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【冷戦と雪どけ、自衛隊発足、吉田政権退陣、55年体制】 受験日本史まとめ 85
著作名: Cogito
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吉田政権の退陣

吉田茂は第2次から第5次内閣の1948年(昭和23年)10月から1954年(昭和29年)12月までの6年以上政権を担当し、第3次吉田内閣の1952年(昭和27年)4月28日にサンフランシスコ平和条約が発効し、日本は独立を回復しました。朝鮮戦争の勃発によりアメリカは吉田内閣に再軍備を求め、警察予備隊が保安隊に改組され、海上警備隊も新設されました。この時期、破壊活動防止法の提出に反対したデモ隊と警官隊が乱闘し、2人死亡、1230人が検挙されたメーデー事件も起こりました。この調査機関として公安調査庁が設置されましたが、この立法の過程で、戦前の治安維持法の再来を危惧する反対運動が広がりました。

このころ、追放解除にともない、戦前の党人の鳩山一郎や、石橋湛山らが政治の表舞台に復帰しました。鳩山一郎の追放によって吉田茂が党首となった経緯により、自由党内に鳩山一郎に政権を渡すべきという意見がおこりました。自由党の中で一大勢力となった鳩山派に対し、吉田茂は8月28日に衆議院を抜き打ち的に解散し、10月に総選挙を行い、かろうじて過半数を確保しました。しかし、第4次吉田内閣も長くは続かず、党内分裂の動きが強まる中で、1953年(昭和28年)に吉田の「バカヤロー」という失言がもとになり、内閣不信任案が可決され、解散となりました。

この総選挙の争点は再軍備問題でした。吉田派は憲法改正反対・漸次自衛力強化を主張し、鳩山派は憲法改正・再軍備を主張しました。左派社会党は再軍備反対・保安隊解散をもとめ選挙を戦いました。総選挙の結果、左派社会党がはじめて右派社会党に議席数を上回り、自由党・改進党ともに議席を減らしました。こうして自由党は第5次吉田内閣を成立させましたが、改進党への歩み寄りを余儀なくされました。

1954年(昭和29年)3月、吉田内閣はアメリカと相互防衛援助協定であるMSA協定を調印しました。これは、相互防衛援助協定・農産物購入協定・経済的措置協定・投資保障協定の4協定からなり、アメリカから経済的・軍事的援助を受けられるようになりました。これを受け政府は、既存の保安隊と海上警備隊を統合し、航空部隊を新設し、自衛隊を発足させ、管轄官庁として防衛庁を設置しました。

自衛隊は1954年(昭和29年)7月の自衛隊法により創設され、自衛隊法第3条第1項により「我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、我が国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当たる」と定義されています。自衛隊の最高指揮監督権は内閣総理大臣が行使し、文民の防衛庁長官が総理の指揮監督を受け自衛隊の隊務を統括します。自衛隊には防衛出動と治安出動があり、どちらも国会の承認を必要とします。防衛出動の場合事前承認が、治安出動の場合事後承認が必要です。

保守党の凋落と社会党勢力の躍進が続く中、保守党内の反吉田勢力が次第に大きくなっていきました。1954年(昭和29年)11月、改進党、自由党の鳩山派と岸派、日本自由党の3者が合同し、総裁を鳩山、幹事長を岸信介(1896〜1987)として日本民主党が結成されました。12月に民主党と左派・右派社会党が共同して内閣不信任案を提出したため、吉田内閣は総辞職しました。

吉田茂の長期政権は、サンフランシスコ平和条約の締結と日本独立、日米安全保障条約の締結と国防費用軽減・経済復興など多くの結果を残しました。国内では、占領期の終わりに法体系の移り変わりをうけて労働運動や社会運動をおさえるための法律や機構の整備が迫られました。破壊活動防止法の制定・自治体警察の廃止と警察庁へ都道府県警察一本化・教育委員会の公選制廃止と地方自治体の首長による任命制などが挙げられます。この他にも、1952年(昭和27年)の内灘事件と、1959年(昭和34年)の砂川事件など、各地で本格的な米軍基地反対闘争が起こるようになりました。




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