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第一次世界大戦はなぜ起こったのか 3 ヨーロッパの火薬庫とバルカン問題
著作名: ピアソラ
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英露協商の締結

日露戦争によりロシアの極東進出が失敗すると、イギリスはロシアとの対立関係を調整しはじめます。

というのも、ドイツが軍事力を強化してトルコに進出したため、イギリスとドイツの対立が更に深まっていったからです。

イギリスとロシアは、それまで対立していた中央アジアやペルシアをめぐる利害関係を調整し、1907年、英露協商を結びます。

この締結で、ロシアはイラン北部、イギリスはイラン南東とアフガニスタンをそれぞれ勢力圏とし、チベットは相互内政不干渉ということが決まります。

イギリスとロシアが手を結んだことで、1891年の露仏同盟、1904年の英仏協商とともに、イギリス・フランス・ロシアの三国協商という提携関係が成立しました。

三国協商は、特定の条約ではなく、三国それぞれの友好関係から成立したものです。


こうして、ドイツ・オーストリア=ハンガリー・イタリアの三国同盟と、イギリス・フランス・ロシアの三国協商という対立構造が明確になります。この緊張関係は、「武装した平和」といわれ、小さな紛争が大戦争に発展する可能性がありました。

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(三国同盟と三国協商)

イタリアはその後フランスに接近し、1902年に伊仏協商という密約を結んでいたため、この時以降三国同盟は事実上崩壊していました。


ヨーロッパの火薬庫

ドイツはアフリカ進出のためにモロッコに目をつけ、1905年、1911年にモロッコ事件を起こします。
しかし、この事件でドイツは譲歩し、フランスがモロッコを保護国化することが決まりました。

侵略の矛先は、バルカン半島に向かいます。

当時、バルカン半島はヨーロッパの火薬庫と言われており、オスマン帝国の衰退とともにセルビアなどの小国のナショナリズムが高揚していました。

セルビアは、露土戦争の結果1878年にオスマン帝国から独立したスラヴ系の小国です。ロシアが主導するパン=スラヴ主義の急先鋒にたち、オーストリアと激しく対立しました。


これら地域のナショナリズムを利用して勢力拡大を目指すロシア帝国のパン=スラヴ主義と、ドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国のパン=ゲルマン主義が、以後この地をめぐって激突します。

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(1907年までの国際情勢)

まず1908年、オスマン帝国で青年トルコ革命という革命が起きます。

これは、「青年トルコ」という団体が、専制の廃止や憲法の復活など、近代化を目指して起こした革命でした。

混乱したトルコの状況に乗じて、各地でさまざまな動きが出てきます。

まず、オスマン帝国の自治領だったブルガリアが完全に独立します。

また、オーストリアが、ボスニア=ヘルツェゴヴィナを併合します。

ブルガリアは露土戦争後のサン=ステファノ条約(1878年)でオスマン帝国から自治を獲得していました。また、ボスニア=ヘルツェゴヴィナはその後のベルリン会議でオーストリアが行政管理権を獲得していました。


この状況下で、オーストリアがボスニア=ヘルツェゴヴィナを併合したことが、セルビアやロシアなどのパン=スラヴ主義の国々を怒らせます。

バルカン半島が緊張する中、1911年にイタリアがイタリア=トルコ戦争を起こします。
この戦争の結果、イタリアはトルコから北アフリカのトリポリ・キレナイカを獲得し、植民地にします。

このイタリアの勝利は、バルカン半島の小国にオスマン帝国を打倒する希望を与えます。

バルカン戦争

1912年になると、ロシアの主導により、バルカン同盟が結成されます。

これはパン=スラヴ主義に基づく同盟で、トルコやオーストリアを打倒するために結成されました。

参加国は、セルビア・ギリシア・ブルガリア・モンテネグロです。

そして同年、バルカン同盟がオスマン帝国に宣戦し、第一次バルカン戦争が起こります。
ロシアはバルカン同盟を、オーストリアはオスマン帝国をそれぞれ支援しますが、最終的にオスマン帝国が敗北し、1913年ロンドン条約が締結されます。

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(第一次バルカン戦争)

これによりオスマン帝国は、イスタンブル以外のヨーロッパ領土と、クレタ島を失います。

しかし、その後ロンドン条約の結果の領土分割に関して、バルカン同盟内で内紛が起こります。ブルガリアの獲得した領土が多すぎるという理由で、今度はブルガリアに対してセルビア・ギリシア・モンテネグロ・ルーマニア・オスマン帝国が宣戦し、第二次バルカン戦争が起こったのです。

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(第二次バルカン戦争)

この戦争後、ブルガリアは多くの領土を失い、ドイツ・オーストリア側に傾いていきます。バルカン同盟の一員だったブルガリアがドイツ・オーストリア側に鞍替えしたことで、ドイツはバルカン半島に新しい勢力圏を得ることになりました。つまり、ドイツの3B政策の実現可能性が高まったということです。

これに対し、3C政策を進めるイギリスと南下政策を進めるロシアは激しく反発し、ドイツ・オーストリアの対立が更に激化していきました。バルカン半島をめぐる複雑な状況が、第一次世界大戦へとつながっていきます。

第二次バルカン戦争の後、コソヴォ地域がセルビアとモンテネグロに分割されました。これは現在も続くコソヴォ紛争の原因となっています。


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