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シナン(スィナン)とは わかりやすい世界史用語2335
著作名: ピアソラ
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シナン(スィナン)とは

オスマン帝国の建築家シナン(スィナン)、本名ミマール・シナンは、オスマン帝国の最も輝かしい時代に生きた建築家であり、その作品によって時代そのものを象徴する存在となりました。 彼の正式な名前はミマール・コジャ・シナンであり、「偉大なる建築家シナン」を意味します。 彼はスレイマン1世、セリム2世、ムラト3世という3代のスルタンに仕え、オスマン帝国の首席建築家として活躍しました。 彼が手掛けた建築物は300以上にのぼり、その中にはモスク、マドラサ(神学校)、キュッリエ(複合施設)、橋などが含まれます。 彼の作品は、オスマン建築の古典期を代表するものと見なされており、その影響は後世の建築家たちにも受け継がれています。



若き日のシナン

ミマール・シナンは、1488年から1490年の間に、アナトリア地方のカイセリ近郊にあるアールナスという小さな町で生まれました。 彼の出自については、アルメニア系、あるいはカッパドキアのギリシャ系という説があり、正確なところは分かっていません。 セリム2世が発した勅令の中に、彼の出自がアルメニア系またはギリシャ系であることを示唆する記述が見られます。 彼の父親は石工であり、シナン自身も幼い頃から石工や大工の仕事に触れて育ちました。 この幼少期の経験が、後の彼の建築家としてのキャリアの礎を築いたことは間違いありません。
1512年、シナンはデヴシルメ制度によってイスタンブールに徴用され、イェニチェリ(オスマン帝国の常備歩兵軍団)の一員となりました。 デヴシルメとは、帝国内のキリスト教徒の少年たちを徴兵し、イスラム教に改宗させた上で、スルタン直属の兵士や官僚として育成する制度です。 シナンもまた、この制度によってキリスト教からイスラム教へと改宗しました。 彼のイスラム名である「シナン」は、この時期に与えられたものと考えられています。 イェニチェリとして、彼は数学や大工仕事の教育を受け、その才能を認められて建築の道へと進むことになります。
イェニチェリとしての彼の軍歴は、後の建築家としてのキャリアに大きな影響を与えました。 彼は、セリム1世の最後の遠征であるロードス島遠征に参加した可能性が指摘されています。 また、1521年のベオグラード征服や、1526年のモハーチの戦いにも、近衛騎兵の一員として参加しました。 これらの遠征を通じて、彼は帝国各地の建築様式に触れる機会を得ました。 バグダッド、ダマスカス、ペルシャ、エジプトなど、遠征先で目にした様々な遺跡や建築物から、彼は多くのことを学びました。 彼自身、「私は遺跡や偉大な古代の遺物を見た。あらゆる廃墟から学び、あらゆる建物から何かを吸収した」と語っています。
軍務の中で、彼は単なる兵士としてだけでなく、軍事技術者としての才能も発揮し始めます。 彼は、要塞や道路、橋、水道橋といった軍事インフラの建設において、その専門知識を磨きました。 特に、1538年のモルダヴィア遠征では、プルート川に橋を架けるという困難な任務を13日間で成し遂げ、その名を轟かせました。 この成功が、彼の建築家としてのキャリアを大きく切り開くきっかけとなったのです。

首席建築家への道

軍事技術者としてのシナンの名声は、やがてスルタン・スレイマン1世の知るところとなります。 1539年、シナンが50歳に近づいた頃、彼はスレイマン1世によって首席宮廷建築家に任命されました。 この任命は、彼の人生における大きな転機となりました。 これまで軍隊で培ってきた技術的なスキルを、宗教建築や公共建築といった、より洗練された創造の分野で活かす機会を得たのです。 彼はその後、約50年間にわたってこの職を務め、オスマン帝国の建築界を牽引していくことになります。
首席建築家としての彼の最初の大きな仕事の一つは、スレイマン1世の最愛の息子であり、22歳の若さで亡くなったシェフザーデ・メフメト皇子のために建てられたシェフザーデ・モスクの建設でした。 このモスクは、シナン自身が「見習い時代の作品」と位置づけているものの、彼の最初の傑作と見なされています。 シェフザーデ・モスクは、中央の大きなドームを4つの半ドームが支えるという、それまでのオスマン建築には見られなかった独創的な設計が特徴です。 この二軸対称のシンメトリーな構造は、世界で初めての試みでした。
シェフザーデ・モスクとほぼ同時期に、シナンはユスキュダルにミフリマー・スルタン・モスクも建設しています。 このモスクは、スレイマン1世とヒュッレム・スルタンの間に生まれた一人娘、ミフリマー・スルタンのために建てられたもので、メインドームを3つの半ドームが支えるという、これもまた独創的なデザインが採用されています。
首席建築家としてのシナンの役割は、単に建物を設計することだけではありませんでした。 彼は、帝国全体の建設事業を監督する立場にあり、建築家や親方からなる大規模なチームを率いていました。 彼のオフィスは、さながら政府の一部門のように機能し、多くの弟子たちを育成しました。 彼の下で学んだ弟子たちの中には、後にスルタン・アフメト・モスク(ブルーモスク)を設計したセデフカル・メフメト・アーや、モスタルのスタリ・モスト(古い橋)を設計したミマール・ハイルッディンなどがいます。 シナンは、帝国の重要な建築プロジェクトに自ら携わる一方で、地方の比較的重要度の低い建物の建設は弟子たちに任せていました。

スレイマニエ・モスク:帝国の象徴

シナンが70歳に達した頃、彼のキャリアにおける最も重要な作品の一つであるスレイマニエ・モスク複合施設が完成しました。 このモスクは、スレイマン1世の命によって、イスタンブールの七つの丘の一つ、金角湾を見下ろす絶好の場所に建設されました。 建設は1550年に始まり、1557年に完成しました。 このモスクの建設には、3500人以上の労働者が動員されたと言われています。
スレイマニエ・モスクは、単なる礼拝の場としてだけでなく、オスマン帝国の権威と繁栄を象徴する壮大なプロジェクトでした。 当時、スレイマン1世は広大な帝国を支配しており、イスラム世界の指導者としての役割を自認していました。 彼は、このモスクをビザンツ建築の最高傑作であるハギア・ソフィアに匹敵する、あるいはそれを超えるものとして建設することを望んでいました。
スレイマニエ・モスクは、ハギア・ソフィアの設計に大きく影響を受けていますが、シナンはそれを単に模倣するのではなく、独自の解釈を加えて昇華させました。 中央の巨大なドームは、32の窓によって貫かれ、内部に柔らかな光をもたらしています。 このドームは、4本の巨大な花崗岩の柱によって支えられており、これらの柱はエジプトやエフェソスなどの古代遺跡から運ばれてきたものです。
モスクの内部空間は、イスラム教の集団礼拝の要請に応えるため、広々とした開放的な空間となるように設計されています。 中央ドームを中心に据え、その周囲に半ドームや小さなドームを配置することで、構造的な安定性と視覚的な調和を両立させています。
スレイマニエ・モスクは、モスク本体だけでなく、マドラサ(神学校)、病院、医学校、公共浴場(ハマム)、隊商宿(キャラバンサライ)、公共厨房(イマレット)、図書館、店舗などを含む広大な複合施設(キュッリエ)の一部として建設されました。 このキュッリエは、約25エーカーの敷地を占め、当時のオスマン社会における宗教、教育、福祉の中心としての役割を果たしていました。 特に、この複合施設に含まれる世界初の精神病院(ビマールハーネ)は、特筆すべき存在です。
スレイマニエ・モスクのシルエットは、その細いミナレットと高くそびえるドームによって、イスタンブールのスカイラインを象徴する景観の一つとなっています。 4本のミナレットは、スレイマン1世がイスタンブールに定住した4番目のスルタンであることを示し、ミナレットにある10のバルコニーは、彼がオスマン帝国の10代目のスルタンであることを象徴していると言われています。

セリミエ・モスク:円熟の傑作

シナン自身が最高傑作と認めているのは、イスタンブールではなく、エディルネに建設されたセリミエ・モスクです。 このモスクは、スレイマン1世の後継者であるセリム2世の命により、1568年から1575年にかけて建設されました。 シナンが80代の頃に手掛けたこの作品は、彼の建築家としてのキャリアの集大成と言えるでしょう。
セリミエ・モスクの最大の特徴は、その巨大な中央ドームです。 直径31.28メートル、高さ42.25メートルにも及ぶこのドームは、8本の巨大な多角形の柱によって支えられています。 シナンは、このモスクにおいて、それまでの作品で多用してきた半ドームを排し、単一の巨大ドームによって内部空間を覆うという、革新的な設計を試みました。 これにより、内部空間の統一感という長年の課題を解決することに成功したのです。
この巨大なドームを支える構造は、非常に独創的です。 8本の柱は、部分的に独立しながらも外壁と巧みに一体化されています。 さらに、外壁の内部に隠された控え壁が構造を補強しており、壁面に多くの窓を設けることを可能にしています。 コーナーに配置された4つの小さな半ドームは、壁とメインドームを繋ぐ中間的な役割を果たしています。
セリミエ・モスクの内部は、その構造的な革新性だけでなく、装飾の美しさでも知られています。 特に、イズニクタイルによる装飾は、その最盛期の作品であり、今なお比類のない芸術形式として高く評価されています。 ミフラーブ(メッカの方向を示す壁龕)やミンバル(説教壇)は、大理石で精巧に作られています。
モスクの四隅には、それぞれ3つのバルコニーを持つ、高さ約71メートルの細く高いミナレットがそびえ立っています。 このミナレットは、トルコで最も高いものの一つです。 北東と北西の角にあるミナレットのバルコニーへは、3つの独立した螺旋階段でアクセスすることができます。
セリミエ・モスクもまた、マドラサ、時計室、屋根付き市場、図書館などを含む複合施設の一部として建設されました。 この複合施設全体が、ユネスコの世界遺産に登録されています。

シナンの建築様式と革新

ミマール・シナンの建築は、それまでのオスマン建築の伝統を受け継ぎつつも、独自の革新を加えることで、古典的な様式を完成させました。 彼の建築に対するアプローチは、軍事技術者としての経験からくる経験的なものであり、理論的なものよりも実践的な視点に重きを置いていました。 彼は、既存の建築物を徹底的に研究し、その構造的な弱点を分析し、自身の解決策を見出すという手法をとっていました。
シナンの建築における最大の功績の一つは、ドーム構造の可能性を最大限に引き出したことです。 彼は、単一ドームや複数ドームの構造を実験し、巨大な内部空間を覆うための様々な方法を模索しました。 シェフザーデ・モスクの四葉形プラン、スレイマニエ・モスクのハギア・ソフィアに範をとった計画、そしてセリミエ・モスクの八角形の支持システムを持つ単一ドームへと至る彼のドーム設計の変遷は、彼の絶え間ない探求心と創造性の証です。
彼はまた、建物の構造的な合理性を追求しました。 特に地震の多い地域において、建物の耐久性を確保するために、複雑な数学的計算を用いて重量を分散させる設計を行いました。 スレイマニエ・モスクの建設において、鳥が寄り付きにくいように北風の影響を計算していたという逸話は、彼の細やかな配慮と科学的なアプローチを物語っています。
シナンの革新は、モスク建築だけに留まりません。 彼は、橋や水道橋といった土木構造物の設計においても、その才能を発揮しました。 彼が手掛けた橋の中で最大のものは、長さ約635メートルのビュユクチェクメジェ橋です。 この橋は、4つの連結されたアーチ橋で構成されており、機能性と芸術性を見事に融合させています。 また、イスタンブールの水供給システムを維持・改善するために、彼は多くの水道橋を建設しました。 特に、長さ257メートル、高さ35メートルのマールヴァ水道橋は、2層のアーチを持つ美しい構造物として知られています。
霊廟の設計においても、シナンは独創的なデザインを生み出しています。 シェフザーデ・メフメトの霊廟は、その外装の装飾と分割されたドームが特徴的です。 リュステム・パシャの霊廟は、古典的な様式の中に魅力的な構造を持っています。 スレイマン1世の霊廟は、八角形の本体と平らなドームを持つ興味深い試みです。 そして、セリム2世の霊廟は、四角い平面プランを持ち、トルコの霊廟建築の最高傑作の一つとされています。 一方で、彼自身の霊廟は、スレイマニエ・モスク複合施設の北東の角にあり、非常に質素な造りとなっています。

シナンの遺産

ミマール・シナンは、1588年に98歳から100歳で亡くなり、自身が設計したスレイマニエ・モスクの庭の片隅にある質素な墓に埋葬されました。 彼の50年近くにわたる首席建築家としてのキャリアの中で、彼が手掛けた、あるいは監督した建築物は、公式の記録によれば476にも上ると言われています。 別の資料では、少なくとも374の建造物に関わったとされており、その内訳は、92のモスク、52の小モスク、55の神学校、7つのコーラン朗誦学校、20の霊廟、17の公共厨房、3つの病院、6つの水道橋、10の橋、20の隊商宿、36の宮殿や邸宅、8つの貯蔵庫、48の公衆浴場など、多岐にわたります。
彼の作品は、オスマン帝国の広大な領土、アジア、ヨーロッパ、アフリカの3大陸にまたがって見ることができます。 彼の建築様式は、オスマン建築の古典期を定義づけるものとなり、後の世代の建築家たちに計り知れない影響を与えました。 彼の弟子たちが設計したスルタン・アフメト・モスクやスタリ・モスト橋は、シナンの影響を色濃く受け継いでいます。 さらに、彼の建築思想は、遠くインドのムガル建築にも影響を与え、タージ・マハルの設計にも取り入れられたと言われています。
シナンは、西洋の同時代の巨匠ミケランジェロと比較されることもあります。 実際、ミケランジェロやレオナルド・ダ・ヴィンチが金角湾に橋を架ける計画を提案するためにイスタンブールに招かれたことがあり、彼らの計画はオスマン帝国の宮廷でも知られていました。 シナンは、ビザンツ建築、特にハギア・ソフィアから多くのインスピレーションを得ながらも、それをイスラム建築の文脈の中で再解釈し、独自の様式を確立しました。
ミマール・シナンの遺産は、単に彼が残した壮大な建築物だけではありません。 彼は、建築、工学、数学といった分野を統合し、学際的なアプローチで数々の問題を解決しました。 彼が率いた建築家組織は、多くの優れた人材を育成し、オスマン建築の伝統を未来へと繋いでいきました。 彼が築き上げた建築物は、オスマン帝国の文化的アイデンティティを形成する上で重要な役割を果たし、その遺産は今日もなお、トルコをはじめとする世界中の人々を魅了し続けています。

主要な作品群

シナンの膨大な作品群の中から、特に重要とされるものをいくつか紹介します。
シェフザーデ・モスク(イスタンブール)
スレイマン1世が夭折した息子メフメト皇子のために建てさせたモスクで、1548年に完成しました。 シナン自身は「見習い時代の作品」と呼んでいますが、中央ドームを4つの半ドームが囲むという画期的な設計で、彼の最初の傑作とされています。 このモスクのシンメトリーな構造は、後のオスマン建築の模範となりました。
ミフリマー・スルタン・モスク(イスタンブール、ユスキュダルおよびエディルネカプ)
スレイマン1世の娘、ミフリマー・スルタンのために2つのモスクが建設されました。 ユスキュダルにあるモスクは、メインドームを3つの半ドームが支える独特の構造を持っています。 エディルネカプにあるモスクは、そのドームの高さと窓の配置による光の効果が特徴的です。 伝説によれば、ミフリマー・スルタンの誕生日である3月21日には、エディルネカプのモスクのミナレットの間に太陽が沈み、ユスキュダルのモスクのミナレットの間から月が昇るのが見えると言われています。
スレイマニエ・モスク(イスタンブール)
1557年に完成した、スレイマン1世の治世を象徴する巨大なモスク複合施設です。 シナンはこれを「職人見習い時代の作品」と位置づけています。 イスタンブールの丘の上に建ち、その壮大な姿は街のスカイラインを決定づけています。 モスク本体だけでなく、マドラサ、病院、図書館などを含むキュッリエ全体が、オスマン帝国の最盛期の権力と文化水準の高さを示しています。
リュステム・パシャ・モスク(イスタンブール)
スレイマン1世の大宰相であったリュステム・パシャのために1563年に建設されました。 規模は小さいながらも、内部を埋め尽くす見事なイズニクタイルで知られています。 シナンのエレガントで機能的なデザインアプローチが反映された作品です。
ソコルル・メフメト・パシャ・モスク(イスタンブール)
大宰相ソコルル・メフメト・パシャのために建てられたモスクで、カドゥルガとアザプカプの2か所にあります。 特にカドゥルガのモスクは、六角形のプランを持つシナンの代表作の一つです。 1571年に設計されたこのモスクのミフラーブとミンバルには、メッカのカーバ神殿から運ばれた石が使われていると言われています。
セリミエ・モスク(エディルネ)
1575年に完成した、シナン自身が「親方時代の作品」と認める最高傑作です。 巨大な単一ドームを8本の柱で支えるという革新的な構造は、建築史上でも特筆すべき成果とされています。 その壮麗な内部空間と完璧なプロポーションは、オスマン建築の到達点を示しています。
ビュユクチェクメジェ橋
1567年に完成した、長さ約635メートルの石造りの橋です。 4つの独立した橋を連結させた構造で、シナンの土木技術者としての卓越した能力を示しています。
これらの作品は、ミマール・シナンという一人の建築家が、いかに広範な分野で、いかに高い水準の創造性を発揮したかを物語っています。彼の名は、オスマン帝国の黄金時代と共に、建築史に不滅の輝きを放ち続けています。

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