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プルシャプラとは わかりやすい世界史用語784
著作名: ピアソラ
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プルシャプラとは

プルシャプラは、現在のパキスタンのペシャーワルに位置する古代都市で、その名はサンスクリット語で「人間の都市」を意味します。この都市は、特にクシャーナ朝の時代に重要な役割を果たしました。

プルシャプラの起源

プルシャプラの歴史は紀元前6世紀に遡ります。この地域は当時、ガンダーラ王国の一部であり、インダス文明やバクトリア地方とを結ぶ重要な結節点でした。この都市は、アケメネス朝ペルシャやアレクサンドロス大王の支配を受け、その後、マウリヤ朝の一部となりました。



クシャーナ朝の時代

プルシャプラが最も栄えたのは、クシャーナ朝のカニシカ王の時代です。カニシカ王は、仏教の大いなる庇護者であり、プルシャプラを仏教研究の中心地としました。この時期、プルシャプラには巨大なストゥーパ(仏塔)が建設され、仏教の聖地として栄えました。このストゥーパは、当時の旅行者や僧侶たちに大きな感銘を与え、その高さと美しさは伝説的でした。

プルシャプラの文化とガンダーラ美術

プルシャプラは、ガンダーラ美術の中心地としても知られています。ガンダーラ美術は、ギリシャ・ローマの影響を受けた仏教美術であり、その特徴的なスタイルは、仏像やレリーフに見られます。この美術様式は、アレクサンドロス大王の東方遠征によってもたらされたヘレニズム文化と、インドの伝統的な要素が融合したものです。

仏教の中心地

プルシャプラは、仏教の重要な中心地としても機能しました。カニシカ王の庇護の下、多くの僧侶や学者がこの地に集まり、仏教経典の研究や翻訳が行われました。特に、中国からの僧侶である法顕や玄奘がこの地を訪れ、その記録が後世に伝えられています。

プルシャプラの衰退とその後

プルシャプラは、8世紀以降、イスラーム勢力の侵入により次第にその重要性を失っていきました。988年にはトルコ系ムスリムの支配を受け、その後、ムガル帝国の一部となりました。ムガル帝国の時代には、ペシャーワルとして再び繁栄しましたが、仏教の中心地としての役割は終わりを迎えました。

プルシャプラは、その長い歴史と豊かな文化遺産を持つ都市です。特にクシャーナ朝の時代には、仏教の中心地として、またガンダーラ美術の発展の場として重要な役割を果たしました。

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