|
|
|
|
|
更新日時:
|
|
![]() |
ナントの王令廃止とは わかりやすい世界史用語2750 |
|
著作名:
ピアソラ
226 views |
|
ナントの王令廃止とは
1685年にルイ14世によって廃止されることになるナントの王令が、そもそもどのようなものであったのかを理解することは、その廃止が持つ歴史的な意味を把握する上で不可欠です。ナントの王令は、1598年4月、フランス国王アンリ4世によって署名された、画期的な布告でした。それは、半世紀近くにわたってフランスを分裂させ、荒廃させた宗教戦争(ユグノー戦争、1562–1598)を、公式に終結させるための、極めて現実的で政治的な妥協の産物でした。
16世紀のフランスは、宗教改革の波に揺さぶられていました。ジャン=カルヴァンの教えに影響を受けたプロテスタント、すなわちユグノーは、当初は少数派であったものの、貴族階級を含む社会の様々な層に、着実にその信者を増やしていきました。カトリックが国教であったフランスにおいて、この新しい信仰の拡大は、深刻な宗教的・政治的対立を引き起こします。ヴァロワ朝の王権が弱体化する中で、ギーズ公爵家のような強硬なカトリック貴族と、ブルボン家やコンデ親王家といったユグノーの指導的貴族との間の対立は、やがてフランス全土を巻き込む、血で血を洗う内戦へと発展しました。
このユグノー戦争は、単なる宗教的な争いではありませんでした。それは、中央の王権と地方の有力貴族との権力闘争、そしてスペインのフェリペ2世のような外国勢力の介入も絡み合った、複雑な様相を呈していました。1572年のサン=バルテルミの虐殺は、その憎悪と暴力の連鎖を象徴する、悲劇的な出来事でした。パリで数千人、地方で数万人のユグノーが、計画的に、あるいは群衆の暴走によって虐殺され、両宗派間の溝は、もはや修復不可能に見えました。
このような絶望的な状況の中で、王位を継承したのが、アンリ4世でした。彼は、もともとナバラ王アンリとして、ユグノー側の指導者でした。しかし、カトリック教徒が大多数を占めるフランスを統治するため、彼は「パリはミサを捧げるに値する」という有名な言葉を残し、1593年にカトリックに改宗するという、政治的な決断を下します。この改宗によって、彼は多くのカトリック教徒の支持を得ることに成功し、内戦を終結へと導く道筋をつけました。
しかし、アンリ4世は、かつての仲間であったユグノーたちの運命を、忘れたわけではありませんでした。彼は、自らの改宗が、ユグノーたちにとっては裏切りと映ることを、痛いほど理解していました。また、彼らを完全に抑圧しようとすれば、再び内戦の火種となりかねないことも、予期していました。彼が必要としていたのは、カトリックの優位性を認めつつも、ユグノーが、カトリック教徒のフランス国民として、一定の権利を保障され、安心して生活できるような、永続的な共存の枠組みでした。ナントの王令は、この極めて困難な課題に対する、アンリ4世の答えだったのです。
ナントの王令は、単一の文書ではなく、92条からなる本勅令と、56条の秘密条項、そして二つの特許状から構成される、複雑な法体系でした。その内容は、決してプロテスタントに、カトリックと完全な平等を認めるものではありませんでした。カトリックは、フランス王国の国教として、その優越的な地位を再確認され、ユグノー戦争中にプロテスタント側に奪われた教会や財産は、すべて返還されることになりました。
しかし、その上で、王令は、ユグノーに対して、当時としては前例のないほどの、広範な権利を認めました。
信仰の自由と礼拝の権利
王令の最も重要な点は、ユグノーに対して、良心の自由を完全に認めたことです。これは、彼らが、内心でプロテスタントの信仰を持つことを、国家が公式に許可したことを意味します。彼らは、その信仰を理由に、尋問されたり、迫害されたりすることはありませんでした。
ただし、公的な礼拝の権利は、制限付きのものでした。ユグノーの礼拝は、すでに確立されていた特定の都市や、特定の貴族の城内など、定められた場所でのみ許可されました。パリや、その他の主要な司教座都市など、カトリックの力が強い特定の地域では、公的な礼拝は禁じられました。これは、カトリック側の感情を刺激しないための、慎重な配慮でした。
市民的権利の保障
王令は、ユグノーに対して、カトリック教徒とほぼ同等の、完全な市民権を保障しました。彼らは、あらゆる公職に就く権利、大学で学び、教える権利、そして、あらゆる職業(ギルドへの加入を含む)に就く権利を認められました。彼らは、病院や施療院で、カトリック教徒と同じように扱われるべきだと定められました。これは、彼らが、単に信仰を黙認されるだけの二級市民ではなく、フランス王国の正式な構成員であることを、法的に認めたものでした。
司法的保護
ユグノーが、カトリック教徒が多数を占める法廷で、不当な扱いを受けることを防ぐため、王令は、特別な法廷の設置を定めました。パリ、ボルドー、グルノーブル、カストルといった都市の高等法院(Parlement)内に、「混合法廷」と呼ばれる、カトリックとプロテスタントの判事が、同数で構成される法廷が設けられました。これにより、ユグノーは、自らの信仰に関わる訴訟において、公平な審理を期待することができたのです。
軍事的保障
そして、王令の中で最も物議を醸し、また、後の時代に問題となるのが、ユグノーに与えられた軍事的な保障でした。秘密条項と特許状によって、ユグノーは、ラ=ロシェル、ソミュール、モントーバンといった、約150の「安全保障都市」を、自らの管理下に置くことを認められました。これらの都市では、ユグノーが独自の軍隊を駐留させ、防衛を固めることが許可されました。これは、国王が、カトリックの過激派による攻撃から、ユグノーを保護する約束を、言葉だけでなく、物理的な力で保証したことを意味します。しかし、これは同時に、フランス王国の中に、国王の直接的な支配が及ばない、半独立的な「国家の中の国家」が存在することを、公に認めることでもありました。
ナントの王令は、「寛容」という言葉が、しばしば理想主義的な文脈で語られるのとは異なり、極めて現実的な政治的妥協の産物でした。それは、どちらの宗派も、完全には満足させないものでした。強硬なカトリック教徒は、異端であるプロテスタントに、これほど多くの権利を与えることに、強く反発しました。一方、ユグノーの中にも、礼拝の場所が制限されるなど、不平等な扱いに不満を持つ者もいました。
しかし、アンリ4世は、この王令を「永久かつ取り消し不能なもの」として布告し、その遵守を、高等法院に強制しました。彼は、フランスが、一つの国家として存続するためには、宗教的な統一という理想を、一時的に棚上げにし、異なる信仰を持つ人々が、一つの法の下で共存する道を選ぶしかないと、喝破したのです。ナントの王令は、このプラグマティックな平和共存の原則を、法的に確立した、近代ヨーロッパ史における、画期的な一里塚でした。それは、87年後のルイ14世の時代まで、フランスの宗教的平和の、脆くも不可欠な礎として、機能し続けることになります。
王令の形骸化
1598年にアンリ4世によって発布されたナントの王令は、「永久かつ取り消し不能」と謳われたにもかかわらず、その後のフランスの歴史の中で、徐々に、そして意図的に、その内容が骨抜きにされていきました。ルイ14世による1685年の最終的な廃止は、突如として起こった出来事ではなく、何十年にもわたる、一貫した圧力と浸食のプロセスの、最終的な帰結だったのです。
この形骸化のプロセスは、アンリ4世の死後、ルイ13世の治世、特に宰相リシュリュー枢機卿の時代に、本格的に始まります。リシュリューの政治目標は、フランス国内における王権の絶対的な優位を確立し、国家の統一を強化することでした。彼の目には、ナントの王令がユグノーに与えた「安全保障都市」という軍事的な特権は、国王の権威に対する、容認しがたい挑戦であり、国家の中に、反乱の温床となりうる独立した勢力が存在することを、許すものでした。
1620年代、ユグノーの一部が、王権の強化に反発して、再び武装蜂起を起こします。これに対し、リシュリューは、国王軍を率いて、断固たる鎮圧に乗り出しました。この戦いのクライマックスとなったのが、1627年から1628年にかけての、ラ=ロシェルの包囲戦です。ラ=ロシェルは、ユグノーの「安全保障都市」の中で、最も強大で、港を通じて、イギリスからの支援も期待できる、抵抗の拠点でした。リシュリューは、自ら陣頭指揮を執り、港を巨大な堤防で封鎖するという、壮大な作戦によって、都市を兵糧攻めにしました。14ヶ月に及ぶ、悲惨な包囲戦の末、飢餓によって人口の3分の2以上を失ったラ=ロシェルは、ついに降伏します。
この勝利の後、ルイ13世は、1629年に「アレスの恩寵勅令」を発布します。この勅令は、ユグノーの運命にとって、決定的な転換点となりました。リシュリューは、ユグノーから、すべての「安全保障都市」と、政治的・軍事的な特権を、完全に剥奪しました。これにより、ユグノーは、武装して王権に抵抗する能力を失い、彼らの安全は、もはや、国王の「恩寵」、すなわち、善意にのみ、依存することになったのです。
しかし、リシュリューは、ユグノーの信仰そのものを、根絶しようとはしませんでした。アレスの勅令は、ナントの王令が保障した、信仰の自由、礼拝の権利、そして市民的・司法的権利について再確認しました。彼の目的は、あくまで政治的なものであり、ユグノーを、武装した危険な集団から、国王に忠実な、無力な臣民へと変えることにありました。この時点では、ユグノーは、まだ、フランス王国の法的な一員として、その存在を認められていたのです。
状況が、さらに暗転するのは、ルイ14世の親政が始まってからです。ルイ14世は、「一つの国に、一つの法、一つの王」という絶対王政の理念に、もう一つの要素、「一つの信仰」を加えようとしました。彼は、自らの王国の中に、国王と異なる信仰を持つ臣民が存在すること自体を、国家の統一と、王の権威に対する、不完全さの徴と見なしたのです。彼は、祖父アンリ4世のような、宗教的共存というプラグマティックな考え方を、理解しませんでした。彼の理想は、すべてのフランス国民が、カトリック信仰の下に一つにまとまり、神の代理人である国王に、絶対的な忠誠を誓う、整然とした秩序ある国家でした。
1660年代以降、ルイ14世の政府は、ナントの王令を廃止するのではなく、その条文を、可能な限り厳格に、そしてユグノーにとって、最も不利な形で解釈するという、巧妙な法的戦略をとり始めました。これは、「絞め殺すのではなく、窒息させる」とでも言うべき、陰湿な迫害の始まりでした。
まず、ユグノーの礼拝の権利が、次々と制限されていきました。王令の条文に、明確に礼拝所として記載されていない教会は、些細な法的瑕疵を理由に、次々と破壊されました。二つのユグノーのコミュニティが、一つの教会を共有することは禁じられ、結果として、どちらか一方の教会が、閉鎖されることになりました。ユグノーの葬儀は、夜明け前か、日没後に、少人数で、ひっそりと行うことしか許されなくなりました。賛美歌を歌うことも、多くの場所で禁じられました。
市民生活における差別も、体系的に導入されていきました。ユグノーは、多くの公職から、事実上、排除されました。彼らが、弁護士、医師、助産師、印刷業者、書店主といった、影響力のある職業に就くことは、次々と禁止されていきました。ギルドへの加入も困難になり、彼らの経済活動は、深刻な制約を受けました。
混合法廷も、その機能を失っていきました。ルイ14世は、新たなユグノーの判事を任命することを拒否し、徐々に、これらの法廷は、カトリックの判事によって、支配されるようになっていきました。
さらに、ユグノーの家庭生活にも、国家の介入が及びました。カトリックに改宗した者には、「改宗者金庫」から、金銭的な報酬が与えられました。これは、貧しいユグノーを、金で釣って改宗させようとする、卑劣な試みでした。そして、最も非人道的な政策の一つが、子供の改宗に関するものでした。1681年の勅令は、ユグノーの子供が、わずか7歳になれば、親の同意なしに、カトリックに改宗する権利を持つと定めたのです。これは、カトリックの聖職者や、狂信的な親族が、子供を唆したり、強制したりして、親から引き離すことを、合法化するものでした。多くのユグノーの家庭が、この法律によって、引き裂かれる悲劇に見舞われました。
これらの執拗な圧迫は、ナントの王令の精神を、完全に踏みにじるものでした。ユグノーは、もはや、法の下で保護された市民ではなく、あらゆる手段で、その信仰を放棄するよう、圧力をかけられる、迫害された少数派へと、転落していったのです。この長い、陰湿な消耗戦の末に、ルイ14世は、最終的な一撃を加える時が来たと、判断することになります。
フォンテーヌブローの勅令
1685年10月18日、ルイ14世は、フォンテーヌブローの宮殿において、歴史を大きく動かすことになる一つの布告に署名しました。これが、「ナントの王令を廃止する勅令」、通称「フォンテーヌブローの勅令」です。この勅令は、87年間にわたってフランスにおける宗教的共存の礎となってきたナントの王令とその関連法規を、公式に、そして完全に無効にすることを宣言するものでした。
勅令の前文は、この決定を正当化するための、巧みなレトリックで満たされています。ルイ14世は、祖父アンリ4世がナントの王令を発布したのは、内戦で荒廃した王国に平和を取り戻すための、やむを得ない一時的な措置であったと主張します。そして、アンリ4世の本来の意図は、すべての臣民をカトリック信仰の下に再統一することにあったのだと述べます。ルイ13世によるユグノーの武装解除を経て、今や、王国から異端はほとんど姿を消し、大多数のユグノーは、自発的に真の信仰であるカトリックに回帰した、と勅令は高らかに宣言します。この(事実に反する)認識に基づき、もはや、その存在意義を失ったナントの王令を廃止することは、祖父の偉大な計画を完成させる、輝かしい偉業である、と結論づけています。
この自己正当化の序文に続いて、勅令は、全11条からなる、具体的な措置を定めています。その内容は、ユグノーの存在を、フランスの地から、完全に抹消しようとする、徹底したものでした。
第1条は、ナントの王令、および、それに付随するすべての特許状や宣言を、無効とし、廃止することを宣言します。
第2条は、フランス王国内のいかなる場所においても、ユグノー(「改革派宗教」と称される)の公的な礼拝を、一切禁じるものです。
第3条は、ユグノーの貴族が、自らの城内で行っていた私的な礼拝も、同様に禁止します。
第4条は、すべてのユグノーの牧師に対して、勅令の公布から15日以内に、フランス王国を去るか、あるいはカトリックに改宗するかの二者択一を迫るものです。国外退去を選んだ牧師が、その期限を過ぎて国内で説教を行えば、ガレー船での終身刑が科されると定められました。
第5条と第6条は、改宗した牧師に対して、手厚い報酬を約束しています。彼らは、終身年金を受け取ることができ、その額は、牧師であった時よりも、3分の1以上多くなるとされました。また、彼らが弁護士になることを望むなら、そのための学位や修練期間が免除されるという、特別な便宜も図られました。これは、ユグノーのコミュニティから、その指導者層を奪い、骨抜きにしようとする、明確な意図の現れでした。
第7条と第8条は、ユグノーの学校(子供たちに、その信仰を教えるための学校)を、すべて禁止し、今後生まれるすべての子供は、カトリックの司祭によって洗礼を受け、カトリックの教理問答を学ぶよう、義務付けるものです。これは、ユグノーの信仰が、次の世代に受け継がれることを、完全に断ち切ろうとする、最も決定的な条項の一つでした。
第9条は、すでに国外に逃亡したユグノーに対して、4ヶ月以内に帰国すれば、その財産を返還すると定めていますが、これは、ほとんど空約束に過ぎませんでした。
第10条は、この勅令の中で、最も矛盾をはらみ、また、最も偽善的な条項です。それは、牧師を除くすべてのユグノー信徒に対して、その信仰を理由に、あるいは、その信仰を実践しないことを理由に、国外に出ることを、死刑および財産没収の罰則をもって、厳しく禁じるものでした。つまり、ルイ14世は、ユグノーが、フランス国内で、その信仰を実践することを、あらゆる形で不可能にしておきながら、彼らが、信仰の自由を求めて、国外に逃れることさえも、許さなかったのです。彼らを、信仰なきまま、フランスという名の、巨大なカトリックの檻の中に、閉じ込めておこうとしたのです。
そして、最後の第11条は、この偽善を、さらに強調します。それは、ユグノーたちが、カトリックの信仰に照らされるのを待つ間は、彼らが、その「改革派宗教」を理由に、その身体や財産に対して、何らの妨害も受けないまま、商業活動を続け、その財産を享受することができる、と定めています。これは、表向きには、ある種の寛容さを示しているように見えます。しかし、礼拝も、学校も、牧師も、すべてを奪われた状態で、内心の信仰だけを、黙って持ち続けることを、どうやって「待つ」ことができるというのでしょうか。この条項は、国際的な非難を和らげるための、見せかけのジェスチャーであり、実際には、ほとんど意味を持ちませんでした。
フォンテーヌブローの勅令は、ルイ14世の治世における、最も重大な決定の一つであり、彼の絶対王政の理念が、その極致に達したことを示す、記念碑的な文書です。彼は、この勅令によって、フランスから、宗教的な多様性という「汚れ」を一掃し、完璧に統一された、カトリックの王国を完成させたと、信じていました。宮廷では、ボシュエ司教のような聖職者たちが、この偉業を、コンスタンティヌス帝やテオドシウス帝の功績になぞらえ、国王を、異端を根絶した「新たなシャルルマーニュ」として、熱狂的に称賛しました。しかし、この宗教的統一という、壮麗な幻想の裏側で、フランスは、計り知れないほど大きな代償を、支払うことになるのです。
竜騎兵の迫害
フォンテーヌブローの勅令が発せられる以前から、ルイ14世の政府は、ユグノーの改宗を強制するための、より直接的で、暴力的な手段に訴え始めていました。その最も悪名高いものが、「竜騎兵の迫害」として知られる、組織的な暴力行為です。この政策は、勅令の廃止という最終的な決定へと至る、地ならしの役割を果たしました。
「竜騎兵の迫害」とは、国王の軍隊、特に竜騎兵(馬に乗って移動し、下馬して戦う兵士)の部隊を、ユグノーの家庭に、強制的に宿泊させるという政策でした。これは、表向きには、軍隊の宿営に関する、古くからの権利を行使したものですが、その実態は、恐怖と暴力によって、改宗を強要するための、計画的なテロ行為でした。
この政策を考案し、精力的に推進したのは、陸軍卿であったルーヴォワ侯爵と、ポワトゥー地方の地方総監であったルネ=ド=マリヤックでした。1681年、マリヤックは、ポワトゥー地方のユグノーに対して、この政策を初めて大規模に実行します。
竜騎兵たちは、ユグノーの家庭に、何十人という単位で、乱入しました。彼らは、その家の主人を、自分たちの召使いのように扱い、家にある、最も良い食料やワインを、すべて要求しました。彼らは、家の財産を、意のままに破壊し、家具を叩き壊し、貴重品を盗みました。しかし、彼らの暴力は、単なる物的な破壊に留まりませんでした。
彼らは、家の住人に対して、身体的、精神的な拷問を加えました。彼らは、人々を、何日も眠らせないように、昼夜を問わず、太鼓を叩き、大声で騒ぎ続けました。彼らは、人々を殴り、蹴り、髪を引き抜き、火のついたタバコを、身体に押し付けました。老人や病人、妊婦でさえ、容赦はされませんでした。女性に対する性的暴行も、頻繁に報告されています。その目的は、ただ一つ、家の主人が、心身ともに疲れ果て、これ以上の苦痛に耐えられなくなり、「改宗します」という言葉を、口にするまで、苦しめ続けることでした。
この残虐な政策は、「効果」という点では、絶大なものでした。マリヤックは、わずか数ヶ月で、ポワトゥー地方で3万人以上のユグノーを「改宗」させたと、得意げに報告しました。この「成功」に気をよくした政府は、1685年になると、この政策を、フランス南西部のベアルン地方、ラングドック地方、ドーフィネ地方など、ユグノーが集中している他の地域にも、拡大していきました。
竜騎兵の部隊が、町や村に近づいてくるというニュースだけで、パニックが引き起こされました。多くのユグノーは、あの恐ろしい運命が、自分たちの身に降りかかる前に、集団で、カトリックの司祭の元へ駆け込み、改宗の署名をしました。彼らにとって、それは、信仰を捨てたというよりも、家族の命と財産を、目前に迫った破壊から守るための、絶望的な選択でした。
これらの「竜騎兵による宣教」によって、数十万人のユグノーが、名目上のカトリック教徒となりました。ルイ14世の宮廷には、連日のように、何千、何万という単位で、異端者が改宗したという、輝かしい報告が届けられました。国王と、その側近たちは、これらの報告を鵜呑みにし、もはや、フランスには、頑ななユグノーは、ほとんど残っていないと、信じ込むに至ります。この誤った認識こそが、ルイ14世に、もはやナントの王令は不要であると確信させ、フォンテーヌブローの勅令の発布へと、踏み切らせた、直接的な原因の一つでした。
しかし、竜騎兵の暴力によって強いられた改宗は、真の回心とは、ほど遠いものでした。これらの「新改宗者」の多くは、内心では、プロテスタントの信仰を、固く持ち続けていました。彼らは、竜騎兵が去ると、密かに集まり、牧師のいない礼拝(「荒野の教会」と呼ばれる)を行ったり、子供たちに、カトリックの教えではなく、自分たちの信仰を教えたりしました。
フォンテーヌブローの勅令は、このような状況を、さらに悪化させました。勅令は、ユグノーの存在そのものを、非合法化しましたが、それは、彼らの信仰を、消し去ったわけではありませんでした。それは、彼らを、より深い地下活動へと、追い込んだだけでした。そして、国外への逃亡を禁じた勅令の条項は、多くのユグノーにとって、もはや、フランスには、いかなる希望も残されていないことを、最終的に悟らせるものでした。彼らは、死刑という、究極のリスクを冒してでも、この迫害の地から、脱出する以外の道はないと、決意するのです。竜騎兵の迫害は、フランスから、その最も勤勉で、有能な市民の一部を、永久に失うことになる、悲劇的な大脱出の、引き金を引いたのです。
亡命=「大避難」
フォンテーヌブローの勅令と、それに先立つ竜騎兵の迫害は、フランスのユグノー社会に、壊滅的な打撃を与えましたが、それは、彼らの信仰を根絶することには繋がりませんでした。むしろ、それは、近代ヨーロッパ史上、最大級の宗教難民の流出、すなわち「大避難」(Le Grand Refuge)として知られる、大規模な亡命の波を引き起こしました。フォンテーヌブローの勅令が、国外への逃亡を、死刑をもって禁じていたにもかかわらず、数十万人のユグノーが、自らの信仰と自由を守るため、命がけで、故国フランスを脱出したのです。
亡命者の正確な数を把握することは困難ですが、歴史家たちは、1680年代から1700年代初頭にかけて、およそ20万人から25万人のユグノーが、フランスを離れたと推定しています。これは、当時のフランスのユグノー人口(約80万から90万人)の、4分の1から3分の1近くに相当する、膨大な数でした。
彼らの逃亡は、困難を極めました。国境や港は、国王の兵士によって、厳重に監視されていました。捕らえられた男性は、ガレー船の漕ぎ手として、鎖に繋がれるか、死刑になりました。女性は、修道院に投獄され、子供たちは、親から引き離されて、カトリックの施設に送られました。しかし、ユグノーたちは、あらゆる創意工夫を凝らして、監視の目をかいくぐりました。彼らは、夜の闇に紛れて、山を越え、森を抜け、あるいは、漁船や商船の船倉に身を隠しました。商人や職人は、商品の樽の中に、子供を隠して、国境を越えさせました。多くの人々が、逃亡の途中で、命を落としたり、捕らえられたりしましたが、それでも、自由を求める人々の流れは、止まりませんでした。
亡命者たちは、プロテスタントを受け入れている、近隣の国々を目指しました。最も多くの難民が向かったのは、スイスのジュネーヴや、オランダ(ネーデルラント連邦共和国)でした。ジュネーヴは、カルヴァン主義の「プロテスタントのローマ」であり、オランダは、宗教的寛容を国是とする、ヨーロッパで最も自由な国でした。アムステルダムやロッテルダムといった都市は、ユグノーの亡命者で、あふれかえりました。
次に大きな受け入れ先となったのが、イギリス(イングランド)でした。ロンドンのスピタルフィールズ地区には、絹織物職人を中心とする、巨大なユグノーのコミュニティが形成されました。また、ドイツのプロテスタント諸侯も、ユグノーの受け入れに、積極的でした。特に、ブランデンブルク=プロイセン選帝侯フリードリヒ=ヴィルヘルムは、1685年10月29日、フォンテーヌブローの勅令から、わずか11日後に、「ポツダム勅令」を発布しました。この勅令は、フランスからのユグノー難民に対して、旅費の援助、税金の免除、そして、自らの教会や学校を設立する権利など、極めて手厚い受け入れ条件を約束するものでした。彼は、ユグノーたちが持つ、高度な技術や知識が、三十年戦争で荒廃した、自国の発展に、大きく貢献すると、見抜いていたのです。約2万人のユグノーが、この呼びかけに応じ、ベルリンをはじめとする、ブランデンブルクの諸都市に、新たな生活の基盤を築きました。
さらに、ユグノーの亡命の波は、ヨーロッパ大陸を越えて、広がっていきました。一部は、スカンディナヴィア諸国へ、また、一部は、大西洋を渡り、北アメリカのイギリス植民地(ニューヨーク、ヴァージニア、サウスカロライナなど)や、アフリカ南端のオランダ領ケープ植民地へと、向かいました。彼らは、世界中に、フランスのディアスポラ(離散民)のネットワークを、形成していったのです。
この「大避難」が、フランスに与えた損失は、計り知れないものでした。亡命したのは、単なる人口の一部ではありませんでした。彼らは、フランス社会の中で、最も教育水準が高く、勤勉で、そして、熟練した技術を持つ、エリート層の一部を、形成していました。
亡命者の中には、多くの熟練した職人が含まれていました。絹織物、時計製造、製紙、ガラス工芸、家具製作といった分野の、最高の技術が、彼らと共に、国外へ流出したのです。ロンドンのスピタルフィールズや、ベルリンの織物産業の発展は、フランスから逃れてきた、ユグノーの職人たちの貢献なしには、考えられません。フランスは、コルベールが、国策として、心血を注いで育成した、自国の奢侈品産業の競争相手を、自らの手で作り出してしまったのです。
また、多くの有能な商人、銀行家、企業家も、フランスを去りました。彼らは、国際的な商業ネットワークと、多額の資本を、アムステルダムやロンドン、ジュネーヴといった、新しい拠点へと、持ち去りました。これは、フランスの商業と金融にとって、大きな打撃となりました。
さらに、軍事的な損失も、無視できませんでした。ユグノーの貴族の中には、優れた軍事経験を持つ者が、数多くいました。彼らの多くは、フランスの敵国であったオランダやイギリス、プロイセンの軍隊に、士官として加わりました。最も有名な例は、ションベール公爵フリードリヒです。彼は、フランス元帥にまで上り詰めた名将でしたが、信仰のために、すべてを捨てて亡命し、オランダ総督ウィレム3世(後のイングランド王ウィリアム3世)の軍隊に加わりました。そして、1690年のボイン川の戦いでは、ウィレムの軍を率いて、ルイ14世が支援する、カトリックのジェームズ2世の軍と戦い、その命を落としました。フランスは、自らが育てた、最も有能な将軍の一人によって、打ち破られるという、皮肉な結果を招いたのです。
「大避難」は、ルイ14世の宗教政策が、いかに近視眼的で、自滅的なものであったかを、雄弁に物語っています。彼は、宗教的な統一という、抽象的な理念のために、フランスの国力を支える、貴重な人的資源を、永久に失ってしまいました。そして、亡命したユグノーたちは、彼らの新しい故郷の国々で、経済的、文化的、そして知的な発展に、大きく貢献しました。彼らは、単なる難民ではなく、フランスの敵国を、豊かにするための、ルイ14世からの、意図せざる「贈り物」となったのです。
国内外の反応
ルイ14世によるナントの王令廃止、すなわちフォンテーヌブローの勅令は、フランス国内とヨーロッパ全土に、巨大な衝撃を与えました。その反応は、ルイ14世が期待したような、普遍的な称賛とは、ほど遠いものでした。
国内の反応
フランス国内では、少なくとも表向きには、熱狂的な歓迎の声が、支配的でした。宮廷では、ルイ14世は、異端を根絶した、カトリック信仰の偉大な擁護者として、称賛の的となりました。高位聖職者たちは、こぞって、この決定を讃える説教を行いました。最も有名なのは、ジャック=ベニーニュ=ボシュエ司教の言葉です。彼は、国王を、古代ローマのキリスト教皇帝になぞらえ、「この異端撲滅の偉業は、ルイ大王の治世の、最も美しく、最も輝かしい記念碑である」と、宣言しました。マダム=ド=セヴィニエのような、宮廷の文化人たちも、その手紙の中で、「これほど偉大で、これほど美しい勅令は、かつてありませんでした」と、熱狂を伝えました。
カトリックの民衆の多くも、この決定を、歓迎したと考えられます。長年にわたり、彼らの隣人であったユグノーは、異端者として、疑惑と敵意の目で見られていました。彼らの教会が破壊され、その存在が非合法化されたことは、多くのカトリック教徒にとって、神の正義が実現された、喜ばしい出来事と映ったのです。
しかし、この熱狂の裏側では、より冷静で、批判的な声も、存在しました。ヴォーバンのような、合理的な精神を持つ、一部の政府高官や軍人は、この政策が、フランスの国力に与える経済的・軍事的な損失を、密かに懸念していました。彼は、後に、ナントの王令の復活を提言する、秘密の覚書を、国王に提出することになります。また、サン=シモン公爵のような、回想録作家は、後年、この決定を、ルイ14世の治世における、重大な失政の一つとして、厳しく批判しています。
そして、もちろん、この政策の直接の犠牲者であるユグノーと、竜騎兵の暴力によって、強制的に改宗させられた「新改宗者」たちにとっては、この勅令は、絶望の宣告でした。彼らの反応は、沈黙の抵抗、地下活動、そして、命がけの亡命でした。ラングドック地方のセヴェンヌ山脈では、1702年に、「カミザールの乱」として知られる、大規模な武装蜂起が勃発します。これは、預言者的な指導者に率いられた、ユグノーの農民たちが、国王の軍隊に対して、絶望的なゲリラ戦を挑んだものでした。この反乱は、数年にわたって続き、ルイ14世の軍隊を、大いに手こずらせることになります。これは、宗教的統一という、国王の幻想が、いかに脆いものであったかを、象徴する出来事でした。
国外の反応
国外、特にプロテスタント諸国の反応は、一様に、怒りと非難に満ちたものでした。ナントの王令の廃止は、ルイ14世の、飽くなき膨張主義と、カトリックによる覇権主義の、最も露骨な現れと見なされました。
オランダやイギリス、ブランデンブルクといった国々は、フランスからのユグノー難民を、同情をもって受け入れると同時に、このルイ14世の「暴政」を、プロパガンダとして、最大限に利用しました。亡命したユグノーの牧師や知識人たちは、ヨーロッパ中の印刷所で、ルイ14世を、聖書の預言に登場する、暴君や、アンチクライストとして描く、無数のパンフレットや風刺画を、出版しました。ピエール=ベールのような、亡命知識人は、その著作の中で、宗教的寛容の重要性を訴え、ルイ14世の不寛容を、哲学的に批判しました。これらの出版物は、ヨーロッパの公論を、反フランス、反ルイ14世の方向へと、大きく傾かせる上で、決定的な役割を果たしました。
この事件は、ヨーロッパの外交関係にも、直接的な影響を与えました。ルイ14世の侵略政策に、長年、単独で対抗してきた、オランダのウィレム3世(後のイングランド王ウィリアム3世)は、この事件を、ヨーロッパのプロテスタント諸国を結集させ、対フランス大同盟(アウクスブルク同盟)を形成するための、絶好の機会と捉えました。ナントの王令廃止は、プロテスタント諸国に、ルイ14世が、彼らの信仰と自由にとって、共通の脅威であることを、明確に認識させたのです。
興味深いことに、カトリック諸国からの反応も、必ずしも、ルイ14世への称賛一色ではありませんでした。ローマ教皇インノケンティウス11世は、ルイ14世とは、ガリカニスム(フランス教会の独立性を主張する思想)を巡って、深刻な対立関係にありました。彼は、ルイ14世の、この一方的な行動を、公には称賛しつつも、内心では、その横暴さと、竜騎兵のような、暴力的な改宗手段に対して、強い不快感を抱いていたと言われています。また、神聖ローマ皇帝(ハプスブルク家)や、スペイン王も、ルイ14世の覇権主義を、警戒しており、彼の威光が高まることを、喜んではいませんでした。彼らにとって、これは、宗教的な問題であると同時に、ヨーロッパの勢力均衡に関わる、政治的な問題でもあったのです。
結局のところ、ナントの王令廃止は、ルイ14世に、国内における、一時的な称賛と、宗教的統一という、見せかけの成果をもたらしただけで、対外的には、フランスを、ヨーロッパの中で、道義的に孤立させ、敵を増やすだけの、逆効果な結果を招きました。彼は、自らを、ヨーロッパの偉大なカトリックの擁護者として位置づけようとしましたが、その行動は、むしろ、彼の敵に、プロテスタントの大義という、強力な結束の旗印を、与えてしまったのです。この国際的な反発は、その後の、アウクスブルク同盟戦争や、スペイン継承戦争といった、ルイ14世の治世の後半を、困難なものにする、大きな要因の一つとなりました。
結論
1685年のナントの王令廃止は、フランス絶対王政の歴史における、重大な転換点であり、ルイ14世の治世が残した、最も暗い影の一つです。それは、「一つの国、一つの法、一つの王、一つの信仰」という、絶対君主の統一への渇望が、その論理的な、しかし、破滅的な極致に達した瞬間でした。
アンリ4世が、半世紀にわたる宗教内戦の血の海の中から、ようやく紡ぎ出した、宗教的共存という、現実的で、脆い妥協の産物は、ルイ14世の、宗教的純粋性への執念によって、無残にも、打ち砕かれました。何十年にもわたる、法的な解釈による、陰湿な権利の剥奪、そして、竜騎兵の暴力による、野蛮な強制改宗を経て、フォンテーヌブローの勅令は、フランスから、プロテスタントの存在を、公式に抹消しました。
ルイ14世と、その宮廷は、これを、異端を根絶し、神の王国を、地上に実現した、輝かしい偉業として、自画自賛しました。しかし、その代償は、計り知れないほど、大きなものでした。
経済的には、フランスは、その最も勤勉で、熟練した、企業家精神に富んだ市民の一部を、永久に失いました。彼らと共に、高度な技術、国際的な商業ネットワーク、そして、莫大な資本が、国外へ流出しました。フランスは、自らの手で、ライバルである、イギリス、オランダ、プロイセンの産業と経済を、豊かにしてしまったのです。
軍事的、政治的には、この決定は、フランスを、ヨーロッパの中で、道義的に孤立させました。それは、プロテスタント諸国に、反フランス大同盟を結成するための、強力な大義名分を与え、ルイ14世の治世の後半を、絶え間ない戦争と、財政破綻の苦しみに陥れることになりました。
そして、人間的には、それは、数十万人の人々の人生を、根底から覆す、巨大な悲劇でした。引き裂かれた家族、失われた財産、そして、故郷を追われ、見知らぬ土地での、新たな生活を、余儀なくされた、亡命者たちの苦しみは、計り知れません。フランス国内に残った「新改宗者」たちも、絶え間ない監視と、不信の目で、見られ続け、二重生活を、強いられることになりました。
ナントの王令廃止は、国家が、個人の良心と信仰の自由に対して、絶対的な権力を行使しようとする時、いかに悲劇的で、自滅的な結果を招くかを、歴史に刻みつけた、痛烈な教訓です。ルイ14世は、完璧な統一という、秩序の幻想を、追い求めるあまり、多様性こそが、社会の活力と、強さの源泉となりうるという、真実を、見失いました。彼が、フランスの体から、切り捨てたつもりであった「異端」という部分は、実は、その体を、豊かにしていた、重要な器官の一部だったのです。この自己切断の傷跡は、その後、18世紀を通じて、フランス社会に、深い影響を、与え続けることになります。そして、奇しくも、フォンテーヌブローの勅令から、約100年後、フランス革命は、その人権宣言において、すべての市民の、信仰の自由を、再び、高らかに宣言することになるのです。
このテキストを評価してください。
|
役に立った
|
う~ん・・・
|
※テキストの内容に関しては、ご自身の責任のもとご判断頂きますようお願い致します。 |
|
王立(特権)マニュファクチュアとは わかりやすい世界史用語2749
>
「朕は国家なり」とは わかりやすい世界史用語2744
>
セイロン島(スリランカ)とは わかりやすい世界史用語2672
>
台湾とは わかりやすい世界史用語2681
>
東インド会社《オランダ》とは わかりやすい世界史用語2669
>
イギリス=オランダ(英蘭)戦争とは わかりやすい世界史用語2675
>
デイリーランキング
注目テキスト
世界史
- 先史時代
- 先史時代
- 西アジア・地中海世界の形成
- 古代オリエント世界
- ギリシア世界
- ヘレニズム世界
- ローマ帝国
- キリスト教の成立と発展
- アジア・アメリカの古代文明
- イラン文明
- インドの古代文明
- 東南アジアの諸文明
- 中国の古典文明(殷・周の成立から秦・漢帝国)
- 古代の南北アメリカ文明
- 東アジア世界の形成と発展
- 北方民族の活動と中国の分裂(魏晋南北朝時代)
- 東アジア文化圏の形成(隋・唐帝国と諸地域)
- 東アジア諸地域の自立化(東アジア、契丹・女真、宋の興亡)
- 内陸アジア世界の形成
- 遊牧民とオアシス民の活動
- トルコ化とイスラーム化の進展
- モンゴル民族の発展
- イスラーム世界の形成と拡大
- イスラーム帝国の成立
- イスラーム世界の発展
- インド・東南アジア・アフリカのイスラーム化
- イスラーム文明の発展
- ヨーロッパ世界の形成と変動
- 西ヨーロッパ世界の成立
- 東ヨーロッパ世界の成立
- 西ヨーロッパ中世世界の変容
- 西ヨーロッパの中世文化
- 諸地域世界の交流
- 陸と海のネットワーク
- 海の道の発展
- アジア諸地域世界の繁栄と成熟
- 東アジア・東南アジア世界の動向(明朝と諸地域)
- 清代の中国と隣接諸地域(清朝と諸地域)
- トルコ・イラン世界の展開
- ムガル帝国の興隆と衰退
- ヨーロッパの拡大と大西洋世界
- 大航海時代
- ルネサンス
- 宗教改革
- 主権国家体制の成立
- 重商主義と啓蒙専制主義
- ヨーロッパ諸国の海外進出
- 17~18世紀のヨーロッパ文化
- ヨーロッパ・アメリカの変革と国民形成
- イギリス革命
- 産業革命
- アメリカ独立革命
- フランス革命
- ウィーン体制
- ヨーロッパの再編(クリミア戦争以後の対立と再編)
- アメリカ合衆国の発展
- 19世紀欧米の文化
- 世界市場の形成とアジア諸国
- ヨーロッパ諸国の植民地化の動き
- オスマン帝国
- 清朝
- ムガル帝国
- 東南アジアの植民地化
- 東アジアの対応
- 帝国主義と世界の変容
- 帝国主義と列強の展開
- 世界分割と列強対立
- アジア諸国の改革と民族運動(辛亥革命、インド、東南アジア、西アジアにおける民族運動)
- 二つの大戦と世界
- 第一次世界大戦とロシア革命
- ヴェルサイユ体制下の欧米諸国
- アジア・アフリカ民族主義の進展
- 世界恐慌とファシズム諸国の侵略
- 第二次世界大戦
- 米ソ冷戦と第三勢力
- 東西対立の始まりとアジア諸地域の自立
- 冷戦構造と日本・ヨーロッパの復興
- 第三世界の自立と危機
- 米・ソ両大国の動揺と国際経済の危機
- 冷戦の終結と地球社会の到来
- 冷戦の解消と世界の多極化
- 社会主義世界の解体と変容
- 第三世界の多元化と地域紛争
- 現代文明
- 国際対立と国際協調
- 国際対立と国際協調
- 科学技術の発達と現代文明
- 科学技術の発展と現代文明
- これからの世界と日本
- これからの世界と日本
- その他
- その他
























