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地球球体説とは わかりやすい世界史用語2273 |
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著作名:
ピアソラ
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地球球体説とは
地球が球体であるという概念、すなわち地球球体説は、人類の宇宙観と自己認識を根本から変えた、科学史上最も重要な発見の一つです。この説は、地球が平らな円盤やその他の形状であるという古代の神話的・直感的な見方を覆し、観測と論理的推論に基づく科学的探求の時代の到来を告げました。その歴史は古代ギリシャにまで遡り、哲学的な思索から始まり、数学的な計算、そして大航海時代の実証を経て、近代科学による精密な測定へと至る長い道のりを経て確立されました。この説の発展は、天文学、地理学、物理学、そして測地学といった多くの学問分野の進歩と密接に結びついています。
古代ギリシャにおける球体説の萌芽
地球が球体であるという考えが最初に記録として現れるのは、紀元前6世紀頃の古代ギリシャです。当時のギリシャ哲学は、神話的な世界観から脱却し、自然現象を合理的に説明しようとする試みの黎明期にありました。ピタゴラスとその学派は、宇宙の根底には数的な調和が存在すると考え、最も完全で調和のとれた立体である球体を、天体や地球の形としてふさわしいと考えました。彼らの主張は、美的・哲学的な理由に基づくものであり、直接的な観測証拠によるものではありませんでしたが、地球の形状に関する議論の出発点となりました。
紀元前5世紀に入ると、より具体的な観測に基づいた議論が現れます。アナクサゴラスは、月食の際に月に映る地球の影が常に円弧を描くことに注目しました。地球がどのような向きであっても、その影が円形であることから、地球自体が球体であると推論しました。これは、地球球体説を支持する最初の科学的な証拠の一つとされています。また、エンペドクレスも同様の議論を展開したとされています。
しかし、地球球体説を最も強力に論証し、その後の西洋思想に決定的な影響を与えたのは、紀元前4世紀の哲学者アリストテレスです。彼の著書『天体論』の中で、アリストテレスは地球が球体であるとする複数の経験的証拠を体系的に提示しました。
第一に、彼はアナクサゴラスも指摘した月食時の地球の影が常に円形であることを挙げました。もし地球が円盤状であれば、太陽、地球、月の位置関係によっては、影が楕円形や直線になるはずですが、そのような観測例はありませんでした。
第二に、彼は南北に移動すると見える星の種類や位置が変わることを指摘しました。例えば、エジプトで見える星がギリシャでは見えなくなり、逆に北方に進むとそれまで見えなかった星が地平線上に現れます。この現象は、地球の表面が湾曲していることによってのみ説明可能であり、平らな面では起こり得ません。
第三に、港に近づいてくる船は、まず帆先が見え、徐々に船体全体が見えてくるという観測事実を挙げました。同様に、岸から離れていく船は、船体から先に水平線の下に沈んでいきます。これもまた、地球の表面が湾曲していることの直接的な証拠です。
アリストテレスはこれらの観測的証拠に加え、物質は宇宙の中心に向かって落下する傾向があり、その結果として球形が形成されるという物理学的な考察も加えています。彼の論理的かつ包括的な論証により、地球球体説はギリシャの知識人の間で広く受け入れられるようになりました。
地球の大きさの測定:エラトステネスの功績
地球が球体であることが認識されると、次の関心はその大きさを測定することに移りました。この課題に初めて科学的な方法で挑み、驚くべき精度で成功を収めたのが、紀元前3世紀のアレクサンドリアの学者エラトステネスです。
彼は、夏至の日の正午に、ナイル川上流の都市シエネ(現在のアスワン)では深い井戸の底まで太陽の光が届き、地面に立てた棒の影がなくなるという報告を知っていました。これは、太陽が天頂、つまり真上にあることを意味します。一方、同じ日時のアレクサンドリアでは、地面に立てた棒には影ができます。エラトステネスは、この影の角度を測定したところ、天頂から約7.2度傾いていることを見出しました。
彼は、太陽光線が地球に平行に降り注いでいると仮定しました。この仮定のもとでは、アレクサンドリアでの太陽光線の傾き角は、シエネとアレクサンドリアを地球の中心と結んでできる扇形の中心角に等しくなります。幾何学の原理によれば、円周全体の角度は360度であるため、7.2度という角度は円周全体の50分の1(360 ÷ 7.2 = 50)に相当します。
次にエラトステネスが必要としたのは、アレクサンドリアとシエネの間の距離でした。当時の測量技術では正確な距離を測定することは困難でしたが、彼は専門の歩行者が測定した距離、約5,000スタディアという数値を用いました。この距離が地球全体の円周の50分の1であると計算し、地球の全周を250,000スタディア(5,000 × 50)と算出しました。
「スタディオン」という単位の正確な長さについては諸説ありますが、一般的に用いられるアッティカ・スタディオンで換算すると、エラトステネスが算出した地球の周長は約46,250キロメートルとなります。これは、現在の測定値である約40,075キロメートルと比較して、約15%程度の誤差しかありません。二千年以上前の技術水準を考えれば、これは驚異的な精度と言えます。エラトステネスの方法論の美しさは、単純な幾何学と二つの場所での観測だけで、直接測定することが不可能な地球の大きさを導き出した点にあります。彼の業績は、科学的推論の力を示す画期的な例として、後世に大きな影響を与えました。
エラトステネス以降も、地球の大きさの測定は試みられました。例えば、紀元前1世紀頃のポセイドニオスは、別の方法で計算を行いました。彼は、南の地平線近くに見える恒星カノープスの高度が、ロドス島とアレクサンドリアで異なることを利用しました。ロドス島ではカノープスがちょうど地平線上に見える時に、アレクサンドリアでは地平線から約7.5度(円周の48分の1)の高さに見えることを観測しました。彼はロドス島とアレクサンドリアの距離を約5,000スタディアと見積もり、地球の周長を240,000スタディアと計算しました。この数値はエラトステネスの値に非常に近いものでした。しかし、後にポセイドニオス自身がこの計算を修正し、より小さな値を採用したと伝えられています。この小さな値が、後にプトレマイオスの著作を通じて中世ヨーロッパに伝わり、コロンブスの航海計画に影響を与えることになります。
ローマ時代から中世へ:知識の継承と停滞
ギリシャで確立された地球球体説とその大きさに関する知識は、ヘレニズム時代を経てローマ帝国へと受け継がれました。大プリニウスの『博物誌』のような百科事典的な著作には、地球が球体であることや、その証拠、さらには時差や季節の変化といった関連する現象についての記述が含まれています。ローマ時代の実用的な知識人たちは、地球が球体であることを自明の理として受け入れていました。
しかし、西ローマ帝国の衰退とともに、ヨーロッパでは古代ギリシャの科学的知識の多くが失われ、あるいは忘れ去られていきました。中世初期のヨーロッパでは、ラテン語に翻訳されたごく一部の文献しか利用できず、科学的な探求は停滞しました。この時期、一部のキリスト教著述家の中には、聖書の記述を文字通りに解釈し、地球を平らな円盤や幕屋のような形として描く者も現れました。例えば、ラクタンティウスやコスマス・インディコプレウステースなどがその代表例です。彼らは、地球の反対側(対蹠地)に人が住んでいるという考えを、神学的な理由から否定しました。
しかし、地球が平らであるという考えが中世ヨーロッパ全体で支配的だったというのは、近代になって作られた誤解、いわゆる「中世平坦地球神話」です。実際には、西ゴート王国のイシドールスや、イギリスの修道士ベーダ・ヴェネラビリスといった影響力のある学者たちは、古代の知識を継承し、地球が球体であることを明確に支持していました。特にベーダは、アリストテレスが挙げた証拠を繰り返し述べ、地球球体説を教育の基礎に据えました。
12世紀ルネサンス期に入ると、アラビア語に翻訳されていたアリストテレスやプトレマイオスの著作が、再びラテン語に翻訳され、ヨーロッパの大学で教えられるようになりました。これにより、地球球体説は学問の世界で完全に復活し、不動の地位を確立しました。トマス・アクィナスをはじめとするスコラ学者たちは、アリストテレス哲学とキリスト教神学を統合する中で、球体の地球を神が創造した秩序ある宇宙の一部として位置づけました。ヨハネス・デ・サクロボスコが13世紀に著した『天球論』は、プトレマイオスの宇宙観と地球球体説を平易に解説した教科書であり、その後数世紀にわたってヨーロッパの大学で広く使用されました。この本は、地球が宇宙の中心に静止する球体であるという、当時の標準的な宇宙モデルを学生たちに教えました。
イスラム世界における発展
ヨーロッパで古代の知識が一時的に失われていた間、その継承と発展を担ったのがイスラム世界でした。8世紀から9世紀にかけて、バグダードに設立された「知恵の館」では、ギリシャ科学の文献が組織的にアラビア語へ翻訳されました。プトレマイオスの『アルマゲスト』もその一つであり、イスラムの天文学者たちはその理論を学び、さらに洗練させていきました。
イスラム世界の学者たちは、地球球体説を当然の前提として受け入れ、その知識を実用的な問題に応用しました。特に、イスラム教徒にとって重要な課題であった、聖地メッカの方向(キブラ)を各地から正確に決定する必要性は、球面三角法という新しい数学分野の発展を促しました。また、彼らは経度と緯度の概念を用いて、より正確な世界地図を作成しようと試みました。
9世紀の天文学者アル=フワーリズミーは、プトレマイオスの地理学の知識を基に、独自の計算を加えて多くの都市の緯度経度を記した『大地の姿の書』を著しました。また、同じく9世紀のバヌー・ムーサー兄弟は、メソポタミアの平原で大規模な測地測量を行い、緯度1度に相当する子午線弧長を測定することで、地球の大きさを計算しました。彼らの測定値は、現代の値に非常に近いものでした。
11世紀の大学者アル=ビールーニーは、測地学の分野で特に重要な貢献をしました。彼は、平地での測量が困難であることを認識し、山の高さと地平線の俯角(水平線がどれだけ下に見えるか)を利用するという、独創的な新しい方法で地球の半径を測定しました。彼は、インドのナンダナの砦からこの測定を行い、得られた値から計算した地球の周長は、現代の測定値との誤差がわずか2%未満という驚くべき正確さでした。アル=ビールーニーはまた、地球が自転している可能性についても考察しており、その時代の科学的水準の高さを物語っています。これらのイスラム世界における科学的業績は、後のヨーロッパ・ルネサンスに大きな影響を与え、大航海時代の到来を準備する上で重要な役割を果たしました。
大航海時代と地球球体説の実証
15世紀後半から始まる大航海時代は、地球球体説が理論から実践へと移行し、最終的に経験的に証明される画期的な時代でした。この時代の探検家たちは、地球が球体であるという学問的な知識を信じ、それを前提として前人未到の航海に乗り出しました。
コロンブスの1492年の航海は、その象徴的な出来事です。彼の目的は、西回りでアジア(インディアス)に到達することでした。この計画の根底にあったのは、地球が球体であるという確信です。しかし、コロンブスは地球の大きさについて、ポセイドニオスやプトレマイオスが算出した過小な見積もりを採用していました。さらに彼は、マルコ・ポーロの記述などからユーラシア大陸の東西の広がりを過大に評価していました。これらの誤った想定が組み合わさった結果、彼は大西洋の幅を実際よりもはるかに狭いと信じ込み、西回り航路が現実的なものであると結論付けました。もし彼がエラトステネスのより正確な計算値を知っていたら、おそらくこの航海は不可能だと考えたでしょう。彼の航海は結果的にアジアではなく、ヨーロッパ人にとって未知の大陸(アメリカ大陸)に到達しましたが、彼の西への航海そのものが、地球球体説への揺るぎない信頼に基づいていたことは間違いありません。
地球が球体であることを決定的に証明したのは、マゼランとフアン・セバスティアン・エルカーノが率いた艦隊による世界周航でした。1519年にスペインを出発したこの探検隊は、西へ西へと航海を続けました。彼らは南アメリカ大陸の南端にある海峡(後にマゼラン海峡と名付けられる)を通過し、広大な太平洋を横断してアジアに到達しました。マゼラン自身はフィリピンで命を落としましたが、エルカーノが残りの船員を率いて航海を続け、アフリカの喜望峰を回り、1522年にスペインに帰還しました。一隻の船とわずかな生存者だけが成し遂げたこの壮絶な航海は、一つの方向へ進み続けることで出発点に戻れることを実証し、地球が閉じられた球体であることを誰の目にも明らかにしたのです。この偉業は、古代ギリシャ以来の推論と計算が正しかったことを物理的に証明し、地球球体説をめぐる議論に終止符を打ちました。
近代科学による精密化
マゼラン艦隊の世界周航によって地球が球体であることは実証されましたが、その正確な形状については、さらなる探求が待たれていました。17世紀後半、アイザック・ニュートンは、彼の万有引力の法則と運動の法則から、自転する流体は遠心力によって赤道部分が膨らみ、極部分が平らな「扁平回転楕円体」になると理論的に予測しました。つまり、地球は完全な球ではなく、赤道方向にわずかに押しつぶされたオレンジのような形をしていると考えたのです。
一方、フランスの天文学者ジャック・カッシーニは、父の代から行っていたフランス国内の子午線弧長の測量結果に基づき、地球は極方向に伸びた「長球回転楕円体」、つまりレモンのような形をしていると主張しました。ニュートンの理論的予測とカッシーニの観測結果のどちらが正しいのか、これは18世紀の科学界における大きな論争となりました。
この論争に決着をつけるため、フランスの科学アカデミーは1730年代に二つの大規模な測地遠征隊を組織しました。一つはピエール・ルイ・モーペルテュイが率いて北極圏に近いラップランド(現在のフィンランド)へ、もう一つはシャルル=マリー・ド・ラ・コンダミーヌらが率いて赤道直下のペルー(現在のエクアドル)へと派遣されました。彼らの任務は、それぞれの場所で緯度1度分の距離(子午線弧長)を正確に測定することでした。もし地球がニュートンの予測通り扁平であれば、曲率が小さい極地方の方が緯度1度分の距離は長くなるはずです。逆にカッシーニの説が正しければ、赤道地方の方が長くなるはずです。
数年にわたる困難な測量の末、両遠征隊は結果を持ち帰りました。ラップランドで測定された緯度1度分の距離は、ペルーで測定されたものよりも長いことが確認されました。この結果は、地球が赤道方向に膨らんだ扁平な回転楕円体であることを決定的に示し、ニュートンの理論の正しさを証明しました。これは、理論物理学の予測が大規模な観測によって検証された輝かしい例であり、近代測地学の基礎を築く画期的な成果でした。
現代の地球観と測地学
20世紀に入り、航空機や人工衛星の時代が到来すると、人類は自らの目で地球の姿を直接見ることができるようになりました。宇宙から撮影された青く丸い地球の写真は、地球球体説の最も象徴的で感動的な証拠となりました。アポロ計画の宇宙飛行士たちが撮影した「ブルーマーブル」と呼ばれる写真は、地球が宇宙空間に浮かぶ有限で美しい惑星であることを全人類に示し、環境保護意識の高まりにも大きな影響を与えました。
現代の測地学では、地球の形状と重力場は、驚くべき精度で測定されています。GPSやVLBI、SLRといった宇宙測地技術を用いることで、地球の形状はセンチメートル単位で把握されています。
これらの精密な測定により、地球の形は単純な扁平回転楕円体ではなく、さらに複雑な形状をしていることがわかっています。地球の重力ポテンシャルが等しい面を「ジオイド」と呼びますが、このジオイドは、大陸や海、地下の物質の密度分布の不均一性を反映して、基準となる回転楕円体から最大で100メートル程度の凹凸を持っています。ジオイドは、いわば「平均海水面を全世界に延長したと仮定した面」であり、地球の真の形を最もよく表しているとされています。
さらに、地球は静的な天体ではなく、プレートテクトニクスによる大陸の移動、氷床の融解や大規模な地震に伴う地殻変動、潮汐力による変形など、常にダイナミックに変動しています。現代の測地学は、これらの微細な変化を継続的に監視し、地球システムの理解を深める上で不可欠な役割を担っています。地球が球体であるという古代からの知見は、今や地球を一つの複雑で動的なシステムとして捉える、より高度な地球科学へと発展しています。
地球球体説の歴史は、人類の知的好奇心と探求心の壮大な物語です。それは、古代ギリシャの哲学者が抱いた美的・哲学的な直観から始まり、アリストテレスによる論理的な論証、エラトステネスによる驚くべき数学的測定へと発展しました。イスラム世界で継承・発展された知識は、大航海時代にマゼランの世界周航という形で劇的な実証を見ました。そして、ニュートンの理論とフランス科学アカデミーの遠征によってその形状が精密化され、現代の宇宙測地技術によって、地球は動的で複雑なシステムとして理解されるに至っています。
この長い道のりは、単一の発見や人物によるものではなく、数千年にもわたる多くの文化や個人の貢献の積み重ねによって築かれました。神話や直感から、観測、推論、測定、そして検証へと至る科学的方法論の発展そのものを体現しています。地球が球体であるという事実は、今や私たちの世界観の根幹をなす自明の理ですが、その発見と証明の歴史は、人類がいかにして自らの住む世界を理解してきたかを示す、偉大な知的遺産であり続けています。
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