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鉄騎隊とは わかりやすい世界史用語2696
著作名: ピアソラ
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鉄騎隊とは

イングランド内戦の血と硝煙の中にその名を刻んだ部隊は数多ありますが、オリバー=クロムウェルの「鉄騎隊」ほど神話的な響きを持つ存在は他にありません。その名は単なる騎兵部隊を指す言葉を超え、揺るぎない信仰心、鉄の規律そして戦場における無敵の強さの代名詞となりました。彼らは国王チャールズ1世の軍勢を打ち破りイングランドの運命を変えたニューモデル軍の原型でありその心臓部でした。鉄騎隊の物語は一人の田舎ジェントリであったクロムウェルがいかにしてイングランドで最も強力な軍事指導者へと変貌を遂げたかの物語と分かちがたく結びついています。
内戦当初、議会軍は国王派の洗練された騎兵隊の前に苦戦を強いられていました。クロムウェルはその敗因が兵士たちの精神的な支柱の欠如にあると見抜きます。そして彼は国王派の「名誉の精神」に対抗しうる唯一の力は神への燃えるような信仰心であると確信しました。この信念に基づき彼は全く新しいタイプの兵士たちを集めます。社会的地位や家柄ではなくその敬虔さと戦う意志によって選ばれた独立自営農民や職人たちです。
クロムウェルは彼らに単に剣とピストルの使い方を教えるだけでなく神の言葉によって鍛え上げました。鉄騎隊は厳しい訓練と規律によって統制された戦闘集団であると同時に祈りと詩篇の歌声が響き渡る信仰の共同体でもありました。彼らは自らをこの世の腐敗と戦う「神の兵士」と信じ、その確信が彼らに驚異的な勇気と結束力をもたらしたのです。マーストン・ムーアの荒野で国王軍最強の騎兵を打ち破りネイズビーの戦いで決定的な勝利をもたらした彼らの突撃はイングランドの歴史の流れを変える力となりました。



鉄騎隊の誕生

1642年イングランドが国王派と議会派に分かれて内戦の深淵に陥ったときオリバー=クロムウェルはまだ国政の中心人物ではありませんでした。彼はケンブリッジシャー選出の一介の国会議員であり軍事経験もほとんどない43歳の田舎紳士でした。しかしこの危機的状況が彼の内に眠っていた非凡な軍事的才能と組織能力を呼び覚ますことになります。鉄騎隊の誕生はクロムウェル個人の変貌と議会軍が直面した深刻な課題への答えとして必然的に起こった出来事でした。
内戦初期の議会軍騎兵

内戦が勃発した当初、議会軍の騎兵隊は多くの点で国王軍のそれに見劣りしていました。国王チャールズ1世の下には狩猟や乗馬に親しみ代々武勇を重んじる貴族やジェントリが多く集まりました。彼らは優れた馬術と個人的な勇猛さを誇りその騎兵隊は華やかで士気も高かったのです。特に国王の甥であるカンバーランド公ルパートが率いる騎兵隊はその破壊的な突撃力で恐れられていました。
一方、議会軍の兵士は主に都市の職人、徒弟そして地方のヨーマン(独立自営農民)などより低い社会階層から徴募されていました。彼らは乗馬に不慣れな者が多くその装備もまちまちでした。司令官たち、例えばエセックス伯やマンチェスター伯といった大貴族は国王との全面対決をためらう傾向がありその指導力はしばしば決断力に欠けていました。
1642年10月23日に行われた最初の本格的な会戦であるエッジヒルの戦いは議会軍騎兵の弱点を白日の下に晒しました。この戦いでルパート王子率いる国王軍騎兵は議会軍の騎兵翼に猛突撃をかけこれをたやすく打ち破り敗走させました。しかし勝利に酔ったルパートの騎兵たちは規律を失い敵の追撃や略奪に夢中になるあまり主戦場から離れてしまいます。その間に議会軍の歩兵部隊はなんとか持ちこたえ戦いは決着がつかないまま終わりました。
この戦いに一騎兵大尉として参加していたクロムウェルはこの光景を目の当たりにし二つの重要な教訓を学びました。第一に議会軍の騎兵は精神的な強さと規律が決定的に欠けていること。第二に国王軍の騎兵は勇猛ではあるものの突撃後に統制が効かなくなるという弱点を抱えていること。彼はもし兵士たちが何のために戦うのかを深く理解し神の大義という揺るぎない信念を持つならば国王派の「名誉の精神」に打ち勝つことができると確信しました。そして戦場で厳格な規律を維持できる騎兵隊こそが最終的な勝利の鍵を握ると考えたのです。
クロムウェルによる兵士の徴募

エッジヒルの戦いの後クロムウェルは故郷であるイングランド東部諸州(後に東部連合として知られる議会派の強固な地盤)に戻り自らの理念に基づいた全く新しい騎兵部隊の編成に着手しました。彼は単に頭数を揃えるための徴募を良しとしませんでした。彼が求めたのは単なる傭兵ではなく共に祈り共に戦うことのできる「敬虔な男たち」でした。
クロムウェルは後に同僚のジョン・ハムデンに語ったとされる有名な言葉の中でその方針を明確に示しています。「あなたの部隊はそのほとんどが老朽化した従僕や酒場の給仕、ならず者どもで構成されている。一方、敵の部隊はジェントリの次男や三男たちだ。あなたの部隊の兵士たちが名誉と勇気と決意を持つ者たちと戦うのに魂に何かを感じることができると思うかね? あなたは神の精神を持つ兵士たちを手に入れなければならない。そうでなければあのジェントリたちにいつも打ち負かされることになるだろう」
この言葉通りクロムウェルは兵士の出自や社会的地位を問いませんでした。彼が重視したのはその人物が「正直で敬虔な」人間であるかどうかそして神の大義のために命を懸ける覚悟があるかどうかでした。その結果彼の部隊にはピューリタン信仰に篤い独立自営農民、自由保有農民そして手工業者などが多く集まりました。彼らは自分たちの信仰と自由を守るために自発的に武器を取った人々でした。彼らは国王の専制とクロムウェルが「ローマ教皇派的」と見なした国教会の腐敗からイングランドを救うという聖なる使命感を共有していました。
クロムウェルは兵士たちに高い給料を約束しそれを確実に支払うことで彼らの生活を保障しました。これは給料の未払いが常態化していた当時の軍隊においては画期的なことでした。彼はまた兵士たちの馬や装備にも気を配り常に最高の状態を維持するよう努めました。彼は兵士一人ひとりの人格を尊重し彼らと生活を共にしその悩みや訴えに耳を傾けました。このようなリーダーシップによってクロムウェルと兵士たちの間には単なる上官と部下という関係を超えた深い信頼と忠誠心が育まれていったのです。こうしてクロムウェルの騎兵連隊は信仰によって固く結ばれた一つの戦闘共同体として形成されていきました。
鉄騎隊の理念と組織

クロムウェルの騎兵隊が「鉄騎隊」として恐れられるようになった理由は、その卓越した戦闘能力だけに留まりません。その強さの根源には彼らを精神的に支えた独特の理念とそれを具現化するための厳格な組織構造がありました。鉄騎隊は単なる軍事ユニットではなく宗教的熱意と軍事的効率性が見事に融合した17世紀ヨーロッパにおいて他に類を見ない存在でした。
神の兵士として

鉄騎隊の核心にあったのは彼らが自らを「神の兵士」であると見なす強烈なピューリタン信仰でした。彼らの多くはクロムウェル自身と同じく個人的な回心体験を経て自分が神によって救済される「選ばれた者」であるという確信を持つ独立派(会衆派)に属していました。このカルヴァン主義的な予定説の信仰は彼らに現世の困難や死に対する恐れを超越した精神的な強靭さを与えました。
彼らはイングランド内戦を単なる国王と議会の政治的権力闘争とは捉えていませんでした。彼らの目にはこの戦いが神の真の教会を地上に打ち立てた反キリスト(彼らの考えではローマ・カトリック教会とその影響)の勢力と戦う善と悪の宇宙的な闘争の一部と映っていました。国王チャールズ1世とその支持者たちはカトリック的な儀式を復活させ神の民を迫害する不敬虔な勢力の手先と見なされました。したがって国王軍と戦うことは神から与えられた聖なる義務であり、その戦いにおける勝利は神の意志が自分たちと共にあることの証(摂理の現れ)であると信じられていました。
この強固な信念は鉄騎隊の兵士たちに驚異的な士気と自己犠牲の精神をもたらしました。彼らは戦場で死ぬことを神への殉教とさえ考えました。クロムウェルはこの宗教的熱意を巧みに利用し部隊の結束力を高めました。戦闘の前には部隊全体で祈りが捧げられ詩篇が歌われました。兵士たちは聖書を常に携帯しその教えを日々の行動の指針としました。説教師が部隊に同行し兵士たちの信仰心を鼓舞する説教を行いました。
彼らの信仰はまた厳格な道徳律となって現れました。鉄騎隊の兵営では飲酒、賭博、冒涜的な言葉遣いそして民間人に対する略奪行為は厳しく禁じられていました。これは当時の軍隊がしばしば無法な略奪集団と化していたのとは対照的でした。鉄騎隊の規律の正しさは彼らが駐屯する地域の住民から信頼を得る助けとなり情報や物資の供給においても有利に働きました。彼らは自らが神の軍隊であるという自覚からそれにふさわしい高い道徳基準を自らに課したのです。
規律と訓練

信仰心が鉄騎隊の魂であったとすれば鉄の規律と絶え間ない訓練はその肉体でした。クロムウェルは宗教的熱意だけでは戦争に勝てないことを熟知していました。彼は兵士たちにヨーロッパで最も先進的と考えられていたスウェーデン王グスタフ・アドルフの戦術を取り入れた徹底的な軍事訓練を施しました。
当時の騎兵の一般的な戦術はカラコールと呼ばれるものでした。これは騎兵の列が次々と敵に接近しピストルを発射しては後退し再装填するという比較的安全ですが決定力に欠ける戦法でした。ルパート王子の騎兵隊はこれとは異なり全速力で敵陣に突撃し剣で敵を粉砕するというより攻撃的な戦術を得意としました。しかし前述の通り彼らは一度突撃すると統制が効かなくなるという欠点がありました。
クロムウェルが鉄騎隊に教え込んだ戦術は、この両者の長所を組み合わせ欠点を克服しようとするものでした。鉄騎隊の兵士たちは密集した隊形を維持したまま速いトロット(速歩)で敵に接近するよう訓練されました。彼らは敵の間近までピストルを発射するのを控え突撃の衝撃力を最大化するために剣(ブロードソード)を主要な武器として用いました。
最も重要だったのは突撃後の規律でした。クロムウェルは兵士たちに敵を打ち破った後も深追いせず即座に再集結し次の命令を待つことを徹底的に叩き込みました。この能力こそが鉄騎隊を他のいかなる騎兵部隊とも一線を画すものにしました。彼らは戦況に応じて敗走する敵の追撃、味方歩兵の支援あるいは敵の予備兵力の攻撃など柔軟に任務を転換することができたのです。この戦場での統制能力はマーストン・ムーアやネイズビーといった主要な会戦において決定的な役割を果たすことになります。
訓練は過酷を極めました。兵士たちは個人としての乗馬技術や武器の扱いだけでなく部隊として一糸乱れぬ行動をとるための集団訓練を来る日も来る日も繰り返しました。クロムウェル自身が訓練を監督し模範を示しました。彼は兵士たちが馬を自分の体の一部のように扱い密集隊形の中で自在に動けるようになるまで決して妥協しませんでした。この厳しい訓練とそれを支える信仰心が一体となったとき鉄騎隊はイングランド内戦において最も恐るべき戦闘機械へと変貌を遂げたのです。
戦場での鉄騎隊

理論や訓練がいかに優れていてもその真価は実戦の場でしか証明されません。クロムウェルの鉄騎隊はイングランド東部の小競り合いから内戦の帰趨を決する大会戦に至るまで数々の戦場でその名を轟かせました。彼らの戦いぶりは敵に恐怖を与え味方を鼓舞しやがて伝説となりました。特にマーストン・ムーアの戦いは鉄騎隊の名を不滅のものにした戦場でした。
初期の戦闘と名声の確立

鉄騎隊がその実力を最初に示したのは1643年のイングランド東部における一連の戦闘でした。当時クロムウェルはまだ大佐であり東部連合軍の一部隊を指揮していました。この地域は議会派の重要な穀倉地帯であり国王派はリンカンシャー方面からこの地域への圧力を強めていました。
1643年5月13日グランサム近くでクロムウェル率いる約12個中隊の騎兵隊は自軍の倍の規模を持つ国王軍の騎兵部隊と遭遇しました。数的に不利な状況にもかかわらずクロムウェルはためらうことなく攻撃を命じました。鉄騎隊は詩篇を歌いながら密集隊形を保ち速歩で敵に接近。敵の間近で一斉に突撃をかけると国王軍は混乱に陥りたちまち敗走しました。この小規模ながらも鮮やかな勝利はクロムウェルの騎兵隊の規律と衝撃力を示す最初の証となりました。
同年7月28日のゲインズバラの戦いでは鉄騎隊はさらに目覚ましい活躍を見せます。この戦いでクロムウェルはチャールズ・キャヴェンディッシュ率いる国王軍の精鋭騎兵部隊と対峙しました。クロムウェルは一部の部隊を予備として温存しつつ主力で敵に突撃をかけこれを撃破しました。しかし敵を追撃する中で彼はキャヴェンディッシュの予備部隊が反撃の態勢を整えているのを発見します。クロムウェルは追撃中の部隊を即座に呼び戻して再編成するとこの予備部隊に側面から攻撃を仕掛けこれを完全に打ち破りました。キャヴェンディッシュ自身もこの戦闘で戦死しました。この戦いはクロムウェルが持つ卓越した戦場での統率力と突撃後に部隊を再集結させるという鉄騎隊の能力がいかに重要であるかを明確に示しました。
これらの勝利を通じてクロムウェルの騎兵隊は「無敵」であるという評判を確立し始めました。そして1643年10月のウィンスビーの戦いで彼らは東部連合軍の主力としてニューカッスル侯の国王軍を壊滅させる上で決定的な役割を果たしました。この勝利によりリンカンシャーの大部分は議会派の支配下に入り東部連合の安全は確保されました。この頃から彼らの勇猛さと堅固さを称え敵である国王派のルパート王子がクロムウェル自身を「オールド・アイアンサイズ(古き鉄兜)」と呼びやがてその部隊全体が「アイアンサイズ(鉄騎隊)」という名で知られるようになったと言われています。
マーストン・ムーアの戦い

鉄騎隊の名声をイングランド全土そして歴史に刻みつけたのが1644年7月2日のマーストン・ムーアの戦いでした。これはイングランド内戦における最大規模の戦闘であり、ヨーク近郊の荒野で約2万8000人の議会軍・スコットランド連合軍と約1万8000人の国王軍が激突しました。
この戦いで中将に昇進していたクロムウェルは東部連合の騎兵約3000騎(鉄騎隊)を率い、連合軍の左翼を指揮しました。彼の正面には宿敵ともいえるルパート王子が率いる国王軍最強の騎兵部隊が布陣していました。イングランド最強と謳われる二つの騎兵部隊の直接対決は戦いの行方を占う上で最大の焦点でした。
夕刻、雷雨が戦場を濡らす中、連合軍は奇襲的に攻撃を開始しました。クロムウェルは鉄騎隊を率いてルパートの部隊に猛然と突撃しました。両軍の精鋭騎兵が正面から激突し戦場は凄まじい白兵戦の様相を呈しました。剣とピストルが火花を散らし人馬の叫びが轟きました。この激戦の最中クロムウェル自身も首を負傷しますが彼の兵士たちは一歩も引きませんでした。数で勝る鉄騎隊は徐々にルパートの部隊を押し込みついにこれを打ち破って敗走させました。
しかしクロムウェルが左翼で勝利を収めている間に戦場の他の場所では連合軍は危機に瀕していました。連合軍の右翼はゴーリング卿率いる国王軍騎兵に撃破され中央の歩兵部隊もニューカッスル侯の精鋭歩兵「ホワイトコーツ」の猛攻を受けて崩壊寸前でした。連合軍の司令官たちはすでに敗北を覚悟して戦場から離脱し始めていました。
この絶望的な状況を覆したのがクロムウェルと鉄騎隊でした。ルパートを打ち破ったクロムウェルは敵の追撃に深入りするという誘惑を断ち切り、彼の部隊を驚くべき速さで再集結させました。そして戦況全体を見渡した彼は大胆な決断を下します。彼は鉄騎隊を率いて戦場を大きく迂回し連合軍右翼を破って勢いに乗るゴーリングの騎兵隊の背後を突いたのです。不意を突かれたゴーリングの部隊は混乱に陥り撃退されました。
これで戦場の主導権は完全に連合軍の手に戻りました。クロムウェルは休むことなく部隊を再び転回させ今度は頑強に抵抗を続けていた国王軍中央の歩兵部隊に背後から襲いかかりました。スコットランド軍の歩兵と鉄騎隊による挟み撃ちに遭った国王軍歩兵はもはやなすすべもなく壊滅しました。ニューカッスル侯のホワイトコーツは最後まで抵抗しそのほとんどが戦死したと伝えられています。
マーストン・ムーアの戦いは議会派の圧倒的な勝利に終わりました。この勝利はクロムウェルの卓越した戦術眼と何よりも激戦の後でも指揮官の命令一下で完全に統制された行動をとることができた鉄騎隊の規律の賜物でした。この戦いの後クロムウェルはもはや単なる有能な騎兵指揮官ではなくイングランドで最も優れた軍人であると誰もが認めざるを得なくなりました。そして鉄騎隊はその無敵の強さと規律を象徴する伝説の部隊となったのです。
ニューモデル軍への昇華

マーストン・ムーアでの輝かしい勝利は鉄騎隊とクロムウェルの名声を頂点に押し上げました。しかしそれは同時に議会軍が抱える根本的な問題を浮き彫りにする結果ともなりました。戦争指導部内の対立と戦略の欠如が最終的な勝利を妨げていることは明らかでした。この状況を打破するためクロムウェルは軍全体の抜本的な改革を主導します。その結果として誕生したのが鉄騎隊を理想的なモデルとしたイングランド初の国民的常備軍「ニューモデル軍」でした。鉄騎隊はその一部隊としての歴史を終え、より大きな組織の魂として昇華していくことになります。
議会軍の改革と辞退条例

マーストン・ムーアの勝利にもかかわらず1644年の戦局は議会派にとって必ずしも有利に進んだわけではありませんでした。南西部ではエセックス伯の主力軍がロストウィシエルで国王軍に包囲され降伏するという大敗を喫しました。さらに同年10月の第二次ニューベリーの戦いでは数的に優位な議会軍がまたしても指導部の不決断と連携の欠如により決定的な勝利を逃してしまいます。
この戦いの後クロムウェルと彼の司令官であったマンチェスター伯との間の対立は公然たるものとなりました。クロムウェルは議会においてマンチェスター伯が意図的に戦争を長引かせていると痛烈に非難しました。「もし我々がこのように戦い続けるなら戦争は100年でも終わらないだろう」と彼は訴えました。マンチェスター伯のような貴族出身の司令官たちは社会秩序の完全な崩壊を恐れ国王との妥協による和平を望んでいました。彼らにとってクロムウェルのような国王との全面対決と完全な勝利を求める人物は危険な急進派に映ったのです。
この対立は議会派内部の「和平派」(主に長老派)と「主戦派」(主に独立派)の分裂を象徴していました。クロムウェルは、この問題を解決し戦争を効率的に遂行するためには軍の指揮系統から政治家、特に貴族を排除し純粋に軍事的な能力に基づいて指導者を選ぶべきだと考えました。
この考えから生まれたのが1645年初頭に議会で可決された「辞退条例」です。これは上院・下院の議員が軍の指揮官職を兼任することを禁じるという画期的な条例でした。これによりエセックス伯やマンチェスター伯といった貴族司令官は自動的にその地位を失うことになりました。これは軍の指揮権を伝統的な社会階層ではなく実力を持つ専門の軍人に委ねるという軍事における革命でした。クロムウェル自身も下院議員であったため本来ならばこの条例によって指揮権を放棄する必要がありましたが彼の軍事的才能はもはや議会軍にとって不可欠でした。総司令官に任命されたトーマス・フェアファクス卿の強い要請により彼は特例として期間限定で騎兵担当副司令官の地位に留まることが認められました。
鉄騎隊からニューモデル軍へ

辞退条例と並行して進められたのがニューモデル軍の創設でした。これはそれまで各地に散在していたエセックス伯、マンチェスター伯、ウォラー卿の軍隊を解体・統合し議会が直接管理する単一で統一された全国的な軍隊を創設するという計画でした。
この新しい軍隊、ニューモデル軍は多くの点でクロムウェルの鉄騎隊をモデルとしていました。
第一に兵士は全国から徴募され地方的な忠誠心から切り離された国家の軍隊として組織されました。
第二に将校の登用は家柄や富ではなくその軍事的な能力と経験に基づいて行われました。これにより多くのたたき上げの有能な軍人が指導的な地位に就きました。
第三に兵士には議会から定期的に給料が支払われ装備も標準化されました。これにより士気と規律の維持が容易になりました。
そして第四に最も重要なこととして鉄騎隊の精神、すなわち宗教的熱意と厳格な規律がニューモデル軍全体に浸透されることが目指されました。兵士たちの間ではピューリタン信仰が奨励され多くの独立派の説教師が軍に同行しました。
ニューモデル軍は総勢約2万2000人。トーマス・フェアファクス卿が総司令官、フィリップ・スキッポンが歩兵隊司令官そして特例措置が延長されたクロムウェルが騎兵隊司令官(副司令官)を務めました。クロムウェルが率いた鉄騎隊の兵士たちはこの新しい軍の中核をなす騎兵連隊に再編されその模範的な規律と戦闘精神を軍全体に広める役割を担いました。鉄騎隊という特定の一部隊はここでニューモデル軍というより大きな組織の中に溶け込みその精神的な支柱となったのです。
この新しい軍隊は創設後すぐにその真価を発揮します。1645年6月14日のネイズビーの戦いでニューモデル軍は国王軍の主力を相手に決定的な勝利を収めました。この戦いでもクロムウェル率いる騎兵隊はマーストン・ムーアと同様に敵の右翼を打ち破った後、規律を保って再集結し苦戦する味方の中央と左翼を支援するという決定的な役割を果たしました。ネイズビーの勝利は第一次内戦の帰趨を事実上決定づけニューモデル軍が鉄騎隊の理念を受け継いだ恐るべき戦闘機械であることを証明しました。鉄騎隊はもはやクロムウェル個人の部隊ではなくイングランドの運命を左右する国家の軍隊の魂としてその歴史的な使命を果たしたのです。

クロムウェルの鉄騎隊はイングランド内戦という激動の時代に現れた束の間のしかし強烈な光を放った存在でした。彼らは単なる騎兵部隊ではなく17世紀のイングランドが生み出した信仰と武力が融合した特異な現象でした。その歴史はわずか数年でしたが彼らがイングランド史に残した影響は計り知れません。
鉄騎隊の物語はまず何よりも信仰が持つ恐るべき力を示しています。彼らの無敵の強さは最新の戦術や厳しい訓練だけに由来するものではありませんでした。その根底には自らを神の正義を実行するための道具と信じる揺るぎないピューリタン信仰がありました。この確信が彼らに死をも恐れぬ勇気と鉄の規律を遵守する精神的な強さを与えました。彼らの戦場での姿は宗教的熱意がいかにして強力な軍事力へと転化しうるかを示す歴史的な実例です。
次に鉄騎隊は近代的な軍隊の原則を先取りしていました。クロムウェルは兵士の登用において家柄ではなく能力と意志を重んじました。彼は兵士に安定した給与と優れた装備を与えその人格を尊重することで高い士気を維持しました。そして戦場では個人の勇猛さだけでなく部隊としての厳格な規律と統制を何よりも重視しました。これらの原則は鉄騎隊をモデルとして創設されたニューモデル軍に受け継がれその後のヨーロッパにおける軍隊組織の発展に大きな影響を与えることになります。実力主義、中央集権的な管理そして規律の重視という彼らが示した特徴は近代国民軍の原型ともいえるものでした。
そして最後に鉄騎隊の遺産はニューモデル軍へと昇華しイングランドの政治体制そのものを変革する力となりました。鉄騎隊の精神を受け継いだニューモデル軍は単に国王軍を打ち破っただけではありませんでした。彼らはやがて自らの政治的な意思を持つ勢力として議会と対立し国王を裁判にかけて処刑しイングランドを共和政へと導くという前代未聞の革命の原動力となったのです。鉄騎隊として始まった軍事革命は最終的に政治革命へと発展しました。
鉄騎隊という名はマーストン・ムーアの戦場で敵将が与えたとされる異名に過ぎません。しかしそれは信仰に燃え規律に厳しく戦場では無敵であったオリバー=クロムウェルとその兵士たちの姿を歴史の中に永遠に刻みつける言葉となりました。彼らは一人の男のビジョンとそれに共鳴した名もなき兵士たちの信仰心が、いかにして歴史を動かしうるかを雄弁に物語っているのです。

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