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航海法とは わかりやすい世界史用語2706
著作名: ピアソラ
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航海法とは

1651年10月にイングランド共和国議会によって制定された航海法は、イングランドの海洋貿易と国家の富を、増大し続ける外国、特にオランダ共和国の競争から守り、自国の海運業と商業的利益を体系的に育成することを目的とした、画期的な法律でした。この法律は、単なる一つの通商規制にとどまらず、重商主義として知られる経済思想を国家政策として明確に打ち出した、イングランドの歴史における重要な転換点を示すものです。その条文は、イングランドとその植民地の貿易からオランダの中継貿易船を締め出すことを直接の狙いとしており、この露骨な経済的挑戦は、必然的に両国の関係を悪化させ、翌年に勃発する第一次英蘭戦争の直接的な引き金となりました。
この法律が制定された背景には、17世紀半ばのヨーロッパにおける経済的・政治的な大きな地殻変動がありました。三十年戦争が終結し、ヨーロッパの国際秩序が再編される中で、オランダは、その巨大な商船隊、効率的な海運システム、そしてアムステルダムを中心とする高度な金融ネットワークを武器に、世界の海洋貿易の覇権を握っていました。彼らは「世界の運送屋」として、ヨーロッパ各地、アジア、そして新大陸アメリカの間の商品を運び、中継貿易によって莫大な利益を上げていました。
一方、イングランドは、内戦の混乱からようやく抜け出し、オリバー=クロムウェルを中心とする強力な中央集権的政府の下で、国家の再建と国力の増強を急いでいました。新しい共和国政府は、国家の強さは、貿易黒字を通じて蓄積される金銀(正貨)の量に依存するという重商主義の考え方に強く影響されていました。彼らの目には、イングランドの富が、オランダの船によって吸い上げられているように映りました。イングランドの植民地で生産されたタバコや砂糖が、オランダ船によってヨーロッパ大陸へ運ばれ、その利益がオランダ商人の懐に入ること。また、イングランドが必要とするバルト海沿岸の木材や海軍物資が、オランダ船を介して輸入されることで、余分なコストがかかり、国家の安全保障が他国に依存する形になっていること。これらの状況は、国家の経済的自立と海軍力の強化を目指す共和国政府にとって、到底容認できるものではありませんでした。
1651年の航海法は、このような状況を打破するための、直接的かつ強力な手段でした。その核心は、イングランドとその植民地への輸入を、イングランド船、または商品の原産国の船に限定するという、単純明快な原則にあります。これにより、中継貿易を主たる事業とするオランダ船は、イングランドの貿易ルートから合法的に排除されることになりました。この法律は、イングランドの商人や船主にとっては、国内市場と植民地市場を独占する機会を与える保護主義的な政策であり、イングランドの造船業や船員の育成を促進し、ひいては海軍力の強化に繋がるものと期待されました。
しかし、この一方的な措置は、自由貿易を国是とし、その繁栄を中継貿易に大きく依存していたオランダにとって、死活問題でした。オランダは、外交交渉を通じてこの法律の撤回を試みましたが、イングランドの強硬な態度の前に失敗に終わります。経済的な対立は、やがて海上での小競り合いへと発展し、1652年、ついに両国は全面的な戦争状態に突入しました。
したがって、1651年の航海法は、17世紀のイングランドが、商業的・海洋的な覇権を確立するために、いかにして国家の立法権を行使したかを示す象徴的な事例です。それは、イングランドの経済政策の方向性を決定づけ、その後の大英帝国の商業的基盤を築く第一歩となると同時に、17世紀後半を通じて続くことになる、イングランドとオランダの間の熾烈な商業的・軍事的競争の時代の幕開けを告げるものでした。



重商主義の台頭とオランダの覇権

1651年の航海法を理解するためには、その背景にある17世紀ヨーロッパの経済思想と国際的な商業環境を把握することが不可欠です。この時代は、重商主義として知られる経済哲学が各国の政策決定に強い影響を与え始めた時期であり、同時に、オランダ共和国がその経済力と海運力で世界の貿易を席巻していた「黄金時代」の頂点にありました。航海法は、まさにこの二つの大きな潮流が交差する点で生まれた、イングランドによる国家的な挑戦状だったのです。
重商主義の基本理念

重商主義は、16世紀から18世紀にかけてヨーロッパの主要国で支配的だった経済思想であり、国家の富と権力は、国が保有する金銀(正貨、地金)の量によって決まるとする考え方です。これは、世界の富の総量は固定的であり、一国が豊かになるためには、他国から富を奪わなければならないという、ゼロサムゲーム的な世界観に基づいていました。
この思想の下で、国家は、輸出を最大限に奨励し、輸入を可能な限り抑制することによって、貿易黒字を生み出し、国外から金銀を流入させることを目指しました。そのための具体的な政策として、以下のような手段が講じられました。
まず、国内産業を保護・育成するために、輸入品に対して高い関税を課したり、輸入そのものを禁止したりしました。これにより、国内の生産者は外国製品との競争から守られ、国内市場での優位性を確保できました。
次に、自国の製品を海外市場で有利に販売するため、輸出に対しては補助金(奨励金)を与えました。また、国内の原材料が外国の競争相手に渡らないよう、その輸出を禁止することもありました。
そして、植民地の獲得と管理が極めて重要な役割を果たしました。植民地は、本国が必要とする原材料(木材、綿花、砂糖、タバコなど)を安価に供給する供給源であると同時に、本国が生産した工業製品を売りつけるための、独占的な市場と見なされました。植民地が本国以外の国と直接貿易することは、本国の利益を損なう行為として、厳しく制限されました。
さらに、海運業の育成も重商主義政策の柱の一つでした。自国の商船隊を持つことは、貿易の利益を外国の船会社に奪われないようにするためだけでなく、戦時において海軍に転用できる船と船員を確保するという、国家安全保障上の観点からも不可欠でした。航海法は、まさにこの重商主義的な海運政策の典型例と言えます。
オランダの商業的優位性

17世紀半ば、重商主義的な観点から見て、イングランドにとって最大の脅威であり、競争相手であったのが、オランダ共和国(ネーデルラント連邦共和国)でした。八十年戦争を経てスペインから事実上の独立を勝ち取ったオランダは、驚異的な経済的繁栄を遂げ、「オランダの奇跡」と呼ばれるほどの黄金時代を謳歌していました。
その繁栄を支えていたのが、圧倒的な海運力です。オランダは、ヨーロッパ全体の商船の総トン数の半分以上を保有していると推定されていました。その力の源泉は、「フリュート船」として知られる、革新的な設計の貨物船にありました。フリュート船は、武装を最小限に抑え、船体の構造を単純化することで、建造コストを大幅に削減し、より多くの貨物を積載できるように設計されていました。また、帆装の改良により、従来の船よりも少ない船員で運航することが可能でした。これにより、オランダは他国のどの船会社よりも安い運賃で貨物を運ぶことができ、圧倒的な価格競争力を誇っていました。
この安価な輸送力を武器に、オランダはヨーロッパ中の中継貿易を支配しました。例えば、彼らはバルト海沿岸から穀物や木材を輸入し、それを南ヨーロッパのスペインやポルトガルへ運び、そこからワインや塩を北へ運ぶといった三角貿易を行いました。また、フランスのワイン、イギリスの毛織物、アジアの香辛料、そしてアメリカ大陸のタバコや砂糖など、ありとあらゆる商品が、アムステルダムの港を経由して世界中に再分配されていきました。アムステルダムは、世界初の中央銀行であるアムステルダム銀行や、世界初の株式会社であるオランダ東インド会社(VOC)を擁する、世界最大の貿易・金融センターとして君臨していました。
イングランドの焦燥

このようなオランダの商業的覇権は、イングランドの商人や政治家たちにとって、大きな脅威であり、嫉妬の対象でした。イングランドの貿易もまた、オランダの海運力に深く依存していました。イングランドの輸出品である毛織物は、しばしばオランダ船によってヨーロッパ大陸へ運ばれ、オランダの仕上げ加工業者によって製品化された後に販売されていました。また、イングランド海軍の生命線である、マスト用の木材、タール、ピッチ、帆布といった海軍物資の多くも、オランダ船によるバルト海からの中継貿易に頼っていました。
重商主義者の目には、これはイングランドの富が不当にオランダに流出していることを意味しました。イングランドの植民地であるバージニアやバルバドスでさえ、オランダ商人がイングランド商人よりも良い条件で商品を取引し、タバコや砂糖を直接ヨーロッパ大陸へ運び去っていました。これは、植民地が本国のために存在するべきだという重商主義の原則に真っ向から反するものでした。
イングランド内戦中、王党派と議会派の対立に乗じて、オランダはこの貿易をさらに拡大させました。内戦が終結し、強力な共和国政府が樹立されると、この状況を是正し、イングランドの商業的利益を自らの手に取り戻そうという機運が急速に高まりました。1651年の航海法は、このような経済的なナショナリズムと、オランダへの対抗意識が生み出した、必然的な帰結だったのです。それは、イングランドが自国の経済的運命を自らコントロールし、オランダが支配する既存の国際貿易秩序に、力ずくで挑戦するという、明確な意思表示でした。
航海法の具体的な内容

1651年10月9日にイングランド共和国議会で可決されたこの法律は、正式名称を「この国家の海運の増強と航海の奨励のための法律」と言います。その条文は、イングランドの貿易における自国の優位性を確立し、外国、特にオランダの中継貿易業者を排除することを目的として、慎重かつ網羅的に構成されていました。法律の核心部分は、イングランドとその植民地に関わる商品の輸送を、特定の船に限定するという、一連の規制から成り立っています。
アジア・アフリカ・アメリカからの輸入規制

この法律の最も重要な条項の一つが、イングランドの海外植民地を含む、アジア、アフリカ、アメリカ大陸で生産、生育、製造された商品の輸入に関する規制です。
法律は、これらの大陸からのいかなる商品も、イングランド、アイルランド、またはイングランドの植民地(プランテーション)に輸入される際には、必ずイングランド人が所有し、船長および船員の過半数がイングランド人である船によって運ばれなければならない、と定めました。
この条項の狙いは明白でした。それは、新大陸の植民地(バージニアのタバコ、バルバドスの砂糖など)や、アジア(東インド会社の扱う香辛料など)との長距離貿易から、オランダ船を完全に締め出すことにありました。これまで、特にイングランド内戦の混乱期には、オランダの商船がイングランドの植民地と直接貿易を行い、その産品をヨーロッパ大陸の市場へ直接運ぶことで大きな利益を上げていました。この法律は、そのような「抜け道」を塞ぎ、植民地の産品が必ずイングランド本国を経由し、イングランドの船と商人によって扱われることを保証しようとしたのです。これにより、植民地貿易から得られる利益(関税収入、商人の利益、運送費など)のすべてが、イングランドの経済圏内に留まることになりました。
ヨーロッパからの輸入規制

ヨーロッパからの商品の輸入に関しても、同様に厳しい規制が設けられましたが、その内容はより複雑でした。
法律は、ヨーロッパで生産、生育、製造された商品をイングランド、アイルランド、またはイングランドの植民地に輸入する場合、その船は、イングランド船であるか、あるいはその商品が最初に生産または製造された国の船でなければならない、と規定しました。
この条項は、オランダの中継貿易の心臓部を直接攻撃するものでした。例えば、フランスで生産されたワインをイングランドに輸入する場合、これまでは運賃の安いオランダ船がその輸送を担うことが多くありました。しかし、この法律の下では、フランスワインの輸入は、イングランド船かフランス船にしか許可されなくなりました。オランダはワインを生産していないため、オランダ船がフランスワインをイングランドに運ぶことは、違法となったのです。同様に、バルト海沿岸のポーランドやロシアで産出される木材や穀物も、イングランド船か、ポーランド船、ロシア船でしか運べなくなりました。
さらに、この法律は、特定の戦略物資に関して、より厳しい制限を加えました。特に、ロシアとオスマン帝国で生産される特定の商品(ロシア産のキャビアや海軍物資など)については、イングランド船によって、かつ生産地から直接輸入されなければならない、と定められました。これは、第三国を経由した輸入を完全に禁止するもので、オランダの港(アムステルダムなど)を経由してこれらの商品がイングランドに入ってくることを防ぐための措置でした。
また、塩漬け魚の輸入と輸出も、イングランド船に限定されました。これは、オランダの強力なニシン漁業と競合する、イングランドの漁業を保護するための重要な条項でした。
沿岸貿易の独占

航海法は、イングランドの沿岸貿易(一つのイングランドの港から別の港へ商品を運ぶ貿易)を、完全にイングランド船に独占させることを定めました。いかなる外国船も、イングランドの沿岸貿易に従事することは禁じられました。これは、国内の海運市場を外国との競争から完全に保護し、イングランドの船主と船員に安定した仕事を提供するための措置でした。
法律の施行と罰則

この法律の実効性を確保するため、違反者には厳しい罰則が科されました。航海法に違反して商品を輸入した船は、その船体、備品、そして積荷のすべてが没収されることになっていました。没収された財産の半分は国家(共和国)の収入となり、残りの半分は、違反を告発し、差し押さえを実行した者に与えられました。この「報奨金」制度は、税関職員だけでなく、一般市民や私掠船の船長などが、積極的に違反船の捜索と拿捕を行うインセンティブとなり、法律の執行をより確実なものにしました。
このように、1651年の航海法は、イングランドの貿易のあらゆる側面に網をかけ、そこから外国の仲介者を排除し、すべての利益をイングランドの国家、商人、そして船主の手に集中させることを目指した、包括的かつ徹底した重商主義的な立法でした。その条文の隅々にまで、最大のライバルであるオランダの商業的影響力を削ぎ、自国の経済的・軍事的基盤を強化しようとする、イングランド共和国の強い意志が表れていました。
第一次英蘭戦争への道

1651年の航海法の制定は、イングランドとオランダ共和国という、二つのプロテスタント海洋国家の関係を決定的に悪化させ、避けられない対決へと導きました。この法律は、オランダの経済的繁栄の根幹である自由貿易と中継貿易の原則に対する、イングランドからの正面攻撃に他なりませんでした。経済的な対立は、外交交渉の決裂を経て、やがて武力衝突へとエスカレートし、第一次英蘭戦争(1652–1654)の勃発に至ります。
外交交渉の失敗

航海法が制定される直前の1651年初頭、イングランド共和国は、オランダに対して、より野心的な提案を持ちかけていました。オリバー=シンジョンとウォルター=ストリックランドを大使とする使節団をハーグに派遣し、両共和国が政治的・経済的に連合し、一つの強力なプロテスタント共和国を形成することを提案したのです。この提案の背後には、カトリック勢力に対抗するという宗教的な理想と共に、オランダの巨大な商業的・金融的資産をイングランドの支配下に置こうという、現実的な計算がありました。
しかし、オランダ側は、この提案を事実上の国家併合の試みであると見なし、警戒しました。当時、オランダは八十年戦争を終結させたばかりで、その独立と主権を何よりも重んじていました。また、商業的に世界をリードするオランダにとって、内戦で疲弊したイングランドと連合する経済的なメリットはほとんどありませんでした。交渉は難航し、イングランド使節団は侮辱的な扱いを受ける場面もありました。結局、この野心的な連合案は、オランダ側の冷淡な反応の前に、完全に失敗に終わりました。
この外交的な屈辱は、イングランド議会内の反オランダ感情を一層煽ることになりました。連合の提案が拒絶された今、イングランドは、外交ではなく、経済的な圧力によってオランダに対抗する道を選びます。その直接的な結果が、1651年10月の航海法の制定でした。
航海法のニュースがオランダに伝わると、オランダ政府は深刻な懸念を抱きました。彼らは、この法律が自国の海運業と貿易に与える壊滅的な影響を正確に理解していました。オランダは、再び大使をロンドンに派遣し、この法律の撤回または適用除外を求めて、イングランド政府との交渉を試みました。しかし、イングランド側の態度は強硬でした。彼らは、航海法が国内法であり、他国が干渉する問題ではないと主張しました。さらに、交渉の席で、イングランド側は、過去にオランダ東インド会社がアンボイナ事件(1623年)でイングランド商人を虐殺したことへの賠償や、イングランド船に対する敬意の表明(イングランドの旗への敬礼)など、オランダ側が受け入れがたい要求を突きつけました。交渉は完全に行き詰まり、外交的な解決の道は閉ざされました。
海上での緊張の高まり

外交が機能しなくなる一方で、海上での緊張は急速に高まっていきました。航海法に基づき、イングランド海軍や武装した私掠船は、オランダの商船を臨検し、法律に違反していると見なせば、その船と積荷を拿捕し始めました。これに対し、オランダ政府は、自国の商船隊を保護するため、海軍の護衛艦隊を増強して対抗しました。
両国の海軍艦隊が、互いに敵意をむき出しにして、狭いイギリス海峡や北海を航行するようになると、偶発的な衝突の危険性は日に日に増していきました。決定的な事件が起こったのは、1652年5月29日のことでした。ドーバー沖で、イングランドの将軍ロバート=ブレイクが率いる艦隊と、オランダの提督マールテン=トロンプが率いる護衛艦隊が遭遇しました。ブレイクは、古くからの慣習に基づき、トロンプの艦隊に対して、イングランドの主権が及ぶ海域であるとして、イングランドの旗に敬礼(オランダの旗を降ろすこと)を要求しました。トロンプはこれを拒否、あるいは遅延させたとされています。言葉の応酬の後、ブレイクの旗艦が警告の砲撃を行い、これが引き金となって、両艦隊の間で数時間にわたる砲撃戦(グッドウィン=サンズの海戦)が勃発しました。
この事件は、もはや後戻りできない一線でした。両国は互いを侵略者として非難し、宣戦布告の準備を進めました。1652年7月10日、イングランド共和国は、オランダに対して正式に宣戦を布告し、第一次英蘭戦争が始まりました。
この戦争は、特定の領土を争うものではなく、貿易ルートの支配権、海上での優越性、そして重商主義的な経済的利益を巡る、純粋な商業戦争でした。航海法という経済的な武器が、最終的に軍事的な対決を招いたのです。この戦争を通じて、イングランドは、その再建された強力な海軍力を試すことになり、オランダは、その商業的生命線を守るために戦うことを余儀なくされました。航海法は、単なる国内法から、国際紛争の直接的な原因へと姿を変えたのです。
結論

1651年の航海法は、17世紀半ばのイングランド共和国が、自国の経済的運命を自らの手で切り開こうとする、断固たる意志の表明でした。それは、単に特定の輸入品目を規制する法律ではなく、国家の富と権力を増大させるための、包括的な重商主義戦略の核心をなすものでした。この法律は、イングランドの歴史、そしてより広くは大西洋世界の経済史において、いくつかの重要な永続的影響を残しました。
第一に、この法律は、イングランドと最大の商業的ライバルであったオランダ共和国との間の、一連の軍事衝突の直接的な引き金となりました。航海法によって、オランダの中継貿易がイングランドの市場から締め出されたことは、オランダの経済的繁栄に対する深刻な脅威でした。外交交渉の失敗は、必然的に第一次英蘭戦争(1652–1654)へと繋がり、その後も17世紀後半を通じて、両国はさらに二度の戦争(第二次、第三次英蘭戦争)を交えることになります。これらの戦争は、世界の海洋と貿易の覇権を巡る、両国の熾烈な競争の現れでした。長期的には、これらの戦争を通じて、イングランドは海軍力を著しく強化し、徐々にオランダから海上での優位性を奪っていくことになります。
第二に、航海法は、イングランド(後のイギリス)の海運業と造船業の発展に、絶大な推進力を与えました。自国の貿易を自国の船で行うことを強制するこの法律は、イングランドの商人や船主にとって、外国船との競争から保護された、巨大で安定した市場を保証するものでした。これにより、イングランドの商船隊の規模は急速に拡大し、それに伴い、造船所、船員、そして関連産業も大きく成長しました。この強固な海運基盤は、平時においては商業的利益を生み出し、戦時においては強力な海軍を支える人的・物的資源となり、後の大英帝国の海洋支配の礎を築きました。
第三に、航海法は、イングランドとその植民地との関係を根本的に規定し、後の大英帝国の構造を形作りました。この法律によって、植民地は、経済的に完全に本国に従属させられることになりました。植民地の産品は、まずイングランドに運ばれ、そこから再輸出されなければならず、また植民地が必要とする製品は、イングランドから購入することが義務付けられました。このシステムは、本国に莫大な富をもたらしましたが、植民地側にとっては、より有利な条件で取引できる外国市場から締め出され、経済活動の自由を束縛されることを意味しました。この経済的な束縛と不満は、一世紀以上後のアメリカ独立革命の遠因の一つとなっていきます。アメリカの植民地人たちが「代表なくして課税なし」と叫んだとき、その不満の根底には、航海法に象徴される、本国による一方的な経済支配の長い歴史がありました。

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