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キリスト教布教の禁止とは わかりやすい世界史用語2480 |
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著作名:
ピアソラ
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キリスト教布教の禁止とは
清王朝におけるキリスト教布教の禁止は、単一の出来事ではなく、17世紀から18世紀にかけて、文化的、政治的、そして宗教的な要因が複雑に絡み合って展開した一連の過程です。この過程を理解するためには、まずイエズス会宣教師の中国における初期の活動と、彼らが採用した「適応政策」に遡る必要があります。その後、この政策が引き起こした「典礼論争」が、ローマ教皇庁と清の宮廷との間の緊張を高め、最終的に康熙帝、雍正帝、乾隆帝といった皇帝たちが、それぞれ異なる背景と動機からキリスト教に対する政策を決定していく様子を追うことが不可欠です。
イエズス会の中国布教と適応政策の始まり
16世紀、ヨーロッパでは宗教改革の嵐が吹き荒れる一方、カトリック教会は失われた信者を補うべく、海外への宣教活動に活路を見出しました。その先頭に立ったのが、1534年にイグナチオ・デ・ロヨラによって設立されたイエズス会です。 イエズス会は、徹底した学術的訓練と、現地文化への寛容と適応を重視する宣教方針を特徴としていました。 彼らは、キリスト教の教えをヨーロッパ文化と同一視するのではなく、信仰の本質と文化的な付随物を区別しようと試みたのです。
中国へのキリスト教布教の試みは、イエズス会の創設メンバーの一人であるフランシスコ・ザビエルによって1552年に始められましたが、彼は中国本土に到達することなく病死しました。 その後、約30年間、中国宣教は停滞しますが、1582年にイタリア人イエズス会士ミケーレ・ルッジェーリとマテオ=リッチが中国に入ったことで、本格的な活動が再開されます。 特にマテオ=リッチは、中国宣教の歴史において極めて重要な人物となります。
リッチ以前の宣教師たちは、しばしば西欧の習慣やラテン語の典礼を押し付けようとしましたが、リッチは全く異なるアプローチを取りました。 彼は、東インド巡察師であったアレッサンドロ・ヴァリニャーノの方針に従い、中国の言語と文化を深く学ぶことの重要性を認識していました。 ヴァリニャーノは、宣教師が中国語と文化に精通しなければ、中国での布教は成功しないと確信していたのです。 リッチはこの方針を忠実に実行し、中国の知識人階級である士大夫と交流するために、儒学者の服装をまとい、彼らの言語と古典を学びました。
リッチが採用したこの宣教戦略は「適応政策」として知られています。その核心は、キリスト教の教義を中国の伝統的な思想や習慣と矛盾しない形で提示しようとする試みにありました。 リッチは、中国の儒教の儀式、特に祖先崇拝や孔子を祀る儀式を、宗教的なものではなく、純粋に市民的・社会的な性格を持つものだと解釈しました。 彼によれば、これらの儀式は、故人への敬意や親孝行の表現であり、カトリックの信仰と両立し得ると考えたのです。 この解釈に基づき、イエズス会は中国人信者がこれらの伝統的な儀式に参加し続けることを許可しました。
さらに、神の呼称についても、リッチは柔軟な姿勢を示しました。彼は、中国の古典に登場する「天」や「上帝」といった言葉を、キリスト教の神を指す言葉として使用することを認めました。 これは、既存の中国の宗教的・哲学的語彙を用いて、キリスト教の概念を中国人に理解しやすくしようとする試みでした。 1603年にリッチが著した『天主実義』は、カトリック神学に忠実でありながら、親孝行や祖先への敬意といった中国の習慣を受け入れる内容となっており、彼の適応政策を象徴する著作です。
イエズス会士たちは、単なる宣教師としてだけでなく、天文学、数学、地理学、芸術といった西欧の科学技術や知識の伝達者としても、明朝末期から清朝初期の中国社会で重要な役割を果たしました。 彼らは宮廷に仕え、皇帝の顧問として、また天文台の責任者として活躍しました。 例えば、ドイツ人イエズス会士のアダム・シャール・フォン・ベルは、明朝最後の皇帝に仕えた後、清の順治帝の信頼を得て、政府の役職に就くほどでした。 このような科学技術への貢献は、イエズス会が宮廷内で影響力を獲得し、キリスト教布教の足がかりを築く上で大きな助けとなりました。
リッチの適応政策と、イエズス会士たちの科学的知識は功を奏し、17世紀末には、中国人カトリック信者の数は20万人から25万人に達したと推定されています。 信者の中には、政府高官も含まれており、イエズス会が目指した、社会の上層部から改宗を進める「トップダウン」戦略がある程度の成功を収めたことを示しています。 このように、イエズス会の適応政策は、中国におけるカトリック教会の初期の発展において、極めて重要な役割を果たしたのです。しかし、この成功の裏で、他の修道会との間に深刻な対立の火種が生まれつつありました。
典礼論争の激化
イエズス会が中国で採用した適応政策は、すべてのカトリック宣教師から支持されたわけではありませんでした。17世紀半ばになると、後から中国にやってきたドミニコ会やフランシスコ会といった托鉢修道会が、イエズス会の方針を公然と批判し始めます。 これが、17世紀から18世紀にかけてカトリック教会を揺るがし、最終的に清朝によるキリスト教禁止の大きな要因となる「典礼論争」の始まりでした。
対立の構図:イエズス会 vs 托鉢修道会
論争の核心は、中国の伝統的な儀式、特に祖先崇拝と孔子祭祀の解釈をめぐるものでした。 イエズス会は、これらの儀式が本質的に宗教的なものではなく、社会的な慣習であるため、中国人信者が参加しても問題ないと主張しました。 彼らは、これらの儀式を迷信と断じることは、中国文化の根幹である親孝行の精神を否定することになり、布教の大きな妨げになると考えていました。
一方、ドミニコ会やフランシスコ会は、全く異なる見解を持っていました。 彼らは、ヨーロッパにおけるカトリックの教義と実践をそのまま中国に持ち込むべきだと考えており、イエズス会の適応政策を妥協であり、異教的実践への譲歩だと見なしました。 彼らにとって、祖先や孔子への儀式は、偶像崇拝に他ならず、キリスト教の信仰とは相容れないものでした。 また、神の呼称として「天」や「上帝」を用いることも、中国の多神教的な観念をキリスト教に持ち込むものとして強く反対しました。
この対立の背景には、単なる神学的な見解の相違だけでなく、修道会間の競争意識や、布教方法論の違いもありました。イエズス会が知識人階級への働きかけを重視したのに対し、托鉢修道会はより直接的に民衆への布教を目指す傾向がありました。
ローマ教皇庁の介入と揺れる判断
この論争は、中国国内にとどまらず、ヨーロッパの神学界をも巻き込む大きな問題へと発展しました。 ドミニコ会士のフアン・バウティスタ・モラレスが1643年にローマへ問題を提起したことを皮切りに、論争は教皇庁の判断を仰ぐことになります。
教皇庁の判断は、当初、二転三転しました。1645年、布教聖省はドミニコ会の主張を支持し、中国の儀式を禁止する決定を下しました。 しかし、その後イエズス会が反論を行うと、1656年には同じ布教聖省が先の禁止令を事実上撤回し、儀式を容認する姿勢を示しました。 このように、ローマからの情報が断片的で、現地の状況を正確に把握することが困難であったため、教皇庁は一貫した方針を打ち出せずにいました。
康熙帝の勅令と教皇特使の派遣
論争が激化する中、清の康熙帝は当初、イエズス会士たちに好意的でした。彼はイエズス会士の持つ科学技術の知識を高く評価し、彼らを宮廷で重用しました。 1692年には、キリスト教の布教を公認し、教会の保護を命じる「容教令」を発布するに至ります。 これは、中国におけるキリスト教の「黄金時代」の頂点とも言える出来事でした。
しかし、典礼論争はヨーロッパでさらに燃え上がります。1704年、教皇クレメンス11世は、ついにイエズス会の適応政策を非難し、中国の儀式を禁止する教令を発布しました。 この決定を中国に伝え、すべての宣教師に遵守させるため、教皇は特使としてシャルル・トマ・マイヤール・ド・トゥルノンを派遣することを決定します。
トゥルノンは1705年12月に北京に到着し、当初は康熙帝から丁重な歓迎を受けました。 しかし、彼は中国の言語や文化に対する理解が乏しく、また、教皇の権威を絶対視する硬直的な態度をとりました。 康熙帝は、中国の儀式に関する問題は、中国の皇帝である自身が最もよく理解しており、解釈する権威を持つと考えていました。 彼は、西洋人が中国の文化や古典を理解せずに判断を下すことに強い不快感を示しました。
両者の会見は決裂に終わります。トゥルノンは康熙帝の意向を無視し、1707年に南京で、中国儀式を厳しく禁じる命令を発布しました。 これに激怒した康熙帝は、トゥルノンをマカオに追放・監禁しました。 さらに康熙帝は、マテオ=リッチ以来のイエズス会の方針に従うことを誓約した宣教師にのみ、中国滞在を許可する「票」を発行する制度を導入しました。 これは、教皇の権威に対抗し、中国国内の宣教師に対する皇帝の管理権を明確にするための措置でした。
教皇教書
康熙帝の強硬な態度にもかかわらず、ローマ教皇庁は方針を変えませんでした。1715年、クレメンス11世は教皇教書『Ex Illa Die』を発布し、1704年の決定を再確認し、中国儀式の禁止を公式に宣言しました。 この教書は、すべての宣教師に対して、この命令に従うことを誓約する宣誓を義務付け、違反者には破門という厳しい罰則を科しました。 この教書は、神の呼称として「天主」の使用は認めるものの、「天」や「上帝」の使用を禁じました。
康熙帝は、この教皇教書に激しく反発し、「西洋人は実に狭量だ」と述べ、中国におけるキリスト教の宣教活動を公式に禁止する命令を下しました。 これにより、1692年の容教令は事実上、覆されたのです。
その後も、教皇特使カルロ・アンブロジオ・メッツァバルバが派遣され、事態の収拾が図られました。彼は康熙帝との交渉後、1721年にマカオで『Ex Illa Die』の厳格さを和らげるための8つの許可を与えましたが、これは宣教師たちの間でさらなる混乱を生む結果となりました。
最終的に、典礼論争に終止符を打ったのは、1742年に教皇ベネディクトゥス14世が発布した教皇教書『Ex Quo Singulari』でした。 この教書は、これまでの教皇庁の決定をすべて再確認し、メッツァバルバが与えた許可を無効とし、典礼論争に関するいかなる議論も将来にわたって禁止するという、極めて厳しい内容でした。 これにより、イエズス会の適応政策は完全に否定され、カトリック教会は中国文化に対して非妥協的な姿勢を明確にしたのです。この決定は、中国におけるカトリック教会の衰退を決定づけるものとなりました。
雍正帝による全面的な禁止
康熙帝の晩年には、典礼論争によってキリスト教に対する彼の態度は硬化していましたが、実際には禁止令の施行は徹底されず、多くの宣教師が活動を続けていました。 しかし、1722年に康熙帝が崩御し、その第4子である雍正帝が即位すると、状況は一変します。雍正帝は、父である康熙帝とは異なり、キリスト教や西欧の科学技術に対してほとんど関心を持っていませんでした。 彼は熱心な仏教徒であり、中国の伝統的な思想体系である儒教、仏教、道教の三教の一致を重視していました。
1724年の禁止令
雍正帝がキリスト教に対して厳しい態度をとった背景には、いくつかの要因が考えられます。
第一に、宗教に対する国家統制の強化です。雍正帝は、国家の安定と秩序を維持するためには、思想や宗教を厳しく管理する必要があると考えていました。 彼は、キリスト教を、社会秩序を乱す可能性のある「異端」の教えの一つと見なしていました。 1724年1月12日、雍正帝は礼部の進言を承認し、キリスト教を「不経(正統でない教え)」と断じ、その布教を禁止する勅令を発布しました。 この勅令は同年2月11日に全国に公布されました。
第二に、典礼論争を通じて明らかになった、教皇庁が中国の内部問題に干渉しようとする姿勢への警戒感です。 皇帝の権威を絶対視する清朝にとって、遠く離れたローマの教皇が中国国内の信者に対して命令を下し、皇帝の決定に異を唱えることは、容認できることではありませんでした。雍正帝は、ある宣教師との対話の中で、もし中国の僧侶がヨーロッパに行って同じようなことをしたらどう思うかと問い、国家主権への介入であるという認識を明確に示しています。
第三に、地方官僚からの報告です。福建省の地方官僚が、キリスト教徒の増加が社会不安を引き起こしていると報告したことが、禁止令の直接的な引き金になったとされています。
この1724年の禁止令により、北京の宮廷に仕える科学技術者などの専門家として必要な宣教師を除き、地方で活動していたすべての宣教師は国外(主にマカオ)へ追放されることになりました。 また、清の臣民がキリスト教を信仰することも禁じられました。 教会は没収され、信者には改宗が強要されました。 これにより、マテオ=リッチ以来続いてきたカトリック教会の「黄金時代」は、事実上終わりを告げたのです。
雍正帝の二面性のある政策
しかし、雍正帝の政策は、完全にキリスト教を根絶しようとするものではなく、ある種の二面性を持っていました。彼は地方での布教活動を厳しく禁じる一方で、北京の宮廷では、天文学や芸術の専門家として有能な宣教師を引き続き雇用し、彼らが首都で教会を運営することも許可しました。
この一見矛盾した政策の背景には、いくつかの理由が考えられます。一つは、父・康熙帝の政策を完全に否定することを避けるという、政治的な配慮です。 康熙帝は長年にわたりイエズス会士を重用しており、その功績を無視することは、父の権威を損なうことになりかねませんでした。もう一つは、西欧の科学技術の有用性を依然として認めていたという実用的な側面です。
雍正帝自身も、この政策の曖昧さを認識していたようです。 彼は、キリスト教そのものを「邪教」とまでは断定せず、単に「正統ではない」と位置づけるに留めました。 これは、キリスト教が国家転覆を企むような危険な存在とまでは考えていなかったことを示唆しています。彼の関心は、あくまでも宗教が国家の統制下にあり、社会の安定を乱さないことでした。
とはいえ、雍正帝の禁止令は、中国におけるキリスト教の活動に深刻な打撃を与えました。地方では、宣教師や中国人司祭が密かに活動を続けましたが、それは常に摘発の危険を伴うものでした。 この禁止政策は、その後100年以上にわたって継続され、アヘン戦争によって清朝が西欧列強に門戸を開かされるまで続くことになります。
乾隆帝時代の迫害とキリスト教のその後
雍正帝の跡を継いだ乾隆帝(在位1735年-1796年)の治世においても、キリスト教に対する禁止政策は基本的に維持され、むしろその締め付けはさらに厳しくなりました。 乾隆帝の長い治世は、清朝の最盛期とされていますが、キリスト教徒にとっては受難の時代でした。
迫害の強化
乾隆帝は、祖父である康熙帝のように西欧の科学に強い関心を持つこともなく、父である雍正帝以上に、中国の伝統的な価値観と国家の統制を重視しました。彼は、雍正帝の政策を引き継ぎ、北京の宮廷で働く一部の宣教師(特に芸術家として有能なカスティリオーネなど)は留め置きましたが、地方におけるキリスト教の活動に対しては、より厳しい弾圧をもって臨みました。
1746年には、福建省で大規模な迫害事件が発生し、複数のヨーロッパ人宣教師と中国人信者が逮捕されました。この事件では、スペイン人のドミニコ会士ペドロ・サンス司教を含む5人の宣教師が殉教しています。この迫害は、キリスト教が依然として国内で密かに広まっていることに対する乾隆帝の怒りを反映したものでした。
その後も、1784年には、ヨーロッパ人宣教師が国内に潜入していることが発覚したのを機に、全国的な規模での反キリスト教キャンペーンが命じられました。 この命令により、教会の破壊、ヨーロッパ人および中国人司祭の逮捕、信者への改宗強要が徹底されました。逮捕された聖職者たちは北京へ送られ、過酷な状況下で投獄されました。
これらの厳しい迫害により、清朝の支配下で公然とキリスト教を信仰することはほぼ不可能になりました。 多くの信者は信仰を捨てるか、あるいは完全な地下活動へと潜ることを余儀なくされました。
文化的交流の継続と限定
一方で、宗教的な弾圧とは裏腹に、限定された形ではありましたが、中国とヨーロッパの間の文化的・芸術的な交流は続いていました。 乾隆帝自身、ヨーロッパの芸術様式に興味を示し、イエズス会士の芸術家たちに、北京郊外の離宮である円明園内にバロック様式の宮殿群(西洋楼)を設計・建設させました。 これは、ヨーロッパの文化や技術に対する清朝宮廷の関心が、宗教への警戒心とは別に存在していたことを示しています。
しかし、この交流はあくまで皇帝個人の興味や宮廷の需要に応えるものであり、中国社会全体に広がるものではありませんでした。 清朝は、広州一港に貿易を限定するなどの海禁政策を維持し、ヨーロッパとの関係を厳しく管理下に置いていました。 宗教の禁止は、このような管理体制の一環であり、外部からの影響が国内の秩序を乱すことを防ぐための措置であったと言えます。
禁止政策の長期的影響
清朝による約1世紀にわたるキリスト教の禁止政策は、中国と西欧の関係に長期的な影響を及ぼしました。
第一に、中国におけるカトリック教会の成長を著しく阻害しました。18世紀初頭には20万人を超えていた信者数は、迫害によって激減し、その組織は壊滅的な打撃を受けました。
第二に、中国と西欧の相互理解の機会を失わせました。典礼論争とそれに続く禁止政策は、文化的な対話の断絶を意味しました。イエズス会が試みたような、文化の深いレベルでの交流は途絶え、両者の間には不信感と誤解が募っていきました。
第三に、19世紀以降の西欧列強による中国進出の伏線となりました。19世紀半ば、アヘン戦争に敗北した清朝は、不平等条約によってキリスト教の布教を再び認めざるを得なくなります。しかし、この時のキリスト教は、かつてのイエズス会士たちのような対話的な姿勢ではなく、しばしばヨーロッパの軍事力や政治的圧力を背景にした、より攻撃的な形で中国社会に入り込むことになります。 過去の迫害の歴史と、宣教師が不平等条約によって保護されるという現実は、多くの中国人にとって、キリスト教が帝国主義侵略の手先であるというイメージを植え付け、さらなる対立の火種となりました。
結論として、清朝によるキリスト教布教の禁止は、典礼論争というカトリック教会内部の対立に端を発し、中国の主権と文化の独自性を守ろうとする清朝皇帝の政治的判断によって決定づけられました。この出来事は、単なる宗教弾圧にとどまらず、異なる文明が出会う際に生じる文化的・政治的摩擦の複雑さを象徴する歴史的な事例として、今日に至るまで多くの教訓を投げかけています。1939年、ローマ教皇庁は、かつて禁止した中国の儀式を、宗教的なものではなく市民的な慣習であると認め、信者の参加を許可する決定を下しました。 これは、約200年前に下された判断を覆すものであり、典礼論争が残した長い影の終わりを告げるものでした。
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