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パッラヴァ朝とは わかりやすい世界史用語799
著作名: ピアソラ
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パッラヴァ朝とは

パッラヴァ朝は、3世紀から9世紀までインド南東岸を支配したタミル系王朝です。この王朝は、特にタミル・ナードゥ州のカーンチープラムを中心に栄えました。パッラヴァ朝は、サータヴァーハナ朝の封臣として始まり、その後独立して強力な王国を築きました。

起源と歴史

パッラヴァ朝の起源については諸説ありますが、一般的にはサータヴァーハナ朝の封臣から独立したとされています。初期の王たちは、アーンドラ地方からカーンチープラムに移り、そこで勢力を拡大しました。特にシンハヴィシュヌ王の時代に、パッラヴァ朝はカーヴィリ川まで領土を広げ、パーンディヤ朝やセイロンの君主たちと抗争しました。

主要な王とその業績

パッラヴァ朝の中でも特に有名な王は、マヘーンドラヴァルマン1世とその息子ナーラシンハヴァルマン1世です。マヘーンドラヴァルマン1世は、前期チャールキヤ朝と戦い、北インドの覇者ハルシャを破ったプラケーシン2世に敗れましたが、その後、ナーラシンハヴァルマン1世がバーダーミを占領し、プラケーシン2世を敗死させるなどして前期チャールキヤ朝を一時滅亡の危機に追い込みました。

文化と建築

パッラヴァ朝は、特に建築と彫刻で知られています。カーンチープラムにはカイラーサナータ寺院、マハーバリプラムには「海岸寺院」などの壮大な建造物が建てられました。これらの建造物は、ユネスコの世界遺産にも登録されており、パッラヴァ朝の建築技術の高さを示しています。また、パッラヴァ朝はヒンドゥー教、ジャイナ教、仏教の保護者でもあり、多くの宗教施設が建設されました。

経済と貿易

パッラヴァ朝は、海外貿易によって経済を発展させました。特に中国南朝との交易が盛んで、唐への使節も派遣されました。また、東南アジアとの交易も行われ、ボルネオやジャワにヒンドゥー王国が現れるなど、パッラヴァ朝の影響が広がりました。

衰退と滅亡

パッラヴァ朝は、9世紀に入ると次第に衰退し、最終的にはチョーラ朝のアーディテイヤ1世によって滅ぼされました。しかし、その文化的遺産は現在も南インドに深く根付いており、特に建築や彫刻の分野でその影響が見られます。

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