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メアリ2世とは わかりやすい世界史用語2721 |
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著作名:
ピアソラ
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メアリ2世とは
メアリ2世は、17世紀後半のイングランド、スコットランド、アイルランドの女王です。彼女の治世は、夫であるウィリアム3世との共同統治という、英国史上でも特異な形態をとり、名誉革命として知られる無血革命によって成立しました。プロテスタント信仰を守るという宿命を背負い、カトリックの父ジェームズ2世と対峙するという個人的な葛藤を抱えながら、彼女は女王としての責務を果たしました。その生涯は、宗教と政治が複雑に絡み合う激動の時代の中で、王位継承者としての期待、妻としての献身、そして統治者としての決断に満ちたものでした。
誕生と幼少期
メアリは1662年4月30日、ロンドンのセント=ジェームズ宮殿で生まれました。父はヨーク公ジェームズ、後のジェームズ2世であり、母は初代クラレンドン伯爵エドワード=ハイドの娘、アン=ハイドです。彼女の伯父は、当時イングランド王位にあったチャールズ2世でした。母アンは8人の子供を産みましたが、成人まで生き延びたのはメアリと妹のアン(後のアン女王)の二人だけでした。
ヨーク公ジェームズは、兄であるチャールズ2世に嫡出子がいなかったため、王位継承順位の筆頭にありました。しかし、彼は1668年頃に密かにカトリックに改宗しており、これはイングランド国教会を国教とするプロテスタント国家イングランドにおいて、深刻な政治問題を引き起こす火種となります。チャールズ2世は、弟の子供たちをプロテスタントとして育てられるよう命じました。そのため、メアリとアンは、父の信仰とは切り離され、イングランド国教会の教えに沿って養育されることになります。
メアリの家庭教師にはヘンリー=コンプトン主教が任命され、彼女は厳格なプロテスタントとしての教育を受けました。幼い頃のメアリは、背が高く、魅力的で、優雅な物腰であったと伝えられています。音楽やダンスの才能にも恵まれていました。しかし、学問的な教育は限定的で、主にフランス語、音楽、ダンス、素描、そして宗教教育に重点が置かれていました。
1671年、母であるヨーク公爵夫人アンが亡くなります。メアリはまだ9歳でした。その2年後の1673年、父ジェームズはカトリック教徒であるモデナ公女メアリー=オブ=モデナと再婚します。この再婚は、イングランド国内の反カトリック感情をさらに煽ることになりました。多くのイングランド国民は、カトリックの王妃がカトリックの王子を産み、カトリックの王家が確立されることを恐れたのです。
このような政治的に不安定な状況の中で、メアリは王位継承者としての自身の立場を自覚しながら成長していきました。彼女の存在は、父がカトリックであっても、次期国王はプロテスタントであるという保証となり、国民の不安をいくらか和らげる役割を果たしていました。しかし、それは同時に、彼女が将来、父の信仰と国教会の間で難しい選択を迫られる運命にあることをも示唆していました。
オラニエ公ウィリアムとの結婚
17世紀後半のヨーロッパは、フランス国王ルイ14世の覇権主義によって、勢力均衡が大きく揺らいでいました。ルイ14世の膨張政策に対抗するため、イングランドのチャールズ2世は、プロテスタント勢力の中心であったオランダ共和国との同盟を模索します。その同盟の証として計画されたのが、王位継承者であるメアリと、オランダ総督であるオラニエ公ウィリアムとの政略結婚でした。
ウィリアムは、メアリの父方の従兄弟にあたります。彼の母は、チャールズ2世とジェームズ2世の姉であるプリンセス=ロイヤル=メアリーでした。ウィリアムはメアリより12歳年上で、熱心なプロテスタントであり、生涯をかけてルイ14世のカトリック勢力と戦った人物です。
この結婚は、メアリの父ジェームズにとっては不本意なものでした。彼は親フランス派であり、カトリックの同盟国との関係を望んでいました。しかし、チャールズ2世は、この結婚がイングランド国内の反カトリック感情を和らげ、自身の政治的立場を安定させると考え、計画を強行します。
メアリ自身も、この結婚には乗り気ではありませんでした。彼女はまだ15歳で、見知らぬ土地に嫁ぐこと、そして何よりも、冷徹で無口だと噂されるウィリアムと結婚することに大きな不安を抱いていました。伝えられるところによれば、彼女は結婚式の前、そして式の最中も涙を流していたといいます。
1677年11月4日、メアリとウィリアムはロンドンのセント=ジェームズ宮殿で結婚式を挙げました。式は簡素なもので、メアリの15歳の誕生日からわずか数日後のことでした。結婚後まもなく、メアリは夫と共にオランダへ渡ります。故郷を離れる悲しみは深く、彼女は船上で何時間も泣き続けたと記録されています。
オランダでの新しい生活は、メアリにとって孤独なものでした。夫ウィリアムは、政治と戦争に明け暮れ、家庭を顧みることはほとんどありませんでした。彼はしばしばメアリに対して冷淡で、よそよそしい態度をとりました。さらに、ウィリアムは長年にわたり、メアリの女官の一人であったエリザベス=ヴィリアーズと愛人関係にありました。このことは、メアリを深く傷つけ、夫婦関係に暗い影を落としました。
結婚生活における最大の悲しみは、子供に恵まれなかったことです。メアリは何度か妊娠しましたが、流産や死産を繰り返し、世継ぎを産むことはできませんでした。これは、王位継承という重大な責務を負う彼女にとって、大きな精神的負担となりました。
しかし、このような困難な状況の中でも、メアリはオランダの生活に適応していきます。彼女はその人柄の良さでオランダ国民に愛され、ガーデニングや陶器のコレクションといった趣味に没頭することで心の慰めを見出しました。特に、彼女がオランダからイングランドに持ち込んだデルフト陶器の流行は有名です。
当初は冷え切っていた夫婦関係も、時と共に変化していきます。メアリの献身的な愛情と忍耐強さは、次第にウィリアムの心を開かせました。ウィリアムは、メアリが政治的な野心を持たず、夫を支えることに徹する姿勢を高く評価するようになります。彼はメアリの政治的判断力を信頼し、重要な問題について彼女の意見を求めるようになりました。メアリもまた、夫の背負う重責を理解し、彼を支えることに自らの役割を見出していきました。二人の間には、政略結婚から始まった関係を超えた、深い信頼と愛情が育まれていったのです。
名誉革命
1685年、イングランドで大きな転機が訪れます。チャールズ2世が崩御し、メアリの父であるヨーク公ジェームズがジェームズ2世として即位したのです。プロテスタント国家にカトリックの国王が誕生したことで、イングランドの政治情勢は一気に緊迫しました。
ジェームズ2世は即位当初、国民の権利とイングランド国教会を尊重すると約束しました。しかし、彼はすぐにその約束を破り、カトリック教徒を政府や軍の要職に登用し始めます。さらに、国王大権を用いてカトリック教徒を保護する「信仰自由宣言」を発布し、プロテスタントの聖職者たちにこれを教会で読み上げるよう命じました。これに反対したカンタベリー大主教を含む7人の主教が逮捕・投獄されるに至り、国民の不満は頂点に達します。
ジェームズ2世の治世において、多くのプロテスタントが唯一の希望としていたのは、王位継承者であるメアリの存在でした。彼女が女王になれば、イングランドは再びプロテスタントの国に戻ると信じられていたのです。
しかし、1688年6月10日、その希望を打ち砕く出来事が起こります。ジェームズ2世の王妃メアリー=オブ=モデナが、王子ジェームズ=フランシス=エドワードを出産したのです。カトリックの王子の誕生は、カトリック王朝が永続する可能性を意味し、イングランドのプロテスタント貴族たちを絶望させました。彼らは、この王子が王妃の実の子ではなく、どこかから連れてこられた替え玉であるという噂を広め、王子の正統性を疑いました。
この危機的状況を打開するため、イングランド議会の有力者たち、いわゆる「不滅の7人」と呼ばれる7人の貴族と聖職者が、密かにオラニエ公ウィリアムに手紙を送りました。彼らは、イングランドの自由と宗教を守るため、軍を率いてイングランドに上陸するようウィリアムに要請したのです。
ウィリアムにとって、これは絶好の機会でした。彼は生涯の敵であるルイ14世と戦う上で、イングランドの軍事力と財政力を必要としていました。彼はこの要請を受け入れ、イングランドへの遠征準備を開始します。
この決断は、妻であるメアリを苦悩させました。彼女は、夫が実の父に対して軍事行動を起こすという事態に直面したのです。彼女は父への愛情と、夫とプロテスタント信仰への忠誠心との間で引き裂かれました。しかし、最終的に彼女は、イングランドの宗教と自由を守るという大義のために、夫の行動を支持することを決意します。彼女は、父の政策が神の摂理に反するものであり、夫の遠征はそれを正すためのものであると信じようとしました。
1688年11月5日、ウィリアムは1万5千の兵を率いてイングランド南西部のトーベイに上陸します。ジェームズ2世の軍は数で勝っていましたが、ジョン=チャーチル(後のマールバラ公)をはじめとする有力な将校たちが次々とウィリアム側に寝返り、軍は内部から崩壊しました。ジェームズ2世の次女アンもまた、夫と共にウィリアム支持を表明し、父を見捨てました。
孤立無援となったジェームズ2世は、戦わずしてロンドンから逃亡を図ります。彼は一度捕らえられますが、ウィリアムは彼を殉教者にしたくないと考え、意図的に逃亡を見逃しました。12月23日、ジェームズ2世はフランスへ亡命し、ルイ14世の庇護下に入ります。
国王が国外に逃亡したことで、王位は空位となりました。この「無血」の政変は、後に「名誉革命」と呼ばれることになります。
共同統治者として
ジェームズ2世の逃亡後、イングランドの議会(仮議会)は、新たな統治体制をどうするかという難問に直面しました。いくつかの選択肢が議論されました。一つは、ジェームズ2世を正式に廃位し、メアリを単独の女王として即位させる案。もう一つは、ウィリアムを摂政として、名目上の王はジェームズ2世のままにする案です。
ウィリアム自身は、妻の単なる執事になるつもりはないと明言しました。彼は、もし王位が与えられないのであれば、軍を率いてオランダへ帰ると宣言します。彼は、共同統治者としての王位、あるいは少なくとも彼一代限りの王位を要求しました。
一方、メアリは、夫を差し置いて単独で統治する意志がないことを明確に示しました。彼女は、夫への忠誠を貫き、ウィリアムが王位につくことを強く望みました。彼女は、もし自分が単独の女王に指名されたとしても、それを辞退するつもりであると述べました。
この膠着状態を打開するため、ダンビー伯(後のリーズ公)などの政治家が妥協案を提示します。それは、ウィリアムとメアリをイングランド、スコットランド、アイルランドの共同統治者とするという、前例のない提案でした。ただし、実質的な統治権はウィリアムが単独で保持し、メアリの存命中に限り、ウィリアムが統治を行うという条件が付けられました。
この案は議会で承認され、1689年2月13日、ロンドンのホワイトホール宮殿のバンケティング=ハウスで、ウィリアムとメアリに王位が正式に捧げられました。この王位の受諾に先立ち、二人は議会が起草した「権利の宣言」を受け入れました。これは後に「権利の章典」として法制化され、議会の承認なしに国王が法律を停止したり、課税したり、常備軍を維持したりすることを禁じるなど、国王の権力を制限し、議会の権利と国民の自由を保障する内容でした。これは、英国立憲君主制の基礎を築く上で、極めて重要な文書となります。
こうして、ウィリアム3世とメアリ2世の共同統治が始まりました。1689年4月11日、二人はウェストミンスター寺院で戴冠式を挙げました。カンタベリー大主教がジェームズ2世への忠誠を理由に式典への参加を拒否したため、ロンドン主教ヘンリー=コンプトンが式を執り行いました。
メアリは、父から王位を奪ったという罪悪感に苛まれ続けました。彼女は、父の追放が神の摂理によるものであったと信じようと努めましたが、その心の葛藤が完全に消えることはありませんでした。彼女は女王としての華やかな生活よりも、静かで敬虔な生活を好み、公の場に出ることをあまり喜びませんでした。しかし、彼女は自らの義務を深く自覚しており、女王としての役割を誠実に果たそうと努めたのです。
女王としての統治
ウィリアム3世とメアリ2世の共同統治において、実質的な政治権力と軍事指揮権はウィリアムが握っていました。彼の主な関心は、大陸における対フランス戦争(大同盟戦争)であり、彼はしばしば長期間にわたってイングランドを留守にしました。
ウィリアムが不在の間、統治の責任はメアリに委ねられました。彼女は、枢密院の助言を受けながら、摂政として国政を運営しました。当初、彼女は政治的な役割を担うことに不安を感じていましたが、経験を積むにつれて、有能で決断力のある統治者としての資質を発揮していきます。
彼女の統治は、決して平穏なものではありませんでした。国内には、亡命したジェームズ2世を支持する「ジャコバイト」と呼ばれる勢力が存在し、常に反乱の脅威がありました。特に、1690年、ウィリアムがアイルランドでジェームズ2世軍と戦っている(ボイン川の戦い)間、フランス艦隊がイングランド侵攻を計画するという危機が訪れます。この時メアリは、冷静かつ断固とした態度で防衛体制を指揮し、国民の士気を鼓舞しました。彼女は、ジャコバイトの陰謀に関与した疑いのある叔父のクラレンドン伯を逮捕・投獄するという、苦渋の決断も下しています。
また、彼女は教会内の問題にも深く関わりました。名誉革命後、聖職者たちはウィリアムとメアリへの忠誠を誓うことが求められましたが、一部の聖職者(ノンジュラー=非宣誓派)は、ジェームズ2世への誓いを破ることはできないとしてこれを拒否しました。メアリは、彼らを説得しようと試みましたが、最終的には彼らを聖職から罷免せざるを得ませんでした。彼女は、教会の分裂を深く憂い、聖職者の任命にあたっては、候補者の道徳性や学識を重視し、教会の健全性を保つことに心を砕きました。
メアリの統治におけるもう一つの重要な側面は、妹アンとの関係の悪化です。アンは、友人であるサラ=チャーチル(マールバラ公夫人)の強い影響下にあり、しばしば姉夫婦に対して批判的な態度をとりました。特に、サラの夫であるマールバラ公ジョン=チャーチルがジャコバイトと内通しているという疑惑が持ち上がった際、メアリはウィリアムの意向を受けてマールバラ公を罷免し、アンに対してサラを宮廷から追放するよう要求しました。アンがこれを拒否したため、姉妹の関係は完全に断絶してしまいました。この確執は、メアリの晩年における大きな心痛の種となりました。
メアリは、政治の表舞台に立つことを好まなかったにもかかわらず、ウィリアムの不在時には、忠実に、そして有能にその代理を務めました。彼女の冷静な判断力と決断力は、不安定な国内情勢を乗り切り、革命後の新しい体制を安定させる上で不可欠な役割を果たしたのです。彼女の存在は、ウィリアムの統治に正統性を与え、国民の支持を繋ぎ止める上で大きな力となりました。
死と遺産
1694年の末、メアリは天然痘に罹患します。当時、天然痘は致死率の高い恐ろしい病であり、治療法も確立されていませんでした。彼女は自らの運命を悟り、冷静に身辺の整理を始め、手紙や書類を整理し、その多くを燃やしました。
夫ウィリアムは、メアリの病状に深く打ちのめされました。彼は妻のベッドのそばを離れず、看病に付き添いました。普段は感情を表に出さない彼が、取り乱し、悲しみにくれる姿は、周囲の人々を驚かせました。この時、彼は初めてメアリへの深い愛情を公に示したのです。
懸命の看病もむなしく、メアリの容態は悪化の一途をたどりました。そして、1694年12月28日、ケンジントン宮殿にて、彼女は32歳の若さでこの世を去りました。
メアリの死は、ウィリアムに計り知れない衝撃を与えました。彼は「彼女は私の人生で最も素晴らしい妻だった」と語り、深い悲しみに沈みました。彼はメアリの死後、生涯再婚することはありませんでした。国民もまた、慈悲深く、敬虔な女王の死を深く悼みました。
彼女の葬儀は、1695年3月5日にウェストミンスター寺院で盛大に執り行われました。この日のために、著名な作曲家ヘンリー=パーセルが「メアリ女王の葬送音楽」を作曲したことは有名です。彼女の遺体は、ウェストミンスター寺院のヘンリー7世礼拝堂に埋葬されました。
メアリの死後、ウィリアム3世は単独で統治を続けましたが、彼の治世は以前よりも人気を失いました。メアリの存在が、彼の統治に正統性と国民の親近感を与えていたことが、彼女の死によって改めて浮き彫りになったのです。ウィリアムは1702年に落馬事故が原因で亡くなり、王位はメアリの妹であるアンに継承されました。
メアリ2世の直接的な遺産としては、グリニッジに海軍病院(現在の旧王立海軍大学)を設立したことが挙げられます。これは、負傷したり退役したりした船員たちのための施設であり、夫ウィリアムと共に計画を進めていたものでした。彼女の死後、ウィリアムがその遺志を継いで完成させました。また、彼女が愛したハンプトン=コート宮殿やケンジントン宮殿の庭園や建築様式にも、その影響が色濃く残っています。
しかし、彼女の最大の遺産は、名誉革命という歴史的な転換点において、彼女が果たした象徴的かつ実質的な役割そのものにあります。彼女の存在なくして、無血革命の成功はあり得ませんでした。彼女は、父への愛情と、プロテスタント信仰および国家への義務との間で引き裂かれながらも、最終的には後者を選びました。その決断が、イングランドを内戦の危機から救い、立憲君主制と議会制民主主義への道を確固たるものにしたのです。
彼女は、共同統治者という前例のない立場で、夫を支え、その不在時には国政を担いました。その統治は、派手さはないものの、堅実で思慮深いものでした。
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