されています。 この著作は、11世紀のインドの師アティーシャの教えに基づいた「菩提道次第」(ラムリム)の教えを体系化したもので、ゲルク派の主要な教えの一つとなっています。 ラムリムは、釈尊が説いた悟りへの道を段階的に実践するための手引きであり、ゲルク派の修行体系の根幹をなすものです。
一方、『秘密道次第広論』(1405年完成)は、金剛乗(ヴァジュラヤーナ)としても知られる密教の教えを詳説したものです。 ツォンカパは、顕教の修行を終えた者が次に進むべき段階として密教を位置づけ、その複雑な教義と実践を体系的に整理しました。
これらの著作に加えて、『了義未了義善説心髄』は、解釈が必要な教えと確定的な教えを区別し、特に心識のみ(チッタマートラ)と中観(マディヤミカ)の見解について詳述しています。 これらの著作は、ツォンカパの死後、木版印刷によって広く流布し、ゲルク派の教義の基礎を固める上で決定的な役割を果たしました。
ゲルク派の教学体系は、これらのツォンカパの著作と、彼が重視したインドの仏教論書の研究に基づいています。 ゲルク派の僧院教育では、以下の五つの主要な分野が徹底的に学ばれます。
戒律(ヴィナヤ): グナプラバの『律経』を基盤とします。
アビダルマ(倶舎): ヴァスバンドゥの『アビダルマコーシャ(倶舎論)』を学びます。
認識論(プラマーナ): ディグナーガの『プラマーナ集成』に対するダルマキールティの注釈書『プラマーナ・ヴァールッティカ(量評釈)』に基づきます。
中観(マディヤミカ): チャンドラキールティの『入中論』が中心となります。
般若波羅蜜多(プラジュニャーパーラミター): マイトレーヤの『現観荘厳論』を学びます。
これらの学問は、暗記と形式的な問答(ディベート)を通じて深く探求されます。 特に、問答はゲルク派の教育システムにおいて中心的な役割を担っており、学生たちは学んだ教義の意味合いや論理的整合性を互いに検証し合うことで、単なる知識の暗記に留まらない深い理解を目指します。 この厳格で体系的な学問の伝統は、ゲルク派が「学問と厳格な戒律遵守」で高い評価を得る要因となりました。
三大寺院の建立と宗派の組織化

ツォンカパの教えが広まるにつれて、彼の周りには多くの弟子たちが集まりました。 1409年、ツォンカパはラサのジョカン寺で「大祈願祭(モンラム・チェンモ)」として知られる15日間の祈りの祭典を創始しました。 この祭典の後、弟子たちは絶え間ない旅が師の健康に与える影響を懸念し、彼が選んだ場所に僧院を建設することを申し出ました。 ツォンカパはこの申し出を受け入れ、ラサの東約50キロに位置するドロクリ山を選びました。
こうして1409年に建立されたのがガンデン寺です。 「ガンデン」という名前は、サンスクリット語の「トゥシタ」に由来し、未来仏である弥勒菩薩の浄土を意味します。 この僧院は、ツォンカパが提唱する改革された仏教の中心地となることを意図して建てられました。 そこでは、僧侶たちが厳格に戒律を守り、哲学的問答によって知性を磨き、高度な密教の実践に従事することが期待されました。 ガンデン寺の建立は、ゲルク派という新しい宗派の事実上の始まりと見なされています。 宗派名の「ゲルク」も、元々は「ガンデンの伝統」を意味する「ガンデン・ルク」の短縮形であると言われています。
ガンデン寺は、創建の年に主要な寺院と70以上の建物が完成し、インドの僧院規則に厳格に従って運営されました。 1417年には本堂が建立され、ツォンカパは1419年にこの寺で亡くなるまで、しばしばガンデン寺に滞在しました。 彼の遺体は弟子たちによって銀と金で装飾された霊塔に納められ、ガンデン寺に安置されました。
ガンデン寺の座主は「ガンデン・ティパ(ガンデン寺の座主)」と呼ばれ、ゲルク派全体の公式な長と見なされています。 初代ガンデン・ティパはツォンカパ自身であり、彼の死後は弟子のギャルツァプ・ジェ、そしてケードゥプ・ジェがその地位を継ぎました。 ガンデン・ティパの地位は世襲ではなく、学識と修行における優れた達成に基づいて選ばれる制度であり、これはゲルク派の学問重視の姿勢を象徴しています。
デプン寺とセラ寺の建立:三大寺院体制の確立

ガンデン寺の創建に続き、ツォンカパの主要な弟子たちによって、さらに二つの巨大な僧院が建立されました。 これにより、ゲルク派の勢力は飛躍的に拡大し、中央チベットにおけるその地位は不動のものとなっていきます。
1416年、ツォンカパの弟子の一人であるジャムヤン・チュージェ(タシ・パルデン)によってデプン寺が建立されました。 デプン寺は、最盛期には1万人以上の僧侶を擁する世界最大の僧院の一つとなり、ゲルク派の学問と修行の中心地として重要な役割を果たしました。 ダライ=ラマの化身制度が確立されると、デプン寺はダライ=ラマの主要な僧院となり、5世ダライ=ラマがポタラ宮に移るまで、その拠点であり続けました。
続いて1419年、ツォンカパのもう一人の弟子であるジャムチェン・チュージェ(シャキャ・イェシェ)によってセラ寺が建立されました。 セラ寺もまた、ガンデン寺、デプン寺と並ぶゲルク派の三大寺院の一つとして、数千人の僧侶を擁する大僧院へと発展しました。 セラ寺は特に、活発な問答(ディベート)の伝統で知られ、その庭で繰り広げられる問答の光景は、ゲルク派の僧院教育を象徴するものとして有名です。
これらガンデン、デプン、セラ寺の三つの僧院は「三大寺院」と総称され、何世紀にもわたって中央チベットの宗教的、政治的生活を支配する巨大な勢力となりました。 これらの僧院は、単なる宗教施設に留まらず、学問の中心地、経済活動の拠点、そして政治的な権力基盤としての機能も担っていました。 ツォンカパの死後、ゲルク派が急速に成長し、チベット全土にその教えを広めることができたのは、これらの大僧院の存在が大きな原動力となったからです。
タシルンポ僧院とその他の主要僧院

三大寺院の建立と並行して、ツォンカパの他の弟子たちによっても、チベット各地に重要なゲルク派の僧院が建立されました。 中でも特筆すべきは、後に初代ダライ=ラマと見なされるゲンドゥン・ドゥプによって1447年にシガツェに建立されたタシルンポ僧院です。
ゲンドゥン・ドゥプはツォンカパの主要な弟子の一人であり、師の教えを広めることに多大な貢献をしました。 彼が建立したタシルンポ僧院は、ゲルク派における最大級の学問寺院の一つとなり、中央チベットのツァン地方におけるゲルク派の拠点として発展しました。 後に、パンチェン・ラマの化身制度が確立されると、タシルンポ僧院はその座主の僧院となり、ダライ=ラマに次ぐゲルク派の重要な宗教的指導者の拠点としての地位を確立しました。
また、密教の修行と研究に特化した僧院も設立されました。 ツォンカパの弟子であるジェ・シェラプ・センゲは1440年にギュメ寺(下密院)を、ギュチェン・クンガ・ドンドゥプは1474年にギュトゥー寺(上密院)を建立しました。 これら二つの密教院は、ゲルク派の僧侶たちが顕教の学問を修了した後に、さらに高度な密教の修行を行うための専門機関として機能しました。
これらの僧院の設立により、ゲルク派はチベット全土に強固な組織的基盤を築き上げました。 15世紀末までには、ツォンカパの著作集が木版印刷され、その教えはより広く、正確に伝えられるようになりました。 厳格な戒律、体系的な学問、そして顕密両教にわたる実践を特徴とするゲルク派は、多くの支持者を獲得し、チベット仏教界における最も有力な宗派へと成長していったのです。
ダライ=ラマ制度の確立と政治的台頭

ダライ=ラマの化身制度は、ゲルク派の歴史、ひいてはチベットの歴史において中心的な役割を果たしてきました。 その起源は、ツォンカパの最も著名な弟子の一人であるゲンドゥン・ドゥプ(1391年-1474年)に遡ります。 彼は生前、「ダライ=ラマ」という称号で呼ばれることはありませんでしたが、死後に初代ダライ=ラマとして追認されました。
ゲンドゥン・ドゥプは1391年、中央チベットのツァン地方、サキャ近郊の遊牧民の家庭に生まれました。 幼名をペマ・ドルジェと言います。 14歳でナルタン僧院の座主ケンチェン・ドゥパ・シェラプの下で沙弥戒を受け、「ゲンドゥン・ドゥプ」という法名を授かりました。 1411年には具足戒を受け、正式な僧侶となりました。
1416年、彼は高名なツォンカパの弟子となり、その忠誠心と献身的な姿勢から、師の主要な弟子の一人と見なされるようになりました。 ツォンカパは、彼がチベット全土に仏教の教えを広めるであろうことの証として、新しい僧衣一式を手渡したと伝えられています。 ゲンドゥン・ドゥプは、学問と実践を兼ね備えた偉大な学者として名高く、仏教の教えと哲学に関する深い洞察を8巻以上の著作にまとめました。
彼の最も重要な功績の一つは、1447年にシガツェにタシルンポ僧院を建立したことです。 この僧院はゲルク派の主要な学問の中心地となり、ツァン地方におけるゲルク派の勢力拡大に大きく貢献しました。 ゲンドゥン・ドゥプは、政治的な権力を持つことはありませんでしたが、その生涯と教えは知恵、慈悲、そして規律の原則を体現するものでした。 彼は1474年、84歳でタシルンポ僧院にて瞑想中に亡くなりました。
「ダライ=ラマ」の称号とモンゴルとの関係

「ダライ=ラマ」という称号が初めて歴史に登場するのは、3世ダライ=ラマであるソナム・ギャツォ(1543年-1588年)の時代です。 16世紀後半、ゲルク派はチベット国内での影響力を拡大していましたが、他の宗派との対立も激化していました。 このような状況の中、ソナム・ギャツォはチベット国外の有力な支援者を求め、モンゴルの指導者たちとの関係を深めていきました。
1578年、ソナム・ギャツォはモンゴルのトゥメト部の指導者アルタン・ハーンと会見しました。 この会見は、ゲルク派とモンゴルの関係において画期的な出来事となりました。 アルタン・ハーンはソナム・ギャツォの教えに深く帰依し、彼に「ダライ=ラマ」という称号を贈りました。 「ダライ」はモンゴル語で「大海」を意味し、「ラマ」はチベット語で「師」を意味します。したがって、「ダライ=ラマ」は「大海のように広大な知恵を持つ師」を意味する称号です。 この称号は、ソナム・ギャツォの二人の前任者、ゲンドゥン・ドゥプとゲンドゥン・ギャツォにも遡って適用され、それぞれ初代、2世ダライ=ラマと見なされるようになりました。
この同盟関係は、双方にとって有益なものでした。 ゲルク派はモンゴルの強力な軍事力を後ろ盾として得ることで、チベット国内における政治的地位を飛躍的に高めることができました。 一方、アルタン・ハーンは、ダライ=ラマという宗教的権威から正統性を与えられることで、モンゴル諸部族に対する自身の支配力を強化することができました。 この提携により、ゲルク派は16世紀末以降、チベットとモンゴルの両地域で宗教的にも政治的にも支配的な宗派として台頭していくことになります。
5世ダライ=ラマとチベットの政治的統一

ゲルク派の政治的権力が頂点に達したのは、5世ダライ=ラマ、ガワン・ロサン・ギャツォ(1617年-1682年)の時代です。 彼は「偉大なる5世」と称され、チベットの歴史上最も重要な人物の一人とされています。
彼が即位した17世紀初頭のチベットは、政治的な混乱の最中にありました。 ゲルク派と、ツァン地方を拠点とするカルマ・カギュ派を支持する勢力との間で激しい対立が続いていました。 このような状況を打開するため、ゲルク派の指導者たちは、モンゴルのホショート部の指導者であったグシ・ハーンに支援を求めました。
1642年、グシ・ハーンは軍を率いてチベットに侵攻し、対立する勢力を打ち破りました。 そして、彼はチベット全土の支配権を5世ダライ=ラマに献上しました。 これにより、5世ダライ=ラマはチベットの精神的指導者であると同時に、政治的な最高権力者となり、宗教と政治を統合した「ガンデン・ポタン」と呼ばれる政府を樹立しました。 これは、古代のチベット王国の時代以来、初めてチベットに統一された中央集権的な政権が誕生したことを意味します。
5世ダライ=ラマは、単なる政治的指導者に留まらず、卓越した学者であり、外交家でもありました。 1652年には、清朝の順治帝の招きに応じて北京を訪問し、対等な立場での会見を行いました。 この会見は、ダライ=ラマの主権者としての地位を国際的に確認させ、チベットの外交的地位を強化する上で重要な意味を持ちました。
また、彼は国内の統治体制を整備し、国民の健康システムや教育プログラムを確立したとされています。 彼の治世下で、ゲルク派はチベットにおける支配的な宗派としての地位を完全に確立し、他の宗派、特にジョナン派の一部はゲルク派に吸収されました。 この過程で、ジョナン派が伝えていたカーラチャクラ(時輪)の教えがゲルク派にもたらされました。 5世ダライ=ラマの時代は、ゲルク派の黄金時代であり、彼の築いた政治体制は、その後数世紀にわたってチベットを統治する基盤となりました。
ポタラ宮の建設とゲルク派の権威の象徴

ポタラ宮の建設開始と歴史的背景

チベットの象徴であり、ダライ=ラマの権威とゲルク派の栄華を体現する建造物が、ラサに聳え立つポタラ宮です。 この壮大な宮殿の建設は、チベットを統一した5世ダライ=ラマ、ガワン・ロサン・ギャツォによって1645年に開始されました。
ポタラ宮が建設されたマルポ・リ(赤い丘)は、古くから聖なる場所と見なされていました。 伝説によれば、7世紀のチベット王ソンツェン・ガンポが、この丘に宮殿を建てたと伝えられています。 5世ダライ=ラマの精神的な助言者の一人であったコンチョク・チョペルが、この場所がデプン寺とセラ寺という二大僧院、そしてラサの旧市街の間に位置しており、政府の所在地として理想的であると指摘したことが、建設の直接的なきっかけとなりました。
1642年にモンゴルのグシ・ハーンの支援を得てチベット全土の政治的・宗教的指導者となった5世ダライ=ラマは、その権威を内外に示すための新たな中心地を必要としていました。 ポタラ宮の建設は、単なる住居の建設ではなく、ゲルク派を頂点とする新たな統一国家チベットの誕生を象徴する国家的な事業でした。 宮殿の名前は、観音菩薩が住むとされる南インドの神話上の山「ポータラカ」に由来しており、ダライ=ラマが観音菩薩の化身であるという信仰を反映しています。
白宮と紅宮の構造と機能

ポタラ宮は、大きく分けて「白宮(ポタン・カルポ)」と「紅宮(ポタン・マルポ)」の二つの部分から構成されています。
建設はまず白宮から始まり、1645年から1648年にかけて急速に進められました。 白宮は主に、ダライ=ラマの住居と政府の行政機能が置かれた場所です。 1649年、5世ダライ=ラマと彼の政府は完成した白宮に移り、以後、ポタラ宮は歴代ダライ=ラマの冬の宮殿として使用されることになりました。 白宮には、公務を執り行うための広間、図書館、そして僧侶たちの私的な居住区などが含まれています。
一方、紅宮の建設は、白宮の完成後、1690年から1694年にかけて行われました。 紅宮は、主に宗教的な儀式や修行のための空間であり、ポタラ宮の中心部に位置しています。 ここには、歴代ダライ=ラマの霊塔(ストゥーパ)が安置されている霊廟、数多くの礼拝堂、そして経典を収めた図書館などがあります。 特に、5世ダライ=ラマの霊塔は、膨大な量の金や宝石で飾られた壮麗なもので、紅宮の中でも最も神聖な場所の一つとされています。
興味深いことに、紅宮の建設が完了したのは、5世ダライ=ラマが1682年に亡くなった後のことです。 当時の摂政であったデシ・サンギェ・ギャツォは、宮殿の完成と政治的な継続性を確保するために、5世ダライ=ラマの死を12年間も秘密にしました。 この事実は、ポタラ宮の建設がいかに重要な国家プロジェクトであったかを物語っています。
ポタラ宮は、標高約3,700メートルの丘の上に建てられ、その高さは13階建ての建物に相当し、1,000以上の部屋、10,000の祭壇、そして約20万体の仏像を収めていると言われています。 その巨大なスケールと、丘の地形と一体化した独特の建築様式は、見る者を圧倒します。
権威の象徴としてのポタラ宮

ポタラ宮の完成は、ゲルク派とダライ=ラマの権威を不動のものとしました。 それは、宗教的権威と世俗的権力が融合したチベットの統治システム「政教一致」の物理的な象徴でした。 ダライ=ラマは、この宮殿からチベット全土を統治し、宗教的な儀式を執り行いました。 ポタラ宮は、チベットの人々にとって単なる建物ではなく、国家のアイデンティティと信仰の中心であり、ダライ=ラマその人を象徴する神聖な場所となったのです。
また、ポタラ宮はチベット仏教芸術の宝庫でもあります。 壁画、仏像、タンカ(仏画)、そして豪華な装飾が施された霊塔など、宮殿の内部は数世紀にわたるチベットの最高の芸術家や職人たちの技術の結晶です。 これらの芸術作品は、仏教の教えやチベットの歴史を視覚的に伝える役割も担っています。
5世ダライ=ラマは、ポタラ宮の建設と並行して、学問や芸術の体系化も進めました。 彼は、役人のための教育機関を設立し、モンゴル語、サンスクリット語、占星術、詩作、行政などを教えさせました。 このように、ポタラ宮は単なる権力の座ではなく、文化と学問の中心地としても機能し、ゲルク派の教えとチベット文化の発展に大きく貢献しました。 5世ダライ=ラマの先見性と指導力によって築かれたポタラ宮とガンデン・ポタン政府は、その後のチベットの歴史を規定し、ゲルク派の黄金時代を象徴する不滅の遺産として、今日までその威容を誇っています。
ゲルク派の教学と僧院教育

ゲルク派の最大の特徴の一つは、その高度に体系化された学問研究のシステムです。 この伝統は、創始者ツォンカパが仏教の教えを正しく理解するためには、厳密な論理と哲学的な探求が不可欠であると強調したことに由来します。 ゲルク派の僧院教育は、インド仏教の偉大な論師たちが著した五つの主要な経論(五大教典)の研究を中核としています。この五大教典は以下の通りです。
般若波羅蜜多(プラジュニャーパーラミター): 智慧の完成を説く教えであり、マイトレーヤ(弥勒)の作とされる『現観荘厳論』(アビサマヤーランカーラ)が主要なテキストとして用いられます。 この教典は、大乗仏教の修行者が悟りに至るまでの段階的な道を詳述しており、空性の理解を深めるための基礎となります。
中観(マディヤミカ): 空の哲学を論理的に探求する分野です。 ナーガールジュナ(龍樹)の根本的な教えを、チャンドラキールティ(月称)が解説した『入中論』(マディヤマカーヴァターラ)が中心的な教材となります。 ゲルク派は、チャンドラキールティの帰謬論証派(プラーサンギカ)の立場を最も精緻な見解として採用しており、この教典の研究はゲルク派哲学の核心部分をなします。
認識論(プラマーナ): 正しい認識の手段や根拠について探求する論理学です。 ディグナーガ(陳那)の教えをダルマキールティ(法称)が発展させた『量評釈』(プラマーナ・ヴァールッティカ)が学ばれます。 この学問を通じて、僧侶たちは論理的思考能力を鍛え、教義の正しさを自らの理性で検証する術を身につけます。
アビダルマ(倶舎): 存在の構成要素や世界の仕組みを分析的に解説する論蔵です。 ヴァスバンドゥ(世親)の『アビダルマコーシャ(倶舎論)』が主要なテキストです。 この教典は、心と物質の働きに関する詳細な知識を提供し、仏教的な世界観の理解を深めます。
戒律(ヴィナヤ): 僧侶が守るべき戒律とその背景にある精神を説くものです。 グナプラバの『律経』(ヴィナヤ・スートラ)が研究されています。 ゲルク派は「善律派」とも呼ばれるように、戒律の厳格な遵守を宗派の根幹と位置づけており、ヴィナヤの研究は僧院生活の基礎をなすものとして極めて重要視されます。
これらの五大教典の研究は、通常15年から20年という長い歳月をかけて行われます。 僧侶たちは、まずテキストを暗記し、次にその意味内容について師から詳細な講義を受け、最終的には問答(ディベート)を通じてその理解を深めていきます。
問答(ディベート)の伝統とゲシェー学位

ゲルク派の僧院教育を最も特徴づけるのが、問答(ディベート)の伝統です。 これは単なる議論ではなく、仏教哲学の難解な概念を深く理解し、自らの見解を論理的に確立するための、高度に形式化された訓練方法です。
僧院の中庭では、毎日何時間にもわたって、僧侶たちが二人一組、あるいはグループになって問答を繰り広げます。 立っている者が質問者となり、座っている者が解答者となります。 質問者は、大きな身振りを交え、手を打ち鳴らしながら鋭い質問を投げかけ、回答者の見解の矛盾や曖昧さを徹底的に追及します。 回答者は、経典の知識と論理を駆使して、その質問に的確に答えなければなりません。 このダイナミックなやり取りを通じて、僧侶たちは受動的な知識の習得に留まらず、教義を能動的に探求し、自らの血肉としていきます。
この長年にわたる厳しい学問の集大成として授与されるのが、「ゲシェー」という学位です。 ゲシェーは「善知識」を意味し、仏教哲学の博士号に相当する最高の学術称号です。 ゲシェーの学位を取得するためには、五大教典の全てを修了し、ラサの三大寺院(ガンデン、デプン、セラ)から集まった高僧たちの前で、数日間にわたる公開の問答試験に合格しなければなりません。
ゲシェーの学位には、さらにいくつかの階級があります。 最も一般的なのは「ゲシェー・ラランパ」で、これはラサの大祈願祭(モンラム・チェンモ)の期間中に行われる最終試験に合格した者に与えられる最高位のゲシェー号です。 この学位を取得することは、ゲルク派の僧侶にとって最高の栄誉であり、その後は僧院の座主や高位の教師、あるいは密教院でのさらなる修行へと進む道が開かれます。
この厳格な学問と問答のシステムは、ゲルク派から数多くの優れた学者や思想家を輩出する原動力となりました。 それはまた、ゲルク派の教えが論理的整合性と哲学的な深みにおいて高い評価を得る理由でもあります。
顕教と密教の段階的な修行

ゲルク派の修行体系は、顕教(スートラ)と密教(タントラ)を明確に区別し、段階的に進むことを特徴としています。 ツォンカパは、まず顕教の教え、特に「菩提道次第」(ラムリム)に基づいて心を十分に浄化し、空性の見解を確立することが、密教の高度な修行に入るための不可欠な前提であると説きました。
顕教の修行は、ゲシェーの学位を目指す学問的な探求と並行して行われます。 僧侶たちは、ラムリムの教えに従って、師への帰依、輪廻からの解脱への願い、そして一切衆生を救済しようとする菩提心といった精神的な資質を段階的に培っていきます。 また、中観哲学の研究を通じて、全ての現象が固有の実体を持たないという「空性」についての知的な理解を深めます。
ゲシェーの学位を取得し、顕教の修行において一定の達成を得た僧侶だけが、密教の修行に進むことを許されます。 ゲルク派における密教の実践は、主にギュメ寺(下密院)とギュトゥー寺(上密院)という二つの密教院で行われます。 これらの密教院では、グヒヤサマージャ(秘密集会)、チャクラサンヴァラ(勝楽)、ヴァジュラバイラヴァ(大威徳金剛)といった無上ヨーガ・タントラの複雑な儀式や観想の修行が伝授されます。
密教の修行の目的は、顕教で得た空性の理解を、より直接的かつ強力なヨーガ的実践を通じて体験的な悟りへと転換することにあります。 ゲルク派の教えでは、顕教の修行が悟りのための「原因」を整えるものであるのに対し、密教の修行は、その原因を用いて直接的に「仏果」を成就するための手段であると位置づけられています。
このように、分析的な学問(顕教)とヨーガ的な実践(密教)を統合し、段階的な修行道として体系化したことが、ゲルク派の教えの独自性であり、その大きな魅力となっています。 この体系は、修行者が着実に悟りへと向かうための、安全かつ確実な道筋を提供していると考えられています。
パンチェン・ラマとその他の化身ラマ

ダライ=ラマに次いでゲルク派で最も重要な宗教的指導者が、パンチェン・ラマです。 「パンチェン」という称号は、サンスクリット語の「パンディタ」(学者)とチベット語の「チェンポ」(偉大な)を組み合わせたもので、「偉大な学者」を意味します。 この称号は、5世ダライ=ラマが、彼の師であり、タシルンポ僧院の座主であったロサン・チューキ・ギャルツェン(1570年-1662年)に贈ったことに始まります。
ロサン・チューキ・ギャルツェンは、当代随一の学者として広く尊敬されていました。 5世ダライ=ラマは、彼を無量光仏(アミターバ)の化身であると認定し、彼に「パンチェン・ラマ」の称号を与えました。 さらに、この化身の系譜は、ツォンカパの主要な弟子の一人であるケードゥプ・ジェにまで遡って適用され、ロサン・チューキ・ギャルツェンは4世パンチェン・ラマと見なされるようになりました。 これにより、パンチェン・ラマの化身制度が正式に確立されました。
パンチェン・ラマの主な役割は、ダライ=ラマと相互に師弟関係を結び、互いの転生者を探し出し、認定し、教育することにあります。 ダライ=ラマが観音菩薩の化身とされるのに対し、パンチェン・ラマは阿弥陀仏の化身と見なされており、この二人の指導者は、チベット仏教の慈悲と智慧を象徴する存在として、密接な関係にあります。 伝統的に、ダライ=ラマが年長の場合はパンチェン・ラマの師となり、パンチェン・ラマが年長の場合はダライ=ラマの師となります。
パンチェン・ラマの座主僧院は、初代ダライ=ラマであるゲンドゥン・ドゥプによって建立されたシガツェのタシルンポ僧院です。 この僧院は、パンチェン・ラマの指導の下、ゲルク派の主要な学問と修行の中心地として栄えました。 パンチェン・ラマは、タシルンポ僧院とその広大な所領を統治し、中央チベットのツァン地方において大きな宗教的・政治的影響力を持っていました。
化身ラマ(トゥルク)制度の拡大

ゲルク派の台頭と発展に伴い、ダライ=ラマやパンチェン・ラマだけでなく、数多くの化身ラマ(チベット語で「トゥルク」)の系譜が確立されていきました。 トゥルクとは、悟りを得た菩薩が、衆生を救済するために自らの意志で人間の姿をとって生まれ変わった存在であると信じられています。
この化身制度は、元々は12世紀にカギュ派のカルマパによって始められたものですが、ゲルク派においても広く採用され、宗派の組織を維持し、教えを継承していく上で重要な役割を果たしました。 高名な師が亡くなると、その弟子たちは、師が残した予言や様々な兆候を手がかりに、その生まれ変わりとされる子供を探し出します。 候補者が見つかると、前世の持ち物を見分けさせるなどの試験が行われ、最終的にダライ=ラマや他の高位のラマによって正式に認定されます。
認定されたトゥルクは、幼少期から僧院で特別な教育を受け、将来、前世と同様に人々を導く指導者となるべく育てられます。 ゲルク派の主要な僧院や地方の寺院の多くは、特定のトゥルクの系譜によって率いられており、そのトゥルクが僧院の座主として宗教的・経済的な責任を担いました。
例えば、モンゴルにおけるゲルク派の最高指導者であるジェプツンダンバ・ホトクトも、著名なトゥルクの系譜の一つです。 初代ジェプツンダンバは、5世ダライ=ラマによって偉大な学者タラナータの化身として認定され、モンゴルにおける仏教の普及に大きな役割を果たしました。
このトゥルク制度は、ゲルク派の教えと権威が、特定の人物の死によって途絶えることなく、世代を超えて安定的に継承されることを可能にしました。 また、カリスマ的な指導者の存在は、信者たちの信仰心を集め、宗派の結束を強める上でも大きな力となりました。 数百にも及ぶトゥルクの系譜が、ゲルク派の広範なネットワークを形成し、その影響力をチベット社会の隅々にまで浸透させていったのです。
政治的文脈における化身制度

化身制度は、純粋に宗教的な制度であると同時に、常に政治的な側面も持ち合わせていました。 特に、ダライ=ラマやパンチェン・ラマといった高位の化身ラマの認定は、チベット内外の様々な政治勢力の思惑が絡む、極めてデリケートな問題でした。
18世紀以降、チベットに対する影響力を強めていた清朝は、ダライ=ラマやパンチェン・ラマの転生者の選定プロセスに介入しようと試みました。 例えば、「金瓶掣籤(きんぺいせいせん)」という制度が導入されました。 これは、複数の候補者の名前を書いた札を金の瓶に入れ、くじ引きによって転生者を決定するというもので、清朝がチベットの宗教的権威をコントロールするための手段の一つでした。 しかし、この制度が実際にどの程度厳密に適用されたかについては、歴史家の間でも議論があります。
また、ダライ=ラマとパンチェン・ラマの関係も、常に平穏であったわけではありません。 両者は宗教的には相互補完的な関係にありましたが、それぞれの背後には異なる支持勢力や政治的利害が存在し、時には緊張関係が生じることもありました。 特に20世紀初頭には、チベット政府とタシルンポ僧院との間の対立が深まり、9世パンチェン・ラマが中国へ亡命するという事態も起こりました。
これらの事例は、化身制度が単なる信仰の問題に留まらず、チベットの政治構造と密接に結びついていたことを示しています。 トゥルクの認定と教育は、ゲルク派の宗教的伝統を維持するための根幹であると同時に、その時々の政治情勢に大きく左右される、複雑なプロセスであったのです。
ゲルク派の歴史的意義と遺産

14世紀末にジェ・ツォンカパによって創始されたゲルク派は、チベット仏教の歴史において最も影響力のある宗派として、その後のチベット社会のあり方を決定づけました。 その歴史は、宗教改革運動から始まり、巨大な僧院組織の形成、そしてチベット全土を統治する政治権力の確立へと至る、ダイナミックな発展の軌跡を描いています。
ツォンカパの教えの核心は、顕教と密教、学問的探求と瞑想的実践の統合にあります。 彼は、当時のチベット仏教界に見られた戒律の弛緩や教義解釈の混乱を正し、インドのナーランダー僧院に由来する仏教の正統な伝統を復興することを目指しました。 彼が著した『菩提道次第広論』や『秘密道次第広論』は、悟りに至る道を体系的かつ段階的に示した画期的な著作であり、ゲルク派の教学の根幹をなしています。 厳格な戒律の遵守を宗派の基盤とし、論理と問答を重視する学問体系を確立したことで、ゲルク派は「善律派」としての名声を獲得し、多くの優れた学者を輩出しました。
ツォンカパの死後、その教えはギャルツァプ・ジェやケードゥプ・ジェといった弟子たちによって受け継がれ、ガンデン、デプン、セラという三大寺院の建立によって、宗派の組織的基盤が急速に強化されました。 これらの巨大な僧院は、単なる宗教施設に留まらず、学問、経済、政治の中心地として機能し、ゲルク派の勢力拡大の原動力となりました。
ゲルク派の歴史における決定的な転換点は、モンゴルの指導者たちとの同盟関係の構築と、ダライ=ラマ制度の確立です。 3世ダライ=ラマ、ソナム・ギャツォがアルタン・ハーンから「ダライ=ラマ」の称号を授かったことは、ゲルク派がチベット国外に強力な後ろ盾を得るきっかけとなりました。 そして、17世紀半ば、「偉大なる5世」ダライ=ラマ、ガワン・ロサン・ギャツォが、モンゴルのグシ・ハーンの支援を受けてチベットを統一し、「ガンデン・ポタン」政府を樹立したことで、ゲルク派はチベットの宗教的・政治的頂点に立ちました。 ラサに建設された壮大なポタラ宮は、この政教一致の体制とダライ=ラマの絶大な権威を象徴する不滅のモニュメントです。
ダライ=ラマと並び、阿弥陀仏の化身とされるパンチェン・ラマや、数多くの化身ラマ(トゥルク)の系譜も、ゲルク派の教えと組織を安定的に継承していく上で重要な役割を果たしました。 これらの化身制度は、ゲルク派の宗教的権威を世代を超えて維持し、その影響力をチベット社会の隅々にまで浸透させるための巧妙なシステムでした。
ゲルク派がチベットの歴史に残した遺産は計り知れません。 その高度に体系化された哲学と教育システムは、チベット仏教の知的伝統を新たな高みへと引き上げました。 ダライ=ラマを頂点とする統治体制は、数世紀にわたってチベットに政治的な安定をもたらし、独自の文化を育む土壌となりました。

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