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租庸調制(唐)とは わかりやすい世界史用語640
著作名: ピアソラ
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租庸調制(唐)とは

唐の時代における租庸調制は、唐王朝(618-907年)の財政制度であり、農民を中心に国家の収入源を確保する重要な仕組みでした。この制度は、隋(581-618年)の均田制と密接に関連しており、土地を分配し、それに基づいて納税を求めるものでした。租庸調制は主に三つの要素で構成されており、各要素により税負担の異なる側面を規定していました。

まず「租」は土地税を意味し、農民が所有または耕作する土地の面積に応じて穀物を納めるものでした。唐の財政は主に農業生産に依存していたため、租は国家にとって重要な収入源でした。農民は1年の収穫の一定割合を政府に納める必要があり、この税は主に地方の官僚を通じて徴収されました。均田制に基づく田地の支給に対して、粟(穀物)2石を納める義務を負いました。租は穀物を納める税でしたが、当時の唐の基盤となった華北の主食は粟であり、租の本色(基本的な納税物)は粟とされていました。

次に「庸」は、労役またはその代わりとなる物資の提供を意味しました。農民は国家のために一定の日数、労働力を提供する義務がありましたが、これを免除するためには、布や絹などの物資を納めることで代替することができました。これは主に国土整備や防衛に関連する労働として求められ、国家建設に直接寄与するものでした。律令においては、本来は年間20日の労役の義務があり、それを「正役」と称しました。正役を免れるために収める税が庸でしたが、唐代中期以後は庸を納めることが一般化しました(雑徭2日分が正役1日分と換算されたため、雑徭を年間40日を行った者はその年の正役も庸も免除され、庸を正役20日分納めた者は雑徭も40日分免除されました)。正役1日に対し絹3尺あるいは布3.75尺を収めることとされていました。

最後に「調」は、主に絹や綿、布などの手工業製品を納めるものでした。農民は地域特産の手工業品を政府に納め、これが唐の時代における貿易や国家運営に利用されました。特にこの調は、地方の資源を活用して国家財政に貢献する役割を担っていました。調は、絹(絹織物)2丈と綿(真綿)3両を収めることとされていました。



この租庸調制は、唐の中央集権体制と結びついており、地方の資源を効率的に集め、中央政府の強力な運営を支える仕組みでした。特に均田制に基づく農民への土地分配は、農村部での安定をもたらし、唐の全盛期において広範囲にわたる地域支配を可能にしました。しかし、均田制が崩壊し、土地の集中や不平等が進行するにつれ、租庸調制も機能不全に陥り、後の税制度改革の必要性が高まっていきました。

唐の中期以降、租庸調制は徐々に効果を失い、税収の低下や農民の負担増加が問題となりました。特に安史の乱(755-763年)以降、国家の財政運営において抜本的な改革が求められ、唐末期には新たな税制である両税法が導入されました。この制度は、納税を土地ではなく所得や財産に基づいて課税するもので、中央政府の収入をより安定させる狙いがありました。

総じて、租庸調制は唐の時代における重要な財政基盤であり、農村社会を支える重要な制度でしたが、社会的、経済的な変化に伴い、その有効性が失われ、制度改革が必要となったのです。

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