薩長同盟(さっちょうどうめい)は、幕末に
薩摩藩と
長州藩が結んだ同盟です。慶応2年(1866年)に成立し、それまで敵対していた二つの藩が手を組んだ出来事として知られます。この記事では、なぜ薩摩藩と長州藩は手を組む必要があったのかを、「1分でわかる要約」と「深掘り解説」の2段構成でまとめました。
この記事は2段構成です。最初の「1分でわかる薩長同盟」だけで、要点がつかめます。
さらに深掘りでは、次の3つの疑問を考察していきます。
・薩摩藩と長州藩は、なぜ敵対していたのか
・追い詰められた長州藩は、薩摩藩から何を得たのか
・薩摩藩は、なぜ長州藩と組む道を選んだのか
1分でわかる薩長同盟
薩長同盟とは、一言でいえば、藩を守りたい長州藩と、二度目の長州攻めを避けたい薩摩藩の利害が重なって結ばれた同盟です。
もとは敵対していた二つの藩
薩摩藩は、朝廷と幕府が協力して政治を立て直す公武合体の立場でした。1863年の八月十八日の政変で尊王攘夷を掲げた長州藩を京都から追放し、翌1864年の禁門の変でも長州藩と戦いました。
追い詰められた長州藩
長州藩は、禁門の変に負けて朝廷の敵(朝敵)とされ、幕府の討伐を受けました。外国の艦隊にも負けて攘夷(外国を退けること)を諦め、さらに朝敵とされたことで武器を買うこともできなくなりました。
幕府に不満を強める薩摩藩
薩摩藩は幕府を改革する見通しが立たず、不満を強めていました。長州藩への二度目の出兵は財政の負担になり、長州藩が倒れれば、次は自分たちが狙われかねないと考えたとされます。
こうして薩摩藩は、藩の名前を貸して長州藩の武器の購入を助けました。1866年には京都で6か条の同盟を結び、幕府と長州藩が戦えば兵を京都や大坂に送り、長州藩が許されるよう朝廷に働きかけると約束しました。同じ年の第二次長州征討で、薩摩藩は出兵を断り、幕府は長州藩に負けて、その力を大きく落としました。
おまけトリビア
同盟の正式な盟約書は残っていません。6か条の内容が今に伝わるのは、木戸孝允が会談の内容を書いて送った手紙の裏に、坂本龍馬が間違いないという内容を朱色の文字で書き添えたからです。
ここから深掘り
ここまでが1分の要約です。ここからは、薩長同盟をもう一歩深く知りたい方向けに解説します。
■薩摩藩と長州藩は、なぜ敵対していたのか
薩摩藩と長州藩は、ともに京都の政治に大きな力をもつ雄藩(力のある藩)でしたが、立場が違いました。薩摩藩は、朝廷と幕府が協力して政治を立て直す公武合体の立場で、幕府の改革を求めていました。長州藩は、天皇を敬い外国を退ける尊王攘夷を急進的に進め、幕府に反発する姿勢を強めていました。
衝突は、1863年の八月十八日の政変で表に出ます。薩摩藩は会津藩とともに、長州藩と、長州藩に近い公家たちを京都から追放しました。翌1864年、長州藩は兵を京都に進めましたが、御所の近くで薩摩藩や会津藩などと戦って負けます(禁門の変)。御所に向けて発砲したことから朝敵とされ、幕府は長州藩を討つ兵を出しました。
■追い詰められた長州藩は、薩摩藩から何を得たのか
長州藩は1863年に下関で外国船を砲撃し、1864年にはその報復としてイギリスなど四つの国の艦隊に下関を砲撃されました。これを機に、武力で外国を退ける攘夷は難しいと考えるようになったとされます。第一次長州征討では、長州藩が家老の切腹などで恭順の意(幕府に従う姿勢)を示し、戦わずに幕府軍は引き揚げました。その後、高杉晋作らが藩の主導権を握り、幕府に対抗する姿勢を固めます。
幕府は長州藩を再び攻めようとし、10万石を削るなどの処分を示しました。朝敵とされた長州藩は、自分の名では武器を買えず、単独で幕府と戦うのも難しい状況でした。長州藩が薩摩藩から得たのは、薩摩藩の名義による武器の入手、二度目の征討で薩摩藩が敵に回らないこと、薩摩藩による朝廷への働きかけの3つでした。坂本龍馬らが長崎でつくった貿易の組織、亀山社中が、薩摩藩の名義で買った武器や船を長州藩へ運んだとされます。
■薩摩藩は、なぜ長州藩と組む道を選んだのか
薩摩藩は1863年の薩英戦争でイギリスの力を知り、攘夷は難しいと考えるようになりました。その後はイギリスに近づき、武器の購入などを進めたとされます。一方で、公武合体で幕府の改革を進める見通しは立たず、西郷隆盛や大久保利通らを中心に幕府への不満が強まりました。
第一次長州征討には、薩摩藩も幕府側として加わりました。西郷隆盛は参謀として、長州藩を恭順させる交渉にあたり、長州藩の処分をまとめるころから幕府を倒す方向に傾いたとされます。ところが幕府は、第二次長州征討でも薩摩藩に出兵を命じます。戦えば財政が悪化し、長州藩が倒れれば次は自分たちが標的になりかねないと、薩摩藩は考えたとされます。
■同盟の中身と、その後
慶応2年1月(1866年)、京都で、薩摩藩の西郷隆盛・小松帯刀らと、長州藩の木戸孝允(桂小五郎)が会談し、6か条の同盟を結びました。土佐藩を脱藩した坂本龍馬と中岡慎太郎らが仲介しました。
6か条の中心は、薩摩藩が長州藩を助ける約束です。幕府と長州藩が戦えば、薩摩藩は兵を京都や大坂に送る。戦況にかかわらず、薩摩藩は朝廷に働きかけ、長州藩の罪が許されるよう力を尽くす。長州藩が許されたあとは、ともに国のために力を合わせる。
その後、同じ年に始まった第二次長州征討で、薩摩藩は出兵を断りました。洋式の兵器をそろえた長州藩は幕府軍を各地で退け、将軍の徳川家茂が大坂城で亡くなったこともあって、幕府は兵を引きました。幕府の権威は大きく傷つき、以後は幕府を倒す動きが強まります。
■史実と学説
薩長同盟は、倒幕のための軍事同盟と説明されることが多い同盟です。一方で、6か条の中身は、長州藩の復権の後押しと、第二次長州征討への備えが中心です。最初から倒幕を目的にしていたのかは、見方が分かれています。
会談の日付は、慶応2年1月21日(1866年)とされます。
■トリビアの真相
この同盟には、正式な盟約書が残っていません。木戸孝允が会談の内容を6か条にまとめて送ると、坂本龍馬は手紙の裏に、書かれた6か条は同席して話し合ったとおりで間違いないと、朱色の文字で書いて返しました。この手紙が、同盟の中身を今に伝えています。
試験に出るポイント
1866年に、薩摩藩(西郷隆盛・小松帯刀ら)と長州藩(木戸孝允)が、土佐藩出身の坂本龍馬・中岡慎太郎らの仲介で結んだ同盟です。薩摩藩は第二次長州征討への出兵を断り、幕府は敗れました。