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サンタ=マリア大聖堂とは わかりやすい世界史用語2525
著作名: ピアソラ
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サンタ=マリア大聖堂とは

イタリアのトスカーナ地方、その中心に位置する都市フィレンツェのスカイラインを、圧倒的な存在感で支配する一つの建築物があります。それは、赤褐色の巨大なクーポラ(円蓋)を頂き、白、緑、ピンクの大理石が織りなす幾何学模様のファサード(正面)を持つ、壮麗なサンタ=マリア=デル=フィオーレ大聖堂です。一般に「ドゥオーモ」の名で親しまれるこの教会は、単なるフィレンツェの宗教的中心であるだけでなく、この都市の誇り、富、そしてルネサンス期に開花した比類なき芸術的・技術的野心の、永遠の象徴としてそびえ立っています。
この大聖堂の物語は、13世紀末のフィレンツェが、経済的な繁栄の頂点にあり、近隣のライバル都市シエナやピサに対抗しうる、より壮大で壮麗な教会を渇望したことから始まります。それは、フィレンツェの守護聖人である聖母マリアに捧げられる、世界最大級の教会となるべきプロジェクトでした。しかし、その野心的な計画は、幾多の建築家の交代、政治的な混乱、そして黒死病という未曾有のカタストロフに見舞われ、完成までには140年以上の長きにわたる歳月を要しました。
大聖堂の建設史は、それ自体がフィレンツェの歴史の縮図です。初期の設計を担ったアルノルフォ=ディ=カンビオの壮大な構想、その跡を継ぎ、優美な鐘楼を設計した画家ジョット=ディ=ボンドーネ、そして建設事業を指揮したフランチェスコ=タレンティら幾人もの建築家たちの手を経て、巨大な聖堂の躯体は徐々にその姿を現していきました。しかし、15世紀初頭、彼らの前には一つの絶望的な難問が残されました。直径45メートルにも及ぶ、巨大な八角形の開口部をいかにして覆うか。それは、当時の技術では不可能とさえ思われた、建築史上の巨大な挑戦でした。
この不可能を可能にしたのが、フィリッポ=ブルネレスキという一人の天才でした。彼は、古代ローマの技術と、自身の発明家としての独創性を融合させ、仮枠を使わずにドームを建設するという前代未聞の工法を考案し、フィレンツェの空に、あの優美な赤褐色のシルエットを完成させたのです。このクーポラの建設は、ルネサンスの精神、すなわち人間の知性が自然の制約に打ち勝ち、新たな地平を切り開くことができるという信念を、最も劇的に体現した出来事でした。
しかし、この大聖堂の物語は、ブルネレスキのクーポラだけで終わるわけではありません。その隣には、ジョットが設計した「絵画のような」鐘楼が優美に立ち、正面には、ロレンツォ=ギベルティが「天国の門」と称された黄金の扉を制作したサン=ジョヴァンニ洗礼堂が控えています。これら三つの建築物が一体となって形成するドゥオーモ広場は、ルネサンス芸術の精華が一堂に会する、巨大な野外美術館なのです。

アルノルフォ=ディ=カンビオの野心的な計画

サンタ=マリア=デル=フィオーレ大聖堂の壮大な物語は、13世紀末のフィレンツェの野心と繁栄の中から生まれました。当時、フィレンツェは羊毛産業と銀行業によってヨーロッパ有数の経済大国としての地位を確立し、その力は頂点に達しようとしていました。この経済的な自信を背景に、市民と共和国政府は、自分たちの都市の栄光と信仰心を世界に示すための、新たな象徴を渇望していました。その象徴こそが、新しい大聖堂の建設だったのです。
当時のフィレンツェには、サンタ=レパラータ教会という、より古く、小規模な教会が市の中心にありました。しかし、急速に拡大する都市の人口と、近隣のライバル都市、特にシエナやピサが壮麗な大聖堂を誇っていたことに対抗するため、フィレンツェは、これらを凌駕する、かつてないほど巨大で壮麗な教会を建設することを決定します。この新しい大聖堂は、フィレンツェの守護聖人である聖母マリアに捧げられ、「花の聖母マリア(サンタ=マリア=デル=フィオーレ)」と名付けられました。この「花」は、聖母の象徴であると同時に、フィレンツェ(花の都)そのものを指す言葉でもありました。
この壮大なプロジェクトの最初の建築家として白羽の矢が立てられたのが、アルノルフォ=ディ=カンビオでした。彼は、彫刻家としても建築家としてもすでに高い名声を得ていた、当代随一の芸術家の一人でした。彼は、ローマやシエナで活動し、古典古代の芸術とゴシック建築の双方に深い知識を持っていました。
1296年9月8日、教皇特使の臨席のもと、アルノルフォの設計による新しい大聖堂の最初の石が置かれ、建設が正式に開始されました。アルノルフォが構想したのは、まさにフィレンツェの野心を体現するような、壮大なスケールの計画でした。彼は、既存のサンタ=レパラータ教会を覆うように、東に向かって巨大な聖堂を建設することを計画します。
彼の設計の最も独創的な特徴は、その平面プランにありました。彼は、伝統的なラテン十字形のプランを採用しつつも、その東端に、巨大な八角形の空間を配置し、そこから三つの半円形の後陣(アプス)が放射状に突き出すという、ユニークな三葉形の後陣部を考案しました。この八角形の空間の真上には、最終的に巨大なクーポラが架けられることが、当初から意図されていました。このプランは、初期キリスト教建築の集中式プランと、ゴシック建築の長大な身廊を組み合わせたものであり、アルノルフォの独創性を示すものでした。この巨大なドーム空間は、会衆全体を一体として包み込むことを意図しており、フィレンツェ共和国の市民的な連帯感を象徴するものでもあったと考えられます。
アルノルフォは、大聖堂の外壁の装飾にも、明確なヴィジョンを持っていました。彼は、フィレンツェ周辺で産出される、白(カッラーラ産)、緑(プラート産)、ピンク(マレンマ産)という三色の大理石を組み合わせた、幾何学的なパネル装飾を計画しました。この色彩豊かな大理石の被覆は、隣接するサン=ジョヴァンニ洗礼堂のロマネスク様式と調和しつつ、トスカーナ地方の建築の伝統を受け継ぐものでした。
アルノルフォは、大聖堂のファサード(正面)の建設にも着手し、その下部を聖母マリアやフィレンツェの聖人たちを称える壮大な彫刻群で飾りました。彼自身が制作したとされる『眠る聖母』や『玉座の聖母子』などの彫刻は、フランスゴシックの優雅さと、古代ローマ彫刻の荘重さを兼ね備えた、力強い作風を示しています。これらの彫刻は、ファサードが未完のまま後世に取り壊されたため、現在はドゥオーモ付属美術館に収蔵されていますが、アルノルフォの芸術家としての力量を雄弁に物語っています。
しかし、アルノルフォは、この壮大な計画の完成を見ることなく、1302年頃に亡くなります。彼の死後、建設プロジェクトは資金難や政治的混乱のために停滞し、しばらくの間、ほとんど進展が見られない時期が続きました。アルノルフォが築いたのは、大聖堂の基礎と、ファサードおよび側壁の一部に過ぎませんでした。しかし、彼が提示した、巨大な八角形のドーム空間を持つという基本構想は、その後も揺らぐことなく受け継がれ、後継の建築家たちが挑むべき、壮大で困難な目標として、フィレンツェの中心に残り続けたのです。アルノルフォ=ディ=カンビオは、まさしくサンタ=マリア=デル=フィオーレ大聖堂の「父」であり、その野心的なヴィジョンが、その後140年以上にわたる建設の物語の、すべての始まりとなったのでした。
ジョットの鐘楼と建設の中断

アルノルフォ=ディ=カンビオの死後、停滞していた大聖堂の建設事業が再び本格的に動き出すのは、1330年代に入ってからのことでした。フィレンツェの強力な羊毛商ギルドが、建設事業の監督を引き受け、豊富な資金を投入し始めたのです。そして1334年、ギルドは、この重要なプロジェクトの新たな首席建築家(カポマエストロ)として、当時すでにイタリアで最も偉大な画家として名声をとどろかせていた、ジョット=ディ=ボンドーネを任命するという、驚くべき決定を下します。
画家が、このような大規模な建築プロジェクトの総責任者に任命されることは異例でしたが、ジョットは単なる画家ではなく、あらゆる芸術に通じた万能の天才と見なされていました。彼の任命は、芸術家の社会的地位が向上し、その知的な創造性が高く評価されるようになった、ルネサンスの萌芽を示す出来事でした。
首席建築家としてのジョットの最初の、そして最も重要な仕事は、大聖堂本体から独立して立つ鐘楼(カンパニーレ)の設計と建設でした。彼は、この鐘楼を、単に鐘を吊るすための塔ではなく、大聖堂に比肩する、それ自体が一個の芸術作品となるような、壮麗なモニュメントとして構想しました。
ジョットが設計した鐘楼は、高さ約85メートル、一辺が約15メートルの四角い塔で、その外壁は、大聖堂本体と同様に、白、緑、ピンクの大理石による幾何学的なパネルで覆われています。彼のデザインの最も独創的な点は、その絵画的な構成と、豊かな彫刻装飾にありました。彼は、画家としての色彩感覚と構成力を建築に応用し、大理石のパネルをまるで絵画のカンバスのように扱いました。
さらに彼は、鐘楼の基部を飾る、一連の六角形と菱形のレリーフ彫刻のための、壮大な図像プログラムを考案しました。このプログラムは、人間の営みのすべてを網羅しようとする、百科全書的な野心に満ちたものでした。六角形のパネルには、天地創造から始まり、アダムとイブの労働、牧畜、農業、機織り、航海、建築といった、人間の創造的な活動(機械的技術)が描かれています。その上の菱形のパネルには、七つの惑星、七つの美徳(信仰、希望、愛、賢明、剛毅、節制、正義)、そして七つの自由学芸(文法、論理学、修辞学、算術、幾何学、音楽、天文学)が表現されています。この壮大な彫刻群は、人間のあらゆる知識と労働が、神の創造の秩序の中に位置づけられるという、中世的な世界観を体系的に表現したものでした。ジョットは、これらのレリーフのいくつかを自らデザインしたと考えられており、その生き生きとした人物描写には、彼の絵画に通じる自然主義が見て取れます。
1334年7月19日、鐘楼の建設は盛大な式典とともに開始されましたが、ジョット自身がこのプロジェクトの完成を見届けることはありませんでした。彼は、建設開始からわずか2年半後の1337年に亡くなります。彼が監督できたのは、基壇部分のレリーフ彫刻がはめ込まれた一層目まででした。
ジョットの死後、鐘楼の建設は、彼のもとで働いていたアンドレア=ピサーノに引き継がれます。彼は、ジョットの基本設計を尊重しつつ、彫刻プログラムを続けました。しかし、彼の監督も長くは続きませんでした。1348年、ヨーロッパ全土を未曾有のカタストロフが襲います。黒死病(ペスト)の大流行です。フィレンツェもその例外ではなく、人口の半分以上が失われたと推定されています。この大災害は、社会に深刻な打撃を与え、大聖堂と鐘楼の建設は、完全に中断せざるを得なくなりました。
建設が再開されるのは、ペストの猛威が過ぎ去った後の1350年代になってからです。プロジェクトは、フランチェスコ=タレンティという新たな建築家に引き継がれました。彼は、鐘楼の上層部の設計に大きな変更を加え、各層に大きな開口部を持つ、より軽やかでゴシック的な窓を設けました。これにより、塔の重量が軽減され、構造的な安定性が増しました。最終的に、鐘楼は1359年に完成します。ジョットが当初計画していたとされる先端の尖塔は建設されませんでしたが、その優美な姿は、今日に至るまで「ジョットの鐘楼」として親しまれ、フィレンツェのスカイラインに欠かせない要素となっています。それは、一人の画家のヴィジョンと、幾人もの後継者たちの手によって完成された、フィレンツェの芸術の層の厚さを示す記念碑なのです。
ブルネレスキの不滅の功績

15世紀初頭、サンタ=マリア=デル=フィオーレ大聖堂の建設は、最終段階にして最大の難関に直面していました。身廊、後陣、そしてジョットの鐘楼はほぼ完成していましたが、その中央、アルノルフォ=ディ=カンビオが構想した巨大な八角形の交差部の上には、直径45メートル、高さ55メートルの巨大な穴が、ぽっかりと空に口を開けていました。この前代未聞の大きさの空間を、いかにしてドームで覆うのか。それは、当時のあらゆる建築技術の常識を超えた、絶望的とさえ思える課題でした。フィレンツェ共和国の威信をかけたこの一大プロジェクトは、まさに技術的な行き詰まりに陥っていたのです。この歴史的な難問を解決し、建築史に不滅の名を刻んだのが、フィリッポ=ブルネレスキという一人の天才でした。
不可能への挑戦

問題の核心は、ドームを建設するための仮枠(足場)にありました。伝統的な工法では、ドームの内側に、石や煉瓦を積むための支えとなる巨大な木製の型枠を組む必要がありました。しかし、これほど巨大な空間を覆う仮枠を建設するには、天文学的な量の木材が必要であり、その調達は不可能でした。さらに、仮に木材があったとしても、その仮枠自体の途方もない重量と、その上に積まれるドームの重さを、既存の壁や土台が支えきれる保証はどこにもありませんでした。また、半球形のドームは、その自重によって外側に開こうとする強烈な力(スラスト)を生み出すため、それを抑えるための巨大な控え壁が必要となりますが、すでに完成している聖堂の構造上、後からそれを付け加えることはできませんでした。
1418年、大聖堂の運営委員会は、この難問に対する解決策を広く公募するコンペティションを開催しました。多くの建築家や職人が、様々なアイデアを提出しましたが、どれも決め手に欠けるものでした。ある者は、ドームの内部を土で満たし、その上にドームを建設することを提案しました(そして、土の中にコインを混ぜておけば、後で市民が宝探しのために喜んで土を運び出すだろう、と付け加えました)。しかし、このような奇抜な案では、フィレンツェの指導者たちを納得させることはできませんでした。
このコンペに、金細工師であり彫刻家でもあったフィリッポ=ブルネレスキが、長年のライバルであるロレンツォ=ギベルティと共に参加します。ブルネレスキは、古代ローマ建築の研究、特にローマのパンテオンの構造を深く学んでいました。彼は、その知識と、金細工師として培った精密な機械工学の技術、そして何よりも常識にとらわれない発明家としての精神を武器に、大胆かつ革新的な提案を行いました。それは、「仮枠なしで」ドームを建設するという、誰もが耳を疑うようなアイデアでした。
革新的な工法と機械

ブルネレスキの計画は、単一の解決策ではなく、いくつもの独創的なアイデアを組み合わせた、緻密なシステムでした。
まず、彼はドームの形状を、半球形ではなく、より垂直に近い尖頭形の輪郭にしました。これにより、ドームの自重がより下方へと伝わり、外側に開こうとするスラストを大幅に軽減することができました。
次に、彼はドームを一枚の厚い壁で作るのではなく、内側の殻と外側の殻からなる「二重殻構造」を考案しました。内側の殻が主要な構造体となり、外側のより軽い殻がそれを風雨から守ります。二つの殻の間には空間が設けられ、作業用の通路として機能すると同時に、構造全体の重量を劇的に軽くしました。この二つの殻は、24本の垂直な肋材(リブ)と、水平方向の梁によって強固に結びつけられ、一体の構造として機能します。
そして、最も重要な革新が、煉瓦の積み方でした。彼は、煉瓦を「ヘリンボーン(ニシンの骨)」と呼ばれる、魚の骨のようなジグザグのパターンで積んでいく工法を導入しました。この工法では、垂直に置かれた煉瓦が、水平に積まれた煉瓦の層を固定する役割を果たし、モルタルが乾くまでの間に煉瓦が内側に滑り落ちるのを防ぎます。これにより、ドームは自己支持的に、一段また一段と、まるでバスケットを編み上げるように、内側から安全に建設していくことが可能になったのです。
さらに、ブルネレスキは、ドームが外側に膨らむのを防ぐため、樽の箍(たが)のように、構造体の内部に石と鉄の鎖を組み合わせた補強チェーンを何重にも埋め込みました。これは、外からは見えない、ドームの強靭な骨格となりました。
彼の天才は、構造設計だけに留まりませんでした。彼は、この前代未聞の建設を可能にするため、数々の革新的な建設機械を発明しました。特に有名なのが、牛の力で動く巨大な「三段変速式揚重機」です。この機械は、リバーシブルギアを備えており、牛が常に同じ方向に歩き続けるだけで、歯車の組み合わせを変えることで、荷を上げたり下げたりすることができました。これにより、資材の運搬効率は飛躍的に向上しました。
完成とその後

1420年、ブルネレスキは、ギベルティと共にクーポラ建設の総監督に任命されましたが、プロジェクトの実質的な主導権は、その技術的な全体像を唯一把握していたブルネレスキが握っていました。建設は困難を極めましたが、ブルネレスキの揺るぎないリーダーシップのもと、16年の歳月を経て、1436年8月31日、ついにドームは完成しました。その頂上には、教皇エウゲニウス4世によって聖別された、荘厳な式典が執り行われました。
クーポラの完成後、ブルネレスキは、その頂点を飾る頂塔(ランタン)の設計にも取り組みました。この大理石製の頂塔は、ドームの構造的な要石として機能すると同時に、その優美なシルエットを完成させるための重要な要素でした。彼の死後、この計画は引き継がれ、1461年に完成。さらにその上には、1466年にアンドレア=デル=ヴェロッキオによって制作された金色の球体と十字架が設置され、大聖堂の建設は、ついにその頂点に達しました。
ブルネレスキのクーポラは、ルネサンスの精神を象徴する不滅のモニュメントです。それは、古代の知恵と近代の革新を融合させ、人間の知性と創造力が、いかにして不可能を可能にするかを示した壮大な証です。フィレンツェの空に優美な曲線を描くその姿は、この都市の誇りであり、西洋建築史における一つの奇跡として、永遠に輝き続けています。
未完のファサードと19世紀の完成

サンタ=マリア=デル=フィオーレ大聖堂の壮大な建設史の中で、ひときわ複雑で長い時間を要したのが、その顔であるファサード(正面)の物語です。ブルネレスキのクーポラが15世紀に完成し、大聖堂がその荘厳な姿をほぼ現した後も、ファサードだけは、何世紀にもわたって未完成のまま放置されるという、特異な運命をたどりました。
最初のファサードの建設は、大聖堂の初代建築家であるアルノルフォ=ディ=カンビオによって、13世紀末に開始されました。彼は、聖母マリアの生涯をテーマにした壮大な彫刻プログラムを構想し、その下部三分の二ほどを、彼自身や彼の工房の彫刻家たちによる像で飾り始めました。アルノルフォの死後も、工事は断続的に続けられ、ジョットやアンドレア=ピサーノといった芸術家たちも関わったとされています。この初期のファサードは、イタリアゴシック様式に則り、豊かな彫刻で飾られた、壮麗なものであったと想像されます。
しかし、15世紀に入ると、芸術の流行はゴシックからルネサンスへと移り変わり、アルノルフォの設計は時代遅れと見なされるようになります。ファサードの完成計画は何度も議論されましたが、統一された見解は得られず、建設は完全に停滞してしまいました。その結果、ファサードは、下部が彫刻で飾られているものの、上部は煉瓦がむき出しの、不格好で未完成な状態のまま、何世紀もの間フィレンツェの街の中心に晒され続けることになります。
事態が大きく動いたのは、16世紀後半のことでした。トスカーナ大公フランチェスコ1世=デ=メディチの治世下、時代遅れとなったゴシック様式のファサードを取り壊し、当時の流行であったマニエリスム様式で新たに作り直すことが決定されたのです。1587年、アルノルフォが手がけた貴重な彫刻群を含む、既存のファサードは、容赦なく解体されてしまいました。取り外された彫刻の多くは、幸いにもドゥオーモ付属美術館に保管され、今日でもその姿を見ることができます。
しかし、新しいファサードを建設するためのコンペティションは、ベルナルド=ブオンタレンティやジョヴァンニ=ダ=ボローニャといった当代一流の芸術家たちが参加したにもかかわらず、結局どの案も採用されることなく、計画は頓挫してしまいます。その結果、大聖堂は、彫刻のかけらも残っていない、完全にのっぺりとした、荒々しい煉瓦積みの壁面を正面として晒すという、さらに無残な姿になってしまいました。この状態は、その後300年近くも続くことになります。多くの画家たちが、この「裸の」ファサードを背景にドゥオーモ広場の風景を描いており、その姿は多くの絵画に記録されています。
大聖堂のファサードが、ようやくその最終的な姿を得るのは、イタリアが統一国家へと向かう気運が高まった19世紀後半のことでした。フィレンツェが、一時的にイタリア王国の首都となったことを機に、この都市の象徴である大聖堂のファサードを完成させようという国民的な機運が盛り上がったのです。
1870年、新たなファサードのデザインを決めるためのコンペティションが開催され、建築家エミリオ=デ=ファブリスの案が採用されました。デ=ファブリスは、アルノルフォの時代のゴシック様式に敬意を払い、大聖堂の他の部分や、ジョットの鐘楼、サン=ジョヴァンニ洗礼堂との調和を重視した、ネオ=ゴシック(ゴシック・リヴァイヴァル)様式のデザインを提案しました。
彼のデザインは、ジョットの鐘楼と同様に、白、緑、ピンクの大理石をふんだんに用いた、極めて色彩豊かなものです。ファサード全体は、聖母マリアの生涯をテーマにした、壮大な彫刻とモザイクで埋め尽くされています。三つの巨大な扉の上にあるティンパヌム(半円形の壁面)には、それぞれ「慈愛=フィレンツェの慈善施設の守護者たち」、「信仰=キリストとマリアと洗礼者ヨハネ」、「希望=玉座の聖母子とフィレンツェの守護聖人たち」を描いたモザイク画が輝いています。中央の巨大なバラ窓の上には、使徒たちの像が並び、その頂点には聖母子像が置かれています。
建設工事は1876年に始まり、1887年に完成しました。こうして、サンタ=マリア=デル=フィオーレ大聖堂は、その最初の石が置かれてから約600年の歳月を経て、ついにその完全な姿を現したのです。
この19世紀のファサードについては、その過度に装飾的なデザインや、歴史的な信憑性について、美術史家から様々な批判がなされることもあります。しかし、それが、ジョットの鐘楼やブルネレスキのクーポラと一体となって、色彩豊かで壮麗な、世界に類を見ない建築アンサンブルを形成していることは間違いありません。それは、中世からルネサンス、そして近代に至るまで、フィレンツェの人々が、この大聖堂に注ぎ続けた情熱と誇りの、最終的な結晶なのです。
ドゥオーモ広場の構成要素

フィレンツェのサンタ=マリア=デル=フィオーレ大聖堂の壮麗さは、その建物単体で完結するものではありません。その価値と美しさは、隣接するサン=ジョヴァンニ洗礼堂とジョットの鐘楼という、二つの重要な建築物との関係性の中で、初めて完全に理解することができます。これら三つの建築物が一体となって形成するドゥオーモ広場は、それぞれが異なる時代と様式を代表しながらも、色彩豊かな大理石の装飾という共通の言語によって結びつけられ、完璧な調和を生み出しています。この広場は、フィレンツェの宗教的、市民的な生活の中心であり、ルネサンス芸術の精華が一堂に会する、比類なきアンサンブルです。
サン=ジョヴァンニ洗礼堂

ドゥオーモ広場の中で最も古い歴史を持つのが、大聖堂の正面に位置する八角形のサン=ジョヴァンニ洗礼堂です。その起源は古く、4世紀か5世紀にまで遡ると考えられていますが、現在の姿になったのは、11世紀から13世紀にかけてのロマネスク期です。フィレンツェの守護聖人である洗礼者ヨハネに捧げられたこの建物は、かつてフィレンツェのすべての子どもたちが洗礼を受けた、市民にとって極めて重要な場所でした。詩人ダンテ=アリギエーリも、ここで洗礼を受けたと伝えられています。
洗礼堂は、その八角形のプランと、白と緑の大理石による厳格な幾何学模様の外壁装飾で知られています。この明快で古典的なデザインは、後のルネサンス建築、特にブルネレスキの建築様式に大きな影響を与えました。大聖堂の外壁装飾が、この洗礼堂の様式と調和するようにデザインされたことからも、その重要性がうかがえます。
しかし、この洗礼堂を世界的に有名にしているのは、その三組の壮麗な青銅製の扉です。南側の扉は、14世紀のアンドレア=ピサーノによって制作され、洗礼者ヨハネの生涯をゴシック様式の四つ葉の枠の中に描いています。
そして、北側の扉と東側の扉は、ルネサンス彫刻の傑作として名高い、ロレンツォ=ギベルティの作品です。北側の扉は、1401年の有名なコンペティションで、ブルネレスキを破ってギベルティが制作権を勝ち取ったもので、キリストの生涯をテーマにしています。
その中でも最高傑作とされるのが、大聖堂に面した東側の扉、通称「天国の門」です。ミケランジェロがそのあまりの美しさに「天国の門にふさわしい」と称賛したことから、この名で呼ばれるようになりました。1425年から1452年にかけて制作されたこの扉は、それまでのゴシック様式の枠を完全に打ち破り、旧約聖書の10の物語を、正方形のパネルの中に、絵画のような空間表現で描いています。ギベルティは、ブルネレスキが発明した線遠近法を巧みに用い、前景の人物を高く、後景の人物や風景を低く彫ることで、浅い浮き彫りの中に驚くほどの奥行きと空間の広がりを生み出しました。この扉は、初期ルネサンス彫刻の到達点を示す、まさに至宝です。
ジョットの鐘楼

大聖堂の南西に、スレンダーな姿でそびえ立つのが、高さ約85メートルのジョットの鐘楼(カンパニーレ)です。1334年に、当時大聖堂の首席建築家であった画家ジョット=ディ=ボンドーネの設計によって建設が開始されました。この塔は、イタリアのゴシック建築の中でも最も美しいものの一つとされています。
ジョットは、この鐘楼を、単なる機能的な塔ではなく、大聖堂に寄り添う一個の独立した芸術作品として構想しました。彼は、画家としての色彩感覚を活かし、大聖堂や洗礼堂と同様に、白、緑、ピンクの大理石を組み合わせた、絵画のように美しい壁面装飾をデザインしました。
この鐘楼のもう一つの大きな特徴は、その基壇部を飾る、豊かなレリーフ彫刻群です。ジョット自身が考案したとされるこの彫刻プログラムは、天地創造から人間の労働、科学、芸術に至るまで、人間のあらゆる営みを百科全書的に描いたもので、ルネサンスの人間中心主義的な世界観の萌芽を示しています。これらの彫刻は、ジョットの監督のもと、アンドレア=ピサーノらによって制作されました。
ジョットの死後、建設はアンドレア=ピサーノ、そしてフランチェスコ=タレンティに引き継がれ、1359年に完成しました。タレンティは、上層部に大きな窓を設けることで、塔に軽やかさと優美さを与えました。この鐘楼は、その垂直に伸びる優雅な姿で、ブルネレスキのクーポラの水平的な広がりに見事な対比をなし、ドゥオーモ広場の景観に欠かせない垂直のアクセントとなっています。
ドゥオーモ付属美術館

ドゥオーモ広場の物語を完成させる上で欠かせないのが、大聖堂の背後に位置するドゥオーモ付属美術館(ムゼオ=デッロペラ=デル=ドゥオーモ)です。この美術館には、大聖堂、洗礼堂、鐘楼から取り外された、あるいはそれらのために制作された、数多くのオリジナルの芸術作品が収蔵されています。
ここには、アルノルフォ=ディ=カンビオが制作した最初のファサードの彫刻群、ドナテルロやルカ=デッラ=ロッビアが鐘楼のために制作した預言者像、そして何よりも、ギベルティが制作した「天国の門」のオリジナルのパネルが、修復を経て展示されています(洗礼堂に設置されているのは精巧なレプリカです)。さらに、ミケランジェロが自身の墓のために制作した未完の『ピエタ』や、ブルネレスキがクーポラ建設に使用した道具や模型など、貴重な作品が目白押しです。この美術館を訪れることは、ドゥオーモ広場の建築物群を飾っている芸術作品の真の姿に触れ、その建設の歴史を内側から理解するための、不可欠な体験です。
これら三つの建築物と美術館が一体となって、サンタ=マリア=デル=フィオーレ大聖堂の複合体を形成しています。

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