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シュマルカルデン同盟とは わかりやすい世界史用語2566 |
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著作名:
ピアソラ
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シュマルカルデン同盟とは
16世紀の神聖ローマ帝国を揺るがした宗教改革の奔流の中で、プロテスタント信仰を守るために結ばれた軍事同盟、シュマルカルデン同盟の誕生は、単なる宗教的な結束以上の、複雑な政治的力学が絡み合った必然的な出来事でした。この同盟の成り立ちを理解するためには、1517年にマルティン=ルターが「九十五箇条の提題」を発表して以来、十数年にわたって帝国を覆い続けた宗教的・政治的緊張の高まりを丹念に追う必要があります。ルターの教えは、神学者たちの論争の域をはるかに超え、帝国内の諸侯や都市の間に急速に浸透し、カトリック教会と皇帝の権威に対する深刻な挑戦となっていきました。
1521年のヴォルムス帝国議会で、ルターが自説の撤回を拒否し、帝国追放の処分を受けるという劇的な出来事は、宗教改革がもはや引き返せない地点に到達したことを示しました。しかし、神聖ローマ皇帝カール5世は、この決定的な時期に、帝国内の宗教問題に集中することができませんでした。彼の広大なハプスブルク帝国は、西ではフランスのフランソワ1世とのイタリアをめぐる覇権争い、東ではオスマン帝国のスレイマン1世によるバルカン半島への侵攻という、二つの巨大な外的脅威に常に晒されていたのです。カール5世は、その治世の多くを帝国の外で過ごさざるを得ず、ドイツの宗教問題への対応は、後手に回らざるを得ませんでした。
この皇帝の不在という権力の空白期間は、プロテスタント思想がドイツ国内で根を張り、制度化されていくための、またとない機会となりました。ザクセン選帝侯フリードリヒ賢公や、その後を継いだヨハン不動公、そしてヘッセン方伯フィリップといった有力な諸侯は、自らの領邦でルター派の教えを公に支持し、教会の改革を推し進めました。彼らは、修道院の財産を没収して領邦の財政を潤し、カトリック司教の管轄権を否定して、自らが領内の教会の首長となる「領邦教会制」を確立していきました。この動きは、単なる信仰上の選択に留まらず、皇帝と教皇という普遍的な権威から自立し、領邦国家としての主権を強化しようとする、強い政治的な動機に支えられていました。多くの帝国都市もまた、市民の間に広がった改革への熱意に後押しされる形で、プロテスタントを受け入れていきました。
しかし、この状況は、皇帝カール5世が帝国に帰還するたびに、緊張の度合いを高めました。1526年の第1回シュパイアー帝国議会では、オスマン帝国の脅威が目前に迫っていたため、カール5世はプロテスタント諸侯に対して譲歩せざるを得ませんでした。議会は、「各々の領邦君主は、神と皇帝に対して責任を負うと期待される形で、生活し、統治し、行動すべきである」という、曖昧ながらも事実上、各領邦が自らの信仰を選択する権利を黙認する決議を採択しました。これは、プロテスタント側にとって大きな勝利であり、この決議を法的根拠として、彼らは領内での教会改革をさらに加速させました。
ところが、1529年、フランスとの戦争に一区切りをつけ、イタリアでの覇権を確立したカール5世は、態度を硬化させます。同年の第2回シュパイアー帝国議会で、皇帝はカトリック派の諸侯と共に、1526年の決議を覆し、ヴォルムス勅令(ルター派の禁止)を再び施行することを強行に決定しました。これに対し、ザクセン選帝侯やヘッセン方伯をはじめとする6人の諸侯と14の帝国都市は、この決定に対して公式な「抗議」を提出しました。この歴史的な抗議行動から、彼らは「プロテスタント」という名で呼ばれるようになります。この出来事は、宗教的な対立が、もはや妥協の余地のない、法的な対決の段階に入ったことを明確に示しました。
そして1530年、カール5世は、教皇から神聖ローマ皇帝としての戴冠を受けた後、満を持してアウクスブルク帝国議会を召集します。彼の目的は、帝国内の宗教分裂に終止符を打ち、カトリックの統一を回復することでした。彼は、プロテスタント側に対して、その信仰の内容を明確に文書で提出するよう求めました。これに応じて、ルターの盟友であるフィリップ=メランヒトンが起草したのが、「アウクスブルク信仰告白」です。この文書は、プロテスタントの教義が、いかに古代教会の正統な信仰に根差しているかを論証しようと試みた、比較的穏健な内容のものでした。プロテスタント側は、この信仰告白を通じて、皇帝との和解の道を探ろうとしたのです。
しかし、カール5世とカトリック神学者たちは、この信仰告白を異端として退け、その反駁書を提出しました。そして、議会の最終決議において、皇帝はプロテスタント諸侯に対し、1531年4月15日までにカトリック教会に復帰するよう最後通牒を突きつけ、それに従わない場合は武力をもって鎮圧することも辞さないという強硬な姿勢を示しました。このアウクスブルクでの完全な決裂は、プロテスタント諸侯たちに、もはや神学的な議論や法的な抗議だけでは、自らの信仰と領地を守り抜くことはできないという厳しい現実を突きつけました。皇帝による軍事的な弾圧が、現実の脅威として目前に迫ってきたのです。この絶望的な状況認識こそが、彼らを政治的・軍事的な同盟の結成へと駆り立てる、直接的な引き金となりました。自衛のためには、個々の領邦の力を結集し、皇帝という強大な権力に対抗できるだけの組織的な力を持つ以外に、道は残されていなかったのです。
同盟の結成と目的
アウクスブルク帝国議会での皇帝カール5世との決裂は、プロテスタント諸侯と都市に、かつてない危機感をもたらしました。皇帝が定めた猶予期間が過ぎれば、帝国アハト刑(帝国の保護を奪い、無法者と宣言する刑)に処せられ、その領地が没収されるという、現実的な脅威に直面したのです。この絶体絶命の状況下で、プロテスタント陣営の二人の指導者、ザクセン選帝侯ヨハン不動公とヘッセン方伯フィリップは、防衛同盟の結成に向けて精力的に動き始めました。
1530年のクリスマス、彼らはテューリンゲン地方の町シュマルカルデンに集まり、具体的な同盟の規約について協議を開始しました。この協議は、決して平坦なものではありませんでした。特に、神学的な問題が、政治的な結束の大きな障害となりました。マルティン=ルターをはじめとするヴィッテンベルクの神学者たちは、臣下が皇帝に対して武力で抵抗することの是非をめぐり、深刻な神学的懸念を表明しました。彼らは、ローマの信徒への手紙第13章に基づき、この世の権威は神によって立てられたものであり、それに抵抗することは神に背くことであるという、伝統的な服従の義務を説いていました。ルターにとって、信仰は剣によって守られるべきものではなく、たとえ皇帝の不正な暴力に苦しめられようとも、それを耐え忍ぶことこそがキリスト者の道であると考えていたのです。
しかし、法学者たちは、この神学的な躊躇に対して、政治的な対抗論理を提示しました。彼らは、神聖ローマ帝国は皇帝による絶対君主制ではなく、皇帝と諸侯との間の契約に基づいた選挙君主制であると主張しました。皇帝がその契約を破り、帝国の法(この場合は各領邦の権利)を不当に侵害するならば、諸侯は、下位の「役職者」として、民衆と真の信仰を守るために、皇帝に抵抗する権利と義務を持つ、というのです。この「抵抗権」の理論は、諸侯たちが自らの行動を正当化するための、極めて重要な法的・理論的根拠となりました。ヘッセン方伯フィリップのような、より政治的で現実主義的な指導者たちは、この理論を強力に支持し、神学者たちを説得しました。最終的に、ルターも、皇帝が自らの権限を超えて行動する場合には抵抗が許されるという、法学者たちの見解を不承不承ながらも受け入れます。
もう一つの神学的な対立点は、聖餐論をめぐるルター派とツヴィングリ派との間の分裂でした。ヘッセン方伯フィリップは、スイスの改革者ウルリヒ=ツヴィングリを信奉する南ドイツの諸都市(シュトラスブルク、コンスタンツなど)も同盟に加えることで、プロテスタント陣営の最大化を図ろうとしました。しかし、ルター派は、キリストの身体と血がパンとぶどう酒の中に「真に存在する」と信じていたのに対し、ツヴィングリ派はそれを単なる象徴と見なしており、この教義上の違いは深刻でした。ルターは、聖餐の教義を共有しない者たちと軍事同盟を結ぶことに、強い嫌悪感を示しました。しかし、ここでも政治的な現実が神学的な純粋さを優先します。最終的に、アウクスブルク信仰告白に署名することを加盟の条件としつつも、その解釈についてはある程度の柔軟性を持たせるという妥協が成立し、南ドイツの諸都市も同盟に参加する道が開かれました。
これらの困難な交渉を経て、1531年2月27日、シュマルカルデンにおいて、ザクセン選帝侯ヨハンとヘッセン方伯フィリップを筆頭とする7人の諸侯と11の帝国都市は、「シュマルカルデン同盟」を正式に結成しました。その規約(シュマルカルデン同盟規約)は、この同盟が純粋に防衛的なものであることを明確に規定していました。その核心的な目的は、「もし我々の一人が、神の言葉や我々の信仰を理由として、攻撃されたり、何らかの危害を加えられたりした場合、他のすべての加盟者は、遅滞なく、その者を助けなければならない」という、集団安全保障の原則にありました。つまり、加盟者の一人に対する攻撃は、全員に対する攻撃と見なし、共同で防衛にあたるというものです。
同盟は、具体的な軍事組織の設立も定めました。加盟者は、その財政力に応じて分担金を支払い、それによって1万の歩兵と2千の騎兵からなる同盟軍を維持することになりました。同盟の指導権は、最も有力な加盟者であるザクセン選帝侯とヘッセン方伯が共同で担うこととされました。同盟の結成は、プロテスタント勢力が、単なる思想的な集団から、皇帝の権威に対抗しうる、組織化された政治的・軍事的なパワーへと変貌を遂げたことを示す、画期的な出来事でした。それは、神聖ローマ帝国の歴史において、皇帝に対して公然と武力抵抗を構える、諸侯による最初の本格的な軍事同盟であり、帝国の政治構造そのものを根底から揺るがすものでした。シュマルカルデン同盟は、宗教改革を守るための盾であると同時に、ドイツの領邦国家が皇帝の中央集権化の動きに抗い、自らの「自由」(領邦主権)を確保するための、強力な武器となったのです。
同盟の拡大と政治的成功
シュマルカルデン同盟の結成は、皇帝カール5世の強硬策に対する、時宜を得た、そして極めて効果的な対抗策であることがすぐに証明されました。同盟の存在そのものが、プロテスタント勢力の政治的な交渉力を飛躍的に高め、カール5世は、彼らを武力で単独に鎮圧するという当初の計画を、一時的に断念せざるを得なくなります。この背景には、またしても帝国の外からもたらされた、深刻な軍事的脅威がありました。
1532年、オスマン帝国のスルタン、スレイマン1世が、前回のウィーン包囲の雪辱を果たすべく、再び巨大な軍勢を率いてハンガリーに侵攻してきました。この新たな「トルコの脅威」は、カール5世にとって、帝国内の宗教的統一を回復することよりも、はるかに緊急性の高い課題でした。オスマン軍に対抗するためには、帝国の総力を結集する必要があり、そのためにはプロテスタント諸侯の軍事的な協力が不可欠でした。この状況は、シュマルカルデン同盟にとって、絶好の交渉機会をもたらしました。
ヘッセン方伯フィリップとザクセン選帝侯ヨハンは、この好機を逃しませんでした。彼らは、オスマン帝国との戦いに協力する見返りとして、皇帝に対して宗教的な寛容と、プロテスタントに対する訴訟の停止を要求しました。板挟みになったカール5世は、不本意ながらも、この要求を受け入れざるを得ませんでした。1532年7月、ニュルンベルクにおいて、「ニュルンベルクの宗教休戦」と呼ばれる協定が結ばれます。この協定により、皇帝は、来るべき公会議が開催されるまでの間、プロテスタント諸侯に対する一切の宗教的訴訟を停止し、現状を維持することを約束しました。これは、シュマルカルデン同盟にとって、結成後わずか1年にして勝ち取った、最初の大きな政治的勝利でした。アウクスブルクで突きつけられた武力弾圧の脅威は、一時的にではあれ、回避されたのです。この休戦協定は、同盟の有効性を内外に示し、その後の発展の基礎を築きました。
ニュルンベルクの休戦によって得られた平和な期間は、シュマルカルデン同盟がその勢力を拡大し、組織を強化するための、黄金時代となりました。同盟の成功は、これまで日和見的な態度を取っていた他のプロテスタント派の領邦や都市にとって、大きな魅力となりました。同盟に加盟すれば、皇帝の圧力から身を守り、領内での教会改革を安心して進めることができるからです。ヴュルテンベルク公国、ポメラニア公国、ブランデンブルク選帝侯領の一部、そしてアンスバッハ、アウクスブルク、フランクフルト、ハンブルクといった有力な帝国都市が、次々と同盟に加盟していきました。1530年代末には、同盟は北ドイツと南ドイツの広大な地域を覆う、一大勢力へと成長していました。
この拡大の中でも、特に重要な意味を持っていたのが、1534年のヴュルテンベルク公国の奪還でした。ヴュルテンベルク公ウルリヒは、かつてその不行跡のために領地を追われ、公国はハプスブルク家の管理下に置かれていました。ヘッセン方伯フィリップは、この状況を、ハプスブルク家の南ドイツにおける影響力を削ぐ好機と捉えました。彼は、同盟の軍事力を背景に、フランス王フランソワ1世からの資金援助も得て、ヴュルテンベルクに軍事介入します。ラウフェンの戦いでハプスブルク軍を破り、ウルリヒ公を劇的に復位させたのです。この成功は、シュマルカルデン同盟が、単なる防衛同盟に留まらず、必要とあれば攻撃的な軍事行動をも辞さない、強力な政治勢力であることを内外に示しました。復位したウルリヒ公は、ただちに領内で宗教改革を断行し、ヴュルテンベルクは南ドイツにおけるプロテスタンティズムの重要な拠点となりました。
さらに、シュマルカルデン同盟は、外交的な活動も活発に行いました。彼らは、ハプスブルク家と敵対するフランスやイングランド、デンマークといった国外の勢力と積極的に連携し、対ハプスブルク包囲網を形成しようと試みました。特に、フランス王フランソワ1世は、カトリック教徒でありながら、宿敵であるカール5世を牽制するために、ドイツのプロテスタント諸侯に秘密裏に資金援助を行いました。イングランド王ヘンリー8世も、ローマ教皇と決別した後、シュマルカルデン同盟との連携を模索しました。これらの外交努力は、同盟を神聖ローマ帝国内の単なる反乱分子から、ヨーロッパの国際政治における認知されたプレイヤーへと押し上げる役割を果たしました。
このように、1530年代から1540年代初頭にかけて、シュマルカルデン同盟は、その最盛期を迎えました。彼らは、皇帝の不在と、有利な国際情勢を巧みに利用し、軍事的、政治的、そして外交的な成功を収めました。プロテスタンティズムは、もはや抑圧される少数派ではなく、帝国内に確固たる地位を築いた、無視できない勢力となったのです。しかし、この成功の裏側では、同盟の将来に暗い影を落とす、内部の亀裂と、国際情勢の変化が、静かに進行していました。栄光の頂点は、同時に、崩壊への序曲でもあったのです。
同盟の内部対立と弱体化
1540年代初頭、シュマルカルデン同盟は、その勢力の頂点に達しているように見えました。しかし、その華々しい成功の陰で、同盟の結束を根底から揺るがす、いくつかの深刻な問題が進行していました。これらの内部的な亀裂と、指導者たちの個人的な失策が、やがて皇帝カール5世につけ入る隙を与え、同盟を崩壊へと導くことになります。
最大の打撃となったのは、同盟の最も活動的な指導者であったヘッセン方伯フィリップが引き起こした、重婚問題でした。フィリップは、精力的な政治家である一方で、私生活では敬虔なルター派の教義と、自らの抑えがたい情欲との間で深く悩んでいました。彼は、政略結婚によって結ばれた妻クリスティーナ=フォン=ザクセンとの関係に満足できず、若い女官マルガレーテ=フォン=デア=ザーレに恋をしました。カトリック教会のように離婚や婚姻の無効が認められないプロテスタントの教義の下で、彼は、この問題を解決するために、驚くべき手段を考え出します。それは、旧約聖書の族長たちが複数の妻を持っていたことを前例として、マルガレーテと「第二の結婚」をすることでした。
この前代未聞の計画を実現するため、フィリップは、マルティン=ルターとフィリップ=メランヒトンに神学的な承認を求めました。ルターとメランヒトンは、この要求に大きな衝撃を受け、道徳的に強く反対しましたが、最終的には、フィリップが同盟の指導者として政治的に不可欠な存在であることを考慮し、極めて不本意ながらも、この重婚を「牧会的な助言」として、秘密裏に承認してしまいます。彼らは、これが公になれば、宗教改革運動全体に計り知れないほどの醜聞とダメージを与えることを恐れたのです。
しかし、秘密は長くは続きませんでした。1540年、フィリップがマルガレーテと密かに結婚式を挙げたことが、やがて公の知るところとなります。神聖ローマ帝国の法において、重婚は死刑にさえ値する大罪でした。この醜聞は、プロテスタント陣営に激震を走らせました。彼らが道徳的退廃として非難してきたカトリック教会と何ら変わらない偽善であると、敵対者から激しく攻撃される格好の材料を提供してしまったのです。さらに深刻だったのは、このスキャンダルが、フィリップの政治的な立場を致命的に弱めたことでした。彼は、皇帝カール5世の裁きを恐れ、自らの法的地位を保全するために、皇帝との秘密交渉を開始します。1541年、彼は、皇帝から重婚罪に対する恩赦を与えられる見返りに、シュマルカルデン同盟の反ハプスブルク的な政策に協力しないことや、フランスとの同盟を破棄することなどを約束させられました。これにより、同盟の最も有能で行動的な指導者の一人が、事実上、皇帝の意のままに操られる存在となってしまったのです。フィリップの裏切りは、同盟の政治的・軍事的な結束力に、修復不可能なほどのダメージを与えました。
もう一人の指導者であるザクセン選帝侯ヨハン=フリードリヒもまた、同盟を弱体化させる一因となりました。彼は、ヘッセン方伯フィリップのような政治的な機敏さや現実感覚に欠け、頑固で短気な性格でした。彼は、プロテスタントの教義を原理主義的に捉え、政治的な妥協を嫌いました。その硬直した態度は、同盟内部での意見調整を困難にし、しばしば他の加盟者との対立を引き起こしました。
特に、1541年に彼がナウムブルク司教領の管理権を強引に奪い、そこにプロテスタントの司教を任命した事件や、1542年にブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公ハインリヒ(帝国内で数少ない頑強なカトリック派諸侯の一人)の領地に軍事侵攻し、その領地を占領した事件は、同盟の評判を大きく損ないました。これらの行動は、同盟が純粋な「防衛」同盟であるという当初の理念を逸脱し、攻撃的で領土的な野心を持つ勢力であるという印象を内外に与えました。これは、皇帝カール5世が、シュマルカルデン同盟を、帝国の平和を乱す無法な反逆者として断罪し、彼らに対する戦争を正当化するための、格好の口実を提供することになりました。
さらに、同盟内部では、諸侯と帝国都市との間の利害の対立も顕在化していました。諸侯は、自らの領邦主権の拡大を最優先に考えていましたが、帝国都市は、商業的な利益と都市の自治権を守ることを重視しており、諸侯の領土的な野心には警戒心を抱いていました。同盟の軍事行動にかかる財政的な負担も、主に都市の肩に重くのしかかり、彼らの不満を増大させていました。
このように、1540年代半ば、シュマルカルデン同盟は、外見上の勢力とは裏腹に、指導者の失策、内部の不和、そしてその攻撃的な政策によって、深刻な弱体化の過程にありました。かつて皇帝を恐れさせた強固な結束は失われ、同盟は一枚岩とはほど遠い状態に陥っていたのです。そして、この好機を、皇帝カール5世が見逃すはずはありませんでした。彼は、フランスやオスマン帝国との間に一時的な和平を成立させ、ついに長年の懸案であったドイツのプロテスタント問題を、武力によって最終的に解決するための準備を着々と進めていたのです。
シュマルカルデン戦争と敗北
1540年代半ば、皇帝カール5世は、長年にわたって彼を縛り付けてきた二正面作戦から、ついに解放される時を迎えました。1544年、彼はフランス王フランソワ1世との間でクレピーの和約を結び、長年のイタリア戦争に終止符を打ちます。さらに、1545年にはオスマン帝国とも休戦協定を延長し、東方からの脅威を一時的に取り除くことに成功しました。これにより、カール5世は、帝国の全力を、ドイツのプロテスタント問題、すなわちシュマルカルデン同盟の解体に傾けることが可能になったのです。
カール5世は、周到な準備の下に、同盟を切り崩すための策略を巡らせました。彼の最大の成功は、プロテスタント陣営の内部に楔を打ち込むことに成功したことでした。彼は、ザクセン選帝侯ヨハン=フリードリヒの従弟にあたる、アルベルティン家のザクセン公モーリッツに目をつけました。モーリッツは、野心的で抜け目のない現実主義者であり、プロテスタントでありながら、自らの権力と領土を拡大するためには、皇帝と手を組むことも厭わない人物でした。カール5世は、モーリッツに対して、もしシュマルカルデン同盟との戦いに協力するならば、従兄であるヨハン=フリードリヒが持つ選帝侯の地位と、その領地の大部分を与えるという、魅力的な密約を持ちかけました。この裏取引によって、カール5世は、プロテスタント陣営の有力な諸侯を一人、味方に引き入れることに成功したのです。
1546年夏、カール5世は、教皇パウルス3世からの資金援助と軍事支援の約束も取り付け、ついにシュマルカルデン同盟に対して宣戦を布告します。彼は、この戦争が宗教戦争ではなく、一部の反逆的な諸侯(特にヨハン=フリードリヒとフィリップ)が帝国の法と秩序を乱したことに対する、警察行動(帝国執行)であると巧みに宣伝しました。これにより、多くのプロテスタント諸侯が中立を守り、同盟の側について参戦することはありませんでした。
1546年7月、シュマルカルデン戦争が勃発します。緒戦において、同盟軍は南ドイツで皇帝軍に対して数的優位に立っていました。彼らは、ドナウ川沿いに陣を敷き、皇帝軍の進撃を食い止めようとしました。しかし、同盟の指導部は、決断力と統一性を欠いていました。彼らは、この優位性を生かして決戦を挑むことをためらい、防御的な戦略に終始しました。その間に、皇帝はイタリアやネーデルラントから増援部隊を集め、着実に戦力を増強していきました。
そして秋になると、戦況を決定的に変える出来事が起こります。密約通り、ザクセン公モーリッツが、皇帝の同盟者として、ヨハン=フリードリヒの領地であるザクセン選帝侯領に侵攻したのです。背後を突かれたヨハン=フリードリヒは、南ドイツの戦線から自軍を引き抜き、故郷の防衛に戻らざるを得なくなりました。これにより、南ドイツの同盟軍は崩壊し、多くの都市や諸侯が次々と皇帝に降伏していきました。
戦争の最終的な決着は、翌1547年春、北ドイツのエルベ川のほとりでつけられました。1547年4月24日、ミュールベルクの戦いで、カール5世率いる皇帝軍は、ヨハン=フリードリヒのザクセン軍を奇襲します。皇帝軍は、濃い霧に紛れてエルベ川を渡り、全く無防備であったザクセン軍を背後から攻撃しました。ザクセン軍は、ほとんど抵抗らしい抵抗もできないままに壊滅し、ヨハン=フリードリヒ自身も負傷して捕虜となりました。このミュールベルクでの決定的な勝利によって、シュマルカルデン戦争は、事実上終結しました。もう一人の指導者であったヘッセン方伯フィリップも、戦意を喪失し、数週間後に皇帝に降伏しました。
カール5世は、勝利者として、敗者に対して厳しい裁きを下しました。捕虜となったヨハン=フリードリヒは、死刑を宣告されますが、家族の懇願によって終身刑に減刑され、選帝侯の地位と領地の大部分を剥奪されました。その選帝侯位と領地は、約束通り、裏切り者であるザクセン公モーリッツに与えられました。ヘッセン方伯フィリップもまた、皇帝に欺かれて捕らえられ、数年間にわたる幽閉生活を送ることになります。シュマルカルデン同盟は、完全に解体され、その指導者たちは囚われの身となりました。プロテスタント勢力は、その軍事的な支柱を失い、壊滅的な打撃を受けたのです。カール5世は、その権力の絶頂に立ち、長年の夢であった、帝国内の宗教的・政治的統一の回復が、ついに実現したかのように見えました。
アウクスブルクの和議と遺産
ミュールベルクの戦いで地上の敵対者を一掃した皇帝カール5世は、自らの権力の頂点に立ち、帝国の宗教問題を最終的に解決するための行動を開始しました。1547年から1548年にかけて、彼はアウクスブルクで帝国議会を召集し、プロテスタント勢力に対して、自らの意向を一方的に押し付けようと試みます。この議会は、皇帝の威光を示すために甲冑をまとった兵士たちが議場を取り囲む中で行われたため、「武装した帝国議会」と呼ばれています。
この議会で、カール5世は「アウクスブルク仮信条協定(アウクスブルク=インテリム)」と呼ばれる布告を発しました。これは、来るべき公会議(トリエント公会議)で最終的な決定が下されるまでの、暫定的な宗教上の取り決めでした。その内容は、聖職者の結婚と、信徒が聖餐式でパンとぶどう酒の両方を受けること(二種陪餐)という、二つの点でのみプロテスタント側に譲歩したものの、それ以外の教義や儀式においては、ほぼ完全にカトリックの教えに復帰することを強要するものでした。これは、プロテスタント側にとって、到底受け入れがたい、事実上の降伏勧告でした。カール5世は、自らの軍事的な勝利を背景に、宗教的な統一を力ずくで実現しようとしたのです。
しかし、この強圧的な政策は、激しい抵抗に遭い、最終的には裏目に出ます。インテリムは、プロテスタントの諸侯や都市だけでなく、カトリック側からも、中途半端な妥協であるとして不評でした。特に、多くの南ドイツの帝国都市は、インテリムの受け入れを頑強に拒否し、皇帝の軍隊によって占領されるという事態にまで発展しました。この強硬策は、帝国内に新たな不満と反感を広げ、カール5世の権力基盤を、皮肉にも内側から蝕んでいきました。
そして、この状況を劇的に転換させたのが、かつて皇帝の最も忠実な協力者であった、ザクセン選帝侯モーリッツの再度の裏切りでした。モーリッツは、皇帝から選帝侯の地位を与えられたものの、カール5世がドイツの諸侯の「自由」(領邦主権)を抑圧し、スペイン風の絶対君主制を導入しようとしていることに、強い警戒感を抱くようになります。また、岳父であるヘッセン方伯フィリップが、約束に反して長期間幽閉されていることにも、不満を募らせていました。彼は、密かに他のプロテスタント諸侯や、ハプスブルク家と敵対するフランス王アンリ2世(フランソワ1世の子)と連携し、皇帝に対する反乱を計画します。
1552年、モーリッツは、突如として皇帝に反旗を翻し、軍を率いて南ドイツへと進撃しました。全く油断していたカール5世は、不意を突かれ、インスブルックで危うく捕虜になるところを、僅かな供回りと共にアルプスを越えて逃亡するという、屈辱的な敗走を余儀なくされました。この「諸侯の反乱」によって、カール5世がミュールベルクの勝利以来築き上げてきた権力構造は、一瞬にして崩れ去りました。軍事的にも政治的にも、もはや自らの意志を帝国に押し付ける力を失ったことを悟ったカール5世は、弟のフェルディナントに、諸侯との和解交渉を委ねます。
この交渉の結果、1555年にアウクスブルクで開かれた帝国議会において、歴史的な「アウクスブルクの宗教和議」が成立しました。この和議は、シュマルカルデン戦争とその後の混乱に、最終的な決着をつけるものでした。その最も重要な原則は、「クーイウス・レギオ、エイウス・レリギオ」、すなわち「その地を領する者が、その地の宗教を決定する」というものでした。これにより、帝国内の各領邦君主は、自らの領地において、カトリックとルター派(アウクスブルク信仰告白に基づく)のいずれかの信仰を、公式な宗教として選択する権利を法的に認められました。領民は、領主の信仰に従うか、あるいは財産を売って他の領邦へ移住する権利(移住権)を与えられました。
この和議は、カール5世が生涯をかけて追求した、キリスト教世界の統一という夢が、完全に破綻したことを意味していました。彼は、帝国内におけるプロテスタンティズムの存在を、法的に認めざるを得なかったのです。アウクスブルクの和議は、個人の信仰の自由を保障したものではありませんでしたが、近代ヨーロッパにおける国家主権と宗教的寛容の概念に向けた、重要な一歩となりました。それは、神聖ローマ帝国が、統一されたカトリック帝国ではなく、多数の主権的な領邦国家が共存する、宗教的に分裂した複合体であることを、法的に確定させたのです。
シュマルカルデン同盟自体は、戦争によって無残に破壊されました。しかし、その存在と闘争がなければ、アウクスブルクの和議が実現することはなかったでしょう。同盟は、プロテスタンティズムが最も脆弱であった時期に、それを守るための盾となり、皇帝の圧倒的な権力に対して、諸侯の「自由」と抵抗権を主張し続けました。その敗北は、最終的に、武力では宗教問題を解決できないという教訓を帝国にもたらし、政治的な妥協としての宗教和議への道を開いたのです。シュマルカルデン同盟の遺産は、その直接的な敗北を超えて、ドイツとヨーロッパの宗教的・政治的な地図を恒久的に塗り替える、大きな歴史的意義を持っていたと言えます。
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- 東アジア諸地域の自立化(東アジア、契丹・女真、宋の興亡)
- 内陸アジア世界の形成
- 遊牧民とオアシス民の活動
- トルコ化とイスラーム化の進展
- モンゴル民族の発展
- イスラーム世界の形成と拡大
- イスラーム帝国の成立
- イスラーム世界の発展
- インド・東南アジア・アフリカのイスラーム化
- イスラーム文明の発展
- ヨーロッパ世界の形成と変動
- 西ヨーロッパ世界の成立
- 東ヨーロッパ世界の成立
- 西ヨーロッパ中世世界の変容
- 西ヨーロッパの中世文化
- 諸地域世界の交流
- 陸と海のネットワーク
- 海の道の発展
- アジア諸地域世界の繁栄と成熟
- 東アジア・東南アジア世界の動向(明朝と諸地域)
- 清代の中国と隣接諸地域(清朝と諸地域)
- トルコ・イラン世界の展開
- ムガル帝国の興隆と衰退
- ヨーロッパの拡大と大西洋世界
- 大航海時代
- ルネサンス
- 宗教改革
- 主権国家体制の成立
- 重商主義と啓蒙専制主義
- ヨーロッパ諸国の海外進出
- 17~18世紀のヨーロッパ文化
- ヨーロッパ・アメリカの変革と国民形成
- イギリス革命
- 産業革命
- アメリカ独立革命
- フランス革命
- ウィーン体制
- ヨーロッパの再編(クリミア戦争以後の対立と再編)
- アメリカ合衆国の発展
- 19世紀欧米の文化
- 世界市場の形成とアジア諸国
- ヨーロッパ諸国の植民地化の動き
- オスマン帝国
- 清朝
- ムガル帝国
- 東南アジアの植民地化
- 東アジアの対応
- 帝国主義と世界の変容
- 帝国主義と列強の展開
- 世界分割と列強対立
- アジア諸国の改革と民族運動(辛亥革命、インド、東南アジア、西アジアにおける民族運動)
- 二つの大戦と世界
- 第一次世界大戦とロシア革命
- ヴェルサイユ体制下の欧米諸国
- アジア・アフリカ民族主義の進展
- 世界恐慌とファシズム諸国の侵略
- 第二次世界大戦
- 米ソ冷戦と第三勢力
- 東西対立の始まりとアジア諸地域の自立
- 冷戦構造と日本・ヨーロッパの復興
- 第三世界の自立と危機
- 米・ソ両大国の動揺と国際経済の危機
- 冷戦の終結と地球社会の到来
- 冷戦の解消と世界の多極化
- 社会主義世界の解体と変容
- 第三世界の多元化と地域紛争
- 現代文明
- 国際対立と国際協調
- 国際対立と国際協調
- 科学技術の発達と現代文明
- 科学技術の発展と現代文明
- これからの世界と日本
- これからの世界と日本
- その他
- その他
























