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崇禎帝とは わかりやすい世界史用語2246 |
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著作名:
ピアソラ
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崇禎帝の生涯
17世紀の中国は、激動と変革の時代でした。その中心にいたのが、明王朝最後の皇帝である崇禎帝、個人の名を朱由検といいます。1627年に16歳という若さで兄である天啓帝の跡を継ぎ、崩壊しつつある帝国のかじ取りという困難な任務を背負うことになりました。 彼の治世は、明王朝が直面していた深刻な内部腐敗、経済的苦境、そして外部からの脅威という、幾重にも重なる危機によって特徴づけられます。 崇禎帝は、勤勉で王朝を救おうと努力した君主として知られていますが、同時に猜疑心が強く、短気で頑固な性格が、彼の改革努力を妨げ、最終的に悲劇的な結末を招いたと評価されています。
帝位継承前の人生
朱由検は1611年2月6日、泰昌帝の五男として生まれました。 彼の母親である劉氏は、泰昌帝の側室の一人に過ぎず、朱由検がわずか4歳の時に父である泰昌帝によって理由は不明ながら処刑され、密かに埋葬されました。 このため、朱由検は他の側室たちによって育てられることになります。最初は康妃に、彼女が長兄の朱由校(後の天啓帝)を養子に迎えた後は、荘妃によって養育されました。 泰昌帝の息子たちの多くが成人前に亡くなる中、朱由校と朱由検だけが生き残りました。 比較的孤独で静かな環境で育った朱由検は、権力闘争の中心から離れていました。
1620年に祖父である万暦帝が崩御し、父の泰昌帝が即位しますが、わずか1ヶ月で崩御してしまいます。その後、兄の朱由校が天啓帝として即位しました。 天啓帝の治世は、宦官の魏忠賢と乳母の客氏が絶大な権力を握り、朝廷を腐敗させていたことで知られています。 魏忠賢は秘密警察である東廠を掌握し、反対派を弾圧し、国政を壟断していました。
一方、朱由検は信王として静かに暮らしていましたが、1627年に兄の天啓帝が22歳で崩御すると、状況は一変します。 天啓帝には男子の跡継ぎがいなかったため、最も年長の弟であった朱由検が後継者に指名されたのです。 当時16歳だった朱由検は、当初は皇帝になることを望んでいませんでした。 しかし、兄と皇后から、もし彼が帝位を継がなければ、権力欲の強い魏忠賢が幼い傀儡皇帝を立てて帝国を支配し続けるだろうと説得され、明の皇子としての責任を果たすことを決意します。 こうして、朱由検は崇禎帝として即位することになりました。 彼の治世の元号である「崇禎」は、「尊敬すべき、そして吉兆な」という意味を持っています。
治世初期の改革と希望
崇禎帝は即位後、直ちに明王朝の衰退を食い止めるための改革に着手しました。 彼の最初の、そして最も重要な課題は、兄の治世を蝕んでいた宦官、魏忠賢の勢力を排除することでした。 崇禎帝は、即位当初は魏忠賢に対して従順な態度を装い、警戒心を解きながら、他の役人たちの忠誠心を試していました。 彼は魏忠賢を信用しているかのように見せかけ、夜は剣を手放さず、自ら食料を持ち込むなどして暗殺を警戒していました。 そして、即位からわずか3ヶ月後、状況を完全に把握した崇禎帝は、迅速かつ巧みに魏忠賢一派を粛清しました。 魏忠賢は自殺に追い込まれ、その財産は没収されました。彼の愛人であり、多くの皇子を殺害したとされる客氏も死刑に処せられました。 さらに、魏忠賢に仕えていた260人以上の役人が処刑または追放され、明朝で最も強力で悪名高い政治的派閥は、この10代の皇帝によって完全に排除されたのです。
この断固たる行動は、多くの役人や知識人から歓迎されました。 特に、魏忠賢によって弾圧されていた東林党系の知識人たちは、この若い皇帝に大きな期待を寄せました。 崇禎帝は、兄とは対照的に読書を好み、経筵(皇帝のための講義)を復活させ、学者たちを宮殿に招いて歴史や哲学、そしてそれらを時事問題に応用することについて学んだのです。 彼は熱心な学生でしたが、一方で経験不足であり、決断が必要な場面でためらったり、先延ばしにしたりした挙句、性急に行動に移してしまう傾向がありました。
崇禎帝はまた、新しい知識や思想に対しても開かれた姿勢を示しました。 彼は、イエズス会の宣教師であったアダム・シャールやヨハン・シュレックらに、帝国暦の改暦という重要な任務を任せました。 これは、彼らが宮廷の天文学者よりも正確に日食を予測したためです。中国文化において日食は、皇室の運命と結びついていると信じられており、その予測は極めて重要視されていました。 このように、崇禎帝の治世の始まりは、腐敗した政治を一掃し、王朝を再建するための希望に満ちたものでした。
しかし、長年の腐敗と空になった国庫は、有能な大臣を見つけて重要な役職に就けることをほとんど不可能にしていました。 崇禎帝は改革に意欲的でしたが、彼の努力は、彼が即位した時点ですでに深刻化していた明の権力衰退という現実を考慮に入れていませんでした。
内憂外患の深刻化
崇禎帝が改革を進めようとする一方で、明王朝を取り巻く状況は悪化の一途をたどっていました。国内では、小氷期の影響による持続的な干ばつと飢饉が頻発し、特に北部の陝西省などで深刻な被害をもたらしました。 政府はこれらの災害に対して十分な救済策を講じることができず、民衆の不満は増大していきました。
農民反乱の激化
1620年代後半から、飢饉に見舞われた陝西省で、李自成や張献中といった貧しい出自の者たちが率いる大規模な農民反乱が勃発しました。 当初は単なる盗賊団のようなものでしたが、政府の無策と重税に苦しむ農民たちが次々と合流し、その勢力は急速に拡大していきました。 李自成は、かつては明の小役人でしたが、反乱の指導者となり、「土地を均等に分け、租税を廃止する」というスローガンを掲げて農民の絶大な支持を得ました。 「牛羊を殺し、美味い酒を用意して、城門を開けて闖王(李自成の自称)を迎えよう」という歌が広く歌われるほどでした。
崇禎帝政権は、これらの反乱軍と戦うために地主への課税を強化しました。1618年から1637年の間に、土地税は6回も引き上げられました。 しかし、これらの資金はもっぱら反乱鎮圧と軍隊の維持に使われ、一般民衆への救済はほとんど行われませんでした。 その結果、土地所有者階級は没落し、さらに多くの人々が反乱軍に加わるという悪循環に陥りました。 給料が支払われなくなった多くの兵士たちも反乱軍に合流しました。
1641年には、張献中が襄陽を、李自成が洛陽を占領しました。 翌1642年には、李自成が開_封を攻略します。 開封の包囲戦では、明軍と反乱軍の双方が黄河の堤防を決壊させたため、大規模な洪水が発生し、37万8千人の住民のうち30万人以上が死亡するという大惨事となりました。 1643年末には、李自成は西安を占領し、唐時代の首都名であった長安に改名しました。 そして1644年の旧正月に、彼は自身を順王朝の王であると宣言し、北京攻略の準備を始めました。
満州(後金・清)の脅威
国内の反乱と並行して、北東の国境では満州族の脅威が増大していました。満州族は、かつては女真族と呼ばれていましたが、ヌルハチという指導者の下で統一され、強力な軍事力を築き上げていました。 ヌルハチは「七大恨」という文書で明に対する宣戦を布告し、明の支配からの独立を公然と宣言しました。
明軍は、ポルトガルから供給された大砲などの優れた火器を用いて、満州軍の侵攻を何度も撃退しました。 特に、袁崇煥という有能な将軍は、寧遠の戦いでヌルハチ自身を打ち破るなど、目覚ましい功績を挙げていました。 しかし、明軍は満州を完全に制圧することはできず、満州軍は明の領土を直接攻撃するのを避け、ゲリラ的な襲撃戦術に切り替えて明を疲弊させていきました。
1636年、ヌルハチの後を継いだホンタイジは、国号を清と改め、皇帝に即位しました。 清は内モンゴルを征服してモンゴル兵を自軍に加え、明の中心部へ侵攻するための新たなルートを確保しました。 また、明の官僚を戦略顧問として登用するなど、着々と力を蓄えていきました。
明の軍隊は、北方の満州からの侵攻を防ぐことと、国内の農民反乱を鎮圧することとの間で板挟みになり、事実上崩壊状態に陥っていました。
皇帝の性格と政策の失敗
崇禎帝は勤勉な皇帝であり、王朝を救うために全力を尽くしたと評価されています。 彼は毎日5、6時間しか眠らず、政務に励んだと記録されています。 しかし、彼の性格的な欠点が、その努力を無に帰すことになりました。
崇禎帝は極度に猜疑心が強く、部下を信用することができませんでした。 彼は治世17年の間に、7人の軍総督、11人の地方司令官を処刑し、国防大臣を14回も交代させ、大宰相府(内閣に相当)には前例のない50人もの大臣を任命しました。 このような頻繁な人事交代は、政策の一貫性を失わせ、政府の不安定化を招きました。
彼の猜疑心の最も悲劇的な現れが、名将・袁崇煥の処刑です。 袁崇煥は、満州に対する防衛の最高司令官であり、満州軍の奇襲から首都を防衛するために国境から駆けつけたばかりでした。 しかし、ホンタイジが仕掛けた離間の計にかかった崇禎帝は、袁崇煥が満州と内通しているのではないかと疑い、極めて薄弱な根拠で彼を処刑してしまいました。 袁崇煥の処刑は、明の防衛力に致命的な打撃を与え、多くの人々から決定的な失策と見なされています。
崇禎帝はまた、短気で頑固であり、民衆の苦境に対する配慮に欠けていました。 彼は、すでに過酷な負担を強いられている民衆に対して、さらなる増税と徴兵を要求しました。 これに耐えかねた人々は、ますます反乱軍に合流していきました。 彼は、北西部の駅伝制度が金の無駄だと考え、廃止を許可しましたが、これにより失業した多くの人々が反乱に加わるという皮肉な結果を招きました。
経済政策においても、崇禎帝は効果的な手を打てませんでした。17世紀初頭、世界的な経済不況と銀の流入減少により、明の経済は深刻な打撃を受けました。 海上貿易の混乱と地代の上昇は、民衆の生活をさらに苦しめました。 崇禎帝は増税と歳出削減で経済を安定させようとしましたが、これは民衆の窮状を悪化させるばかりでした。
明王朝の終焉
1644年、事態は急速に終局へと向かいます。李自成率いる反乱軍は、向かうところ敵なしの勢いで北京に迫っていました。 2月から3月にかけて、崇禎帝は朝廷を南の南京へ移すという提案を繰り返し拒否しました。 4月初旬には、皇太子だけでも南へ移すという提案も退けました。 首都北京の防衛軍は、宦官の腐敗によって食糧供給が滞り、飢えに苦しむ老兵や弱兵ばかりでした。兵士たちは1年近く給料も支払われていませんでした。
4月23日、崇禎帝は大臣たちとの最後の朝議を開きました。 李自成は皇帝に降伏の機会を与えましたが、交渉は決裂しました。 4月24日、李自成は総攻撃を命じます。 宦官の杜之秩が北京の城門を開けて反乱軍を招き入れたため、反乱軍はほとんど抵抗を受けることなく北京市内へなだれ込みました。
首都が陥落したことを知った崇禎帝は、もはやこれまでと覚悟を決めました。 彼は捕らえられることを拒み、息子たちを除く皇族を集めました。 彼は自らの剣で袁貴妃と昭仁公主を殺害し、長平公主の腕を切り落としました。 そして、皇后には自害を命じました。
1644年4月25日の早朝、崇禎帝は紫禁城の裏にある万歳山(現在の景山公園)へ向かいました。 そこで彼は、槐の木で首を吊って自害したと伝えられています。 享年33歳でした。 ある記録によれば、彼は「朕は死して地下の祖先に顔向けできぬ。悄然として恥じ入るばかりだ。反徒どもよ、朕の屍を八つ裂きにし、官吏を殺戮するがよい。だが、皇室の陵墓を荒らし、我が民の一人も傷つけることなかれ」という遺書を残したとされています。 しかし、木の根元で皇帝の遺体を発見した従者の話では、「天子」という言葉だけが死後に残された唯一の書き物だったとも言われています。 彼の死により、276年続いた明王朝は事実上滅亡しました。
死後と遺産
李自成の軍隊は北京を占領した後、略奪と虐殺を始めました。 崇禎帝と皇后の遺体は、見せしめとして民衆の前に晒されました。 多くの明の役人やその家族が、皇帝の死を聞いて後を追って自害しました。 皮肉なことに、李自成が富裕層から略奪した結果、崇禎帝自身は非常に貧しかったことが判明し、彼が国を救うために私財を投じていたことが示されました。
李自成が建国した順王朝は、1年足らずで終わりを告げます。 明の将軍であった呉三桂は、当初李自成と対峙していましたが、李自成が自分の父親を捕らえ、愛妾を奪ったことを知ると、満州の清に寝返り、山海関を開いて清軍を招き入れました。 呉三桂と清の連合軍は、「皇帝の仇を討つ」という名目で李自成軍と激突し、これを打ち破りました。 山海関の戦いで勝利した清軍は北京に入城し、幼い順治帝を皇帝として即位させ、中国全土の支配者としての清王朝を確立しました。
崇禎帝が南京への遷都を拒んだため、清政府はほぼ無傷の北京の官僚機構を引き継ぐことができ、これが明の残存勢力を駆逐する上で有利に働きました。
崇禎帝の死後、明の皇族や支持者たちは南部に逃れ、南明政権を樹立しました。 福王の朱由崧が弘光帝として南京で即位しましたが、これらの政権は内紛で分裂し、清軍によって次々と滅ぼされていきました。 1662年に最後の皇帝である永暦帝が処刑され、明の再興の望みは完全に絶たれました。
崇禎帝は、悲劇的な人物として記憶されています。 彼は崩壊しつつある帝国を受け継ぎ、その治世中に途方もない困難に直面しました。 勤勉で改革に意欲的であったにもかかわらず、彼の猜疑心、短気、頑固さといった性格的欠陥が、有能な部下を遠ざけ、効果的な政策の実行を妨げました。 彼は王朝を救うことができなかった指導者として批判される一方で、彼が直面した課題の大きさを考えれば、その失敗の全責任を彼一人に負わせるべきではないという意見もあります。 彼は、先代たちが残した腐敗しきった帝国という、どうにもならない状況を引き継いだのであり、その最善の努力もむなしく、時代の大きな流れには抗えなかったのです。
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