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ラヴェンナ地方とは わかりやすい世界史用語1384
著作名: ピアソラ
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ラヴェンナ地方とは

ラヴェンナ地方が教皇領に組み込まれた背景には、イタリアにおける政治的および宗教的な変革が深く関与しています。ラヴェンナは元々西ローマ帝国の重要な都市であり、その後は東ゴート王国やビザンツ帝国のラヴェンナ総督府の首都として機能しました。この地域の戦略的な位置と歴史的な重要性から、ビザンツ帝国、ランゴバルド族、そして最終的には教皇庁を含むさまざまな勢力間で権力争いの中心となりました。

ラヴェンナが教皇領に組み込まれる過程

ラヴェンナが教皇領に組み込まれる過程は、8世紀に本格的に進展しました。756年のピピンの寄進は、教皇ステファヌス2世がランゴバルド族から中央イタリアを守るため、フランク王ピピン3世(短躯王ピピン)から軍事支援を受けた際の重要な出来事です。この支援の見返りとして、ピピンは教皇に広大な土地を寄付し、これが後に教皇領として知られる基盤を築くことになりました。この寄進にはラヴェンナを含む土地が含まれ、これによりラヴェンナは教皇の権威の下に組み込まれることとなりました。

中世におけるラヴェンナ

中世を通じて、ラヴェンナは教皇の支配下にあり続けましたが、その戦略的な重要性と富のためにしばしば争奪の対象となりました。教皇は任命された総督や使節を通じてラヴェンナを統治し、地域の行政を管理しながら教皇庁への忠誠を維持しました。この統治構造により、教皇は中央イタリアにおける影響力を効果的に行使することができました。

ルネサンス期からイタリア統一まで

ルネサンス期には、教皇領は力強い教皇たちのもとで大きく拡大しましたが、この時期には新興のイタリア諸国や地元貴族との緊張も高まり、ロマーニャ地方(ラヴェンナが位置する地域)などでは教皇の権威が時折揺らぐこともありました。それでも、ラヴェンナは19世紀のイタリア統一まで教皇領の重要な一部であり続けました。

イタリアへの併合とその後

1860年までに教皇領の大部分はイタリア王国に併合されましたが、ラヴェンナは1870年にイタリアに最終的に組み込まれるまで重要な教会の中心地であり続けました。この併合により、教皇庁の世俗的な権力は失われ、領土的な支配を伴わない信者に対する精神的な権威のみが残される新たな時代が始まりました。

ラヴェンナが教皇領に組み込まれたのは、特にランゴバルド族のような外部の脅威に対抗するために形成された戦略的な同盟の結果でした。この元首都としての歴史は、教皇領の形成において重要な要素となりました。

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