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【織田信長と本能寺の変、豊臣秀吉の天下統一、織豊政権、文禄・慶長の役】 受験日本史まとめ 35
著作名: Cogito
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豊臣秀吉の天下統一

織田信長の死後、天下統一を達成したのは豊臣秀吉(1537?~98)でした。尾張の農家(地侍)出身の秀吉は、はじめ木下藤吉郎と名乗り、織田信長に仕え有力武将に出世しました。1573年(天正元年)に織田信長が室町幕府を滅ぼすと、同年織田家の有力家臣だった丹羽長秀と柴田勝家から一字を取り、羽柴秀吉に改名しました。1582年(天正10年)に本能寺の変が起こると、秀吉は対戦中の毛利氏と急遽和睦し、山城の山崎の合戦で謀反を起こした明智光秀を討ち、法要を進んで営むなど、織田信長の後継者として存在感を増していきました。翌年1583年(天正11年)には、有力武将の柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破り、その後柴田側にくみした織田信長の3男織田信孝(1558~83)をも自害させ、信長の後継者としての地位を確立しました。また同年、石山本願寺跡に壮大な大坂城の築城を開始しました。

1584年(天正12年)、秀吉は小牧・長久手の戦いで、信長の次男織田信雄(1558~1630)と徳川家康(1542~1616)と対戦しますが、戦闘が膠着したためその後和睦しました。1585年(天正13年)、秀吉は徳川方に味方した紀州の根来衆と雑賀一揆を討ち、長宗我部元親(1538〜99)を降伏させ四国を平定しました。こうした中、朝廷から関白に任命され、翌年には豊臣の姓を与えられ、豊臣秀吉と名乗るようになりました。

関白となった豊臣秀吉は、全国に惣無事令(全国の平和)を発し、戦国大名に停戦を命じました。惣無事令は、戦国大名の喧嘩両成敗法を全国に及ぼしたものでした。※惣無事令に関しては、近年の研究によって諸説あります。

1587年(天正15年)には、九州の島津義久を征討し九州を平定し、1590年(天正18年)に小田原の北条氏政(1538〜90)、東北の伊達政宗(1567〜1636)など奥羽を平定し、翌年には奥羽仕置に反対して起きた葛西・大崎一揆、九戸政実の乱も平定しました。こうして、豊臣秀吉による全国統一が完成しました。全国統一後、徳川家康を東海から北条氏の旧領の関東へ、伊達政宗を米沢から葛西・大崎氏旧領へ転封するなど、大名の力を削ぎ、武士を在地から切り離し、兵農分離を進めました。

1588年(天正16年)、豊臣秀吉は京都に新築した聚楽第に後陽成天皇(在位1586〜1611)を迎え歓待し、諸大名に自分への忠誠を誓わせました。1591年(天正19年)に全国統一を果たした豊臣秀吉は、関白の地位を甥の豊臣秀次に譲り、聚楽第も与えました。しかし、その後秀吉と側室の淀君(織田信長の姪)の間に豊臣秀頼が誕生し、1595年(文禄4年)秀吉は秀次を謀反を企てたとして処刑してしまいます。この時、聚楽第も破壊され、豊臣政権の中心は伏見城に移りました。

豊臣政権は、全国に散らばる200万石の蔵入地(直轄領)を主な財源としていました。また、佐渡相川・石見大森・但馬生野などの鉱山を直轄にし、京都の彫金家後藤徳乗に命じ、天正小判を鋳造させました。全国的には、京都・大坂・堺・伏見・長崎などの主要都市も直轄にし、豪商を統制下におきました。

豊臣秀吉は、堺の豪商・茶人の千利休(1522〜91)と異父弟の豊臣秀長(1540〜91)を側近として信頼していました。しかし、秀長は後に病死し、政権内部の抗争に巻き込まれた千利休も1591年(天正19年)に自害させられました。

豊臣政権では、腹心の浅野長政(1547〜1611)・増田長盛(1545〜1615)・石田三成(1560〜1600)・前田玄以(1539〜1602)・長束正家(?〜1600)をご奉行とし、有力大名の徳川家康・前田利家(1538〜99)・毛利輝元(1553〜1625)・小早川隆景(1533〜97)・宇喜多秀家(1572〜1655)・上杉景勝(1555〜1623)を大老(小早川隆景の死後に五大老と呼ばれた)とし、重要政務を合議させる体制がとられました。




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