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【社会の変容と打ちこわし、田沼意次の政治】 受験日本史まとめ 45
著作名: Cogito
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田沼意次の政治

徳川吉宗のあと、9代将軍徳川家重(1711~61)、10代将軍徳川家治(1737~86)の時代になると、将軍の側用人であり老中を兼務した田沼意次(1720~88)が幕政を握り、この時代を田沼時代と呼びます。

享保の改革により、全国的に年貢増徴策がはじまり、徳川幕府の年貢米収入は増加しましたが、宝暦期(1751~1763)には頭打ちから減少に転じ、米価下落も加わり、幕府財政は再び行き詰まりました。こうした状況の中、老中田沼意次は、新しい財源として年貢増徴政策に代わる新たな増収策をとりました。増収策の一つ目は、各地の特産物などの商品生産やその流通を支配し、幕府財源にあてようとするものでした。都市や農村の商人、手工業者の仲間組織を株仲間として公認し、それらに運上冥加などをかけ、さまざまな座(銅座・真鍮座・人参座・朱座)を設けて、専売制をはじめました。また、貨幣需要の拡大に対応するため、それまでの金銀銭3貨を金に一本化した貨幣制度を始め、秤量する必要がない南鐐弐朱銀を鋳造し、貨幣鋳造の原料の金銀の輸入を長崎貿易を通して行いました。二つ目は、新田開発による年貢増徴を目指しました。大坂などの大商人の資金を活用し、下総印旛沼・手賀沼の開発に取り組みましたが、1786年(天明6年)の洪水によりこの開発は失敗しました。三つ目は蝦夷地の開発で、仙台藩の医師工藤平助が、ロシア人の南下と交易の可能性を『赤蝦夷風説考』で説き、これに田沼意次が注目したものでした。田沼意次は調査のため最上徳内を2回にわたって派遣し、蝦夷地の幕府直轄と大規模な開発を進めようとしました。

田沼時代には貨幣経済の進展とともに華やかな文化や学問が発展しましたが、政治では賄賂や縁故の人事が横行していました。天明の飢饉、浅間山噴火、江戸近郊の洪水などが続き、全国的に百姓一揆や打ちこわしが頻発するなかで、1784年(天明4年)に田沼意次の息子で若年寄の田沼意知が江戸城内で旗本の佐野政言に暗殺されるという事件が起こりました。田沼政治に反発を持っていた江戸の民衆は、佐野政言を「世直し大明神」ともてはやしたと言われています。田沼意次はその後も大坂の豪商や全国の百姓・町人・寺社に御用金を課し、それを原資に大名に貸付け、利子収入を幕府の財源にしようとしましたが反発にあい実現せず、1786年(天明6年)徳川家治の死と前後して老中を罷免され、多くの政策は中止されました。



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