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【都市・交通の発展、寛永期の文化】 受験日本史まとめ 40
著作名: Cogito
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村と百姓

17世紀末、村は全国に6万ほどありました。一般的に、村の行政は本百姓によって運営され、名主(肝煎・庄屋)や組頭・百姓代などの村役人(村方三役)が指導し、彼らは世襲や選挙・協議などによって決められました。村人は結・もやいという共同作業の互助組織を作り、田植え・稲刈り・屋根葺きなどの共同作業を行い、入会地を共同で管理し、村入用(共同経費)を負担し合いました。村には村法(村掟)があり、これに違反したものは五人組や共同体から排除される村八分・組落ちなどの制裁が課せられました。幕府や諸藩は、村の自治に依存した村請制を通じて年貢を徴収しました。

村内には階層があり、中世の名主や地侍の系譜である有力農民、それ以外の本百姓、日雇い仕事に従事する水呑などがおもな百姓でした。漁村では網元と網子という階層がありました。

百姓は本田畑や屋敷にかけられる本年貢をおさめ、その率は4公6民や5公5民で、非常に辛い負担でした。年貢はその年の収穫に応じて決める検見法と、一定期間同じ率の定免法がありました。これ以外にも、副業にかけられる小物成・夫役労働の国役・公共交通に馬を差し出す伝馬役・宿場の助っ人の助郷役など、百姓は多くの負担を強いられていました。

幕府は各地の百姓の生活安定と、貨幣経済の浸透への警戒から、さまざまな対策をとりました。1643年(寛永20年)の田畑永代売買の禁令で農地売却を禁止し、1673年(延宝元年)には分地制限令を出し分家の自立を減らし、分割相続による農地の細分化を防ぎました。さらに田畑勝手作りの禁止を決定し、本田畑で五穀(米・麦・黍・粟・豆)以外の作物を自由に栽培することを禁止しました。この他に、「慶安の触書」により、百姓の生活の隅々まで制限を加えました。

各地の村から集められた年貢米は、幕領のものは江戸浅草の御蔵や大津などの幕府蔵に集められました。諸藩では、大坂の蔵屋敷に廻米し、堂島などにあった米市場で換金し、藩財政に当てました。

交通の発展

この時代、陸上交通の幹線は東海道・中山道・甲州道中・日光道中・奥州道中五街道でした。街道には1里ごとに一里塚が置かれ、2〜3里ごとに宿駅がありました。宿駅には武士の宿泊する本陣・脇本陣や庶民のための旅籠・木賃宿があり、問屋場には人馬が用意されていました。これ以外に脇山道も整備され、四日市から山田へ通じる伊勢路、大坂から豊前小倉へ通じる中国路、白河・高崎・信濃追分から寺泊・出雲崎にいたる佐治路などがありました。各地には関所や渡しが設けられ、東海道の箱根・新井、中山道の碓氷・木曽福島、甲州道中の小仏、日光道中の栗橋が主な関所でした。

通信や郵便を担ったのが飛脚の制で、幕府公用の継飛脚は各宿駅で人馬を次替え、最も早い通信手段でした。これ以外に大名飛脚、民間の町飛脚などが生まれ、飛脚問屋が成立しました。



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