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【江戸時代の外交、慶長遣欧使節、朱印船貿易、4つの窓口】 受験日本史まとめ 39 |
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著作名:
Cogito
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1600年(慶長5年)、関が原の戦いと同年に、オランダのリーフデ号という船が豊後に漂着しました。当時のヨーロッパでは、毛織物産業で富を蓄積していたイギリスと、スペインから独立した新興国のオランダが有力となり、国家が東インド会社を設立し、スペイン・ポルトガルの勢力下だったアジアに進出しはじめました。
このリーフデ号には、オランダ人航海士のヤン=ヨーステンと、水先案内人のイギリス人ウィリアム=アダムスが乗っていました。徳川家康は彼等を厚遇し、ヨーロッパとの外交・貿易の顧問としました。ウィリアム=アダムスは後に三浦半島に領地を与えられ三浦按針と名乗り、ヤン=ヨーステンは江戸日本橋に屋敷を与えられ、これが後に東京八重洲の語源となりました。
カトリック(旧教)側の南蛮人(スペイン・ポルトガル)とは別に、彼等は紅毛人と呼ばれ、プロテスタント(新教)を信仰していたことから幕府に好意的に迎えられました。その結果オランダは1609年、イギリスは1613年に平戸に商館を開くことを許され、貿易をはじめました。しかし、イギリスはその後オランダとの競争に敗れ、さらなる貿易の拠点としてインドを目指し、1623年(元和9年)に平戸の商館を閉鎖しました。
一方、1596年(慶長元年)のサン=フェリペ事件以来途絶えていたスペインとの関係も、1609年(慶長14年)にルソンの前総督ドン=ロドリゴが上総に漂着し、これをメキシコ(ノビスバン,ヌエバ=エスパーニャ)に送ったことを契機に復活し、京都の商人田中勝介が貿易の開始と鉱山技師の派遣を求めましたがうまくいきませんでした。
こうした中、仙台藩の藩主伊達政宗は、宣教師ルイス=ソテロの勧めにより、家臣の支倉常長をスペインに派遣し、直接交易の可能性を探りました。1613年(慶長18年)にヨーロッパに派遣された支倉常長は、陸奥の月の浦を出発し、メキシコ・スペイン・ローマを訪れ、ローマ法王に謁見しました。これを慶長遣欧使節といいます。彼らは1620年(元和6年)に帰国しましたが、交易の交渉は失敗しました。
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