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煬帝とは わかりやすい世界史用語619
著作名: ピアソラ
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煬帝とは

隋の煬帝は中国の隋王朝の第二代皇帝であり、在位期間は604年から618年まででした。彼の治世は、壮大な建設と軍事遠征で知られていますが、その一方で、彼の政策は隋の短命に繋がったとされています。

生い立ちと即位

楊広(のちの煬帝)は569年に生まれました。彼の父は隋の初代皇帝である文帝(楊堅)、母は独孤伽羅です。楊広は幼少期から聡明で、文武両道に優れていたと伝えられています。彼は最初、楊英(ようえい)という名前でしたが、父の文帝が占い師に相談した結果、楊広に改名されました。

煬帝の治世

604年、文帝が亡くなり、楊広が皇帝として即位しました。彼の治世は、いくつかの大規模な建設で有名です。特に有名なのは、大運河の完成と万里の長城の再建です。大運河は、中国南部の米生産地と北部の北京地域を結ぶ重要な交通路であり、610年に完成しました。

また、煬帝は多くの軍事遠征を行い、隋の領土を最大限に拡大しました。彼の治世中、隋は現在のベトナムや内モンゴルにまで勢力を広げました。しかし、これらの遠征は多くの兵士の命を奪い、特に高句麗(現在の韓国北部)への遠征は失敗に終わり、隋の財政を圧迫しました。

内政と経済政策

煬帝の治世は、豪華な宮殿の建設や贅沢な生活様式でも知られています。彼は多額の資金を費やして宮殿を建設し、遠方から成熟した木々を運んで私的な公園を作りました。このような贅沢な生活は、民衆の不満を招きました。

さらに、彼の治世中には重税が課され、多くの農民が困窮しました。これにより、各地で反乱が頻発し、隋の統治は次第に揺らいでいきました。

最期と隋の滅亡

618年、煬帝は江都(現在の揚州)で部下の宇文化及によって暗殺されました。彼の死後、隋は急速に崩壊し、唐が成立しました。

歴史的評価

煬帝は、その豪華な建設計画や軍事遠征により、一部では有能な統治者と評価されることもありますが、彼の政策は隋王朝の短命に繋がりました。

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