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キリスト教の歴史 ~キリスト教の成立とカトリック イエスの教えとアタナシウス派~
著作名: エンリケ航海王子
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ローマ帝国による大迫害とミラノ勅令

3世紀の半ばからローマ帝国は軍人皇帝時代を迎え大混乱となり、その収束を果たしたディオクレティアヌスが皇帝に即位します。ディオクレティアヌスはローマ社会の安定のためには、宗教の統一が必要だと考えたので、ローマの伝統的な多神教と、皇帝崇拝をローマ帝国領民に求めました。ところが一神教のキリスト教徒はこれに応じず、ディオクレティアヌスはキリスト教徒に対する徹底した迫害を開始します。

しかしネロ帝の時と同様に、殉教者たちは崇められ信仰の対象となり、キリスト教の勢力は衰えることはありませんでした。

ディオクレティアヌス帝の死後即位したコンスタンティヌス帝は、キリスト教の影響力の大きさを認識し、313年ミラノ勅令でキリスト教を公認しました。

正統教義の論争

キリスト教内では、1世紀ごろから教義の正当性をめぐって激しい論争が起こっていました。特に、ミラノ勅令以後キリスト教がローマ帝国によって公認されると、教義の正当性論争は激しさを増します。

このころ、大きく分けて二つの宗派が対立していました。

アリウス派

アレクサンドリア教会の聖職者であったアリウス(250年頃~336年)が主張した宗派で、イエスに人性を強く認め、神とは別のものとして捉えたものです。

アタナシウス派

同じくアレクサンドリア出身の教父アタナシウス(295年頃~373年)が主張した宗派で、父なる神、その子であるイエス、精霊の 3 者は等しく不可分であるとし、イエスの神性を強く認めていました。

この二つの宗派は、イエスの人性と神性を違いとして、互いに相容れないものとなっていたのです。

この論争を決着させるべく、コンスタンティヌス帝は325年ニケーア公会議を開き、アタナシウス派を正統とし、アリウス派を異端とする決定を下します。

こののち、正統派となったアタナシウス派は三位一体説を確立し、カトリック教会の礎となっていくのです。

また、エウセビオスというパレスチナの教父が使徒の時代から323年頃までを記述した「教会史」、旧約聖書の時代から303年までの歴史を記した「年代記」を書き上げ、キリスト教史が確立します。
エウセビオスは同時に神寵帝理念という考えを主張しました。これは、皇帝位は神から授かったもので、その権威を持って統治するべきというものです。
神寵帝理念はその後ビザンツ帝国に受け継がれ、のちの皇帝教皇主義を確立するきっかけになり、その後のヨーロッパの王権神授説の根拠ともなりました。




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