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先史時代 人類の進化と農耕の始まり わかりやすい世界史通史2 |
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著作名:
レキシントン
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序章 先史の世界
1 人類の進化
地球上に人類の祖先が現れてから、人間が文字を発明して自らの歴史を記録に残すようになるまでの期間は、数百万年という途方もない長さに及びます。この期間を、私たちは先史時代(prehistoric age)と呼んでいます。文字記録のない時代の姿は、化石や石器といった物質的な証拠を一つずつつなぎ合わせて復元するしかありません。その復元の方法は近年大きく進歩しており、とりわけ古代のDNAやタンパク質を読み解く技術が、人類史の像を書き換え続けています。
先史時代を復元する手がかりは、限られています。残されたのは、石器や土器、住居の跡、動物の骨、そして人骨そのものといった、腐りにくい物質の痕跡です。考古学者は、地層の重なりや遺物の型式の変化を手がかりに古さの順序を定め、放射性炭素年代測定をはじめとする理化学的な方法で、その絶対的な年代を推定します。そこに、動物の骨の分析や、土壌に残る花粉の調査、近年の古代DNAの解析が加わることで、食生活や環境、集団どうしの関係までもが少しずつ見えるようになってきました。ただし、証拠は断片的であり、解釈にはつねに幅があります。先史時代の叙述に「と考えられています」という表現が多くなるのは、そのためです。不確かさを引き受けながら、証拠の許す範囲で像(すがた)を結ぶこと。それがこの時代を扱う際の基本的な姿勢となります。
生物学の分類では、ヒト、すなわち人類は、霊長目の中のヒト科に属します。チンパンジーやゴリラといった類人猿とヒトとを分ける最大の特徴は、直立二足歩行です。まっすぐ立って二本の足で歩くようになったことで、人類の手は類人猿のものに比べて短く、しかも器用になり、足のほうは歩行に専ら使われるために長くなりました。そしてこの変化の連鎖の先に、脳容積の増大があり、その後の人類の進化全体へと繋がっていったのです。
直立二足歩行がもたらした変化は、体のつくりにとどまりません。両手が歩行から解放されたことで、道具を持ち運び、食物を仲間のもとへ運び、子どもを抱えて移動することが可能になりました。手先の器用さは、やがて道具を道具で作るという、人類に特有の技術の連鎖の出発点となります。また、直立した姿勢は、太陽の当たる体の面積を減らし、汗による体温調節とあわせて、暑い環境での長時間の活動を助けたとも考えられています。もっとも、脳の増大そのものは、この段階ですぐに起きたわけではありません。化石の記録が示すのは、まず歩行の様式が変わり、脳容積の本格的な増大は、それよりずっと後の時代に、石器の使用や食生活の変化と結びついて進んだという順序です。進化は、一つの特徴が一挙に人間らしさを作り出したのではなく、変化の積み重ねだったのです。近年のDNA研究や人類化石の調査によれば、ヒトの最も古い祖先が、チンパンジーやボノボとの共通の祖先から枝分かれしたのは、およそ1000万年前から700万年前の頃のことと推定されています。
人類の進化は、おおむね猿人、原人、旧人、新人という段階をたどって進んできました。現在確認できる最も古い化石人類は、約700万年前のサヘラントロプス(Sahelanthropus)です。その脳容積は約350立方センチメートルでチンパンジーに近く、樹の上で半ば暮らしながら、地上では直立二足歩行をしていたとみられています。こうした最初期の人類を、私たちは猿人と呼び、その時代は約700万年前から200万年前まで続きました。猿人の中でも古い例として知られるのが、440万年前のラミダス猿人(アルディピテクス・ラミダス、Ardipithecus ramidus)です。最初の人類はアフリカの森林の中で誕生し、その後およそ500万年もの間、アフリカの大地の上で生活していたと考えられています。
ラミダス猿人についても、少し詳しく見ておきましょう。エチオピアで発見されたこの猿人は、骨盤や足の骨の特徴から、地上での二足歩行と樹上での移動の両方に適応していたとみられます。発見された環境は、開けた草原ではなく、木々の茂る森林に近かったと復元されています。ここから分かるのは、人類の直立二足歩行が、サバンナへの進出に先立って、森の中ですでに始まっていたらしいということです。「森を出たから立ち上がった」という単純な物語は、化石証拠の前で修正を迫られているのです。化石の記録は、発見される場所や保存の条件に大きく左右されますから、私たちの知見は今後の発見によって書き換えられる可能性を常にもっています。
猿人は、その後、大きく2つの系統に分かれて進化しました。一つは、歯やあごがほどほどの大きさにとどまる華奢(きゃしゃ)なタイプで、アウストラロピテクス属がその代表です。この仲間には、完全な骨格が見つかった個体「ルーシー」で世界的に有名なアファレンシス猿人(Australopithecus afarensis、400万〜300万年前)や、肉を食べるようになったことを特徴とするアフリカヌス猿人(Australopithecus africanus、300万〜200万年前)が含まれます。もう一つは、頭頂部に稜のような突起をもち、巨大な歯とあごを備えた、頑丈型猿人と呼ばれるパラントロプス属(Paranthropus、270万〜140万年前)です。頑丈なつくりのこちらの系統は、やがて絶滅してしまいました。
アファレンシス猿人を代表する「ルーシー」は、1974年にエチオピアのハダールで発見された、約320万年前の女性の部分骨格です。全身の骨のおよそ4割が残っており、骨盤や膝の関節の形から、二足歩行をしていたことがはっきりと読み取れる貴重な資料となりました。一方、頑丈型のパラントロプス属は、巨大な臼歯と発達した咀嚼(そしゃく)筋を備え、硬い植物や地下茎などを食べることに特化していたと考えられています。特定の食性への特化は、環境が安定している間は有利でも、気候変動が進んで食料資源の構成が変わると、かえって適応の幅を狭める結果になりかねません。頑丈型の絶滅と華奢型の存続という対比は、進化における「強さ」の意味を考えさせる事例です。
2 原人の出現と最初の出アフリカ
やがて、肉を食べることを選んだアウストラロピテクスの一部から、次の世代にあたるホモ属が進化してきたらしいことが分かっています。このホモ属の初期の人類を、原人と呼びます。最初に現れた原人は、アフリカのホモ・ハビリス(Homo habilis、240万〜180万年前)です。脳容積は500立方センチメートル以上へと格段に大きくなり、石の一部を打ち欠いて礫(れき)石器をつくるようになりました。その石器を使って肉を切り分け、食べる肉の量が増えたと考えられています。
肉食の増加と脳の拡大は、互いに影響し合っていたと考えられます。大きな脳は、それだけ多くのエネルギーを必要とする器官です。肉や骨髄、脂肪といった、高カロリーで消化のよい食物を安定して得られるようになったことが、脳の拡大を支える条件の一つとなりました。逆に、石器を用いて動物の骨を割り、骨髄を取り出すような行動は、計画性や協力といった知的な活動を必要とします。石器で肉を切り分ける行為は、仲間どうしの分配の場面を生み、社会的な関係の発達とも結びついていたかもしれません。もっとも、初期のホモ属が本格的な狩猟を行っていたのか、それとも他の捕食動物の食べ残しを利用していたのかについては、骨に残された痕跡の解釈をめぐって議論が続いています。
続いて現れた原人が、ホモ・エレクトス(Homo erectus、180万〜20万年前)です。脳容積は約900立方センチメートルまで増えました。エレクトスの道具立ては豊かです。礫石器のほかに、剥片を打ち出して全体を薄い涙の滴のような形に整えた、アシュール文化のハンドアックス(握斧)が作られました。また、小さな破片を利用したナイフや、皮や木を削る掻器(スクレイパー)のように、作業の目的に応じて改良を加えられた打製石器も使われています。そして、火の使用が始まったのも、このホモ・エレクトスの段階からでした。火は暖を取り、獣を遠ざけ、食物を加熱して消化を助け、人類の生活圏と食生活を大きく変えていきます。
ハンドアックスについても、その形に注目する価値があります。左右対称に近づくよう丁寧に整形された姿は、単なる実用の範囲を超えた、形へのこだわりの表れと見る研究者もいます。道具の形が長い期間にわたって受け継がれたという事実は、技術が模倣と学習によって世代を超えて伝えられていたこと、すなわち文化の蓄積が始まっていたことを示唆します。火についても、その影響は暖や明かりにとどまりません。火を囲んで過ごす夜の時間は、集団の結束や情報のやり取りの場となり、言語の発達を促した可能性も指摘されています。また、火で焼く調理は、食物を柔らかくし、寄生虫や毒素の危険を減らし、消化にかかる負担を軽くしました。もっとも、この初期の段階における「火の使用」の証拠については、自然に生じた火を利用したのか、それとも火を起こし維持する技術があったのかの判別が難しく、学界でも慎重な議論が続いています。
知性が伸び、体つきも大柄になった原人は、180万年前から170万年前にかけて、人類史上はじめてアフリカの外へ踏み出しました。これが最初の「出アフリカ」です。原人はアジアやヨーロッパへと広がり、各地で地域的な種へと姿を変えていきました。インドネシアのジャワ原人(170万〜10万年前)や、中国の北京原人(70万〜40万年前)がその代表です。原人は氷期の厳しい環境の中で狩猟と採集の生活を営み、その分布はアフリカからヨーロッパ、南アジア、東アジアにまで及びました。しかし、ジャワ原人のような在地の系統は、さらに進化を遂げることなく、やがて絶滅していきました。
原人の拡散は、気候と環境の変化と無関係ではありませんでした。氷期と間氷期の繰り返しの中で、草原や森林の分布は大きく変動し、動物の群れの移動に伴って、人類の移動の回廊が開かれたり閉じたりしたと考えられます。北京原人の化石が見つかった中国の周口店の洞窟は、長年にわたる発掘の舞台となり、原人の生活を復元する基礎資料を生みました。原人たちは、季節ごとに移動しながら、狩猟と採集を組み合わせ、洞窟や川辺を拠点とする生活を営んでいたとみられます。ユーラシアの各地に広がった原人の系統が、それぞれの土地で長い時間をかけて地域的な特徴を育てながらも、最終的には姿を消していったという事実は、人類史が成功への直線ではなく、多くの試行と絶滅の積み重ねであることを示しています。
3 旧人とネアンデルタール人
その後の歩みは、一直線ではありませんでした。約60万年前の頃、より進化した人類、旧人と呼ばれる人々が、やはりアフリカに出現しました。旧人の一部はアフリカを出てユーラシア大陸へ渡りました。そのうちヨーロッパに移り住んだ人類の系統から誕生したのが、ネアンデルタール人(ホモ・ネアンデルターレンシス、Homo neanderthalensis)です。彼らの脳容積は1300立方センチメートルから1600立方センチメートルに達し、現生人類のそれとほぼ変わりません。
ネアンデルタール人の姿は、寒冷なヨーロッパの環境への適応を色濃く映しています。がっしりとした体格、短めの手足、大きな鼻の空間は、冷たく乾燥した空気の中で体温を保ち、吸い込む空気を温め湿らせるのに適していたと考えられます。骨に残る傷や骨折の痕跡からは、大型の獣に近接して挑む、危険の大きな狩猟の様子も読み取られています。彼らは決して粗野な存在ではなく、厳しい環境に高度に適応した、もう一つの人類の姿だったのです。
ネアンデルタール人は、優れた石器技術の持ち主でもありました。彼らが編み出したルヴァロワ技法は、あらかじめ石核の周縁を打ち欠いて形を整えておき、中心に向かって打ち欠くことで、狙い通りの剥片を取り出すという、計画性の高い方法です。この技法によって、定型的な剥片石器を安定して作ることができるようになりました。彼らはまた、ヴュルム氷期と呼ばれる寒冷な時代に適応するために毛皮をまとい、火を活用しました。さらに、死者を埋葬する行為が認められるなど、その精神文化も発達していたことがうかがえます。
ただし、埋葬の解釈には慎重さも必要です。死者を葬る行為があったとしても、その背後にある観念が私たちの宗教観と同じだったとは限りません。墓とともに花粉が集中的に見つかった事例をめぐっても、花粉の集積が小動物の活動による可能性が指摘されるなど、証拠の読み方については議論が続いてきました。また、ルヴァロワ技法が示す計画性にも注目すべきです。最終的な剥片の形をあらかじめ思い描き、そのために石核を何段階にもわたって整形する作業は、高度な見通しと手順の把握を必要とします。石器の技術は、彼らの認知能力を映す鏡でもあるのです。
2017年以降の研究は、旧人の時代の人類の顔ぶれが、従来考えられていたよりもはるかに多様だったことを示しました。南アフリカの洞窟から見つかったホモ・ナレディは、原始的な姿をとどめる人類ですが、年代測定の結果、約33万5千年前から23万6千年前という新しい時代の存在であることが2017年に明らかになりました。つまり、現生人類が登場する時期のアフリカには、小さな脳をもつ別系統の人類が同時に生きていたのです。フィリピン、ルソン島の洞窟からは、約6万7千年前と5万年前に遡る化石が見つかり、手足の指の骨に古い人類の特徴を残す新種ホモ・ルゾネンシスとして2019年に報告されました。島嶼部の東南アジアが、人類進化のもう一つの舞台だったことが分かります。
アジアの旧人として特に注目されるのが、デニソワ人です。シベリアの洞窟で見つかった指の骨のDNAから、その存在が2010年に浮かび上がりました。2019年には、中国チベット高原の標高約3280メートルにある洞窟で発見された、少なくとも16万年前の下あごの骨が、古代タンパク質の分析によってデニソワ人のものと特定されました。デニソワ人がシベリア以外にも広く分布し、酸素の薄い高地の環境に、現生人類よりはるか以前から適応していたことが示されたのです。さらに2025年には、中国東北部のハルビンで出土した約14万6千年以上前とされる頭骨について、歯石から回収されたタンパク質とミトコンドリアDNAの分析が、その持ち主をデニソワ人の系統に位置づけました。これにより、デニソワ人に初めてほぼ完全な頭と顔の姿が与えられたことになります。ただし、デニソワ人を正式にどの学名で呼ぶべきか、たとえばハルビンの頭骨を模式標本とする「ホモ・ロンギ」の名を用いるかどうかについては、研究者の間で議論が続いており、結論は出ていません。
こうして見てくると、旧人の時代のユーラシアとアフリカは、私たちが長く思い描いてきたよりも、はるかににぎやかな人類の舞台でした。ネアンデルタール人、デニソワ人、ナレディ、ルゾネンシスといった多様な系統が、それぞれの環境に適応しながら、並行して存在していたのです。この多様性の時代という視点は、次の節で扱う現生人類の拡散を理解する前提となります。現生人類は、空っぽの大地へ進出したのではなく、先住の人類たちと出会い、時には交わりながら、世界へ広がっていったからです。
4 新人(現生人類)の出現と世界への拡散
ついで、30万年ほど前、アフリカに新人が現れました。私たち自身と同じ、現生人類、ホモ・サピエンス・サピエンス(Homo sapiens sapiens)です。DNA解析などの成果によれば、新人は旧人から直接に進化したのではなく、新人と旧人は、60万年前から40万年前にかけて共通の祖先から分岐した、別々の系統でした。旧人は、新人としばらくの間併存したのちに、絶滅へ向かったと考えられています。
現生人類の起源をめぐっては、かつて、世界の各地で原人から新人へとそれぞれ進化したとする多地域進化説と、アフリカで誕生した現生人類が世界へ拡散して各地の先住人類と置き換わったとする単一起源説が、長く対立してきました。化石の形態の解釈だけでは決着がつかなかったこの論争に、大きな影響を与えたのがDNAの研究です。現代人の遺伝的多様性がアフリカで最も大きいこと、各地の集団の分岐年代の推定、そしてこの後で述べる古代DNAによる交雑の確認が積み重なり、今日では、アフリカ起源を軸としつつ、先住人類との限定的な混合を認める見方が主流となっています。学説の歴史そのものが、証拠の種類が増えることで過去の像が組み替えられていく過程を示しています。
そして近年、この新人の起源そのものが見直されました。モロッコのジェベル・イルード遺跡で見つかった化石は、2017年に熱ルミネッセンス法で再測定され、約30万年前のものとされました。これは、それまで最古とされてきた東アフリカの化石より約10万年も古く、南アフリカで見つかった約26万年前の化石とあわせて、現生人類の起源をアフリカの特定の一地域ではなく、大陸各地の集団が交流する中で成立したものとして捉える「汎アフリカ起源」の考え方を後押ししています。現生人類の故郷は、アフリカの一点ではなく、面として広がっていたのです。
現生人類がアフリカを出たのも、一度きりの出来事ではありませんでした。イスラエルのミスリヤ洞窟で見つかった現生人類の上あごの骨は、2018年に、17万7千年前から19万4千年前のものと報告されました。これは、それまで最初のアフリカ脱出の証拠とされてきた約9万〜12万年前の化石をはるかに上回る古さで、ルヴァロワ技法の石器を伴っていました。初期の拡散の多くは、現在の人々にほとんど子孫を残さなかったとみられますが、人類は早い時期から繰り返しアフリカの外へ試みを重ねていたのです。
旧人と新人の関係についても、交雑の証拠が決定的な形で得られました。シベリアのデニソワ洞窟から見つかった約9万年前の骨片は、2018年のゲノム解析により、母親がネアンデルタール人、父親がデニソワ人という、交雑の第一世代の個人であることが判明しました。「デニー」と呼ばれるこの少女の父親自身も、祖先にネアンデルタール人をもっていました。異なる系統の人類が出会えば交わり合うことは、例外ではなく通常のことだったのです。また2020年には、現代のアフリカの人々のゲノムの中にも、ネアンデルタール人に由来する配列が約0.3パーセント存在することが報告されました。これは、ユーラシアへ出た現生人類の一部がアフリカへ戻る「逆方向の移動」があったためと説明され、さらに10万年以上前に、現生人類からネアンデルタール人への遺伝子の流れがあったことも示唆されています。人類史は、一方通行の移動と置き換えの歴史ではなく、出会いと混合と回帰の歴史だったのです。
旧人と新人が併存した期間は、決して短いものではありませんでした。ヨーロッパでは、新人の到達後もネアンデルタール人が数千年にわたって生き続け、アジアの各地ではデニソワ人やルゾネンシス、フローレス島の小型人類などが、現生人類の拡散と時代を重ねていました。地球上に複数の人類が同時に存在することは、実は人類史の大半を通じて普通の状態でした。ただ1種だけが残った現在の世界こそが、歴史の上では例外的な姿なのです。この視点は、人類の歩みを、弱い者が強い者に一方的に置き換えられていく直線の物語としてではなく、異なる系統が環境に適応し、出会い、混じり合い、あるいは姿を消していく、複雑な織物として理解することを私たちに求めています。
拡散の道筋についても、少し触れておきましょう。アフリカを出た現生人類は、おそらく海岸沿いの低地を伝って南アジアへ進み、東南アジアから東アジア、そして内陸部へと広がっていったと考えられます。最終氷期の最盛期には海面が現在より大幅に下がり、大陸と陸続きになった地域がある一方で、現在のオーストラリアやニューギニアにあたる地域へ渡るには、当時でも数十キロメートルに及ぶ海を越える必要がありました。そこへ人類が到達していたという事実は、後期旧石器時代の人々が、筏(いかだ)や舟を用いる航海の能力をすでに備えていたことを物語ります。アメリカ大陸への到達も、氷期の環境の中で、陸橋や海岸沿いの移動を通じてなされたとみられます。拡散は一直線の行進ではなく、気候の変動に合わせて進んでは止まり、時には後退する、長い時間をかけた浸透の過程だったのです。
もっとも、現在世界各地に暮らす人々の祖先につながる本格的な拡散は、新人が6万〜7万年前にアフリカを出て、順次世界中に広がっていく過程で実現しました。この意味で、現生人類の起源をアフリカに求める「アフリカ単一起源説」、いわゆる「アウト・オブ・アフリカ」説は、今日なお定説としての地位を保っています。新人は1万年前までにすべての大陸に拡散し、さらに海を越えて、1000年前までには南太平洋の島々にまで到達しました。ヨーロッパではクロマニョン人が、中国では周口店の上洞で見つかった上洞人が、新人の代表的な化石として知られています。
南太平洋の島々への拡散は、とりわけ壮大な航海の物語です。遠く離れた島々への到達には、星や海流を読む航海術と、それを支える食料や水、栽培植物や家畜を運ぶ計画性が必要でした。人類がほぼすべての居住可能な土地に足跡を残したことで、人類史の舞台は文字どおり地球全体へと広がったのです。
5 石器の発達
石器の歴史は、そのまま人類の技術と知性の発達の歴史でもあります。時代の区分としては、旧石器時代が250万年前から1万3000年前まで、中石器時代が1万3000年前から8000年前ないし6000年前まで、新石器時代が8000年前ないし6000年前以降とされています。気候が氷期と間氷期を繰り返す中で、人類が猿人から原人、旧人、新人へと移り変わっていく歩みと、礫石器からハンドアックスへ、剥片石器へ、やがて石臼や石斧へという石器の変化は、互いに対応しながら進んでいきました。
なお、この三つの時代区分は、もともとヨーロッパや西アジアの遺物を整理する中で生まれた便宜的な枠組みであり、すべての地域に同じ年代や同じ順序が当てはまるわけではありません。地域によっては、土器の出現が農耕に先行したり、磨製石器の伝統が長く狩猟採集と結びついていたりします。区分は、時代の姿を大づかみに捉えるための道具であって、それ自体が目的ではない、という点は意識しておく必要があります。本章でも、この区分はあくまで見取り図として用いています。
旧石器時代の石器は、すべて石を打ち欠いてつくる打製石器でした。そこには大きく2つの種類があります。石の塊そのものを形づくる石核石器と、石の塊からはぎ取った剥片を利用する剥片石器です。石核石器は木を伐ったり、削ったり、土を掘ったりするために使われ、剥片石器は動物の毛皮をはがしたり、肉や骨を切ったりするために使われました。使い道に応じて石器の形が分化していたのです。
石器の用途は、推測だけに頼るのではありません。石器の刃の部分に残る微細な傷や付着物を顕微鏡で調べる使用痕分析によって、その石器が木を削ったのか、皮をなめしたのか、植物を切ったのかといったことが、かなりの精度で判別できるようになってきました。実験的に石器を複製して実際に使ってみる実験考古学の手法も、こうした復元を支えています。石器は「石の道具」という以上に、当時の人々の労働と暮らしを記録した、文書のような存在なのです。
石器づくりの始まりは古く、現在知られる最古の石器は、ケニアのロメクウィ遺跡で見つかった約330万年前のものです。ホモ・ハビリスなど初期のホモ属は、拳ほどの大きさの自然の石を打ち欠いただけの、素朴な礫石器を作ったことが知られています。時代が下って中期旧石器時代になると、旧人たちは、先に述べたルヴァロワ技法を編み出しました。あらかじめ周縁を打ち欠いて石核を整形し、計画的に剥片を取るこの方法により、定型的な剥片石器が作られるようになりました。フランスのムスティエ文化は、この技法が発達した段階を代表する文化として知られています。
後期旧石器時代の新人に至ると、技術はさらに跳躍します。石刃技法によって、1つの石材から同じ形の石刃を大量に作り出すことができるようになり、それを部品として組み合わせることで、機能に応じた多様な道具が製作されるようになりました。骨や角を材料とする骨角器も用いられるようになり、道具を作る技術は飛躍的に向上しました。
石刃技法の意義は、規格化という点にもあります。同じ形の部品を大量に生み出し、壊れた部分だけを取り替えるという発想は、後の時代の道具作り、ひいては現代の工業生産にも通じる考え方です。また、道具の材料が石だけでなく骨や角、象牙へと広がったことは、用途に応じた素材の選択という、より柔軟な技術のあり方を示しています。釣り針や縫い針のような精密な骨角器は、漁労の本格化や、体に合った衣服の製作といった、生活の細部の変革を可能にしました。旧石器時代から新石器時代への移行期にあたる中石器時代には、2センチメートルほどの小さな細石器が現れます。これを木製の柄に取り付けて、矢やナイフ、鎌などとして使い、欠けたときにはその部分だけを交換できる、合理的な複合道具でした。そして新石器時代に入ると、石をすり合わせて研磨する磨製石器が特徴となり、石斧、石臼、石鏃(せきぞく)などが作られるようになります。
技術の発達は、精神の発達と並行していました。新人は、南フランスのラスコーや、スペインのアルタミラに代表される、優れた洞穴絵画を残しています。そこに描かれた動物たちの姿は、深い観察力と豊かな感性を備えた人々の存在を伝えています。象徴を扱う能力の証拠は、さらに古い時代にも見られます。南アフリカのブロンボス洞窟遺跡、7万5000年前の地層からは、アクセサリーとして使われたとみられる巻き貝のビーズと、幾何学模様が線で刻まれた石が発見されました。これは、新人が抽象的な概念をシンボルとして表す能力を、すでにこの時期に身につけていたことを明らかにするものです。
洞穴絵画については、その意味をめぐってさまざまな解釈が試みられてきました。狩猟の成功を願う呪術とする説、神話や儀礼の場とする説、集団の記憶や教育の装置とする説などがあり、決定的な答えは得られていません。しかし、確かなことが一つあります。それは、目に見えないものを形にし、他者と共有する能力、すなわち象徴を操る能力が、言語や協力関係、さらには後の文字の発明に至る、人類の文化の基盤をなしたということです。ブロンボスの線刻やビーズは、その能力が新人とともに突然現れたのではなく、アフリカの地で長い時間をかけて育まれてきたことを示唆しています。
このように、猿人から新人に至るまでの間、人々は打製石器を用いて狩猟と採集によって暮らしていました。この長い時代を、私たちは旧石器時代と呼びます。
数百万年という旧石器時代の長さは、歴史時代の数千年とは桁が違います。その間、人類の生活の基本は狩猟と採集であり、技術の変化も緩やかに見えます。しかし、この長い蓄積があったからこそ、氷期の終わりという環境の大きな転換に際して、人類は一気に新しい生活様式へ踏み出すことができたともいえます。道具を作り、火を操り、象徴を用い、未知の土地へ進出する能力は、すべてこの時代に鍛えられました。次の節で見る農耕の開始は、突然の跳躍ではなく、この長い準備期間のうえに成り立つ転換だったのです。
6 農耕・牧畜の開始と新石器革命
1万年ほど前、最後の氷期が終わると、地球は温暖化へと向かい、自然環境は大きく様変わりしました。有用な植物が繁る温帯の森林が広がる一方で、寒冷な環境に適していた動物の中には絶滅するものもありました。人類は地域ごとに、この変化への適応を迫られます。その過程で、前1万年頃から前4000年頃までの間に、人類は世界の各地で、それぞれ独自に、植物を栽培することによる食糧の生産を始めるようになりました。
とりわけ重要だったのは、西アジアの、いわゆる「肥沃な三日月地帯」における展開です。前9000年頃には、この地で麦の栽培が始まっており、ヤギ、ヒツジ、ブタ、ウシなどの飼育も始まっていきました。これが、農耕と牧畜の開始です。ティグリス川上流のイラクで見つかったジャルモ遺跡(前8000〜前6000年頃)は、農耕・牧畜生活への移行期の姿を示す、定住した農耕村落の最も古い遺跡の一つとされています。
ここで注意したいのは、栽培化が「発明」のように一挙に起きたのではないということです。人々が野生の麦を繰り返し採取し、やがて自ら播くようになる長い過程の中で、収穫の際に実が落ちにくい性質をもつ個体が、無意識のうちに選ばれ、蓄えられていきました。植物の姿そのものが、人間の行動によって少しずつ作り替えられていったのです。家畜化についても同様で、群れで暮らし、人間との共存に耐える性質をもった動物が、世代を重ねて人間の管理のもとに取り込まれていきました。農耕と牧畜は、自然に対する一方的な働きかけではなく、人間と動植物の関係そのものが組み替えられていく過程でした。
近年の研究は、この転換の姿をさらに複雑で豊かなものに描き直しています。トルコ南東部のギョベクリ・テペ(前9500年頃)は、巨大な石柱をもつ建造物で知られ、長く「狩猟採集民が建てた世界最古の神殿」と説明されてきました。しかしドイツ考古学研究所のプロジェクトが2010年代後半にまとめた成果によれば、遺跡からは日常の住居とみられる建物や、炉、作業場、家の床下の墓、大量の穀物加工の痕跡、水をためる岩盤の施設などが確認され、恒常的に人が住む集落の中に、共同体の特別な建物が築かれていたとする解釈が有力になっています。農耕が始まってから定住し、やがて宗教施設が生まれたという単純な順序ではなく、定住と農耕と大規模な共同建造物が、互いに影響し合いながら同時に育っていった姿が浮かび上がります。なお、個々の建物の用途については議論も続いています。また2022年に公表された古代DNAの研究によれば、ヨーロッパへ農耕を広げた初期の農耕民は、単一の集団がそのまま移動したのではなく、氷期後に西アジアの人々と西の狩猟採集民が何段階にもわたって混じり合う中で成立し、その成立過程自体が複雑な混合の歴史だったことが示されました。農耕の広がりは、人の移動だけでも、文化の伝播だけでも説明できない現象だったのです。
農耕は西アジアだけの発明ではありません。中国や、インドから東南アジアにかけての地域では、米、アワ、タロイモ、バナナ、サゴヤシなどが栽培されるようになりました。中央アメリカではトウモロコシやカボチャなどが栽培化され、南アメリカのアンデス地域ではジャガイモが栽培化されました。サツマイモもアメリカ大陸で栽培化された作物であり、後の人類の生活にとって有用な作物が各地で生まれていきました。家畜についても後の時代の話を一つ加えておきますと、私たちが今日目にする家畜馬の起源は、2021年の大規模なDNA研究により、紀元前2200年頃のヴォルガ川とドン川の下流域に求められることが示されました。有名なボタイ文化の馬は、現在の家畜馬の祖先ではなく、モウコノウマの先祖にあたる系統でした。馬の広がりを、紀元前3000年頃のステップの拡大とひとまとめにして語ることは、もはやできないのです。
各地で栽培化された作物は、その後の世界史の主役級の存在となります。西アジアの麦類、中国の米やアワ、中央アメリカのトウモロコシやジャガイモは、それぞれの地域の文明を養う基盤となっただけでなく、後の時代には大陸を越えて伝播し、世界各地の食生活と人口を左右するようになります。どの地域で何が栽培化されたかという先史時代の出来事が、数千年後の世界の姿にまで影を落としているのです。また家畜の存在は、食料としてだけでなく、乳や毛、皮、そして労働力や移動の手段としても、人間の生活を大きく変えていきました。
農耕と牧畜の開始がもたらした変化は、革命と呼ぶにふさわしいものでした。人類が積極的に自然環境を改変し、食糧を自らの手で生産する生活を営むようになると、人類史は、狩猟や採集で食糧を得る獲得経済から、農耕や牧畜による生産経済へと、大きくその姿を変えました。食糧生産の必要から、人々は移動をやめて定住するようになり、共同作業のために集落を形づくり、生活は安定しました。その結果、人口は飛躍的に増えていきます。人々は織物や土器を作り、石を研磨して磨製石器を使うようになりました。これが新石器時代の始まりです。この時代には、余剰の生産物が増えるにつれて社会の階層分化が起こるなど、社会の構造が複雑になり、後の文明が発展するための基礎が築かれました。こうした一連の変革は、新石器革命(Neolithic Revolution)と呼ばれることがあります。そして初期の農耕民が切り開いた新石器文化は、アジア、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカ大陸の各地へと広まっていきました。
「革命」という言葉から受ける印象とは異なり、この変化は数千年をかけてゆっくりと進みました。しかも、それは一方的な進歩の物語ではありません。農耕生活は狩猟採集に比べて労働時間が長く、穀物に偏った食事は栄養のバランスを崩しやすく、人骨の記録からは、農耕民のほうが身長が低く、虫歯や感染症に悩まされることが多かったことも読み取られています。定住と人口の集中は、家畜と人間が近接する環境とあいまって、新しい感染症の温床ともなりました。それでも農耕が拡大していったのは、単位面積あたりで養える人口の多さが、集団の規模と力を大きくしたからです。農耕は、人類が選んだ楽な道ではなく、増え続ける人口を支えるために引き受けざるを得なかった、重い荷物でもあったのです。
定住が始まったことは、人々の暮らしの細部にも変化をもたらしました。移動生活では持ち運べるものに限られていた道具や食料の蓄えが、村に腰を落ち着けることで大きく増やせるようになります。農作業は播種や収穫の時期に多くの人手を必要としますから、集落は共同作業の単位としてまとまりを強めました。余った食糧や、黒曜石のような限られた土地でしか得られない石材、貝や金属製の装身具といった品々が、集落と集落の間で交換されるようにもなります。交易の芽生えです。こうして、人々が顔の見える範囲を超えて結びつく関係が、農耕村落の時代にすでに生まれていました。大きな集落の中には、周囲に壁や堀を構えて外敵や洪水に備えるもの、宗教のための施設を村の中心に置くものも現れます。定住は、平和で静かな生活の始まりであると同時に、蓄えた富を守り、分け合い、時には奪い合うという、後の社会が抱え続ける問題の始まりでもあったのです。
土器の普及がもたらした変化についても、触れておく価値があります。煮炊きができるようになると、硬い穀物や豆類を柔らかくして食べられるようになり、消化の効率が上がるだけでなく、乳児のための離乳食や、高齢者や病人のための食事も用意できるようになります。貯蔵容器としての土器は、収穫物を長く保つことを可能にし、食料の備蓄という発想を暮らしの中に定着させました。興味深いことに、最古級の土器が見つかっている日本列島では、土器は農耕が始まるはるか以前から、狩猟や漁労や採集を営む人々によって使われていました。土器と農耕が必ずしも一体ではなかったという事実は、技術の組み合わせが地域ごとに多様であったことを教えてくれます。
代表的な遺跡を2つ挙げておきましょう。ヨルダン川流域のイェリコ(前8000〜前6000年頃)は、周囲に壁と堀をめぐらせた大規模な集落でした。トルコのチャタル・ヒュユク(前7500年頃〜前5600年頃)は、黒曜石で作った石器や金属製の装身具の交易で栄え、神殿のような宗教施設を備えていた集落です。なお、食物を煮炊きするために必要な土器については、現在知られる限り最も古いものは、中国の仙人洞遺跡で見つかった約2万年前の土器です。日本列島の縄文土器も最古級の土器の一つであり、土器はその後、インド、西アジア、ヨーロッパ、アメリカ大陸でも、それぞれ独自に現れ、人類の生活を大きく向上させました。
こうして、氷期の終わりから数千年の間に、人類の暮らしの土台は大きく組み替えられました。ただし、その歩調は地域によって大きく異なります。農耕が早く始まった地域もあれば、豊かな自然環境に恵まれて狩猟採集を長く続けた地域もありました。どちらが進んでいて、どちらが遅れているという物差しで測ることはできません。それぞれの環境への適応の形が違うだけなのです。次の節では、この変化の行き着いた先、すなわち国家と文明の誕生を見ていきます。
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