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『三国志演義』とは わかりやすい世界史用語2176 |
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著作名:
ピアソラ
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『三国志演義』とは
『三国志演義』は、14世紀に羅貫中によって編纂されたとされる、中国文学の不朽の傑作であり、その影響力はアジア全域、さらには世界にまで及んでいます。この物語は、西暦184年の黄巾の乱に始まり、280年の西晋による中国統一をもって幕を閉じる、後漢末期の混乱から三国鼎立時代に至る約100年間の激動の歴史を、壮大なスケールで描き出しています。歴史的事実と大胆なフィクションを巧みに織り交ぜ、数え切れないほどの英雄や策士、そして彼らが繰り広げる権力闘争、卓越した軍事戦略、裏切りと忠誠が交錯する濃密な人間ドラマを描き切ったこの作品は、中国四大奇書の一つとして、文学史上に燦然と輝いています。
物語の根幹をなすのは、3世紀の歴史家・陳寿が著した正史『三国志』です。しかし、『演義』は単なる歴史の再話に留まりません。作者である羅貫中は、陳寿の記述を骨格としながらも、そこに唐代の詩や元代の雑劇(戯曲)、そして市井に流布していた講談や民間伝承といった、数世紀にわたって培われてきた豊かな物語の伝統を血肉として取り入れました。これにより、歴史書では簡潔に記されている出来事が、読者の心を揺さぶる劇的なエピソードへと昇華されています。特に、物語全体を貫く「擁劉反曹(劉備を擁護し、曹操に反対する)」という思想は、『演義』の最も顕著な特徴です。漢王朝の皇室の血を引く劉備を、失われた正統性を取り戻そうとする「仁」の体現者として理想化し、彼に仕える関羽や張飛、諸葛亮といった人物を忠義と武勇の化身として描く一方で、漢王朝を簒奪し、自らの野望のために権力を追求する曹操を、冷酷で狡猾な「奸雄」として対置させています。この「七分の事実と三分の虚構」と評される絶妙な構成が、物語に比類なき深みと娯楽性を与え、後世の文学、演劇、さらには人々の価値観にまで、計り知れない影響を及ぼすことになったのです。
大漢帝国の黄昏と乱世の胎動
物語の幕開けは、後漢王朝がその栄光の歴史に終止符を打とうとしていた、末期的な混乱の中から始まります。盤石に見えた帝国は、内部から静かに、しかし確実に崩壊へと向かっていました。
腐敗する宮廷と民衆の絶望:黄巾の乱の背景
西暦2世紀後半、後漢王朝の権威は地に堕ちていました。歴代の皇帝は若くして即位することが多く、その結果、政治の実権は皇帝の側近である宦官たちの手に渡っていました。彼らは皇帝の信頼を盾に権力を私物化し、官職を売買し、私腹を肥やすことに明け暮れていました。これに対し、儒教的教養を身につけた清廉な官僚(士大夫)たちは「清流派」として宦官の専横を批判しましたが、宦官たちは「党錮の禁」と呼ばれる弾圧を行い、多くの優れた官僚を政界から追放、あるいは処刑しました。この宮廷内の終わりのない権力闘争は、国家の統治機能を完全に麻痺させ、政治の腐敗を深刻化させました。
中央政府の機能不全は、地方社会に直接的な影響を及ぼしました。地方の役人たちは中央の腐敗に倣い、民衆から過酷な税を取り立て、その生活を極限まで追い詰めていました。さらに、この時期には洪水、干ばつ、そして疫病といった自然災害が頻発し、飢饉が中国全土を覆いました。家を失い、土地を追われた流民が溢れかえり、社会不安は頂点に達していました。民衆の心には、漢王朝に対する深い絶望と、現状を打破してくれる新たな救世主を待望する気持ちが渦巻いていたのです。
このような混沌とした状況の中で、張角という一人の男が歴史の表舞台に登場します。彼は「太平道」という新興宗教を組織し、呪文や符水を用いて病人を治療するという奇跡を行い、瞬く間に数十万もの信者を獲得しました。彼は自らを「大賢良師」と称し、「蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし。歳は甲子に在り、天下大吉(青い天=漢王朝はすでに死んだ。黄色い天=我々の時代がまさに始まろうとしている。その年は甲子の年であり、天下は大変めでたい)」という予言的なスローガンを掲げました。この言葉は、漢王朝の支配の終焉と、新たな黄金時代の到来を人々に約束するものであり、搾取と絶望に喘いでいた民衆の心を強く捉えました。
黄巾の蜂起と群雄の台頭
西暦184年、予言された甲子の年、張角は二人の弟、張宝と張梁と共に、信者たちを率いて一斉に蜂起しました。彼らは黄色い頭巾を目印としたため、この反乱は「黄巾の乱」と呼ばれます。反乱の炎は燎原の火のごとく中国全土に燃え広がり、各地で漢王朝の役所が襲撃され、役人が殺害されました。その勢いは凄まじく、一時は漢王朝の存続そのものを脅かすほどでした。
狼狽した漢王朝の宮廷は、正規軍だけではこの大規模な反乱を鎮圧できないと判断し、各地の豪族や有力者に対し、自らの財産で義勇軍を組織し、反乱鎮圧に協力するよう布告を出します。この決定は、短期的には黄巾の乱を鎮圧する上で効果を発揮しましたが、長期的には漢王朝の命運を決定づける致命的な失策となりました。布告に応じた者たちの中には、後に三国時代の主役となる人物たちが数多く含まれていました。例えば、宦官の孫でありながら卓越した軍才を持つ曹操、四代にわたり三公を輩出した名門の出である袁紹、そして漢王朝の皇族の末裔を称する劉備も、この時に義勇軍を組織して歴史の舞台に登場します。
彼ら地方の有力者たちは、反乱鎮圧の過程で独自の軍事力を手に入れ、その権力基盤を強固なものにしていきました。黄巾の乱そのものは、張角の病死などもあって数年で鎮圧されますが、その後に残されたのは、もはや中央政府の命令が届かない、独立した軍事政権と化した「軍閥」でした。漢王朝は自らの手で、自らを滅ぼすことになる力を育て上げてしまったのです。こうして、中国は一人の皇帝の下で統一された時代から、力を持つ者が覇を競う「群雄割拠」の時代へと、その扉を開くことになりました。
奸雄の台頭と漢室の落日
黄巾の乱が鎮圧された後も、漢王朝の権威が回復することはなく、むしろその崩壊は加速していきました。首都・洛陽では権力闘争が激化し、その混乱に乗じて一人の暴君が帝国の心臓部を掌握します。
董卓の入京と暴政:帝都の劫火
宮廷内では、宦官勢力と、彼らの排除を目論む大将軍・何進(皇后の兄)との対立が頂点に達していました。何進は宦官を誅殺するため、地方の軍閥である董卓に軍を率いて都に入るよう要請します。しかし、この計画は事前に宦官側に漏れ、何進は暗殺されてしまいます。これに激怒した袁紹らの部隊が宮中に乱入し、宦官を皆殺しにするという壮絶なクーデターが発生。宮中は大混乱に陥り、幼い少帝と陳留王(後の献帝)は宮殿から逃げ出します。
この混乱の最中、絶好のタイミングで洛陽に到着したのが董卓でした。彼は皇帝を保護するという大義名分を掲げて入城し、その強大な軍事力を背景に、瞬く間に宮廷の全権を掌握します。董卓は、自らにとって扱いやすいと考えた陳留王を新たな皇帝(献帝)として即位させ、少帝とその母である何太后を毒殺。自らは相国となり、帝国の支配者として君臨し始めました。
董卓の支配は、恐怖と暴力そのものでした。彼は自らに反対する者を些細な理由で処刑し、その一族を根絶やしにしました。兵士たちを放って民家を襲わせ、財産を奪い、女性を陵辱させました。さらに、歴代皇帝の陵墓を暴いて副葬品を盗掘するなど、その暴虐非道な振る舞いはとどまるところを知りませんでした。帝都・洛陽は、かつての栄華の面影もなく、恐怖と絶望が支配する暗黒の都と化しました。
反董卓連合軍の結成と瓦解
董卓の暴政に対し、ついに各地の軍閥たちが立ち上がります。曹操が発した檄文に応じ、名門の袁紹を盟主として、袁術、孫堅、公孫瓚など、十数名の諸侯が連合軍を結成。董卓討伐を掲げ、洛陽へと進軍を開始しました。連合軍の勢いに脅威を感じた董卓は、洛陽の都に火を放って焼き払い、献帝を連れて旧都・長安へと遷都するという暴挙に出ます。この時、洛陽の壮麗な宮殿や民家は灰燼に帰し、数百年にわたる文化遺産が失われました。
連合軍は董卓軍といくつかの戦いを繰り広げ、特に孫堅は目覚ましい活躍を見せました。しかし、連合軍の結束はもろいものでした。諸侯たちはそれぞれが自らの野心を抱いており、董卓討伐という共通の目的よりも、互いの勢力争いや手柄争いに明け暮れるようになります。兵糧の補給を巡る内輪もめや、戦功を妬む足の引っ張り合いが続き、連合軍は内部から瓦解していきました。結局、董卓を討ち果たすことはできず、諸侯たちはそれぞれの領地へと引き上げていきました。反董卓連合は、董卓の暴政を終わらせることはできなかったものの、漢王朝の中央集権体制が完全に崩壊したことを天下に示し、諸侯が公然と自らの領土拡大に乗り出す、本格的な戦国時代の始まりを告げる出来事となりました。
連環の計:美女・貂蝉と呂布の裏切り
長安で権勢を振るう董卓でしたが、その終わりは意外な形で訪れます。彼の側には、董卓が養子とし、その武勇を頼りにしていた猛将・呂布がいました。呂布は「人中の呂布、馬中の赤兎」と称されるほどの無類の強さを誇っていましたが、同時に義理に薄く、裏切りを厭わない人物でもありました。
この董卓と呂布の間に亀裂を入れたのが、漢の司徒(大臣)・王允でした。彼は董卓の暴政に心を痛め、密かに誅殺の機会を窺っていました。王允は、自らの屋敷で歌姫として育てていた絶世の美女・貂蝉を使い、巧妙な罠を仕掛けます。これが有名な「連環の計」です。まず、王允は呂布に貂蝉を娶らせると約束します。次に、董卓を自邸に招き、貂蝉の美貌で彼を魅了させ、董卓に彼女を献上します。
貂蝉は、王允の計画を理解し、自らの身を犠牲にして国を救うことを決意していました。彼女は呂布の前では「董卓に無理やり奪われた」と涙ながらに訴え、董卓の前では「呂布に言い寄られて困っている」と巧みに振る舞い、二人の男の嫉妬心と独占欲を煽りました。英雄と暴君は、一人の美女を巡って次第に対立を深めていきます。ついに、董卓が呂布の不在時に貂蝉と密会している現場を呂布が目撃したことで、二人の関係は決定的に破綻します。王允の説得もあり、呂布は董卓を裏切ることを決意。宮殿内で董卓を討ち果たし、その長きにわたる暴政に終止符を打ったのです。しかし、董卓の死後も混乱は収まらず、董卓の残党に敗れた呂布は長安を追われ、貂蝉のその後の運命もまた、物語の中では明確に語られることはありません。
中原の覇者、曹操の台頭
董卓亡き後の混乱の中から、一人の傑出した人物が頭角を現し、中原(黄河流域の中心地帯)の覇権を掌握していきます。その男こそ、治世の能臣、乱世の奸雄と評された曹操でした。
権謀術数の天才:曹操の人物像
曹操は、複雑で多面的な魅力を持つ人物として描かれています。彼は宦官の孫という、当時の名門社会では決して高くはない出自でしたが、そのような出自に対するコンプレックスをバネにするかのように、卓越した才能を発揮しました。彼は優れた軍事戦略家であると同時に、有能な政治家でもありました。法を厳格に適用して規律を維持し、「屯田制」を実施して戦乱で荒廃した土地を復興させ、兵糧を確保するなど、その内政手腕は極めて高いものでした。
彼の最大の特徴は、徹底した現実主義と合理主義にあります。彼は古い慣習や家柄にとらわれず、「唯才是挙(才能のみを是として挙用する)」という方針を掲げ、身分や過去を問わず、有能な人材であれば積極的に登用しました。彼の元には、荀彧、荀攸、郭嘉、程昱といった優れた謀臣や、夏侯惇、夏侯淵、張遼、徐晃といった勇猛な将軍たちが集まり、強固な人材基盤を築き上げました。
しかし、その一方で、彼は目的のためには手段を選ばない冷酷さと、猜疑心の強さも持ち合わせていました。父の仇討ちのために徐州で大虐殺を行ったり、自らの命を救ってくれた旧友を誤解から殺害したりするなど、その非情なエピソードは数多く語られています。『演義』では、彼のこの側面が強調され、しばしば狡猾で残忍な悪役として描かれますが、同時に彼は優れた詩人でもあり、その作品には乱世を憂い、天下の平定を願う心情が吐露されています。この善と悪、英雄と悪役が同居する複雑な人間性こそが、曹操という人物の尽きない魅力の源泉となっています。
天子を奉じ、不義を討つ:覇権への道
曹操が他の群雄に対して決定的な優位を確立するきっかけとなったのが、献帝を自らの本拠地に迎えたことでした。董卓の残党による内乱から逃れ、洛陽に帰還した献帝でしたが、その権威は失墜し、困窮した生活を送っていました。この状況を見た曹操は、直ちに献帝を保護し、自らの本拠地である許(後の許昌)に新たな都を築き、皇帝を迎え入れました。
これは、「奉天子以令不臣(天子を奉じて、従わない者たちに号令する)」という、極めて高度な政治戦略でした。これにより、曹操は漢王朝の正式な代行者という大義名分を手に入れたのです。彼の発する命令は、すなわち皇帝の命令となり、それに逆らう者は「朝敵(朝廷の敵)」と見なされることになりました。この政治的アドバンテージは絶大であり、彼はこの大義名分を巧みに利用して、呂布、袁術といった敵対勢力を次々と滅ぼし、その勢力圏を急速に拡大していきました。
官渡の戦い:華北統一を賭けた決戦
曹操が華北の覇権を確立する上で、避けては通れない最大の敵が、河北に巨大な勢力を築いていた袁紹でした。袁紹は四代にわたり三公を輩出した名門中の名門の出身であり、その兵力、領土の広さ、物資の豊かさにおいて、曹操を遥かに凌駕していました。西暦200年、袁紹は十万(演義では七十万)と号する大軍を率いて南下を開始し、曹操との全面対決に臨みます。両軍は黄河の南岸にある官渡で対峙しました。
戦いの序盤は、兵力で勝る袁紹軍が優勢に進めました。曹操軍は兵糧の不足にも苦しみ、絶体絶命の危機に陥ります。しかし、この窮地において曹操の真価が発揮されます。袁紹陣営の内部対立を見抜いた曹操は、袁紹に失望して寝返ってきた許攸からの情報に基づき、大胆な奇襲作戦を敢行します。曹操は自ら精鋭部隊を率い、袁紹軍の兵糧がすべて集積されている烏巣の補給基地を夜襲し、焼き払うことに成功しました。
兵糧を失った袁紹軍は、飢えと混乱から内部崩壊を起こします。多くの将兵が曹操に降伏し、袁紹はわずかな手勢と共に河北へと敗走しました。この「官渡の戦い」は、少数が大軍を破った戦いとして、中国史上最も有名な戦いの一つです。この歴史的な大勝利により、曹操は袁紹の勢力を完全に打ち破り、中国北部の広大な地域をその手中に収めました。これにより、彼は三国時代における魏の揺るぎない礎を築き上げ、天下に最も近い存在となったのです。
仁徳の英雄、劉備と蜀漢の理想
曹操が現実主義的な覇道を突き進む一方で、物語はもう一人の主人公、劉備の苦難に満ちた道のりを描きます。彼は曹操とは対照的に、「仁」と「義」を掲げ、漢王朝の復興という理想を追い求め続けます。
桃園の誓い:義兄弟の絆
劉備は、漢の中山靖王・劉勝の末裔とされていますが、彼の時代にはその血筋も忘れ去られ、蓆(むしろ)を織って生計を立てる貧しい青年でした。しかし、彼はその出自とは裏腹に、天下を憂い、民を救いたいという大きな志を抱いていました。黄巾の乱が勃発した際、彼は義勇軍を立ち上げることを決意します。その時、彼は二人の傑出した人物と運命的な出会いを果たします。
一人は、見事な長い髭を蓄え、棗のように赤い顔をした巨漢、関羽。彼は義を重んじ、文武両道に優れた武将でした。もう一人は、豹のような顔つきで、雷のような声を持つ猛将、張飛。彼は短気で酒好きですが、その心は純粋で、並外れた勇猛さを誇っていました。三人は互いの志に深く共感し、満開の桃の木の下で、兄弟となることを誓い合います。「我ら三人、生まれた日は違えども、死ぬ時は同じ日、同じ時を願わん」。この「桃園の誓い」は、血の繋がりを超えた固い絆の象徴として、物語全体を貫く重要なテーマとなります。この誓い以降、三人は喜びも苦しみも分かち合い、互いを支え合いながら、過酷な乱世を戦い抜いていくのです。
放浪の君主:仁徳の代償
義勇軍を旗揚げした劉備でしたが、彼の道のりは決して平坦ではありませんでした。彼は強力な地盤も、十分な兵力も持たず、各地の群雄の間を渡り歩く放浪の日々を送ります。公孫瓚、陶謙、曹操、袁紹、そして劉表と、次々と有力者の下に身を寄せますが、なかなか自らの拠点を持つことができませんでした。
しかし、この苦難の時代を通じて、劉備の「仁徳の君主」としての名声は、かえって高まっていきました。彼は常に民衆を第一に考え、決して見捨てようとはしませんでした。特に、曹操軍の追撃から逃れる際、彼を慕ってついてきた十数万の民衆を連れて逃げたというエピソードは、彼の仁愛の深さを象徴しています。この行動は軍事的には極めて非合理的でしたが、彼の評判を不動のものにしました。彼の周りには、その人徳を慕って、趙雲のような優れた武将や、多くの人々が集まり始めます。しかし、彼には大局的な戦略を描き、その理想を実現するための「頭脳」が欠けていました。
三顧の礼と隆中対:臥龍の登場
荊州の劉表のもとに身を寄せていた劉備は、自らの力の限界を痛感し、優れた軍師を切望していました。その時、名士・司馬徽(水鏡先生)から、「臥龍(伏せた龍)」と「鳳雛(鳳凰の雛)」のいずれかを得れば天下を取ることができると教えられます。劉備は、「臥龍」と呼ばれる賢者、諸葛亮が襄陽郊外の隆中という地に庵を結んで隠棲していることを知り、彼を軍師として迎えるため、自らその庵を訪ねます。
しかし、諸葛亮は最初の二度の訪問では留守を装い、劉備の真意を試しました。季節は冬、雪が降りしきる中、劉備は関羽と張飛を伴い、三度目の訪問を行います。その熱意に心を動かされた諸葛亮は、ついに劉備と会うことを決意します。これが有名な「三顧の礼」です。
この会見で、諸葛亮は劉備に対して、天下の情勢を分析し、彼が取るべき壮大な戦略を提示します。これが「隆中対」です。諸葛亮は、「今、曹操は天子を擁して百万の軍勢を持ち、北方を制圧しており、彼と直接争うのは得策ではありません。江東の孫権は三代にわたる基盤を持ち、地勢も険しく、民心も安定しているので、彼とは同盟を結ぶべきです。将軍(劉備)が目指すべきは、まず荊州を奪い、次に西の益州(四川)を手に入れることです。この二つの地を拠点とし、西方の異民族とも和親を結び、内政を整えます。そして、天下に変化が起きた時、荊州と益州から二手に分かれて魏を攻めれば、大業を成し遂げ、漢室を復興させることができるでしょう」と説きました。
この「天下三分の計」とも呼ばれる戦略は、行くべき道を見失っていた劉備にとって、まさに暗闇を照らす光でした。劉備は諸葛亮の卓越した見識に感服し、彼を軍師として迎えます。諸葛亮の加入は、劉備陣営にとって歴史的な転換点となりました。これ以降、劉備軍は単なる武勇集団から、明確な戦略を持つ組織へと変貌を遂げ、快進撃を開始するのです。
赤壁の炎と天下三分の形成
諸葛亮を得た劉備陣営でしたが、彼らの前には依然として曹操という巨大な壁が立ちはだかっていました。中国統一の野望に燃える曹操は、ついにその矛先を南方へと向けます。
曹操の南征と孫劉同盟の成立
官渡の戦いで華北を完全に平定した曹操は、西暦208年、数十万と号する大軍を率いて南征を開始しました。彼の直接の目標は、劉備が身を寄せる荊州と、孫権が支配する江東(長江下流域)でした。折悪しく、荊州の主である劉表が病死し、後を継いだ息子の劉琮は、曹操の大軍を恐れて戦わずして降伏してしまいます。これにより、劉備はまたしても拠点を失い、絶体絶命の危機に陥りました。
この窮地を打開するため、諸葛亮は単身、江東の孫権のもとへ向かいます。彼の目的は、孫権を説得し、劉備と連合して曹操に対抗させること、すなわち「孫劉同盟」を結ぶことでした。当時の江東では、曹操の強大な軍事力を前に、降伏を主張する張昭ら「主和派」と、徹底抗戦を主張する周瑜、魯粛ら「主戦派」とで、激しい議論が繰り広げられていました。
孫権の前に進み出た諸葛亮は、その卓越した弁舌で、降伏論者たちを次々と論破します。彼は、曹操軍が長距離の遠征で疲弊していること、北方の兵士は水上戦に不慣れであること、そして疫病が蔓延していることなど、曹操軍の弱点を的確に指摘しました。さらに、孫権自身のプライドを巧みに刺激し、降伏は屈辱であり、抗戦こそが江東の独立を守る唯一の道であると説きました。最終的に、大都督(最高司令官)である周瑜が抗戦の意思を固め、孫権もまた、劉備と連合して曹操と戦うことを決断します。
周瑜と諸葛亮:知略の応酬
同盟は成立したものの、連合軍の内部では、呉の都督・周瑜と蜀の軍師・諸葛亮との間で、激しい知略の応酬が繰り広げられました。周瑜は若くして才能あふれる名将でしたが、自らよりも優れた知謀を持つ諸葛亮の存在を危険視し、彼を殺害しようと何度も罠を仕掛けます。
例えば、周瑜は諸葛亮に対し、「十万本の矢を三日以内に用意せよ」という無理難題を突きつけます。これは、達成できなければ軍法により処刑するという口実でした。しかし、諸葛亮は少しも動じず、濃霧が発生した夜、藁人形を大量に積んだ船団を率いて曹操軍の陣営に接近します。霧の中で敵襲と誤認した曹操軍は、一斉に矢を放ちました。結果、諸葛亮は一本の矢も作ることなく、敵から放たれた十数万本の矢を回収し、悠々と帰還しました。この「草船借箭(船で矢を借りる)」のエピソードは、諸葛亮の神がかった知略を象徴する名場面です。
また、連合軍が火計を用いることを決定した際、最大の障壁となったのは季節でした。冬の長江では北西の風が吹くのが常であり、この風向きでは火を放っても自軍が危険に晒されるだけでした。周瑜がこのことで思い悩んでいると、諸葛亮は「私には東南の風を祈祷で呼び寄せることができる」と豪語します。彼は祭壇を築き、さも祈祷を行っているかのように見せかけますが、実際には天候を予測し、季節外れの東南風が吹くタイミングを正確に読んでいただけでした。やがて予言通りに東南の風が吹き始め、連合軍は火計を実行に移すことが可能となったのです。
赤壁の戦い:長江を焦がす炎
西暦208年の冬、長江の赤壁において、歴史を揺るがす大会戦の火蓋が切られました。曹操軍は、水上戦に不慣れな兵士たちの船酔いを防ぐため、船団を鎖で連結し、あたかも陸地のように安定させていました。これは一見、合理的な策に見えましたが、連合軍が計画していた火計にとっては、この上なく好都合な状況でした。
周瑜は、老将軍・黄蓋を使い、「苦肉の計」を仕掛けます。黄蓋はわざと周瑜に反抗して鞭打ちの刑を受け、それを恨んだふりをして曹操に偽りの降伏を申し入れます。曹操はこれを信じ込み、黄蓋が投降してくるのを待ち受けました。東南の風が強く吹き始めた夜、黄蓋は燃えやすい油や薪を大量に積んだ船団を率いて曹操軍の船団に接近しました。火を放つと、船は風にあおられて猛烈な勢いで曹操軍の連結された船団に突っ込みました。
炎は瞬く間に燃え広がり、鎖で繋がれた船団は逃げることもできず、巨大な火の塊と化しました。天を焦がす炎と黒煙の中で、曹操軍の兵士たちは焼け死ぬか、川に飛び込んで溺れ死に、軍は壊滅的な打撃を受けました。曹操自身も命からがら敗走しますが、その逃走経路はことごとく諸葛亮に読まれており、趙雲、張飛、そして最後には関羽の待ち伏せに遭い、絶体絶命の危機に陥ります。しかし、関羽はかつて曹操に受けた恩義に報いるため、あえて曹操を見逃しました。
この「赤壁の戦い」は、『三国志演義』のクライマックスの一つであり、曹操の天下統一の夢を打ち砕き、その後の「天下三分の計」を決定づけた戦いでした。この勝利により、劉備は荊州の大部分を実質的に支配下に置き、長年の放浪生活に終止符を打って、ついに念願の拠点を手に入れたのです。
三国鼎立と英雄たちの黄昏
赤壁の戦いを経て、中国の情勢は大きく動きました。曹操は北方に退き、劉備は荊州を足掛かりに勢力を伸ばし、孫権は江東の守りを固めます。こうして、魏・蜀・呉の三国が互いに牽制し合う時代が到来しました。
三国の建国
魏(曹魏): 赤壁で大敗したものの、曹操の力は依然として強大でした。彼は内政に力を注ぎ、国力の回復に努めました。216年には魏王に就任し、事実上の皇帝として君臨します。そして220年、曹操が病死すると、その息子の曹丕が後を継ぎ、漢の献帝から帝位を譲り受ける(禅譲)という形で皇帝に即位。国号を「魏」と定め、ここに400年続いた漢王朝は名実ともに滅亡しました。
蜀(蜀漢): 曹丕の即位に対し、漢王朝の正統な後継者を自認する劉備は、221年に成都で皇帝に即位します。彼は国号を「漢」としましたが、後世の歴史家はこれを「蜀」または「蜀漢」と呼んで区別しています。劉備は諸葛亮の補佐のもと、益州を本拠地として、「漢室復興」という大義名分を掲げ続けました。
呉(東呉): 魏と蜀が相次いで皇帝を立てる中、孫権はしばらく静観の構えを見せ、魏に臣従する形をとって呉王に封じられます。しかし、彼は着実に自国の基盤を固め、229年、ついに皇帝に即位し、国号を「呉」と定めました。呉は長江流域の豊かな経済力と強力な水軍を背景に、三国の一角として独自の地位を築きました。
こうして、諸葛亮が予言した「天下三分の計」は現実のものとなり、中国は魏・蜀・呉の三国が覇権を争う、新たな時代へと突入したのです。
関羽の死と夷陵の戦い:蜀の悲劇
三国鼎立後、最初の大きな悲劇が蜀を襲います。赤壁の戦いの後、荊州の守りを任されていたのは、劉備の義兄弟であり、武神とまで称された関羽でした。彼は魏の領地である樊城を攻撃し、曹操軍を大いに苦しめますが、その背後から呉の軍勢が荊州を急襲します。これは、荊州の領有権を巡って対立していた呉の孫権が、魏の曹操と密約を結んで実行したものでした。
前後の敵に挟まれた関羽は孤立無援となり、奮戦の末に捕らえられ、処刑されてしまいます。義兄弟の非業の死の知らせは、劉備に計り知れない衝撃と怒りをもたらしました。彼は諸葛亮や趙雲をはじめとする重臣たちの諌めを一切聞き入れず、呉への復讐を誓い、国家の総力を挙げた大遠征を断行します。
221年、劉備は自ら数十万の大軍を率いて呉に侵攻します。当初、蜀軍は連戦連勝を重ねますが、呉の若き都督・陸遜は、持久戦に持ち込み、蜀軍が疲弊するのを待ちました。そして、蜀軍が暑さを避けるために林の中に陣を連ねているのを見ると、火計を用いて一斉に攻撃を仕掛けました。これが「夷陵の戦い」です。蜀軍は壊滅的な敗北を喫し、劉備はわずかな手勢と共に白帝城へと逃げ延びました。
この敗戦で多くの有能な将兵を失った劉備は、心身ともに打ちのめされ、病の床に就きます。223年、彼は白帝城で、息子の劉禅と蜀の未来を諸葛亮に託します。「丞相(諸葛亮)の才能は曹丕の十倍もある。必ずや国家を安定させ、大業を成し遂げてくれるだろう。もし我が子(劉禅)が補佐するに値する人物であれば、補佐してほしい。もし彼が才なく愚かであるならば、丞相が自ら帝位に就いて国を治めてくれて構わない」とまで言い残しました。この「白帝城の託孤」と呼ばれる場面は、劉備の諸葛亮に対する絶対的な信頼と、同時に自らの感情的な判断が招いた国家の危機に対する深い悔恨を示しています。この言葉を聞いた諸葛亮は、涙を流して地にひれ伏し、生涯をかけて劉禅を補佐し、漢室復興の大業に尽くすことを誓いました。劉備の死と夷陵の戦いでの大敗は、建国間もない蜀漢にとって計り知れない打撃となり、その後の国力衰退の決定的な要因となったのです。
諸葛亮の北伐:「出師の表」と五丈原の秋
劉備の遺志を継いだ諸葛亮は、丞相として蜀の全権を掌握します。彼はまず、呉との関係修復に乗り出し、再び孫劉同盟を締結して魏に対抗する体制を再構築しました。内政においては、法を厳格に運用して国内の綱紀を粛正し、農業生産を奨励して国力の回復に努めました。さらに、南方の蛮族(南蛮)が反乱を起こすと、自ら軍を率いて遠征します。この時、彼は南蛮の王である孟獲を七度捕らえては七度放免し、その心からの服従を得ることに成功しました(七縱七禽)。これにより、蜀の南方の憂いを取り除き、北伐に専念できる環境を整えました。
国内を安定させ、国力を蓄えた諸葛亮は、ついに劉備との約束であった漢室復興を果たすため、魏への北伐を開始します。227年、彼は出陣に際し、皇帝劉禅に「出師の表」を奉呈しました。この中で彼は、先帝(劉備)から受けた恩義への感謝、漢室復興にかける情熱、そして自らの死後も国を担うべき人材について切々と説き、「鞠躬尽瘁、死して後已む(身を捧げて力を尽くし、死ぬまで戦う)」という悲壮な決意を表明しました。この「出師の表」は、その格調高い文章と、君主への忠誠心に満ちた内容から、古来より名文として高く評価されています。
諸葛亮は、228年から234年にかけて、五度にわたり北伐を敢行します。彼はその天才的な軍略を駆使し、魏軍を何度も苦しめました。敵の追撃を空の城に立てこもってやり過ごす「空城の計」、食糧輸送のために発明したとされる自動輸送装置「木牛流馬」、そして魏の智将・司馬懿との息詰まるような心理戦など、彼の活躍は数々の伝説的なエピソードを生み出しました。しかし、蜀と魏との間には、いかんともしがたい国力の差が存在しました。魏の広大な領土と豊かな物資、そして厚い人材層は、蜀のそれを遥かに凌駕していました。また、険しい秦嶺山脈を越えて食糧を輸送する兵站線の維持は常に困難を極め、諸葛亮は何度も勝利を目前にしながら、兵糧不足のために撤退を余儀なくされました。
そして234年、五度目の北伐の最中、諸葛亮は渭水の南にある五丈原の地で、魏の司馬懿と長期にわたる対陣を続けていました。しかし、長年の激務が彼の体を蝕んでいました。自らの死期を悟った諸葛亮は、死後も蜀軍が安全に撤退できるよう周到な計画を立て、後継者として蔣琬や費禕らを指名し、蜀の未来を託しました。そして、秋風が吹く陣中にて、ついにその54年の生涯を閉じます。彼の死の知らせは、蜀の兵士たちを深く悲しませ、敵である司馬懿でさえ「天下の奇才であった」とその死を惜しんだと伝えられています。諸葛亮の死は、蜀漢にとって精神的支柱の喪失を意味し、漢室復興の夢は、事実上ここで潰えることになりました。
時代の終焉と晋の統一
諸葛亮という巨星が墜ちた後、三国時代のパワーバランスは徐々に、しかし確実に崩壊へと向かっていきます。物語を彩った英雄たちは次々と世を去り、新たな世代が台頭する中で、時代の歯車は最後の統一へと回転を始めます。
司馬氏の台頭と魏の簒奪
魏では、諸葛亮の北伐を幾度となく防ぎきった司馬懿が、その功績によって軍事・政治の両面で絶大な権力を手に入れていました。曹操の時代から仕えていた司馬懿は、忍耐強く、極めて老獪な策略家でした。彼は魏の皇帝・曹叡が若くして亡くなると、幼い皇帝・曹芳の補佐役となりますが、同じく補佐役であった皇族の曹爽と対立します。司馬懿は一時、病と称して政治の表舞台から退き、曹爽一派を油断させました。
そして249年、曹爽が皇帝と共に皇帝陵に参拝するために都を留守にした隙を突き、司馬懿はクーデターを決行します(高平陵の変)。彼は電光石火の速さで都を制圧し、曹爽とその一派を謀反の罪で処刑、一族郎党を皆殺しにしました。このクーデターにより、魏の政治の実権は完全に司馬一族の手に帰しました。曹操が築き上げた曹氏の帝国は、事実上ここで乗っ取られたのです。
司馬懿の死後も、その権力は息子の司馬師、司馬昭へと着実に引き継がれていきました。彼らは皇帝を傀儡とし、反対する勢力を容赦なく粛清して、その支配体制を盤石なものにしていきます。司馬昭の時代には、皇帝・曹髦が司馬氏の専横に憤り、自ら兵を率いて討伐しようとしましたが、返り討ちに遭って殺害されるという事件まで発生しました。もはや魏の皇帝に権威はなく、司馬氏が新たな王朝を築くのは時間の問題となっていました。
蜀漢の滅亡
一方、諸葛亮を失った蜀漢は、急速に衰退の道をたどります。諸葛亮の後を継いだ蔣琬や費禕といった有能な宰相たちが国を支えている間は安定していましたが、彼らが相次いで亡くなると、内政は宦官の黄皓によって壟断されるようになります。黄皓は皇帝・劉禅の寵愛を背景に権力をほしいままにし、自分に媚びる者を取り立て、忠実な臣下を遠ざけました。諸葛亮の愛弟子であった将軍・姜維は、師の遺志を継いで何度も北伐を試みますが、国内の支持を得られず、国力を疲弊させるだけに終わりました。
263年、魏の実権を握る司馬昭は、蜀の衰退を好機と見て、大軍による蜀討伐を命じます。魏の将軍・鍾会が主力部隊を率いて姜維の守る剣閣の要害を攻める一方、もう一人の将軍・鄧艾は、誰もが不可能だと考えていた険しい山脈を越えるという大胆な奇襲作戦を敢行しました。鄧艾の部隊は、成都の背後に突然出現し、蜀の宮廷を震撼させます。皇帝・劉禅は、まともな抵抗を試みることなく、あっさりと降伏を決断。ここに、劉備が建国し、諸葛亮が命を懸けて支えた蜀漢は、三国の中で最初に滅び去りました。降伏後、劉禅は魏の都・洛陽に送られ、安楽公として安穏な余生を送ったと伝えられています。
呉の内部崩壊と西晋による統一
三国の中で最後まで残ったのは、長江の天険に守られた呉でした。建国者の孫権は、その治世の後半、後継者問題で判断を誤り、息子たちの間で凄惨な権力闘争を引き起こしてしまいます。これが呉の国力を大きく損なう原因となりました。孫権の死後も、幼い皇帝が続いたことで政治は不安定になり、権臣による権力争いや暴君の出現が相次ぎ、国内は疲弊していきました。
一方、蜀を滅ぼした司馬昭は、晋王としてその権勢を頂点に高めますが、皇帝に即位する直前に病死します。その後を継いだ息子の司馬炎は、266年、ついに魏の最後の皇帝・曹奐から禅譲を受け、自らが皇帝に即位。国号を「晋(西晋)」と定め、洛陽を都としました。
天下統一の最後の障害となった呉に対し、司馬炎は周到な準備を進めます。彼は益州で巨大な軍船を建造させ、水陸両面から呉を攻める大作戦を計画しました。279年、晋は数十万の大軍を動員し、長江の上流から下流まで、複数のルートから一斉に呉へと侵攻を開始します。当時の呉の皇帝・孫皓は稀代の暴君として知られ、その暴政によって人心は完全に離反していました。晋軍が迫ると、呉の将軍たちは次々と戦わずして降伏し、晋の水軍は長江の防衛線をいとも簡単に突破しました。
280年、晋軍は呉の都・建業(現在の南京)に到達。万策尽きた孫皓は降伏し、ここに呉は滅亡しました。黄巾の乱から約100年、数多の英雄たちが覇を競った三国時代は終わりを告げ、中国は西晋によって再び統一されたのです。『三国志演義』の物語は、この統一の場面で静かに幕を閉じ、「天下の大勢は、分かれて久しければ必ず合し、合して久しければ必ず分かれる」という、冒頭に掲げられた歴史の理を改めて読者に示唆するのです。
『三国志演義』の文学的構造とテーマ
『三国志演義』が単なる歴史物語を超えて、不朽の魅力を放ち続ける理由は、その巧みな文学的構造と、そこに込められた普遍的なテーマにあります。
歴史と虚構の融合:「七分の事実と三分の虚構」
前述の通り、『演義』は陳寿の正史『三国志』や、范曄の『後漢書』といった歴史書を物語の骨格としています。主要な出来事の年次、登場人物の基本的な経歴、そして戦いの勝敗といった大枠は、歴史的事実に基づいています。しかし、羅貫中はこれらの事実の間に、大胆なフィクションを挿入しました。例えば、「桃園の誓い」「連環の計」「草船借箭」といった、物語の中でも特に印象的なエピソードの多くは、歴史書には記載のない創作です。
この「七分の事実と三分の虚構」という手法は、二つの大きな効果をもたらしました。第一に、歴史という権威を背景に持つことで、物語にリアリティと重厚感を与えました。読者は、これが全くの作り話ではなく、実際に起こった出来事に基づいていると感じることで、より深く物語の世界に没入することができます。第二に、虚構の要素を加えることで、歴史書では無味乾燥に記述されがちな出来事を、人間的な感情や葛藤に満ちたドラマへと昇華させました。登場人物の会話や心理描写、劇的な対決シーンなどを創作することで、歴史の背後にある人間ドラマを鮮やかに描き出し、物語としてのエンターテインメント性を飛躍的に高めたのです。この歴史と虚構の絶妙なバランスこそが、『演義』の成功の最大の要因と言えるでしょう。
「擁劉反曹」の思想と儒教的価値観
『演義』全体を貫く最も重要な思想が、「擁劉反曹(劉備を擁護し、曹操に反対する)」という明確な価値判断です。物語は、漢王朝の血を引く劉備を、失われた秩序と正統性を回復しようとする「仁」の英雄として描きます。彼の行動は常に民を思いやる慈悲心に満ち、彼に仕える者たちは「義」と「忠」を体現する理想的な臣下として描かれます。
一方、曹操は、漢王朝をないがしろにし、自らの野望のために権力を追求する「奸」の象徴として描かれます。彼は卓越した才能を持ちながらも、その才能を私利私欲のために用い、目的のためには虐殺や裏切りも厭わない冷酷な人物として造形されています。この善(劉備)と悪(曹操)の対立構造は、物語を分かりやすくし、読者が感情移入する方向性を明確に示しています。
この背景には、宋代以降に支配的となった朱子学の影響が色濃く見られます。朱子学は、君臣間の秩序や忠義といった儒教的な徳目を絶対視する思想であり、正統な王朝からの帝位簒奪を最大の不義と見なします。『演義』は、この朱子学的な価値観を物語に反映させ、劉備の蜀漢こそが漢王朝を継ぐ正統な王朝であり、曹操の魏は簒奪者であるという「蜀漢正統論」の立場を鮮明にしています。諸葛亮の「鞠躬尽瘁、死して後已む」という姿勢や、関羽の曹操への恩義と劉備への忠誠の間で葛藤する姿は、まさに儒教的な理想の臣下像を体現したものと言えます。
英雄たちの類型化と普遍的テーマ
『演義』の登場人物たちは、非常に個性的でありながら、同時にある種の「類型(タイプ)」として描かれています。
劉備: 仁徳の君主
曹操: 権謀術数の奸雄
諸葛亮: 神算鬼謀の智者
関羽: 忠義と武勇の義士
張飛: 豪放磊落な猛将
趙雲: 完璧なる常勝将軍
呂布: 最強だが裏切りの武将
このような明確なキャラクター設定は、元代の雑劇や講談といった大衆芸能の影響を強く受けています。これにより、数百人にも及ぶ登場人物が入り乱れる複雑な物語でありながら、読者はそれぞれの役割や性格を容易に把握することができます。
そして、これらの英雄たちが織りなす物語は、忠誠と裏切り、友情と対立、野心と運命、知略と武勇といった、時代や文化を超えて人々の心を打つ普遍的なテーマを探求しています。「桃園の誓い」に象徴される友愛、「三顧の礼」に見られる君臣の理想的な出会い、そして「白帝城の託孤」で描かれる絶対的な信頼関係。これらの人間ドラマは、現代の我々にとっても共感できる力強いメッセージを持っています。一方で、英雄たちが志半ばで倒れていく姿は、人生の無常や運命の非情さをも描き出しており、物語に深い余韻を与えています。
後世への影響と現代における『三国志演義』
『三国志演義』が中国、そして東アジアの文化に与えた影響は、計り知れないものがあります。
文学、演劇、そして民間信仰へ
『演義』の成立は、それ以降の中国の歴史小説のスタイルを決定づけました。歴史的事実をベースにしながら、フィクションを交えて物語を劇的に構成するという手法は、多くの模倣者を生み、『水滸伝』や『封神演義』といった傑作へと繋がっていきました。
また、物語の劇的なエピソードは、京劇をはじめとする伝統演劇の格好の題材となりました。「三顧の礼」「赤壁の戦い」「空城の計」といった場面は、現在でも人気の演目として繰り返し上演されています。これにより、『演義』の物語は文字を読めない人々にも広く浸透し、国民的な物語としての地位を不動のものにしました。
さらに、物語の登場人物、特に関羽は、その比類なき武勇と忠義の精神から、死後に神格化されました。彼は「関帝」として祀られ、武運の神、さらには信義を重んじることから商売の神として、中国のみならず、世界中の中華街で広く信仰されています。一人の小説の登場人物が、宗教的な信仰の対象にまでなったという事実は、『演義』がいかに人々の心に深く根差したかを示す顕著な例です。
故事成語と現代社会
『演義』から生まれた言葉は、数多くの故事成語として、現代の中国語や日本語の語彙に溶け込んでいます。
三顧の礼: 目上の人が格下の人物に対し、礼を尽くして何度も訪ね、協力を要請すること。
水魚の交わり: 劉備が諸葛亮を得たことを「私に孔明がいるのは、魚に水があるようなものだ」と語ったことから。非常に親密で、なくてはならない関係のたとえ。
破竹の勢い: 晋軍が呉を攻めた際、竹を割るように抵抗もなく進撃したことから。止めることのできない猛烈な勢いのこと。
泣いて馬謖を斬る: 諸葛亮が、自らの命令に背いて敗戦の原因を作った愛弟子の馬謖を、涙ながらに軍規に従って処刑したことから。規律を保つためには、私情を捨てて厳正な処分を行うことのたとえ。
死せる孔明、生ける仲達を走らす: 諸葛亮が死後、自らの木像を使って敵将の司馬懿(字は仲達)を退却させたという逸話から。死後もその威光が生きている者を恐れさせるほどの偉大な人物であったことのたとえ。
これらの言葉は、ビジネスの交渉や人間関係、スポーツの試合など、現代社会の様々な場面で比喩として用いられており、『演義』が単なる古典文学ではなく、今なお生き続ける知恵の宝庫であることを示しています。
グローバルカルチャーとしての三国志
20世紀以降、『三国志演義』は国境を越え、世界的なポップカルチャーの源泉となりました。特に日本では、吉川英治による小説『三国志』が国民的な人気を博し、その後の横山光輝による長編漫画『三国志』が、若い世代に物語を広める上で決定的な役割を果たしました。
現代においては、コーエーテクモゲームス(旧・光栄)の歴史シミュレーションゲーム『三國志』シリーズや、アクションゲーム『真・三國無双』シリーズが世界的な大ヒットを記録。これらのゲームを通じて、世界中の人々が『演義』の英雄たちの名を知り、その物語に親しむようになりました。また、ジョン・ウー監督による映画『レッドクリフ』など、数多くの映画やテレビドラマが制作され、新たな解釈と共に物語を再生産し続けています。
このように、『三国志演義』は、14世紀に書かれた一冊の小説でありながら、その豊かで普遍的な物語の力によって、時代やメディア、国境を超えて変容し、増殖し続けています。それは、権力を巡る人間の飽くなき欲望、理想に殉じる崇高な精神、そして時代を動かす英雄たちの輝きと悲哀を描いた、壮大な物語なのです。
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