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立憲君主政とは わかりやすい世界史用語2723
著作名: ピアソラ
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立憲君主政とは

1688年の名誉革命によってイギリスに成立した立憲君主政は、国王の権力が法と議会によって制限されるという近代国家の統治原理を確立した歴史的な出来事です。それは、国王が神から与えられた絶対的な権力を持つという「王権神授説」に基づいた統治から、国王もまた法の下にあるという「法の支配」の原則へと国家の権力構造を根本的に転換させるものでした。この革命は流血をほとんど伴わずに達成されたことから「名誉革命」と呼ばれますが、その背景には1世紀以上にわたる国王と議会の間の激しい権力闘争の歴史がありました。この革命がもたらした立憲君主政は、単一の成文憲法典によるものではなく、権利の章典をはじめとする一連の法律や長年の慣習によって形成されたイギリス独自の国制として発展していくことになります。



革命への道程

名誉革命とそれに続く立憲君主政の確立を理解するためには、17世紀のイギリス、特にステュアート朝の国王たちと議会の間で繰り広げられた長く困難な闘争の歴史を遡る必要があります。この対立の根源には、誰が国家の最終的な主権を持つのか、すなわち国王かそれとも議会かという根本的な問いがありました。

ステュアート朝と王権神授説

1603年、エリザベス1世が後継者を残さずに亡くなると、スコットランド王ジェームズ6世がジェームズ1世としてイングランド王位を継承し、ステュアート朝が始まります。ジェームズ1世はスコットランドとは異なるイングランドの政治伝統、特に議会の役割を十分に理解していませんでした。彼は「王権神授説」の熱心な信奉者であり、国王の権力は神から直接与えられたものであり、地上のいかなる権力、すなわち議会や法によっても拘束されないと固く信じていました。彼は自らを「神々の地上における代理人」と呼び、議会を自らの統治を助けるための諮問機関程度にしか考えていませんでした。

しかしイングランド議会には、特に課税に関しては国王の要求を承認する権限を持つという中世以来の長い伝統がありました。ジェームズ1世が度々議会の承認なしに新たな関税を課そうとしたり、財政難を補うために独断で政策を進めようとしたりしたため、議会との間に絶え間ない摩擦が生じました。議会は、国民の権利と自由は国王の恩寵によるものではなく、古来からの法と慣習によって保障されている「コモン=ロー」に基づくと主張し、国王の専断的な権力行使に抵抗しました。

この対立は、ジェームズ1世の息子であるチャールズ1世の治世(1625–1649)において決定的な破局を迎えます。チャールズ1世もまた父と同様に王権神授説を信奉し、議会を軽視する姿勢を隠しませんでした。彼はフランスやスペインとの戦費を賄うため、議会の同意なしに強制的な借金を国民に課し、これに抵抗する者を投獄しました。

1628年、議会はこのような国王による恣意的な権力行使を非難し、国民の権利を再確認するため「権利の請願」をチャールズ1世に提出します。これは議会の同意なき課税、理由なき逮捕や投獄、民間家屋への兵士の強制宿泊、そして民間人に対する軍法会議の適用を禁じるものでした。チャールズ1世は不本意ながらもこれに同意しますが、翌年には議会を解散し、その後11年間にわたって議会を召集しない「個人統治」を開始します。この期間、彼は船舶税の全国への拡大など様々な手段で財源を確保し、専制的な統治を続けました。

内戦と共和制

チャールズ1世の個人統治は、スコットランドにおける宗教問題がきっかけで終わりを告げます。彼がイングランド国教会の祈祷書をスコットランド長老派教会に強制しようとしたため、スコットランドで反乱が勃発しました。その戦費を調達するため、チャールズ1世は1640年にやむなく議会を召集しますが、議会は課税を承認する前にまず国王の悪政に対する不満を解決するよう要求しました。これが長期議会の始まりです。

議会と国王の対立はもはや修復不可能なレベルに達し、1642年についにイングランド内戦が勃発します。議会派と王党派の間のこの戦いは単なる政治的対立ではなく、国教会を支持する者と、より徹底したプロテスタント改革を求めるピューリタンとの間の宗教的対立の側面も色濃く持っていました。オリバー=クロムウェル率いる議会軍(ニュー=モデル=アーミー)の活躍により、内戦は議会派の勝利に終わります。1649年1月、チャールズ1世は「国民に対する反逆者、殺人者、暴君」として裁判にかけられ、処刑されました。

国王の処刑後、イングランドは君主制と貴族院を廃止し、共和制(コモンウェルス)を宣言します。しかしこの共和制の実験は長続きしませんでした。クロムウェルは護国卿として事実上の独裁権力を握りましたが、その厳格なピューリタン的統治は国民の支持を失い、彼の死後、国内は混乱に陥ります。国民は安定と秩序を求め、王政の復活を望むようになりました。

王政復古と新たな対立

1660年、亡命していたチャールズ1世の息子がチャールズ2世として即位し、王政復古が実現します。チャールズ2世は父の運命から教訓を学び、表向きは議会と協調する姿勢を見せました。しかし彼の治世の背後では、再び国王と議会の間の緊張が高まっていきます。

最大の争点となったのは宗教問題、特にカトリックに対する扱いです。チャールズ2世自身はカトリックに共感的であり、フランスのルイ14世と密約を結び、財政支援と引き換えにイングランドのカトリック化を進めることを約束していました。彼はプロテスタント非国教徒やカトリック教徒に対する刑罰法を停止する「信仰自由宣言」を発しますが、議会はこれがカトリック勢力の拡大につながることを警戒し激しく反発します。議会は国王大権による法律の停止を違法とし、公職に就く者をイングランド国教徒に限定する「審査法」を制定して対抗しました。

この対立は、チャールズ2世の弟であり王位継承者であったヨーク公ジェームズが公然とカトリック教徒であることを明らかにしたことでさらに深刻化します。議会ではジェームズを王位継承から排除しようとする「王位継承排除法案」が提出され、これを支持するホイッグ党と、正統な王位継承を支持するトーリー党という後のイギリスの二大政党の原型が形成されました。法案は最終的に否決されたものの、プロテスタント国家イングランドにカトリックの国王が誕生するという悪夢は現実味を帯びてきました。

ジェームズ2世の専制と革命の勃発

1685年、チャールズ2世が亡くなりジェームズ2世が即位します。彼は即位当初こそ国民の権利と国教会を尊重すると約束しましたが、その舌の根も乾かぬうちに専制的な政策を推し進め始めました。彼は審査法を無視してカトリック教徒を政府や軍、大学の要職に次々と任命し、国王大権を用いて法律を停止する権限を濫用しました。1687年にはカトリック教徒を含む全ての臣民に信仰の自由を与えるとする「信仰自由宣言」を再び発布し、これを教会で読み上げるよう聖職者たちに命じました。これに反対したカンタベリー大主教ら7人の主教が投獄されると、国民の怒りは頂点に達します。

ジェームズ2世の行動は単なる宗教的な寛容を目指すものではなく、議会を無視して絶対王政を確立し、イングランドをカトリック化するための布石であると広く受け取られました。プロテスタントのイングランド国民にとって、財産、自由、そして宗教そのものが危機に瀕していると感じられたのです。

決定的な転機は1688年6月に訪れます。ジェームズ2世の妃メアリー=オブ=モデナが王子を出産したのです。これによりカトリックの王朝が永続する可能性が現実のものとなりました。この危機に際し、ホイッグ、トーリー両党の有力者7名が連名でオランダ総督オラニエ公ウィリアムに密使を送ります。ウィリアムはジェームズ2世の娘メアリの夫であり、自身もステュアート家の血を引くプロテスタントの英雄でした。彼らはウィリアムに対し「我々の宗教、自由、そして財産」を守るため、軍を率いてイングランドに介入するよう要請したのです。

ウィリアムはこの要請を受諾し、1688年11月に大軍を率いてイングランドに上陸します。ウィリアムの軍が進軍する中、ジェームズ2世の支持者たちは次々と離反し、軍は戦わずして崩壊しました。完全に孤立したジェームズ2世は王位を捨ててフランスへ亡命します。こうしてほとんど血を流すことなく、国王が追放されるという革命が達成されました。

革命の法的帰結

ジェームズ2世の亡命によって王位が空位となった後、1689年1月に召集された仮議会は、新たな統治体制を構築するという歴史的な課題に直面しました。この議会での議論と決定が、イギリス立憲君主政の法的基礎を築くことになります。

権利の章典

仮議会は単に新しい国王を選ぶだけでなく、二度とジェームズ2世のような専制君主が現れないように国王の権力を明確に制限し、議会の権利と国民の自由を保障するための法的枠組みを作ることを目指しました。その成果が1689年2月に採択された「権利の宣言」であり、これは同年末に「権利の章典」として正式に法律となりました。

権利の章典はイギリス憲法史においてマグナ=カルタや権利の請願と並ぶ極めて重要な文書です。それはまずジェームズ2世が犯した12の違法行為を列挙することから始まります。

議会の同意なく、法律を停止またはその効力を免除する権力を行使したこと。

これに異議を唱えた聖職者を投獄したこと。

教会問題に関する高等宗務官裁判所を設立したこと。

議会の承認とは異なる方法や時期に、国王のために金銭を徴収したこと。

平時において、議会の同意なく国内に常備軍を維持し、徴募したこと。

プロテスタント臣民から武器を取り上げたこと。

議会議員の選挙の自由に干渉したこと。

議会内での言論の自由を、議会以外の場所で弾劾または問責したこと。

過大な保釈金、罰金を要求し、残虐で異常な刑罰を科したこと。

資格のない者を陪審員に選んだこと。

自由土地保有者でなければならないという法規を、大逆罪の裁判の陪審員について無視したこと。

有罪判決の前に、特定の個人の財産に対する罰金や没収の約束を与えたこと。

これらのジェームズ2世の行為を「完全に、かつ直接的に法と自由に反する」と断罪した上で、権利の章典は将来の国王が遵守すべき13の条項を宣言しました。その核心は国王の権力に対する明確な制限です。

議会の同意なく法律を停止したり、その執行を免除したりする国王大権は違法である。

議会の承認なしに、国王のために金銭を徴収することは違法である。

議会の同意なく、平時に国内で常備軍を維持することは違法である。

これらの条項はステュアート朝の国王たちが濫用してきた国王大権の主要な部分を否定し、法律の制定、課税、軍隊の維持といった国家の根幹に関わる権限が国王ではなく議会にあることを明確にしました。

さらに権利の章典は、議会と国民の権利を保障しました。

臣民が国王に請願することは権利であり、その請願を理由に投獄することは違法である。

議会議員の選挙は自由でなければならない。

議会における言論の自由、討論や議事手続きは、議会以外のいかなる場所でも弾劾されたり問責されたりしてはならない(議会内の免責特権)。

議会は頻繁に開催されなければならない。

これらの規定により、議会は国王の干渉から独立した地位を確保し、定期的に開催されることが制度的に保障されました。

権利の章典はウィリアムとメアリに共同で王位を捧げることを宣言し、二人がこれを受諾することで革命の和解は法的に成立しました。重要なのは、ウィリアムとメアリが王位に就いたのは世襲の権利によるものではなく、議会が提示した条件を受け入れた契約の結果であるという点です。これにより、王権の源泉は神ではなく議会を通じて表明される国民の同意にあるという新しい統治原理が確立されたのです。王はもはや法の上に立つ存在ではなく法の下にあり、法を遵守する義務を負う存在となりました。これが「法の支配」の原則であり、イギリス立憲君主政の核心です。

その他の重要な法律

権利の章典と並行して、名誉革命後の議会は立憲君主政を補強するいくつかの重要な法律を制定しました。

1689年の「寛容法」は、イングランド国教会に従わないプロテスタント非国教徒(ただしカトリック教徒と非三位一体論者は除く)に対し、一定の条件下で信仰の自由を認めました。これは完全な信教の自由ではありませんでしたが、長年の宗教的迫害に終止符を打ち、国内の宗教的緊張を緩和する上で大きな役割を果たしました。

また1689年に制定された「反乱法」は、軍隊の規律を維持するための軍法を1年間の時限法として定めました。これは国王が軍隊を恒久的に支配することを防ぎ、軍の存在を毎年議会の承認に依存させるための巧妙な仕組みでした。これにより、議会は国王の軍事力に対する強力なコントロールを確保しました。

1701年に制定された「王位継承法」は、立憲君主政を完成させる上で決定的な重要性を持つ法律です。ウィリアム3世とメアリ2世、そしてメアリの妹アンにも子供がいなかったため、ステュアート家のプロテスタントの血筋が絶えることが確実となりました。この法律はアン女王の死後、ステュアート家の血を引くプロテスタントであるハノーヴァー選帝侯妃ゾフィーとその子孫に王位を継承させることを定めました。これにより、カトリック教徒が将来にわたってイギリス王位に就くことを永久に禁止し、プロテスタントによる王位継承を確固たるものにしました。

さらに王位継承法は権利の章典をさらに一歩進め、国王の権力に対する新たな制限を加えました。

国王はイングランド国教会と聖餐を共にしなければならない。

国王が議会の同意なくイングランドを離れることを禁じる(後に廃止)。

イングランドが国王の出身地である外国の領土を守るために戦争に参加することを禁じる。

国王への助言は枢密院を通じて行われ、その助言には署名がなされなければならない(大臣の責任を明確化する試み)。

国王から俸給や恩給を受けている者は、庶民院議員になることができない(国王による議会への影響力を排除)。

判事は非行がない限りその職を保持でき、その俸給は確定されなければならない(司法の独立)。

国王による恩赦は、庶民院による弾劾を妨げることはできない。

特に司法の独立を保障した条項は、「法の支配」を確立する上で極めて重要でした。これにより、判事は国王の意向を恐れることなく法に基づいて公正な判断を下すことができるようになったのです。

これらの法律群が一体となって、17世紀末から18世紀初頭にかけてのイギリス立憲君主政の法的枠組みを形成しました。それは国王の権力を法によって明確に制限し、議会を国家統治の中心に据え、司法の独立と国民の基本的な自由を保障する新しいタイプの国家体制でした。

立憲君主政の発展

名誉革命によって法的な枠組みが作られた立憲君主政は、18世紀を通じて成文法だけでなく、政治的な慣習の積み重ねによってその実質的な中身を発展させていきました。特に内閣制度と責任内閣制の形成は、国王の権力が「君臨すれども統治せず」という象徴的なものへと変化していく過程で決定的な役割を果たしました。

ハノーヴァー朝と内閣の台頭

1714年、アン女王の死によりステュアート朝は断絶し、王位継承法に基づきドイツのハノーヴァー選帝侯ゲオルク=ルートヴィヒがジョージ1世として即位しハノーヴァー朝が始まります。この王朝交代が意図せずして内閣制度の発展を促進しました。

ジョージ1世は54歳でイギリス国王となりましたが、彼は英語をほとんど話せずイギリスの政治慣習にも疎く、彼の関心は故郷のハノーヴァーにありました。そのため、彼は次第にかつての国王たちが主宰していた閣議に出席しなくなります。国王が不在の閣議では大臣たちの中から一人の有力者が議長役を務め、議論を主導するようになります。この役割を担ったのが事実上の「首席大臣」、すなわち首相でした。

この時期にホイッグ党の政治家であるロバート=ウォルポールが20年以上にわたって政権を担い、イギリス初代首相と見なされるようになります。ウォルポールは国王の信任を得ると同時に、議会、特に庶民院における多数派の支持を巧みに維持することでその権力基盤を固めました。彼は国王に代わって閣議を主宰し、政府の政策を統一し、議会での法案通過や予算獲得の責任を負いました。また国王が持つ官職任命権などのパトロネージ(恩顧権)を事実上行使し、それを利用して議会内の支持者を増やし政権を安定させました。

ウォルポールの時代に、内閣が国王個人の諮問機関から、議会に対して責任を負う統一された政策遂行機関へと変化していく基礎が築かれました。大臣たちは個人的に国王に助言するのではなく、内閣として一体の政策について合意し、その政策について議会で共同して弁護することが求められるようになりました。これを「内閣の連帯責任」の原則といいます。

責任内閣制の確立

しかしこの時点では内閣はまだ国王に対して責任を負っていました。大臣の任免権は依然として国王が握っており、内閣が存続するためには議会の支持だけでなく国王の信任が不可欠でした。ジョージ3世(在位1760–1820)は祖父や曾祖父とは異なりイギリスで生まれ育ち、国王の政治的役割を回復しようと試みました。彼は自らの意に沿わない大臣を罷免し、好みの人物を首相に任命するなど積極的に政治に関与しました。アメリカ独立戦争の際のノース卿内閣は国王の意向を強く反映したものでした。

内閣が国王ではなく議会に対して責任を負うという「責任内閣制」が明確に確立されるのは19世紀に入ってからです。その画期となったのが1832年の第一次選挙法改正です。この改革により腐敗した選挙区が廃止され、産業革命によって発展した新しい都市に議席が与えられ、有権者層も中産階級にまで拡大しました。

選挙法改正の結果、庶民院はより広範な民意を反映する機関となり、その政治的権威は飛躍的に高まりました。庶民院における多数派の支持なしに政府が存続することは不可能になります。国王が庶民院の多数派の意向に反して自らの好みで大臣を任命し続けることは、もはや現実的ではなくなりました。

1834年、国王ウィリアム4世はホイッグ党のメルバーン首相を罷免し、トーリー党のロバート=ピールに組閣を命じました。しかしピールは庶民院で多数の支持を得ることができず、総選挙にも敗れたため短期間で辞任を余儀なくされました。これは国王が自らの意思で首相を罷免した最後の例とされています。この出来事以降、「内閣は庶民院の信任に基づいて成立し、その信任を失えば総辞職しなければならない」という責任内閣制の原則が、イギリス憲政の揺るぎない慣習として確立されました。

ヴィクトリア女王の長い治世(1837–1901)を通じて、国王の役割は実際の政治権力を行使する統治者から、国家の統一と継続性を象徴する党派を超えた存在へと変化していきました。ウォルター=バジョットがその著書『イギリス憲政論』(1867年)で述べたように、君主は「助言する権利、奨励する権利、警告する権利」を持つものの、最終的な決定は議会の多数派に支持された内閣が行うという役割分担が定着したのです。君主は政治の舞台から離れることで、逆に国民全体の敬愛を集める新たな権威を獲得しました。

立憲君主政の本質

名誉革命によって確立され、その後の歴史を通じて発展したイギリスの立憲君主政は、いくつかの重要な本質的特徴を持っています。

第一に、それは「法の支配」に基づいているということです。国王を含め誰も法を超越することはできず、全ての権力は法によって授権され制限されます。恣意的な権力行使は排除され、政府の行動は予測可能で法的な手続きに従うものとなります。

第二に、それは「議会主権」の原則に立脚しているということです。最終的な政治的権威は国王ではなく議会にあります。議会はいかなる法律も制定、改正、廃止することができ、その決定を覆すことのできる権力は存在しません。国王は議会が可決した法案を承認し、議会の信任を得た内閣を任命する役割を担います。

第三に、それは成文憲法典を持たない「不文憲法」の国制であるということです。イギリスの憲法は単一の文書にまとめられているわけではなく、マグナ=カルタ、権利の章典、王位継承法といった歴史的な法律(制定法)、裁判所の判例(判例法)、そして責任内閣制のような長年かけて形成された政治的な慣習(憲法的慣習)の組み合わせによって構成されています。この柔軟性が、時代ごとの社会の変化に対応しながら国制が漸進的に発展することを可能にしてきました。

名誉革命は絶対王政への道を永久に閉ざし、権力分立と代議制民主主義への道を切り開きました。それは国王と議会の間の長い闘争の末に勝ち取られた政治的自由の記念碑です。この革命が打ち立てた立憲君主政の諸原則は、その後のアメリカ独立革命やフランス革命にも大きな思想的影響を与え、近代世界の立憲主義と民主主義の発展における重要な源流の一つとなったのです。

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