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ラス=カサスとは わかりやすい世界史用語2300 |
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著作名:
ピアソラ
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ラス=カサスとは
ラス=カサスは、1484年にスペインのセビリアで生まれ、1566年にマドリードでその生涯を閉じた、スペインのドミニコ会修道士、司祭、そして後にはチアパスの司教を務めた人物です。 彼は、新世界におけるスペイン植民地主義の最も初期にして最も声高な批判者の一人として歴史にその名を刻んでいます。 当初は他の多くのスペイン人と同様に、植民者としてアメリカ大陸に渡り、エンコミエンダ制の下で先住民を労働力として利用する側にいましたが、後にその残虐行為を目の当たりにし、劇的な回心を遂げました。 その後、ラス=カサスは生涯をかけて、スペインによるアメリカ先住民の過酷な扱いや奴隷化に反対し、彼らの権利と人間性を擁護するために闘いました。 彼の最も著名な著作である『インディアスの破壊についての簡潔な報告』は、征服者(コンキスタドール)による残虐行為を克明に記録し、ヨーロッパ全土に衝撃を与え、スペインの「黒い伝説」として知られる言説の一因となりました。 ラス=カサスは、平和的な布教活動と、先住民が自らのコミュニティで生活する権利を主張し、スペイン国王や教会に対して精力的に働きかけました。 彼の思想と活動は、当時の植民地政策に一定の影響を与え、「インディオスの保護者」という公式な称号も与えられました。 しかし、その改革案は植民者たちの強い抵抗に遭い、多くの試みは挫折に終わりました。 彼の生涯は、正義と人道を追求する個人の闘いの記録であると同時に、植民地主義の複雑さと矛盾を映し出す鏡でもあります。
初期の人生と新世界への旅立ち
ラス=カサスは、1484年11月11日、スペイン南部の都市セビリアで生まれました。 彼の父親は、さほど成功した商人ではありませんでしたが、コロンブスの第二回航海に参加した人物でした。 この家族の背景は、若きバルトロメが新世界と密接な関わりを持つきっかけとなりました。1493年3月、わずか9歳のラス=カサスは、コロンブスが最初の航海からセビリアに凱旋する様子を目撃しています。 この出来事は、彼の幼心に強烈な印象を残したことでしょう。彼の父と叔父もコロンブスの第二回航海に参加しており、一家はイスパニョーラ島に資産を持つなど、新世界の富と深く結びついていました。
ラス=カサスは、セビリア大聖堂の付属学校でラテン語と神学を学び、初期の教育を受けました。 1497年には、グラナダでムーア人に対する反乱鎮圧のための民兵として従軍した経験もあります。 その後、聖職者になることを志し、父が新世界で得た富の支援を受け、当時スペインで最高学府とされたサラマンカ大学で教会法を学びました。 彼はバリャドリッド大学でも学び、教会法の学位を取得するなど、優れた学識を身につけました。 この法学と神学の知識は、後の彼の先住民擁護活動において、強力な理論的支柱となります。
1502年、18歳のラス=カサスは、新総督ニコラス・デ・オバンドに同行し、初めてアメリカ大陸のイスパニョーラ島(現在のハイチとドミニカ共和国)へと渡りました。 当時の彼は、他の多くのスペイン人入植者と同様に、富と冒険を求める若者の一人でした。 彼は様々な遠征に参加し、その功績としてエンコミエンダ、すなわち先住民の労働力を伴う土地の王室からの下賜を受けました。 彼はエンコメンデロ(エンコミエンダの所有者)となり、農園主として先住民を使役し、また先住民に対する奴隷狩りや軍事遠征にも参加しました。 この時期のラス=カサスは、植民地経済の受益者であり、先住民に対する搾取のシステムに組み込まれていたのです。 同時に、彼は在俗の教理教師として、割り当てられた先住民にキリスト教の教義を教える役割も担っていました。
1506年に一度スペインへ帰国し、サラマンカで教会法の研究を修了します。 同年、助祭に叙階され、翌1507年にはローマで司祭に叙階されました。 これは、アメリカ大陸で聖職に就いた最初の人物の一人であった可能性が指摘されています。 司祭となった後、彼は再び新世界へ戻り、1511年に始まったディエゴ・ベラスケスによるキューバ征服にも従軍牧師として参加しました。 この功績により、彼は再び土地と先住民のエンコミエンダを与えられます。 このように、彼の人生の初期段階は、スペインの植民地支配体制に深く関与し、その恩恵を受ける立場にあったことが明確に見て取れます。しかし、このキューバでの経験が、彼の人生を根底から覆す転換点へとつながっていくのです。
回心とドミニコ会への入会
ラス=カサスの人生における決定的な転機は、1514年に訪れました。 当時、彼はキューバでエンコメンデロとして、また司祭として活動していました。 しかし、スペイン人による先住民への残虐な行為、特に無実の人々が虐殺される光景を目の当たりにする中で、彼の良心は深く苛まれるようになります。 1511年12月21日、イスパニョーラ島でドミニコ会修道士アントニオ・デ・モンテシノスが行った説教は、ラス=カサスに大きな影響を与えた出来事の一つです。 モンテシノスは、エンコミエンダ制度の下で先住民を搾取する植民者たちの行為を「大罪である」と厳しく断罪し、彼らに告解の秘跡を授けることを拒否しました。 当初、ラス=カサスも他の植民者たちと同様にこの説教に憤慨しましたが、その言葉は彼の心に深く突き刺さりました。
そして1514年の聖霊降臨祭の日、ラス=カサスは自らが準備していた説教の中で、劇的な宣言を行います。 彼は、先住民を奴隷として所有し続けることは不正であり、自らが所有するエンコミエンダを放棄し、インディオ(先住民)を総督に返還する意向を公に表明したのです。 彼は、スペイン人がインディアスで行ってきたことの全て、すなわち罪のない先住民に対する搾取と殺戮は、不正義であり、大罪であるという確信に至りました。 この出来事は、ラス=カサスの「第一の回心」として知られています。 彼は、植民者としての利益を捨て、先住民の権利を擁護する側に立つことを決意したのです。
この決意を胸に、ラス=カサスは1515年にスペインへ帰国します。 彼は、アメリカ大陸で起きている不正義をスペイン国王に直接訴え、改革を求めるためでした。 彼はフェルナンド王に謁見し、植民地での惨状を報告しましたが、王は間もなく亡くなってしまいます。 その後、彼は摂政であったヒメネス・デ・シスネロス枢機卿らの支持を得て、1516年には「インディオスの保護者」という公式な称号を与えられました。 この称号は、彼の活動に正当性を与えるものでした。
しかし、彼の改革案、例えばイエロニモ会の修道士をインディアスに派遣して状況を改善しようとする試みは、現地の植民者たちの強い抵抗に遭い、失敗に終わります。 1522年には、ベネズエラ沿岸のクマナで、武力を用いない平和的な植民地を建設しようという試みも、奴隷商人たちの襲撃によって頓挫しました。 この失敗はラス=カサスに深い絶望をもたらしました。
相次ぐ挫折と失意の中、ラス=カサスは新たな道を模索します。1522年、彼はサント・ドミンゴのサンタ・クルス修道院に入り、ドミニコ会の修練者となりました。 そして1523年、正式に修道士として誓願を立てます。 これが彼の「第二の回心」と見なされることもあります。 修道院に入った彼は、公的な活動から一時的に身を引き、神学、特にトマス・アクィナスの哲学の研究に没頭しました。 この静かな期間は、彼の思想をより深く、強固なものにするための重要な時間となりました。1527年からは、彼の主著の一つとなる『インディアスの歴史』の執筆に着手します。 ドミニコ会士として、彼は個人の活動家から、より組織的で神学的な裏付けを持つ擁護者へと変貌を遂げたのです。この修道会への入会は、彼の生涯にわたる闘いにおいて、精神的、そして知的な基盤を提供するものとなりました。
インディオスの保護者としての活動
1516年に「インディオスの保護者」という称号を授与されて以来、ラス=カサスは、その生涯をかけてアメリカ先住民の権利擁護に奔走しました。 彼の活動は、スペイン宮廷でのロビー活動、植民地での実践的な試み、そして膨大な量の著作活動という多岐にわたるものでした。
彼の活動の核心にあったのは、エンコミエンダ制度への徹底的な批判です。 この制度は、スペイン国王が征服者に特定の地域の先住民を「委託」し、彼らから貢納や労働力を徴収する権利を与えるものでした。 その見返りとして、エンコメンデロは先住民を保護し、キリスト教の教えを授ける義務を負うとされていましたが、実際にはこれはほとんど守られず、制度は事実上の奴隷制として機能していました。 ラス=カサス自身もかつてエンコメンデロでしたが、回心後はこの制度が先住民に対する不正義と搾取の根源であると断じ、その廃止を強く訴え続けました。
ラス=カサスは、先住民がスペイン国王の臣民であり、他のスペイン臣民と同等の権利を持つべきだと主張しました。 彼は、先住民を人間以下の存在と見なす見解に真っ向から反対し、彼らが理性を持ち、高度な社会や文化を築く能力のある完全な人間であることを強調しました。 彼の考えでは、先住民に対する暴力的な征服や強制的な労働は、神の法、自然法、そしてスペインの法に反するものでした。
彼の擁護活動は、具体的な政策提言にも及びました。1515年から1516年にかけて、彼は摂政シスネロス枢機卿の助けを得て、インディアス改革計画を立案しました。 この計画は失敗に終わりましたが、彼の情熱は衰えませんでした。 彼は、武力による征服ではなく、平和的な説得による布教こそが唯一正しい方法であると信じていました。 この思想は、1537年に執筆された『唯一の布教の方法』で体系的に示されています。
この理念を実践に移すため、彼はいくつかの実験的な植民プロジェクトを試みました。最初の試みの一つは、イスパニョーラ島のクマナで、先住民のコミュニティを宣教師の平和的な指導の下で自治させるというものでした。 しかし、この試みは、既得権益を奪われることを恐れたヨーロッパ人入植者の妨害によって失敗しました。 1521年には、ベネズエラ沿岸で、自らヨーロッパ人農民と職人を率いて、模範的な共同体を築くことで先住民に平和な社会を示そうとしました。 しかし、この植民地も先住民の襲撃を受け、壊滅的な結末を迎えました。
これらの失敗にもかかわらず、ラス=カサスは諦めませんでした。1537年、彼はグアテマラの特に戦闘的とされていた地域(後に「ベラパス(真の平和)」と呼ばれる)で、宣教師のみによる平和的な布教活動を行う許可を国王から得ました。 この「ベラパスの実験」は成功を収め、武力を用いることなく先住民を平和的にキリスト教に導き、スペイン王権の下に組み入れることができることを証明しました。 しかし、悲劇的なことに、この地域が平定されると、結局は植民者たちが土地を奪い、先住民を奴隷化してしまい、ラス=カサスの努力は水泡に帰しました。
ラス=カサスの活動は、スペイン宮廷においても大きな影響力を持ちました。彼は国王やインディアス枢機会議の顧問として、植民地に関する多くの問題について意見を求められました。 彼の絶え間ない訴えとロビー活動は、1542年の「新法」の制定に大きく貢献しました。 この法律は、先住民の奴隷化を禁止し、エンコミエンダ制度を段階的に廃止することを定めた画期的なものでした。 これは、ラス=カサスの生涯における最大の政治的勝利の一つと見なされています。しかし、この法律は新世界の植民者たちから猛烈な反発を受け、暴動や脅迫が相次ぎ、最終的にはその内容が骨抜きにされてしまいました。
「インディオスの保護者」としてのラス=カサスの闘いは、成功と失敗の連続でした。しかし、彼の揺るぎない信念と不屈の行動は、ヨーロッパの良心に問いかけ続け、植民地主義の倫理をめぐる議論の先駆けとなったのです。
『インディアスの破壊についての簡潔な報告』
ラス=カサスの数多くの著作の中で、最も広く知られ、最も大きな影響を与えたのが『インディアスの破壊についての簡潔な報告』です。 この書物は1542年に執筆され、1552年にセビリアで出版されました。 当時皇太子であった後のフェリペ2世に献呈されたこの報告書は、新世界におけるスペイン人征服者によるアメリカ先住民への残虐行為、虐殺、拷問、奴隷化といった非道の数々を、衝撃的な筆致で告発するものでした。
この書が執筆された背景には、ラス=カサスの長年にわたる先住民擁護活動がありました。1542年、神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)は、植民地における強制改宗や先住民搾取の問題を審議するための聴聞会を命じました。 ラス=カサスはインディアス枢機会議のメンバーの前でこの報告書を提示し、植民地当局者が犯した残虐行為の証拠として用いたのです。 彼の目的は、スペイン王室の良心に訴えかけ、インディアスで進行している破壊と不正義を止めさせ、先住民の基本的な権利を保障する法律を制定させることでした。
『簡潔な報告』の内容は、地域ごとに章立てされ、イスパニョーラ島から始まり、キューバ、中央アメリカ、メキシコ、ペルーなど、スペイン人が足を踏み入れた各地での惨状を具体的に記述しています。 ラス=カサスは、自らが目撃した出来事や、信頼できる目撃者から得た証言に基づき、スペイン人が行った残虐行為を克明に描写しました。 彼は、スペイン人が黄金への飽くなき欲望に駆られ、何の罪もない穏やかな先住民を、まるで家畜を屠るかのように無慈悲に殺戮したと非難します。 例えば、赤ん坊を岩に叩きつけて殺したり、人々を火あぶりにしたり、猟犬に食い殺させたりといった、読むに堪えないような凄惨な場面が次々と描かれています。
ラス=カサスは、修辞的な効果を最大限に高めるため、意図的に対比的な表現を用いています。彼は先住民を、素朴で、謙虚で、従順で、悪意を知らない「神の子羊」のように描写する一方で、スペイン人を、飽くことなき貪欲さと非人間的な残虐性を持つ「貪欲な狼、虎、ライオン」として描いています。 このような誇張ともとれる二元論的な描写は、読者の感情に強く訴えかけ、スペインの行為の非道さを際立たせるための戦略でした。 彼は、この破壊の主な原因がキリスト教の布教ではなく、純粋に富への欲望であったことを繰り返し強調しています。
この書物は、出版されるやいなやヨーロッパ中で大きな反響を呼びました。すぐにオランダ語、フランス語、英語、ドイツ語などに翻訳され、スペインの敵対国によって広く読まれました。 これらの国々は、スペインの植民地支配の非人道性を非難するためのプロパガンダとしてこの書を積極的に利用し、これが「黒い伝説」として知られる、スペイン人の残虐性を強調する言説を形成・強化する一因となりました。 スペイン国内では、この書は多くの論争を巻き起こし、ラス=カサスは同国人から裏切り者と見なされることもありました。
『インディアスの破壊についての簡潔な報告』は、歴史的記述の客観性、特に犠牲者の数などの点で誇張が含まれているという批判も受けてきました。 しかし、その本質的な価値は、単なる歴史記録としてではなく、植民地主義の暴力性を告発し、普遍的な人権の概念を訴えかけた政治的・倫理的な文書である点にあります。この短い報告書は、ラス=カサスの情熱と怒りの結晶であり、彼の名を不滅のものにした最も強力な武器でした。
新法とチアパス司教時代
ラス=カサスの長年にわたる精力的な活動は、1542年に「新法」として知られる一連の勅令の制定という、彼のキャリアにおける最も重要な成果の一つをもたらしました。 正式名称を「インディアスの統治とインディオスの良き処遇と保護のために陛下によって新たに制定された法と条例」というこの法律は、神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)によって公布され、アメリカ大陸におけるスペインの植民地統治のあり方を根本的に改革しようとするものでした。
新法の最も画期的な内容は、アメリカ先住民の奴隷化を全面的に禁止したことです。 また、エンコミエンダ制度についても、新たなエンコミエンダの授与を禁じ、現存するものも所有者の死後は王室に返還されることとし、事実上、この制度を一代限りで終わらせることを目指しました。 さらに、聖職者や王室官吏がエンコミエンダを所有することも禁じられました。これらの規定は、ラス=カサスが長年主張してきた、先住民は自由な人間であり、スペイン国王の臣民として保護されるべきであるという理念を法的に具体化したものでした。 この法律の制定には、ラス=カサスが宮廷で行った粘り強いロビー活動と、『インディアスの破壊についての簡潔な報告』などで示した衝撃的な告発が大きく影響しています。
しかし、ラス=カサス自身はこの新法に完全には満足していませんでした。彼は、エンコミエンダ制度が即時廃止ではなく、段階的な廃止にとどまったことを不十分だと考えていました。 それでも、この法律は彼の理想に向けた大きな一歩でした。
新法の制定後、その施行を確実にするため、ラス=カサスは新たな役割を担うことになります。1544年3月30日、彼はバリャドリッドのサン・パブロ教会で、新たに設立されたメキシコ南部のチアパス教区の初代司教に叙階されました。 70歳近くなっていましたが、彼は新法の精神を現地で実践するために、再びアメリカ大陸へ渡ることを決意したのです。
1545年、ラス=カサスは司教としてチアパスに着任しました。 しかし、彼を待ち受けていたのは、現地のスペイン人植民者たちからの激しい敵意と抵抗でした。 植民者たちは、エンコミエンダを奪われることを自らの財産と生活の基盤を根こそぎにされることだと考え、新法に猛烈に反発しました。ラス=カサスは、新法を厳格に施行しようとし、エンコミエンダを所有し続ける者に対しては告解の秘跡を授けることを拒否するよう配下の聖職者に命じました。
この強硬な姿勢は、植民地社会に深刻な対立を引き起こしました。植民者たちは暴動を起こし、ラス=カサスの生命を脅かす事態にまで発展しました。 彼自身の教区の聖職者でさえ、彼の命令に従うことを拒否する者もいました。 植民者たちは、ラス=カサスを「狂人」と呼び、スペインへの反逆者であると非難しました。 状況は極度に悪化し、1547年、ラス=カサスは身の危険を感じてチアパスを離れ、スペインへ帰国せざるを得なくなりました。 彼の司教としての在任期間はわずか2年ほどで終わり、二度とアメリカ大陸の土を踏むことはありませんでした。
新法そのものも、ペルーでの反乱など、新世界各地での激しい抵抗に遭い、最終的にはエンコミエンダの世襲を禁じる条項が撤回されるなど、大幅に後退させられてしまいました。 ラス=カサスのチアパスでの経験は、法的な改革がいかに現地の既得権益層の抵抗によって骨抜きにされうるか、そして理想を現実に適用することの困難さを痛感させるものでした。しかし、彼の司教としての闘いは、たとえ失敗に終わったとしても、その後の彼の活動を方向づける重要な経験となったのです。
バリャドリッド論争
1550年から1551年にかけて、スペインのバリャドリッドで、アメリカ先住民の人間性と、彼らに対するスペインの征服戦争の正当性をめぐる、歴史的に有名な論争が開かれました。 この「バリャドリッド論争」は、バルトロメ・デ・ラス=カサスと、著名な人文主義者でアリストテレス学者であったフアン・ヒネス・デ・セプルベダとの間で交わされました。 この論争は、神聖ローマ皇帝カール5世の命により、インディアスにおけるさらなる征服活動を一時停止させた上で、その倫理的正当性を審議するために召集されたものでした。
論争の核心的な争点は、アメリカ先住民の本性に関するものでした。セプルベダは、アリストテレスの「自然奴隷説」を援用し、先住民はスペイン人と比較して理性が劣り、生まれながらにして奴隷的な性質を持つ「ホムンクルス(人間もどき)」であると主張しました。 彼は、先住民が偶像崇拝や人身御供といった野蛮な習慣を持つことから、彼らを文明化し、キリスト教化するためには、武力による征服と支配が正当化されると論じました。 彼の著作『第二のデモクラテス、あるいはインディオに対する正戦の根拠について』は、征服者たちの行為を理論的に擁護するものであり、植民者たちの間で広く支持されていました。
これに対し、ラス=カサスは真っ向から反論しました。彼は、先住民が完全な理性を備えた人間であり、複雑な社会、法律、芸術を持つ文明的な民族であると主張しました。 彼は、自らの長年の経験と観察に基づき、先住民の平和的な性質や知的能力を証言しました。 彼の主著の一つである『インディアス弁護史』は、まさにこの目的のために書かれたもので、先住民の文化や社会の高度さを詳細に分析し、彼らが野蛮人であるという見方を覆そうとする試みでした。 ラス=カサスは、福音は愛と説得によって伝えられるべきであり、武力による強制的な改宗はキリスト教の教えそのものに反すると強く訴えました。 彼にとって、セプルベダの主張は、征服者たちの貪欲さを正当化するための危険な詭弁に他なりませんでした。
論争は、バリャドリッドのサン・グレゴリオ学院で、高位聖職者や法学者からなる審議会の前で行われました。 セプルベダが自説の要約を3時間で述べたのに対し、ラス=カサスは5日間にわたって自らの論駁を読み上げたと言われています。 彼は、先住民の権利を擁護するために、神学、法学、そして自身の体験から得た膨大な知識を総動員しました。
この歴史的な論争には、明確な勝敗の判定は下されませんでした。審議会はどちらか一方の主張を公式に採択することなく、結論は曖昧なまま終わりました。 セプルベダの著作はスペインでの出版が許可されず、彼の主張が公式に認められることはありませんでした。 一方で、ラス=カサスの主張が完全に勝利したわけでもなく、インディアスにおける征服と搾取の現実はその後も続きました。
しかし、バリャドリッド論争の歴史的な意義は、その直接的な結果以上に大きいものです。この論争は、ヨーロッパ世界が、植民地主義と異文化との接触がもたらす倫理的な問題を、これほど公的かつ本格的に議論した最初の例の一つでした。 ラス=カサスが展開した、全ての人間の普遍的な尊厳と権利に基づく議論は、後の国際法や人権思想の発展における重要な先駆と見なされています。 セプルベダが征服者たちの英雄となった一方で、ラス=カサスの思想は、スペイン国王の政策決定や、後世の歴史観、人権思想に対して、より永続的な影響を与えたのです。
アフリカ人奴隷制度に対する見解の変遷
ラス=カサスは、アメリカ先住民の権利を擁護する情熱的な活動家として知られていますが、その生涯において、アフリカ人奴隷制度に対しては複雑で、時間とともに変化する見解を持っていました。 この問題は、彼の人物像を評価する上で最も論争の的となる側面の一つです。
彼のキャリアの初期段階において、ラス=カサスはアフリカ人奴隷の導入を提案したことがあります。 1516年に摂政シスネロス枢機卿に提出した「インディアスのための救済策についての覚書」の中で、彼は、過酷な労働によって急速に人口を減少させている先住民の苦しみを和らげるため、その代替労働力としてアフリカから黒人奴隷を輸入することを提言しました。 彼は、一人のスペイン人入植者につき20人ほどの奴隷を割り当てることを具体的に提案しています。 この提案は、彼の主な関心が、奴隷制度そのものをなくすことではなく、彼が直接目の当たりにしていた先住民の肉体的な苦痛と絶滅を防ぐことにあったことを示しています。
当時、ラス=カサスは、16世紀のヨーロッパで広く受け入れられていた法的・道徳的見解を共有していました。それは、「正戦」の結果として捕虜となった人々を奴隷にすることは正当化されるという考えです。 彼は、アフリカ人がポルトガル人との「正戦」によって捕らえられた捕虜であると想定しており、その奴隷化は法的に正当なものであると信じていました。 彼は、ポルトガルが「信仰を広めるという名目で残虐で不正な戦争を遂行している」という実態を知らなかったのです。 彼の提案は、既にスペイン国内に存在していた奴隷制度を新世界に拡大するものであり、彼がアフリカ人奴隷貿易を創始したわけではありませんが、その拡大を助長したという批判は免れません。
しかし、ラス=カサスのこの見解は、彼の生涯の後半において劇的に変化します。 長年の経験と省察を経て、彼は自らがかつて犯した過ちに気づき、その立場を明確に撤回しました。 晩年に執筆・改訂された主著『インディアスの歴史』の中で、彼はこの問題について深く悔い、自らを「不注意によって罪を犯した」と断じています。 彼は、アフリカ人の奴隷化が、インディアンの奴隷化と「全く同様に不正」であるという結論に達したのです。
この「第三の回心」とも言える変化の背景には、いくつかの認識がありました。 第一に、彼はアフリカ人奴隷を導入しても、先住民の搾取と破壊が止まることはなかったという現実に直面しました。 彼の当初の提案は、植民者の利益にこそ貢献したものの、先住民もアフリカ人奴隷も救うことにはならなかったのです。 第二に、彼はアフリカ人奴隷自身がプランテーションでの過酷な労働によって日々命を落としていくという、彼ら自身の悲惨な状況を認識するようになりました。
最終的にラス=カサスは、アフリカ沿岸での奴隷狩りや大西洋を横断する奴隷貿易そのものの不正義を非難するに至ります。 彼は、あらゆる形態の奴隷制度が、人間の自由と尊厳を侵害するものであり、神の法に反すると主張するようになりました。 彼は、先住民の擁護から始まった自らの闘いを、アフリカ人を含む全ての人々の自由の擁護へと普遍化させていったのです。
ラス=カサスが初期にアフリカ人奴隷の導入を提言した事実は、彼の思想の限界を示すものとして批判的に語られます。しかし、その後の彼の自己批判と見解の転換は、彼が自らの誤りを認め、より普遍的な正義へと探求を深めていった誠実な思想家であったことを示しています。彼の生涯は、一人の人間が時代の制約の中でいかに格闘し、その認識を発展させていったかを示す貴重な事例と言えるでしょう。
晩年と死
1547年にチアパス司教を辞任し、スペインに恒久的に帰国した後も、ラス=カサスの活動は終わりませんでした。 むしろ、彼の人生の最後の約20年間は、スペイン宮廷における影響力を最大限に活用し、執筆活動を通じて自らの思想と思いを後世に残すための、実り多い時期となりました。
彼はマドリードのヌエストラ・セニョーラ・デ・アトーチャ修道院などに居を構え、残りの人生をスペイン宮廷で過ごしました。 彼はもはやアメリカ大陸に直接赴くことはありませんでしたが、インディアス関連の問題に関して、国王やインディアス枢機会議にとって不可欠な顧問であり続けました。 彼の宮廷での影響力は絶大で、インディアス枢機会議のメンバー選出において最終的な決定権を持っているとさえ考えられるほどでした。 アメリカ大陸の先住民たちは、彼を頼り続け、皇帝へのとりなしを求める請願書を彼に送りました。 時には、ノチストランのナワ族の貴族フランシスコ・テナマストレのように、先住民の指導者たちが自らスペインに渡り、ラス=カサスに窮状を訴えることもありました。
この時期、彼の活動の中心は執筆でした。バリャドリッド論争(1550-1551年)でフアン・ヒネス・デ・セプルベダと対決して以降も、彼は先住民の権利を擁護するための著作を精力的に続けました。 1552年には、彼の最も有名な著作である『インディアスの破壊についての簡潔な報告』を出版しました。 これは、彼の長年の告発を凝縮したものであり、ヨーロッパ中に大きな衝撃を与えました。
彼はまた、生涯をかけた大著『インディアスの歴史』の完成に心血を注ぎました。 この著作は、コロンブスの航海から始まるインディアスの歴史を、先住民の視点と彼らの苦難を軸に描き出す壮大な試みでした。1561年頃に完成したこの書について、彼は「自分の死後40年が経過するまで出版してはならない」という遺言を残しています。 その理由として彼は、「もし神がスペインを滅ぼすことを決めたもうならば、それは我々がインディアスで行った破壊のゆえであり、神の正当な理由が明白に示されるためである」と記しました。 この言葉は、彼のスペインに対する深い愛国心と、同時にその罪に対する痛烈な預言的警告を示しています。
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- 東南アジアの植民地化
- 東アジアの対応
- 帝国主義と世界の変容
- 帝国主義と列強の展開
- 世界分割と列強対立
- アジア諸国の改革と民族運動(辛亥革命、インド、東南アジア、西アジアにおける民族運動)
- 二つの大戦と世界
- 第一次世界大戦とロシア革命
- ヴェルサイユ体制下の欧米諸国
- アジア・アフリカ民族主義の進展
- 世界恐慌とファシズム諸国の侵略
- 第二次世界大戦
- 米ソ冷戦と第三勢力
- 東西対立の始まりとアジア諸地域の自立
- 冷戦構造と日本・ヨーロッパの復興
- 第三世界の自立と危機
- 米・ソ両大国の動揺と国際経済の危機
- 冷戦の終結と地球社会の到来
- 冷戦の解消と世界の多極化
- 社会主義世界の解体と変容
- 第三世界の多元化と地域紛争
- 現代文明
- 国際対立と国際協調
- 国際対立と国際協調
- 科学技術の発達と現代文明
- 科学技術の発展と現代文明
- これからの世界と日本
- これからの世界と日本
- その他
- その他
























