manapedia
更新日時:
六波羅探題とは?役割と設置の理由をわかりやすく解説【1分でわかる日本史】
著作名: かわちゃん
11 views
六波羅探題(ろくはらたんだい)とは、鎌倉幕府が京都の六波羅に置いた出先機関で、朝廷の監視と京都の治安維持、西国の裁判などを担った役所です。承久の乱に勝った幕府が、朝廷のお膝元に構えた拠点でした。この記事では、設置の理由と仕事の中身、長官に選ばれた人々の位置づけを、「1分でわかる要約」と「深掘り解説」の2段構成でまとめました。

この記事は2段構成です。最初の「1分でわかる六波羅探題」だけで、要点がつかめます。

さらに深掘りでは、次の3つのポイントを考察していきます。

・なぜ京都に、幕府の役所が必要だったのか

・仕事の中身と、それを支えた組織、長官の位置づけ

・鎌倉時代には何と呼ばれていたのか


1分でわかる六波羅探題


六波羅探題とは、一言でいえば、鎌倉幕府が京都に置いた朝廷の監視役です。

承久の乱のあと、京都に置かれた

1221年(承久3年)の承久の乱で朝廷方を破った幕府は、それまでの京都守護(京都の警備にあたっていた役職)に代えて、京都の六波羅に強力な出先機関を構えます。初代は、幕府軍を率いて京都に入った北条泰時と北条時房でした。

仕事は「監視・治安・裁判」の三本柱

朝廷との交渉と監視、京都とその周辺の治安維持、そして西国での裁判。受け持つ範囲は、はじめは尾張から西、のちには三河から西の国々でした。また、幕府の仕組みにならって、裁判を担当する役職なども整えられていきます。

長官は執権・連署に次ぐ重職

長官は、北条氏の一門から北方・南方(六波羅の北の館と南の館)に1名ずつ選ばれました。その地位は、執権(将軍を補佐する役職)と連署(執権の補佐役)に次ぐものとされます。京都での勤めを終えて鎌倉に戻り、執権や連署に昇進する者も多くいます。


朝廷のすぐそばに、幕府の役所が構えられたのです。それまでの京都守護は京都の警備が役目でしたが、承久の乱のあとは、朝廷を見張る役目をもつ役所が京都に置かれました。六波羅探題は1333年、足利尊氏らに攻められて滅びます。

おまけトリビア

「六波羅探題」という呼び名は、当時ふつうに使われていたものではありません。鎌倉時代には、たいてい単に「六波羅」と呼ばれていました。「探題」を付けた呼び方が広まったのは、あとの時代のことです。


ここから深掘り


ここまでが1分の要約です。ここからは、六波羅探題をもう一歩深く知りたい方向けに解説します。

■六波羅探題の背景


幕府が京都に人を置くこと自体は、六波羅探題が最初ではありません。1185年(文治元年)以来、幕府は京都守護を置き、京都の警備にあたらせていました。

転機は1221年です。後鳥羽上皇が、幕府を率いていた北条義時を討つよう命じて挙兵し、承久の乱が起こります。

乱は幕府軍の勝利に終わりました。幕府軍を率いて京都に入った北条泰時と、その叔父の北条時房は、そのまま都にとどまります。二人が入ったのが、京都の六波羅の地です。ここはかつて、平清盛ら平氏の一族が邸宅を構えた土地でした。二人は北と南の館に分かれて駐留し、乱後の処理と京都の警備にあたりました。これが六波羅探題の起こりです。

つまり六波羅探題は、はじめから完成した制度として設計されたわけではありません。戦後処理のために京都に残った二人の駐留が、そのまま常設の機関になったのです。

■仕事の中身と長官の位置づけ


年出来事
1185年幕府が京都守護を置く
1221年承久の乱。北条泰時・北条時房が六波羅に駐留する
1333年足利尊氏らに攻められ滅亡


職務は大きく三つです。第一に朝廷との交渉。第二に京都とその周辺の治安維持。第三が西国の裁判です。幕府にならって、裁判を担当する評定衆や引付が置かれ、機構は次第に整っていきます。管轄は、はじめは尾張から西、のちには三河から西でした。九州は、九州に置かれた鎮西探題が成立してから、六波羅の手を離れました。

治安維持の実務を支えたのが、京都の辻々に置かれた篝屋(かがりや)です。在京の御家人がここに詰め、市中の警固にあたりました。篝屋の管理を任されたのが六波羅探題で、京都の治安に責任を負う立場が、こうして形になっていきます。

長官は北条氏の一門から北方・南方の各1名。二つのうち北方が上席で、南方は欠員となる時期もありました。北方の初代は北条泰時、南方の初代は北条時房です。二人は任を終えて鎌倉に戻ると、泰時は執権、時房は連署になりました。以後、六波羅の長官は執権・連署へ進む足がかりとされ、ここから多くの執権・連署が出ています。

■史実と学説


「六波羅探題」という名前は、当時ふつうに使われた呼び名ではありませんでした。鎌倉時代には、たいてい単に「六波羅」と呼ばれていました。「探題」を付けた呼び名が記録に見えはじめるのは鎌倉時代の末で、それがいつ定着したかは資料によって幅があります。南北朝時代以後とするものも、室町時代以降とするものもあり、この記事では時期を断定していません。

もうひとつ、権限の見方にも注意が要ります。六波羅探題は裁判機能を持ちましたが、鎌倉幕府から独立した存在ではありませんでした。裁判の権限はしだいに強まりましたが、重要な案件の裁判は鎌倉時代の末まで幕府の側で行われています。京都に置かれた強力な役所でありながら、同時に、あくまで幕府の出先機関でもありました。この二面性が六波羅探題の実像です。

管轄の境目は時期によって動き、資料によって説明も少しずつ違います。試験では「はじめは尾張から西、のちには三河から西」を押さえれば十分です。


■トリビアの真相


「六波羅探題」という四文字が広く使われるようになったのは、後の時代のことです。当時の人は、役所のある土地の名をとって、ふつう「六波羅」と呼んでいました。教科書の見出しになっている用語が、実は当時の人がふだん使う言葉ではなかったわけです。歴史用語には、こういう例がしばしばあります。

試験に出るポイント

「承久の乱の後に設置」「朝廷の監視と京都の警備、西国の裁判」「執権・連署に次ぐ重職」の3点が頻出です。前身が京都守護であること、管轄が、はじめは尾張から西、のちには三河から西だったこと、1333年に足利尊氏らに滅ぼされたことも押さえておきましょう。


このテキストを評価してください。
役に立った
う~ん・・・
※テキストの内容に関しては、ご自身の責任のもとご判断頂きますようお願い致します。






日本史