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高麗とは わかりやすい世界史用語2041
著作名: ピアソラ
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高麗とは

高麗王朝は918年に建国され、これ以前の分裂した国々が形成していた後三国時代を背景に、統一を果たしました。特に、王建が後高句麗を打倒後、後百済や新羅を次々に征服し、935年には統一新羅が和平を求めて降伏しました。この過程で、高麗は韓半島の全領域を統一しました。
高麗時代は文化的な繁栄の時代であり、特に仏教美術はこの時期に大きく発展しました。仏教は国家の宗教として採用され、さまざまな宗教行事や芸術が生み出され、民衆の生活に深く浸透しました。また、高麗青磁などの陶芸や金属工芸も大きな発展を見せ、高麗はその芸術的な成果において国際的にも知られるようになりました。
政治的には、高麗は中央集権化の進展を目指し、儒学を公式な行政理念として採用しました。これにより、国子監や郷校などを設立し、教育制度を整備することに尽力しました。また、中国の宋と良好な外交関係を築き、多くの文化的交流を行い、経済的にも発展を遂げました。
しかしながら、内部の権力闘争や不満が高まり、高麗は最終的に崩壊の道を歩みました。特に、14世紀の終わりには指導者層の腐敗が目立つようになり、名族の台頭によるクーデターが相次ぎました。最終的には、李成桂による反乱によって高麗王朝は650年以上の歴史に幕を下ろし、朝鮮王朝(李氏朝鮮)が成立することとなりました。



高麗成立の背景

918年、王建は高麗を建国し、936年には後百済を滅ぼして朝鮮半島の統一を達成しました。この統一は、新羅時代の分裂状態から生じたものであり、王建のリーダーシップにより実現しました。彼は、政治的・軍事的な戦略を駆使し、複数の領土を一つの国家にまとめ上げたのです。この時期、高麗の権力は急速に増大し、地域の安定をもたらすと同時に、各国との外交関係を構築する基盤を築いたのです。
王建は高麗の設立者であるだけでなく、新羅の王族としての血筋を引く人物でもありました。彼の即位により、高麗は新しい政治体制を確立し、太祖として知られる彼の統治は、国のアイデンティティ形成の基石となります。王建は新羅の貴族を官僚として引き入れ、彼らの経験と知識を利用することで、国家の統治をより効果的に行ったのです。このようにして、彼の指導により、高麗の国家体制が形成され、後の時代に多大な影響を及ぼしました。
高麗の設立は単なる内戦の結果ではなく、地域の権力関係における重要な変化と、さまざまな外交交渉の積み重ねによってもたらされました。この時代、王建は後百済や新羅との戦争を通じて政治的な立場を強化し、同時に契丹やモンゴルとの関係を築くことで、中国大陸との関係を深めたのです。高麗の外交政策は、他国との交流を促進し、文化的な影響を受け入れる一方で、強固な国家としての地位を確立する手助けをしました。

高麗の時系列

918年、高麗は後高句麗を滅ぼし、王建によって設立されました。この出来事は、朝鮮半島における政治的統一の重要な一歩であり、当時の「三国時代」の終焉を迎えるものでした。王建は、国名を高麗とし、これが現在の韓国名の起源となります。また、高麗の成立は、混乱した時代からの脱却を意味し、国内の選良と南北の勢力をうまく調整することで、国の基盤を固めることに成功しました。
11世紀には、高麗では中央集権化の進展が見られました。この過程で、中国の政治制度を模倣し、特に科挙制度が導入されることとなります。この制度は、才能のある個人を官僚として登用することを目的としており、高麗の政治の発展に大きく寄与しました。また、王成宗の治世(981年~997年)には、地方支配を強化し、中央政府の権限を高めるための具体的な政策が実施されました。これにより、高麗はより強力で安定した国家としての地位を確立することとなりました。
高麗時代(918年~1392年)は、仏教が国教としての地位を確立した時代でもありました。仏教の信仰は、王から庶民に至るまで広まり、国家の安定と繁栄を願う多くの寺院や仏教美術が築かれました。特に、仏教寺院における建築や仏像制作は、今なお国宝とされる美術遺産を生み出すこととなります。また、仏教の影響を受けた文化的繁栄は、文学・音楽・美術の各分野にも及び、高麗は精神文化の黄金期を迎えることとなりました。
1231年から1259年にかけて、高麗はモンゴル帝国の侵攻に直面しました。この時期、高麗は自身の領土防衛のために多くの戦闘を強いられ、その結果として国の資源が大きな試練に晒されました。しかし、国の独立を維持するために、最終的には平和協定が締結されることとなります。この和議により、高麗はモンゴルに従属する形で生き延びる道を選び、新たな歴史的局面を迎えました。モンゴルの支配の下で、高麗文化はさらなる影響を受けることとなります。
1392年、高麗の王朝は内部分裂と政治的動乱により崩壊の危機に直面しました。最終的には李成桂がクーデターを起こし、新たな朝鮮王朝を開くことになります。このクーデターは、高麗時代の終焉を意味するだけでなく、朝鮮半島における新たな時代の始まりを告げるものでした。李成桂の下で、朝鮮はさらなる中央集権化を図り、より安定した政権を築くことに成功しました。高麗の崩壊と李氏朝鮮の成立は、韓国の歴史における重要な転換点となりました。

文化的および芸術的な達成

高麗時代において仏教の影響は計り知れないものでした。この時代には仏教が国教となり、仏教に帰依した王たちは宗教的な保護を施し、仏画、仏像、及び宗教的な工芸品が数多く製作されました。特に「高麗大蔵経」の出版などは、仏教の教義を国民に広める重要な役割を果たしました。また、仏教美術の新たな様式である高麗仏画は、時代の文化的アイデンティティを形成したといえます。
高麗青磁は、高麗時代における最も重要な工芸品の一つであり、その美しさと技術的な精緻さは今なお高く評価されています。この青磁は、特に象嵌技法によって文様を精巧に表現したものが多く、焼成の過程で白土や赤土を巧みに埋め込んで独特の模様を形成しました。この高度な技術は、韓国文化の精髄を体現し、後の朝鮮時代における陶芸技術の基盤を築きました。
高麗時代の中でも特に注目すべきは、13世紀の金属活字印刷の発明です。この技術革新は仏教経典の普及を加速させ、宗教教育の普及に寄与しました。印刷による効率的な経典制作は、仏教徒のみならず広く一般にも仏教の教えを伝える手段となり、これにより高麗社会全体の知識水準を高める結果となりました。これらの功績は、文化と宗教の発展に大きく寄与したといえるでしょう。

政治制度と制度改革

高麗王朝の成立とともに、王建は統一国家を築くために中央集権化を選択しました。具体的には、貴族による分権的な支配から脱却し、国家の運営を強化することを目指しました。この中央集権化の取り組みは、政治的安定を促進すると共に、高麗の支配階級であった両班の権限を制限し、より専門的な官僚制度の構築を進めることに繋がりました。特に、王権を強化するための法律・制度の整備は、広範な社会的変革を引き起こしました。
高麗時代には、官僚制度の確立があり、教育制度と官職試験の整備が進められました。この制度は、新しい世代の官僚を育成して、政治における専門性を強化するための重要な一歩でした。特に科挙と呼ばれる試験制度は、貴族層からの官僚を減らし、実力本位の政治を促進しました。これにより、能率的な行政制度が構築され、国家の運営における効率化が実現しました。
高麗政府は、政治制度の改革に際して、主に中国の制度を参考にしつつ、それを朝鮮半島の特性に合わせた独自のものに発展させました。具体的には、中国の官僚制度、律法、礼制などの導入は、高麗の政治と文化を形成する上で重要な影響を及ぼしました。これにより、高麗は自己の王権や国家体制を強化し、国内外の安定を維持するための基盤を築きました。

国際的な関係と影響

高麗王朝は、その成立当初から中国との緊密な関係を築くことを重視しました。特に、儒教や仏教といった思想が国内に浸透するとともに、中国からの文化や技術の導入が進みました。金属活字の発明や青磁器の発展は、この時期の重要な文化的な成果であり、これらは高麗が中国文化を巧みに取り入れて独自の風土を形成していたことを物語ります。
高麗王朝は、貿易を通じて中央アジアやアラビア、さらには日本との交流を深めていきました。この関係は、物資の交換だけでなく、技術や文化の交流をも伴い、高麗の経済を活性化させました。特に三国時代後期には、交易によって新たな国際的なネットワークが形成され、これにより高麗は国際的な視野を持つ国へと成長していきます。
モンゴルとの紛争後、高麗は一定の独立を保ちながらも外部の影響を受け続けました。13世紀半ばにはモンゴル帝国の侵略を経て、短期間ながらも従属関係を強いられましたが、戦乱を経て高麗は再び国の主体性を取り戻しました。しかし、この時期には内外からの圧力が高まり、国力の衰退が避けられなくなっていく選択の難しさが生じることになります。

高麗王朝の終焉

14世紀に入ると、高麗王朝内の政治的混乱は増大し、国の統制が揺らぎました。恭愍王の時代(1330-1374)の改革努力は失敗に終わり、その結果、権門勢族による権力の独占が進みました。この権力の集中は大土地所有の拡大を招き、社会の基盤が揺らぎ、一般市民の生活はますます困窮していきました。この内部の複雑な矛盾は、王朝の存続を危うくする要因となりました。
このような混乱の中で、李成桂などの革新的な指導者たちが台頭してきました。彼らは既存の権力者陣営による統治を否定し、軍事的クーデターを実行した結果、恭養王が退位を余儀なくされました。これにより、高麗王朝の政治体制は根本的に揺らぎ、李成桂を中心とした新たな政権の樹立へと進むことになりました。
こうして、高麗王朝は崩壊の方向へと向かうことになりますが、特に李成桂の指導のもとで進められた改革は、王朝の終焉という歴史的な転換点を示していました。李成桂の権力掌握後、高麗は急速にその形を変え、1371年には田制改革を進めることで新たな社会体制の構築を目指しました。そして、この変革はやがて新しい王朝、朝鮮王朝の成立へとつながっていくこととなりました。

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