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バタヴィアとは わかりやすい世界史用語2671 |
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著作名:
ピアソラ
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バタヴィアとは
17世紀という時代は、ヨーロッパ諸国が世界の海へと乗り出し、遠い異国の富を求めて競い合った大航海時代の頂点でした。その激しい競争の渦中にあって、アジアの香辛料貿易を掌握し、巨大な商業帝国を築き上げたのがオランダ東インド会社、通称VOCです。そして、その広大なアジア交易網の神経中枢として、またオランダの権力と富の象徴として、ジャワ島の北岸に君臨した都市こそがバタヴィアでした。現代のジャカルタの前身であるこの都市は、単なる貿易拠点ではありません。それは、ヨーロッパの野心とアジアの現実が交錯し、多様な民族と文化が混じり合い、富と暴力、秩序と混沌が隣り合わせに存在する、複雑でダイナミックな世界でした。
「東洋の女王」と讃えられたバタヴィアの壮麗な運河網と切妻屋根の家々は、遠く離れた母国アムステルダムを模して造られました。しかし、その整然としたファサードの裏側では、熱帯の厳しい気候、未知の病、そして絶え間ない権力闘争が渦巻いていました。VOCの役人、兵士、商人たち。故郷を追われた中国人移民、ジャワ人、バリ人、アンボン人、そして遠くインドやアフリカから連れてこられた奴隷たち。バタヴィアは、これらの多様な人々がそれぞれの思惑を抱えながら共存する、多民族=多文化社会の実験場でもありました。
この都市の物語は、香辛料という小さな種子を巡る壮大な経済ドラマです。ナツメグ、クローブ、胡椒といった、当時のヨーロッパでは金と同等の価値を持った産物が、バタヴィアの倉庫に集められ、巨大な帆船に積み込まれていきました。その富はVOCに莫大な利益をもたらし、オランダの「黄金時代」を支える礎となったのです。しかし、その繁栄は、しばしば容赦のない暴力と搾取の上に成り立っていました。香辛料諸島での独占を維持するための軍事行動、現地住民への過酷な支配、そして都市内部における厳格な社会階層。バタヴィアの光と影は、まさに表裏一体でした。
誕生
17世紀初頭のジャワ島北岸、チリウン川の河口に位置する港町ジャヤカルタは、バンテン王国に属する小さな交易拠点でした。胡椒をはじめとする地域の産物が集まり、ポルトガル人、中国人、そして1611年からはオランダ東インド会社(VOC)も商館を構えるなど、国際色豊かな場所でした。しかし、この穏やかな港町が、やがてアジアにおけるオランダの覇権を象徴する巨大都市へと変貌を遂げることになります。その劇的な変化の立役者こそ、VOCの第4代総督、ヤン=ピーテルスゾーン=クーンでした。
クーンは、冷徹なリアリストであり、野心的な帝国建設者でした。彼は、アジアにおけるオランダの商業的利益を確固たるものにするためには、単なる商館のネットワークでは不十分であり、強力な軍事力と行政機能を備えた中央拠点、すなわち「ランデブー」が必要不可欠であると考えていました。アジアのどこかに、VOCの艦隊が集結し、商品を保管し、そしてアジア全域の交易活動を指揮する司令塔を建設すること。それが彼の壮大な構想でした。
その候補地として、クーンが白羽の矢を立てたのがジャヤカルタでした。この場所は、マラッカ海峡とスンダ海峡という、東西の海上交通の要衝を占める戦略的な位置にありました。また、豊富な木材や水といった資源にも恵まれていました。しかし、ジャヤカルタの支配者であるパンゲラン(王子)や、隣接する強大なバンテン王国、そして同じくこの地での影響力拡大を狙うイギリス東インド会社は、クーンの野望にとって大きな障害でした。
事態が動き出したのは1618年です。VOCとイギリスとの間の緊張が高まり、ジャヤカルタの支配者もオランダに対して敵対的な態度を見せ始めました。クーンは、この状況を好機と捉えます。彼は、VOCの商館を要塞化し、防備を固めました。これに対して、ジャヤカルタとイギリスの連合軍がVOCの要塞を包囲し、激しい戦闘が勃発します。一時は絶体絶命の危機に陥ったオランダ側でしたが、クーンはモルッカ諸島から援軍を率いて帰還し、形勢を逆転させます。
1619年5月30日、クーンの指揮するVOC軍は、ジャヤカルタの町に総攻撃をかけ、これを完全に破壊、焼き払いました。彼は、この焼け跡の上に、オランダの支配を永遠に刻みつける新たな都市を建設することを決意します。当初、クーンはこの新しい都市を「ニーウ=ホールン(新しいホールン)」と名付けようとしました。ホールンは彼の故郷の町でした。しかし、VOCの本国における最高意思決定機関である17人会は、オランダ人の祖先とされる古代ゲルマンの一部族「バターウィー族」にちなんで、「バタヴィア」と命名することを決定しました。これは、この新しい都市が、古代ローマに反旗を翻したバターウィー族の独立心と勇気を受け継ぐ、オランダの新たな拠点であることを象徴する名前でした。
こうして、ジャヤカルタの灰の中から、バタヴィアが誕生しました。その誕生は、平和的な建設ではなく、暴力的な征服と破壊の産物でした。クーンは、バタヴィアを単なる貿易港ではなく、アジアにおけるオランダ帝国の首都と位置づけました。彼は書簡の中で、「我々は今や、インドにおけるオランダ国家の首都の基礎を築いた」と誇らしげに記しています。このクーンの冷徹な決断と行動力が、その後の300年以上にわたるオランダによるインドネシア支配の礎を築き、バタヴィアを「東洋の女王」へと押し上げる第一歩となったのです。
都市計画
ヤン=ピーテルスゾーン=クーンによって建設が開始されたバタヴィアは、その都市計画において、明確なモデルを持っていました。それは、母国オランダの首都であり、VOCの本拠地でもあるアムステルダムです。クーンをはじめとするVOCの指導者たちは、遠いアジアの地に、オランダの秩序と合理性、そして繁栄を象徴する理想的な都市を再現しようと試みました。その結果、バタヴィアは、熱帯の風景の中に出現した「水上のアムステルダム」とも言うべき、ユニークな景観を持つことになります。
城壁と城塞
バタヴィアの都市計画の根幹をなしたのは、堅固な防御機能でした。1619年の征服後、まず最初に着手されたのは、都市を囲む城壁と、その北東の角に位置する城塞「カステール=バタヴィア」の建設でした。カステールは、都市の心臓部であり、最後の砦でした。厚い石とサンゴで築かれた壁には、ダイヤモンド、サファイア、ルビー、パールといった宝石の名が付けられた4つの稜堡が備えられ、多数の大砲が据え付けられていました。城内には、総督公邸、高等法院、VOCの主要なオフィス、倉庫、兵舎、そして教会などが配置され、まさにバタヴィアにおける政治=軍事=経済の中枢でした。城壁は都市全体を四角く囲い、外部の敵、特にマタラム王国やバンテン王国からの攻撃に備えるためのものでした。
運河と街路
城壁の内側は、オランダの都市計画の典型である、格子状の街路パターンと運河網によって整然と区画されました。チリウン川から水を引き込み、市内を縦横に走る運河が掘られました。これらの運河は、単なる装飾ではありませんでした。まず、物資の輸送路として重要な役割を果たしました。船着き場からカステール内の倉庫や市内の商家へ、小舟を使って効率的に商品を運ぶことができました。次に、都市の排水システムとしての機能も期待されました。ごみや汚物を水に流し、衛生状態を保つことが目的でした。さらに、運河は都市の景観を美しくし、母国を懐かしむオランダ人たちの心を慰める効果もありました。運河沿いには並木道が整備され、市民の憩いの場ともなりました。
建築
運河沿いに建てられた家々もまた、アムステルダムの風景を彷彿とさせるものでした。裕福なVOCの役人や商人たちは、赤レンガを使い、急勾配の切妻屋根を持つ、間口が狭く奥行きの深い2階建てまたは3階建てのタウンハウスを建設しました。窓はガラスで覆われ、内部はヨーロッパから輸入された家具や絵画で飾られました。これらの建物は、熱帯の気候には必ずしも適していませんでした。風通しが悪く、湿気がこもりやすかったのです。しかし、彼らにとって、オランダ風の家を建てることは、自らの文化的アイデンティティを主張し、アジアの異質な環境の中で「文明的」な生活を維持するための重要な手段でした。バタヴィアの街並みは、オランダの建築様式と都市計画の理念が、熱帯の植民地という新たな文脈に移植された、壮大な実験だったのです。
居住区
都市空間は、民族ごとに居住区が指定される、厳格なゾーニングが行われていました。城壁の内側は、主にヨーロッパ人、特にVOCの職員とその家族が住むエリアでした。カステール周辺の最も安全で快適な地区は、総督をはじめとする最高幹部たちが占有しました。一方、城壁の外側には、中国人、ジャワ人、その他のアジア系住民の居住区(カンポン)が広がっていました。特に中国人コミュニティは、都市の南側に独自の居住区を形成し、商業活動の中心を担っていました。このゾーニングは、治安維持と社会統制を目的としたものであり、バタヴィアが人種に基づいた階層社会であったことを明確に示しています。
このように、17世紀のバタヴィアは、アムステルダムを理想のモデルとしながら、要塞都市としての軍事的な必要性と、多民族を管理するための植民地的な統治理念が色濃く反映された、計画都市でした。整然とした運河と格子状の街路が象徴する秩序と合理性は、VOCがこの地にもたらそうとした支配の姿そのものだったと言えるでしょう。
統治
17世紀のバタヴィアは、オランダ東インド会社(VOC)という、当時としては世界最大かつ最も強力な多国籍企業によって統治されていました。その統治システムは、一企業の経営組織でありながら、国家の行政=司法=軍事機能をすべて包含する、特異なものでした。バタヴィアは、VOCのアジアにおける「本社」であり、その統治機構は、広大な交易網を効率的に管理し、利益を最大化するために、極めて中央集権的かつ階層的に構築されていました。
総督と理事会
バタヴィアにおける統治の頂点に君臨したのは、総督でした。総督は、アジアにおけるVOCの全権を委任された最高責任者であり、行政の長、軍の最高司令官、そして司法の最終決定権者として、絶大な権力を持っていました。ヤン=ピーテルスゾーン=クーンのような強力な総督は、本国の17人会の意向さえも時に無視し、自らの判断で戦争や外交を遂行することができました。総督公邸はカステール=バタヴィアの中心にあり、そこからアジア全域の商館や要塞に指令が発せられました。
しかし、総督の権力は絶対的な独裁ではありませんでした。その権力を補佐し、また時には牽制する機関として、インド理事会が存在しました。インド理事会は、総督を含む数名の上級役員(通常は商務部長、法務部長、財務部長など)で構成され、VOCの重要政策を審議し、決定する役割を担っていました。総督は理事会の議長を務めましたが、重要な決定には理事会の承認が必要でした。この総督とインド理事会の関係は、バタヴィアの統治における中核をなし、両者の協力と対立が、VOCの政策の方向性を左右しました。
司法
VOCは、バタヴィアに独自の司法制度を確立しました。その中心となったのが、高等法院です。高等法院は、インド理事会のメンバーが裁判官を兼任し、VOCの職員が関わる重大な民事=刑事事件を審理しました。ヨーロッパ人に対する法の適用は、オランダ本国の法律に準じていましたが、アジア系住民に対しては、より厳格で、しばしば過酷な判決が下される傾向がありました。
法の執行において重要な役割を果たしたのが、フィスカールと呼ばれる法務官でした。フィスカールは、検察官と警察長官を兼ねたような役職で、犯罪の捜査、容疑者の起訴、そして刑の執行を監督しました。彼らは、密輸や汚職といった、VOCの利益を損なう犯罪を特に厳しく取り締まっていました。拷問が合法的な尋問手段として用いられることもあり、バタヴィアの司法は、秩序維持のためには容赦のない一面を持っていました。
間接統治
VOCは、バタヴィアに住む多様なアジア系住民を直接統治するのではなく、それぞれの民族コミュニティのリーダーを通じて間接的に支配する手法を取りました。特に、都市の経済において重要な役割を担っていた中国人コミュニティに対しては、「カピタン=チナ(甲必丹)」と呼ばれる指導者を任命しました。カピタンは、VOCの当局と中国人コミュニティとの間の仲介役となり、コミュニティ内部の紛争解決、徴税、そしてVOCの法令の伝達などを担当しました。このシステムは、VOCにとって、少ない行政コストで多民族社会を効率的に管理するための、極めてプラグマティックな統治戦略でした。同様の制度は、アラブ人やインド人などのコミュニティにも適用されました。
軍事
バタヴィアの統治システムの根幹を支えていたのは、言うまでもなく強力な軍事力でした。カステール=バタヴィアと市壁には、ヨーロッパ製の最新の大砲が多数配備され、常時、数千人規模の兵士が駐留していました。これらの兵士は、オランダ人だけでなく、ドイツ人、スイス人、スカンジナビア人など、ヨーロッパ各地から集められた傭兵が多数を占めていました。また、日本人傭兵も、その勇猛さから高く評価され、一時期は重要な役割を担っていました。VOCの艦隊は、アジア最強の海軍力であり、バタヴィアを母港として、交易路の保護、海賊の討伐、そしてライバルであるポルトガルやイギリス、さらには現地勢力との戦争を遂行しました。この圧倒的な軍事力が、VOCの商業的独占と政治的支配を保証する、最終的な切り札だったのです。
社会
17世紀のバタヴィアは、その成り立ちからして、極めて多様な人々が集まる多民族都市でした。VOCが築いた城壁の内と外には、異なる言語、宗教、文化を持つ人々が、複雑な関係を取り結びながら暮らしていました。それは、新たな機会を求めて人々が集まる活気に満ちた「るつぼ」であったと同時に、出自と人種によって社会的地位が厳格に定められた、典型的な植民地型の階層社会でもありました。
ヨーロッパ人
社会の頂点に君臨していたのは、言うまでもなくヨーロッパ人、特にVOCに直接雇用されているオランダ人たちでした。総督、インド理事会のメンバー、上級商人、高級官僚といったエリート層は、カステール周辺の最も快適な地区に住み、ヨーロッパから輸入された贅沢品に囲まれ、多数の奴隷にかしずかれる生活を送っていました。彼らは、バタヴィアの政治と経済を完全に掌握する支配者階級でした。
しかし、すべてのヨーロッパ人が裕福だったわけではありません。VOCの一般兵士、船員、下級職員などは、過酷な労働条件と低い賃金に苦しんでいました。彼らの多くは、熱帯の風土病や不衛生な環境によって命を落とし、故郷の土を再び踏むことなくバタヴィアに骨を埋めました。また、VOCに属さない「自由市民」も存在しましたが、彼らの活動は厳しく制限されており、大きな成功を収めるのは困難でした。
中国人
バタヴィアの社会経済構造において、ヨーロッパ人に次いで重要な位置を占めていたのが、中国人移民でした。彼らの多くは、福建省など中国南部の出身で、故郷の混乱や貧困から逃れ、新天地での成功を夢見て南洋にやってきた人々でした。VOCは、その勤勉さと商才を高く評価し、バタヴィア建設当初から彼らを積極的に誘致しました。
中国人は、城壁の外側に独自のコミュニティを形成し、都市の経済活動のあらゆる側面に深く関わっていました。彼らは、小売業、建設業、造船、そしてアラック(ヤシ酒)の蒸留や製糖業といった製造業を営み、バタヴィアの日常生活に不可欠な存在でした。また、VOCの徴税請負人として、市場税や人頭税などの徴収を代行し、VOCの財政にも貢献しました。VOCは、カピタン=チナを通じた間接統治によって彼らを管理しましたが、その経済力と組織力は、時にVOCにとって潜在的な脅威とも見なされました。
マルダイケル
バタヴィアの多民族社会を構成するユニークなグループとして、マルダイケルが挙げられます。マルダイケルとは、もともとポルトガル語の「メルデカ(自由)」に由来する言葉で、主にインド亜大陸出身の解放奴隷とその子孫を指しました。彼らの多くは、VOCがポルトガルからアジアの拠点を奪取した際に解放された人々で、キリスト教(プロテスタント)に改宗し、オランダ語を話しました。
マルダイケルは、ヨーロッパ人とアジア人の間に位置する中間的な社会階層を形成しました。彼らは、VOCの下級官吏、兵士、職人などとして働き、独自の文化を育みました。彼らが話したポルトガル語クレオールは、バタヴィアの共通語の一つとなり、その音楽や料理も都市の文化に彩りを添えました。
アジア系住民と奴隷
上記のグループの他にも、バタヴィアにはジャワ島内やインドネシア諸島各地から来た人々が暮らしていました。バンテンやマタラムといった敵対勢力との緩衝地帯を設けるため、VOCはジャワ人を城壁周辺から強制的に移住させ、代わりにアンボン人、バリ人、ブギス人といった、より遠方からの人々を兵士や労働者として受け入れました。彼らは、出身地ごとにカンポンを形成し、それぞれの文化や伝統を維持しながら生活していました。
そして、この社会の最下層に位置していたのが、奴隷でした。奴隷は、バタヴィアの経済と日常生活を支える上で不可欠な労働力でした。彼らは、インドのコロマンデル海岸、アラカン(現在のミャンマー)、バリ島、スラウェシ島など、アジア各地から、あるいはアフリカ東岸から、戦争捕虜や債務奴隷として連れてこられました。裕福なヨーロッパ人の家庭では、家事、育児、主人の身の回りの世話など、あらゆる労働を奴隷が担っていました。その扱いは主人によって様々でしたが、法的には主人の所有物であり、過酷な労働や虐待によって命を落とす者も少なくありませんでした。バタヴィアの華やかな繁栄は、これら名もなき奴隷たちの犠牲の上に成り立っていたのです。
交易
17世紀のバタヴィアの存在意義は、何よりもまず、オランダ東インド会社(VOC)がアジア全域に張り巡らせた広大な交易ネットワークのハブ、すなわち「ランデブー」としての機能にありました。ヤン=ピーテルスゾーン=クーンが構想した通り、バタヴィアはアジア各地から集められた商品を一時的に保管、仕分けし、ヨーロッパへ送る最終積出港であると同時に、アジア域内での中継貿易の拠点としても、比類なき重要性を誇っていました。バタヴィアの倉庫を満たした商品は、当時の世界の富そのものであり、その流れを制御することこそが、VOCの力の源泉でした。
対ヨーロッパ貿易
バタヴィアの交易システムの中で最も重要だったのは、年に一度、ヨーロッパへ向けて出発する「帰還船団」でした。アジア各地のVOC商館は、一年をかけて収集した商品をバタヴィアへ送り届けます。バタヴィアでは、これらの商品が検品され、巨大なカステールの倉庫に保管されました。そして、風向きが良くなる年末から年始にかけて、10隻から20隻の巨大な東インド船(スピーフヘフラーカー)からなる船団が、満載の貨物と共にアムステルダムを目指して出航しました。
船倉を埋め尽くしたのは、ヨーロッパの人々が渇望したアジアの産物でした。その筆頭は、なんといっても香辛料です。モルッカ諸島(香辛料諸島)で独占的に生産されたクローブ(丁子)とナツメグ=メース。スマトラ島やバンテンで集められた胡椒。セイロン島(現在のスリランカ)産のシナモン。これらの香辛料は、ヨーロッパでは計り知れない価値を持ち、VOCに莫大な利益をもたらしました。その他にも、インド産の綿織物(更紗)、ペルシャ産の絹、日本の銅や銀、中国産の磁器や茶など、多種多様な商品が積み込まれました。これらの富を積んだ帰還船団の到着は、アムステルダムの一大イベントであり、オランダの「黄金時代」の繁栄を象徴する光景でした。
アジア域内貿易
バタヴィアの重要性は、ヨーロッパとの往復貿易だけに留まりませんでした。VOCは、アジアの各地の需要と供給の差を利用した域内貿易(イントラ=アジア貿易)にも積極的に取り組み、大きな利益を上げていました。そして、その複雑な多角貿易ネットワークの中心に位置していたのがバタヴィアでした。
例えば、VOCは日本との貿易で大きな成功を収めました。当時、日本は鎖国政策をとっていましたが、長崎の出島において、オランダと中国だけが貿易を許可されていました。VOCは、中国産の生糸や絹織物、東南アジア産の鹿皮や砂糖などを日本に輸出し、その見返りとして、日本の銀や銅、樟脳などを手に入れました。特に、日本の銀と銅は、VOCにとって極めて重要な決済手段でした。
そして、この日本から得た銀や銅を、インドへと運びました。インドでは、グジャラートやコロマンデル海岸の工房で生産される、質の高い綿織物や藍を買い付けました。これらのインド産綿織物は、ヨーロッパで人気があっただけでなく、香辛料諸島でクローブやナツメグと交換するための、最も重要な交換財でもありました。香辛料の生産者たちは、金銀よりも、実用的な衣料品を求めたのです。
このように、「日本の銅をインドの布に替え、インドの布を香辛料に替える」という一連のサイクルは、VOCのアジア域内貿易の典型的なパターンでした。バタヴィアは、これらの異なる地域からの商品を一時的に集積し、再分配する結節点として機能しました。ペルシャの絹が日本へ、日本の銅がインドへ、インドの布がモルッカへ、そしてモルッカの香辛料がヨーロッパへと、世界中の商品がバタヴィアを経由して流れていきました。この効率的なシステムを構築し、維持することによって、VOCはヨーロッパから持ち込む貴金属の量を最小限に抑えながら、アジア貿易全体から利益を吸い上げることを可能にしたのです。バタヴィアの港の賑わいは、まさにこのグローバルな商品連鎖のダイナミズムを映し出す鏡でした。
生活と文化
17世紀のバタヴィアにおける日常生活は、支配者であるオランダ人の文化と、アジア各地から集まった多様な人々の文化が混じり合う、独特のハイブリッドな様相を呈していました。オランダ人たちは、母国の生活様式を維持しようと努めましたが、熱帯の気候や現地の習慣の影響を免れることはできず、長い年月を経て「インド的」と呼ばれる植民地特有の文化が形成されていきました。
オランダ人の生活
VOCの上級役員や裕福な商人たちの生活は、一見するとヨーロッパのそれと変わりませんでした。彼らは運河沿いの壮麗なタウンハウスに住み、室内はマホガニーの家具、デルフト焼のタイル、オランダ絵画などで飾られていました。食事の際には、ヨーロッパから輸入されたワインを楽しみ、本国の最新の流行を追った服装に身を包みました。プロテスタントの信仰は生活の中心であり、日曜日にはカステール内の教会での礼拝が欠かせませんでした。
しかし、その生活の細部には、アジア的な要素が深く浸透していました。例えば、彼らの家庭は、多数の現地人奴隷によって切り盛りされていました。料理、洗濯、掃除、子育てといった家事労働のすべてを奴隷が担い、主人は指一本動かす必要がありませんでした。食事も、オランダ料理だけでなく、米を主食とし、現地の香辛料をふんだんに使った料理、すなわち後の「リヒターフェル(米の食卓)」の原型となるものが日常的に食卓に上りました。また、日中の暑さを避けるため、昼寝(シエスタ)の習慣が定着し、外出時には奴隷に日傘を差しかけさせることがステータスシンボルとなりました。
クレオール文化
17世紀のバタヴィアでは、ヨーロッパから移住してくるオランダ人女性の数が極めて少なかったため、多くのオランダ人男性がアジア系の女性を現地の妻(ニヤイ)や妾としました。彼らの間に生まれた子供たちは「メスティーソ」と呼ばれ、ヨーロッパ人とアジア人の中間的な存在として、独自のクレオール文化を形成していきました。
これらの家庭では、父親のオランダ語と母親の現地の言葉(マレー語やポルトガル語クレオール)が混じり合い、服装もヨーロッパ風の服と、サロンやクバヤといった現地の衣服が併用されました。特に女性たちは、家の中では涼しい現地の服装で過ごし、ビンロウジを噛む習慣を持つなど、アジア的な生活様式を色濃く受け継いでいました。こうした混合文化は、上流階級のオランダ人社会からはしばしば軽蔑の目で見られましたが、バタヴィアの社会に深く根付き、その後のインドネシアにおけるインド・ヨーロッパ文化の基礎となっていきました。
アジア系住民の生活
城壁の外に住む中国人やジャワ人、その他のアジア系住民は、それぞれのコミュニティの中で、故郷の文化や伝統を維持しながら生活していました。中国人の居住区では、道教や仏教の寺院が建てられ、旧正月などの祭りが盛大に祝われました。ジャワ人のカンポンでは、イスラム教の教えが守られ、ガムラン音楽が奏でられました。
しかし、彼らの生活もまた、バタヴィアという多文化環境の中で、相互に影響を受け合っていました。異なる民族間の交易や交流を通じて、言葉や食文化、生活習慣が混じり合っていきました。例えば、マレー語は、異なる民族グループ間の共通語(リンガ=フランカ)として広く使われるようになり、後のインドネシア語の基礎となりました。食文化においても、中華料理の技法がインドネシア料理に取り入れられたり、様々な地域の香辛料が組み合わされて新しい味が生み出されたりしました。
病と死
バタヴィアの華やかな生活の裏側には、常に病と死の暗い影が付きまとっていました。熱帯の湿潤な気候は、マラリア、赤痢、腸チフスといった伝染病の温床でした。特に、ヨーロッパから来たばかりの新参者にとって、バタヴィアの環境は過酷であり、その死亡率は驚くほど高かったと言われています。「東洋の墓場」とさえ呼ばれたこの都市では、多くの人々が若くして命を落としました。
VOCは、市内に病院を設立し、医師を配置しましたが、当時の医療水準ではこれらの病に対して有効な治療法はほとんどありませんでした。運河網は、当初は衛生改善のために作られましたが、流れが滞ると汚水の溜まり場となり、かえって蚊の発生源となって病気の蔓延を助長するという皮肉な結果も生みました。この高い死亡率は、バタヴィアの社会に刹那的な雰囲気を生み出し、人々を享楽的な生活へと駆り立てる一因にもなりました。
結論
17世紀のバタヴィアは、オランダの「黄金時代」が生み出した、最も野心的で、最も成功した植民地都市でした。ヤン=ピーテルスゾーン=クーンの冷徹な決断によってジャヤカルタの灰の中から生まれ、アムステルダムを模した整然たる都市計画のもとに建設されたこの「東洋の女王」は、オランダ東インド会社(VOC)のアジアにおける権力と富の象徴として、一世紀にわたって君臨しました。その港にはアジア各地から富が集積され、堅固な城壁とカステールはVOCの軍事力を誇示し、格子状の街路と運河網はオランダの合理性と秩序を体現していました。
しかし、その輝かしい光の裏側には、深い影が存在していました。バタヴィアの繁栄は、香辛料諸島における暴力的な独占、アジア各地から連れてこられた奴隷たちの過酷な労働、そして厳格な人種的階層に基づいた社会構造といった、搾取と差別のシステムの上に成り立っていました。整然としたオランダ風の家々のすぐ外側には、熱帯の病と死が常に潜んでおり、この都市は「東洋の墓場」という不名誉な異名も持っていました。
バタヴィアはまた、文化の衝突と融合が織りなす、ダイナミックな実験場でもありました。支配者であるオランダ人、経済を担う中国人、中間層を形成したマルダイケル、そして多様なアジア系住民と奴隷。これらの異なる背景を持つ人々が、この都市空間で共存し、反発し、そして混じり合う中で、独自のクレオール文化が育まれていきました。ヨーロッパの様式とアジアの習慣が融合した生活、異なる言語が混じり合った言葉、そして多様な食文化の交流は、バタヴィアが単なるオランダの出先機関ではなく、それ自体が生命力を持つ有機的な社会であったことを示しています。
17世紀という時代が終わる頃、バタヴィアの栄光にも陰りが見え始めます。VOCの経営は次第に硬直化し、汚職が蔓延し、イギリスという新たなライバルの挑戦も激しくなっていきました。
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- 米・ソ両大国の動揺と国際経済の危機
- 冷戦の終結と地球社会の到来
- 冷戦の解消と世界の多極化
- 社会主義世界の解体と変容
- 第三世界の多元化と地域紛争
- 現代文明
- 国際対立と国際協調
- 国際対立と国際協調
- 科学技術の発達と現代文明
- 科学技術の発展と現代文明
- これからの世界と日本
- これからの世界と日本
- その他
- その他
























