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ナポレオン時代① ~ナポレオンの登場とフランス革命の終わり~
著作名: エンリケ航海王子
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ブリュメール18日のクーデターと権力掌握

当時の総裁政府は、バブーフらによる反対派のクーデターが頻発して、不安定な状況が続いていました。

国民は、総裁政府の政策で不安定になっていたフランス社会に、強力なリーダーシップを持つ人物を求めていました。

このような状況の中、ナポレオンはさまざまな遠征を成功させ、国民の間で人気が高まり続けていました。

第2回対仏大同盟をうけてエジプトから急遽帰国したナポレオンは、不安定な総裁政府を打倒し、新たに統領政府をつくります。これをブリュメール(革命暦の霧月18日)のクーデターといい、これをもってフランス革命が終結し、これ以降をナポレオン時代といいます。

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(ブリュメール18日のクーデター)

総裁政府と統領政府は以下の様な違いがありました。

総裁政府1795年憲法で成立したブルジョワ共和政府。5人の総裁が権力分担。
統領政府名目的には3人の統領からなる共和政府だが、事実上第1統領ナポレオンの独裁政権。産業ブルジョワジーと革命期に土地を得た農民が支持層。


さて、国民の圧倒的支持をうけて権力を握ったナポレオンは、さまざまな政策を行います。

まず、遠征活動を再開し、1800年オーストリアを破るためアルプスを越えて北イタリアに侵攻しました。

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(アルプス越えのナポレオン:ダヴィッド作)

オーストリアに勝利したあと、1801年にフランス革命以降対立していたローマ教皇ピウス7世コンコルダート(宗教協約)を結びます。

この協約により、フランス革命期に抑圧されたカトリックの復活を認める代わりに、革命時に没収し農民などに与えた教会財産(土地など)を返還しないことが決められ、ナポレオンの支持する民衆が更に増えました。


また、1802年にはイギリスとアミアンの和約を締結し、第2回対仏大同盟を崩壊させました。

アミアンの和約締結の功績により、ナポレオンは同年国民投票により終身統領になっています。


一方内政面では、1800年にフランス銀行(中央銀行)を創設するなど国家財政の健全化を図り、教育制度の整備し、1804年にはナポレオン法典というフランスの民法典を制定します。

ナポレオン法典は、私有財産(所有権)の不可侵契約の自由など、フランス革命で民衆が勝ち取った権利を成文化したもので、その後さまざまな民法のもとになっていきます。

こうした対外戦争の勝利や、国内政策の充実により、国民はナポレオンを更に支持するようになっていきます。

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