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毛織物工業とは わかりやすい世界史用語2639 |
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著作名:
ピアソラ
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毛織物工業とは
中世後期のイングランドの歴史を語る上で、羊と羊毛、そしてそこから生み出される毛織物の物語を抜きにすることはできません。14世紀以降、イングランド経済は一つの産業によってその姿を劇的に変えていきました。それが毛織物産業です。かつては、ヨーロッパ大陸、特にフランドル地方の先進的な毛織物都市に良質な羊毛を供給する、いわば原料供給地に過ぎなかったこの島国が、数世紀をかけて、ヨーロッパ最大の毛織物生産国、そして輸出国へと変貌を遂げていく過程は、イングランドの社会、経済、そして政治の構造そのものを根底から作り変えていく、壮大な物語でした。
この変化は、単に一つの産業が興隆したという話にとどまりません。それは、イングランドの農村風景を塗り替え、新しい社会階級を生み出し、都市のあり方を変え、そして王権の財政基盤を築き上げる、巨大な地殻変動でした。羊が文字通りイングランドの富の源泉となり、「ロード=チャンセラー(大法官)が、ウールサック(羊毛の詰まった袋)の上に座る」という象徴的なイメージは、この産業が国家の繁栄にとっていかに重要であったかを雄弁に物語っています。
14世紀という時代は、この大きな転換のまさに始まりの時期でした。百年戦争の勃発、そして黒死病(ペスト)の到来という未曽有の危機がイングランド社会を襲う中で、皮肉にも、毛織物産業は新たな発展の機会を見出します。王室の政策的な後押しを受け、農村の安価な労働力と豊富な水力を利用して、新しい生産体制が徐々に形作られていきました。それは、ギルドの厳しい規制に縛られた旧来の都市の産業とは、全く異なる、よりダイナミックで自由な性格を持っていました。
14世紀の転換の始まり
14世紀以前のイングランドは、ヨーロッパの経済地図において、主に最高品質の羊毛を産出する原料供給地としてその名を知られていました。イングランド産の羊毛、特にコッツウォルズやリンカンシャーで産出される長くて光沢のある羊毛は、ヨーロッパ中で最も優れた品質であると評価され、その最大の買い手は、海峡の対岸にあるフランドル地方(現在のベルギーの一部)のガン(ヘント)やブルッヘ(ブルージュ)、イープルといった、高度に発達した毛織物工業都市でした。イングランド経済は、この羊毛輸出に大きく依存していました。
しかし、14世紀に入ると、この伝統的な構造に大きな変化の兆しが現れ始めます。イングランドは、単なる羊毛の輸出国から、自国で羊毛を加工し、完成品である毛織物を生産、そして輸出する国へと、ゆっくりと、しかし確実に、舵を切り始めたのです。この歴史的な転換は、いくつかの重要な要因が複雑に絡み合った結果でした。
王室の政策と百年戦争
この転換の最も直接的なきっかけとなったのは、イングランド王室の財政政策と、フランスとの間で始まった百年戦争(1337年-1453年)でした。
イングランド王エドワード3世は、フランス王位継承権を主張し、大陸での大規模な戦争を遂行するため、莫大な戦費を必要としていました。その財源を確保するため、彼が目をつけたのが、イングランド最大の富の源泉である羊毛でした。彼は、羊毛の輸出に対して極めて高い関税を課しました。この重税は、王室の金庫を潤す一方で、イングランドの羊毛生産者とフランドルの毛織物業者、その双方に大きな打撃を与えました。イングランド産の羊毛の価格は高騰し、フランドルの織物業者はより安価なスペイン産の羊毛へと切り替え始めました。
さらに、エドワード3世は、フランドルを自らのフランスとの戦いに引き込むための外交カードとして、羊毛輸出を戦略的に利用しました。彼は、フランドル伯がフランス王に忠誠を誓っていることへの対抗措置として、イングランドからの羊毛の輸出を全面的に禁止するという強硬策に打って出ました。
この羊毛禁輸措置は、フランドルの毛織物都市の経済を麻痺させました。原料の供給を断たれた何千人もの織物職人たちが失業し、社会不安が高まりました。この状況を、エドワード3世は巧みに利用します。彼は、イングランドに移住してくるフランドルの熟練した織物職人たちに対して、身の安全と様々な特権を保証することを約束したのです。
この呼びかけに応じて、多くのフランドル人職人たちが、その進んだ技術と知識を携えてイングランドへと渡ってきました。彼らは、主にノーフォークやサフォークといった東アングリア地方や、ケント、そしてロンドンなどに定住しました。彼らがもたらした新しい織機の技術や、より高度な仕上げの技法は、まだ未熟であったイングランドの毛織物産業の品質を飛躍的に向上させる上で決定的な役割を果たしました。
王室の政策は、これだけにとどまりませんでした。羊毛輸出に重い関税を課す一方で、完成品である毛織物の輸出に対しては、関税をごく低く抑えました。これは、国内の生産者に対して、羊毛をそのまま輸出するのではなく、国内で加工して毛織物として輸出する方がはるかに有利であるという強力な経済的インセンティブを与えました。こうして、王室の財政政策と戦争という政治的状況が、意図せずして、イングランドの産業構造の転換を強力に後押しすることになったのです。
黒死病の影響と農村工業の勃興
14世紀半ば、イングランド社会をもう一つの、そしてより根源的な危機が襲いました。1348年から1349年にかけてヨーロッパ全土を席巻した黒死病(ペスト)です。この未曽有のパンデミックは、イングランドの人口の3分の1から半分近くを死に至らしめたと推定されています。
この急激な人口減少は、イングランドの農村社会の構造を根底から揺るがしました。労働力が極端に不足したため、生き残った農民の立場は相対的に強くなりました。彼らは、より高い賃金や、より良い労働条件を領主に対して要求できるようになりました。かつて荘園制度の下で領主に縛り付けられていた農奴の地位は次第に解体され、農民たちはより多くの自由を手にするようになりました。
この社会変動は、毛織物産業の発展にとって二つの重要な意味を持っていました。
第一に、労働集約的な穀物栽培に比べて、羊の放牧ははるかに少ない労働力で済むため、多くの領主や裕福な農民が、その土地を耕作地から羊の牧草地へと転換し始めました。これは、国内の羊毛生産量のさらなる増加につながりました。
第二に、そしてより重要なことは、農村部に安価で豊富な労働力が生まれたことです。農業だけでは生計を立てることが難しくなった多くの小規模農民や土地を持たない人々は、副業として、あるいは本業として、毛織物生産のいずれかの工程に従事するようになりました。特に女性や子供たちは紡績(糸を紡ぐ作業)の重要な担い手となりました。
この結果、毛織物生産の中心は次第に伝統的な都市部から農村部へと移っていきました。この「農村工業化」の動きは、中世後期のイングランド毛織物産業の最大の特徴となります。
農村での生産には、都市に比べて多くの利点がありました。農村にはギルドのような厳しい同業者組合が存在せず、生産方法や労働時間、賃金に関する厳格な規制がありませんでした。これにより、企業家的な精神を持つクロスメーカー(毛織物製造業者)たちは、より自由に、安価な労働力を使い、市場の需要に応じて生産量を柔軟に調整することができました。
また、農村には、毛織物生産に不可欠なもう一つの資源が豊富に存在しました。それは水です。特に、織り上がった布を叩いて縮絨させ、フェルト化させる「縮絨(フラー加工)」の工程は、水力を利用した縮絨水車(フラー・ミル)の導入によって劇的に効率化されました。これらの水車は、当然、川沿いに設置される必要があったため、生産拠点が必然的に水量の豊富な丘陵地帯の農村部へと移っていくことを加速させたのです。
こうして、14世紀のイングランドでは、王室の政策、戦争、そして黒死病という大きな歴史のうねりの中で、羊毛原料の輸出国から毛織物の生産国へと、その姿を変えるための土台が着実に築かれていったのです。その中心地は、もはや古い都市ではなく、新しい活気に満ちた農村地域でした。
生産の地理的拡大
14世紀に始まった毛織物産業の農村部への拡散は、15世紀から16世紀にかけてさらに加速し、イングランドの各地に特色ある主要な生産地域が形成されていきました。これらの地域は、それぞれ異なる種類の羊毛原料を利用し、得意とする製品も異なっていました。その中でも、特に三つの地域が、イングランド毛織物産業の中心地として際立った存在感を示すようになります。
西イングランド地方
グロスターシャー、ウィルトシャー、サマセットの各州にまたがる西イングランド地方は、最高級のブロードクロス(幅広の厚手の毛織物)の生産地としてその名声を確立しました。この地域は、コッツウォルズ丘陵で産出される、最高品質の短繊維羊毛(ショート=ステープル=ウール)へのアクセスに恵まれていました。この短く縮れた羊毛は、縮絨させることで、緻密で滑らかな表面を持つ高級な毛織物を作るのに最適でした。
この地域の産業の特徴は、「ウェスト=オブ=イングランド=システム」として知られる、高度に資本主義的な生産体制にありました。その中心にいたのが「クロスメーカー」と呼ばれる裕福な毛織物製造業者でした。彼らは、単なる職人ではなく、大規模な資本を投下し、生産の全工程を管理する企業家でした。
彼らは、まず羊毛商人から大量の羊毛を買い付けます。そして、その羊毛を、梳毛、紡績、織布、縮絨、染色といった各工程を専門とする多数の家内労働者に分配しました。これらの工程の多くは、農村のコテージで家族単位で行われました。例えば、紡績は主に女性や子供たちの仕事であり、織布は男性の織工が自宅に設置した織機で行っていました。
クロスメーカーは、一つの工程が終わった製品を回収し、次の工程の職人へと渡していきました。こうして、何百、何千という分散した家内労働者を、一つの生産システムの中に組織していったのです。彼らは、労働者に賃金を支払う雇用主であり、生産された毛織物の最終的な所有者でした。
ストラウド、チッペナム、ブラッドフォード=オン=エイヴォンといった町は、これらのクロスメーカーたちの活動拠点となりました。彼らは、しばしば縮絨水車や染色工房といった資本集約的な設備を自ら所有していました。彼らが生み出した深紅や青に染められた高品質のブロードクロスは、ロンドンの商人を通じてヨーロッパ大陸の市場へと輸出され、イングランド製品の高い評価を不動のものとしました。この地域で成功したクロスメーカーの中には、莫大な富を築き、壮麗な邸宅や教会を建設し、地方の名士(ジェントリ)の仲間入りを果たす者も少なくありませんでした。
東アングリア地方
ノーフォーク、サフォーク、エセックスの各州からなる東アングリア地方は、西イングランドとは対照的な特徴を持つ、もう一つの巨大な毛織物生産の中心地でした。この地域は、フランドルに地理的に近く、14世紀に多くのフランドル人移民が最初に定住した場所でした。
彼らがもたらした技術は、この地域の製品の性格を決定づけました。東アングリアは、梳毛ウール(ウーステッド)製品の中心地となりました。ここで使用されたのは、主にリンカンシャーなどで産出される長繊維羊毛(ロング=ステープル=ウール)でした。この長く比較的縮れの少ない羊毛は、梳毛(コーミング)という工程で繊維が平行に引きそろえられ、強く滑らかな糸が紡がれました。
この梳毛糸から織られた生地は、縮絨工程をほとんど、あるいは全く経ないため、織り目がはっきりと見え、軽く、丈夫であるという特徴がありました。これらの生地は、総称して「ニュー=ドレイパリー(新毛織物)」と呼ばれ、伝統的な重く厚いブロードクロス(オールド=ドレイパリー)とは明確に区別されました。
ニュー=ドレイパリーには、多種多様な種類があり、それぞれ異なる名称で呼ばれていました。ベイズ、セイズ、パーペチュアナなど、その種類は数百にものぼったと言われています。これらは、ブロードクロスに比べて安価で、軽く、色彩も豊かであったため、より温暖な南ヨーロッパの市場、特にスペインやポルトガル、地中海沿岸地域で絶大な人気を博しました。
東アングリアの生産体制は、西イングランドほど、大規模なクロスメーカーによる垂直的な支配は強くありませんでした。むしろ、比較的独立した小規模な職人たちが分業体制を築いていました。ノリッジやコルチェスターといった都市は、この地域の産業の重要な中心地として繁栄しました。特にノリッジは、ロンドンに次ぐイングランド第二の都市と見なされるほどの発展を遂げました。
ヨークシャー地方
イングランド北部のヨークシャー地方、特にそのウェスト=ライディング地区は、15世紀以降、第三の主要な毛織物生産地域として台頭してきました。この地域の発展は、他の二つの地域に比べてやや遅れていましたが、その成長は著しいものでした。
ヨークシャーの産業は、ペナイン山脈の丘陵地帯にその基盤を置いていました。この地域は、農業にはあまり適していませんでしたが、羊の放牧には理想的な土地でした。また、山々を流れる無数の流れの速い川は、縮絨水車を動かすための豊富な動力を提供しました。
ヨークシャーで生産されたのは、主に「カーシー」と呼ばれる、比較的安価で粗末な中級品の毛織物でした。これらは、西イングランドの高級品と東アングリアの軽量品との中間に位置する製品で、国内の一般大衆市場やバルト海沿岸地域への輸出市場で広く受け入れられました。
ヨークシャーの生産体制の最大の特徴は、「ヨークシャー=システム」、あるいは「国内システム(ドメスティック=システム)」として知られる、その組織形態にありました。ここでは、西イングランドのような大資本家であるクロスメーカーはほとんど存在しませんでした。生産の担い手は、数エーカーの小さな土地を所有し、農業を営みながら、家族の労働力を使って毛織物生産を行う、独立した小規模な製造業者でした。
彼らは、自ら羊毛を買い付け、自宅で紡績と織布を行い、半製品の毛織物を、リーズやウェイクフィールド、ハリファックスといった町のクロス=ホール(毛織物取引所)に自ら運び込み、そこで商人に直接販売しました。このシステムの下では、生産者は比較的高い独立性を維持することができました。この独立自営の精神は、ヨークシャー地方の強い地域的アイデンティティの一部となりました。
これら三つの主要な生産地域に加えて、ケンダルのような特定の種類の織物で知られる小規模な生産地も各地に点在していました。こうして、イングランドの毛織物産業は、15世紀から16世紀にかけて、全国的な広がりを持つ多様な産業へと成長していったのです。
生産工程と技術
羊の背から刈り取られた羊毛が、市場で取引される一枚の毛織物になるまでには、数多くの複雑で手間のかかる工程を経る必要がありました。これらの工程は、それぞれ専門的な技術を必要とし、多くの場合、異なる職人によって分業体制で行われていました。技術の進歩は緩やかでしたが、いくつかの重要な革新が生産性の向上に大きく貢献しました。
原料から糸へ
すべての始まりは羊毛でした。春になると、羊の毛が刈り取られ(シェアリング)、羊毛選別人(ウール=ソーター)によって品質ごとに細かく分類されました。同じ羊の体でも、部位によって繊維の長さや細かさが異なるため、この選別作業は最終製品の品質を左右する重要な工程でした。
次に、羊毛は、その汚れや羊毛脂(ラノリン)を取り除くため洗浄されました。その後、羊毛は二つの全く異なる方法で処理されました。
一つは「カーディング(梳毛)」です。これは主に高級なウールン製品に使われる短繊維羊毛に用いられました。職人は「カード」と呼ばれる、針金の歯が無数に植え付けられた二つの板状の道具を使い、その間に羊毛を挟んで梳くことで、繊維をあらゆる方向に絡み合わせ、ふわふわとした綿状の塊(ローヴィング)を作りました。
もう一つは「コーミング(精梳)」です。これは主にウーステッド製品に使われる長繊維羊毛に用いられました。熱した何列もの鉄の櫛(くし)を使って羊毛を何度も梳くことで、短い繊維を取り除き、長い繊維だけを平行に引きそろえました。これにより、滑らかで光沢のある銀色の束(スライバー)が作られました。
次の工程は「スピニング(紡績)」、すなわちこれらの繊維の塊から糸を紡ぐ作業でした。中世後期を通じて最も一般的な道具は「スピニング=ホイール(糸車)」でした。特に15世紀末に足踏み式の機構とフライヤー(糸を巻き取る装置)が一体となった「サクソニー=ホイール」が導入されると、紡績の効率は大幅に向上しました。それにもかかわらず、紡績は依然として非常に時間のかかる作業でした。一人の織工が、一日に消費する量の糸を供給するためには、5人から10人の紡ぎ手が必要であったと言われています。このため、紡績は毛織物産業全体の生産性を制約するボトルネックとなりがちでした。この工程は、主に女性や子供たちが家事の合間に行う典型的な家内労働でした。
糸から布へ
紡がれた糸は、織工(ウィーバー)の手に渡り、布へと織り上げられました。中世を通じてイングランドで使用されていたのは、水平式の手織機でした。織工は、まず縦糸(ワープ)を織機に張り、次にシャトル(杼)と呼ばれる舟形の道具に収められた横糸(ウェフト)を縦糸の間に左右交互に通していくことで布を織り上げていきました。
14世紀のイングランドでは、まだ一人で操作できる幅の狭い織機が一般的でした。しかし、フランドル人移民がもたらした大型のブロードルーム(幅広織機)は、二人一組で操作する必要がありましたが、その名の通り幅の広い高品質のブロードクロスを織ることができました。
16世紀には織機の構造にもいくつかの改良が加えられましたが、基本的な原理は何世紀にもわたって変わりませんでした。織布は男性の熟練した職人の仕事であり、多くの場合、彼らは自宅の、あるいは作業場の織機で独立して働いていました。
仕上げ工程
織り上がったばかりの布は「グレイ=クロス」と呼ばれ、ごわごわとして見栄えのしないものでした。市場で価値のある製品となるためには、一連の複雑な「仕上げ工程」を経る必要がありました。これらの工程こそが、毛織物の最終的な品質と価格を決定づける最も重要な部分でした。
縮絨(フラー加工):これは、特にウールン製品にとって不可欠な工程でした。織り上がった布を水とフラー土(脂肪分を吸収する粘土)に浸し、足で踏んだり棒で叩いたりすることで、繊維を意図的に縮ませ、絡み合わせてフェルト化させました。これにより、布は厚く緻密になり、織り目が見えなくなりました。当初は人力で行われていましたが、13世紀以降、水力を利用した縮絨水車(フラー=ミル)が普及しました。水車に取り付けられた二つの巨大な木製のハンマーが自動で布を叩き続けるこの機械の導入は、仕上げ工程における最初で最も重要な技術革新でした。これにより生産性は劇的に向上し、生産の中心が水力資源の豊富な農村部へと移る大きな要因となりました。
起毛(レイジング):縮絨された布の表面を、アザミの実(ティーゼル)を取り付けた道具で優しく引っ掻き、毛羽立たせる作業です。これにより、布の表面にけば(ナップ)が生み出されました。
剪毛(シェアリング):起毛させた布の表面のけばを、巨大なT字型の鉄のハサミ(剪毛鋏)を使って均一な長さに刈りそろえる作業です。これは極めて高度な熟練を要する作業であり、製品の滑らかで美しい仕上げを左右しました。剪毛職人(シェアマン)は、仕上げ職人の中でも特に高い地位を占めていました。
染色(ダイイング):染色は、羊毛の段階、糸の段階、あるいは布の段階で行われました。使用される染料によって製品の価値は大きく異なりました。最も安価なのはウォード(タイセイ)から採れる青色やマダー(アカネ)から採れる赤褐色でした。一方、コチニール(エンジムシ)から採れる鮮やかな深紅(スカーレット)やインディゴ(インド藍)から採れる深い青色は極めて高価であり、最高級品にのみ使用されました。染色は大量の水を必要とし、また専門的な化学知識を要するため、多くの場合、都市や町の専門の染色工房で行われました。
これらの長く複雑な工程を経て、一枚の毛織物はようやく完成品となりました。それぞれの工程における技術の質と職人の腕前が、最終製品の多様な風合いと価値を生み出していたのです。
商業と輸出
イングランドで生産された毛織物は、国内市場で消費されるだけでなく、その多くが海外へと輸出されました。毛織物輸出は、15世紀以降、イングランドの対外貿易の屋台骨となり、国家の富の最大の源泉となりました。この巨大な商業網を支えていたのが、商人たちの活発な活動と、政府による重商主義的な政策でした。
国内市場と商人
農村の織工や小規模な製造業者によって生産された毛織物は、まず地方の市場に集められました。ヨークシャーのリーズやウェイクフィールドのクロス=ホール(毛織物取引所)のように、生産者が直接商人に製品を販売するための専門の市場が設けられている場所もありました。
地方の商人や大資本家であるクロスメーカーは、これらの毛織物を買い集め、それを最終的な仕上げ工程(特に染色や剪毛)を施すために専門の職人がいる町や都市へと送りました。
そして、国内の毛織物取引の最終的な中心地となったのがロンドンでした。イングランド全土から様々な種類の毛織物がロンドンに集められ、ここから海外へと輸出されていきました。ロンドンの商人たちは、地方の生産者と海外の市場とを結びつける仲介者として絶大な力を持つようになりました。
マーチャント=アドベンチャラーズの台頭
イングランドの毛織物輸出の歴史は、「カンパニー=オブ=マーチャント=アドベンチャラーズ(冒険商人組合)」の歴史と分かちがたく結びついています。この組合は、15世紀初頭に勅許状(ロイヤル=チャーター)を得て設立された、ロンドンの商人たちを中心とする強力な団体でした。
彼らは、イングランドの毛織物(特に未染色のブロードクロス)を、ネーデルラントの特定の一つ、あるいは二つの都市(ステープル=ポート)に独占的に輸出する権利を国王から与えられていました。15世紀から16世紀にかけて、その主要な拠点となったのがアントウェルペン(アントワープ)でした。
マーチャント=アドベンチャラーズは、年に数回大規模な船団を組み、一斉にアントウェルペンへと毛織物を輸送しました。アントウェルペンは、当時、北ヨーロッパの国際商業と金融の中心地でした。イングランドの毛織物は、ここでヨーロッパ中の商人たちの手に渡り、ドイツ、イタリア、バルト海沿岸、そしてさらに遠くの地域へと再輸出されていきました。その見返りとして、イングランドの商人は、ワイン、香辛料、金属製品、奢侈品といった大陸の商品を購入し、イングランドへと持ち帰りました。
このアントウェルペンとの貿易は、16世紀半ばにその最盛期を迎え、イングランドの輸出の実に75%以上を占めるほどになりました。マーチャント=アドベンチャラーズは、この独占貿易によって莫大な利益を上げ、ロンドン市政や国家の財政に対しても大きな影響力を持つようになりました。
重商主義政策と市場の多様化
しかし、16世紀後半になると、このアントウェルペンを中心とした伝統的な貿易体制に大きな変化が訪れます。ネーデルラントでスペインの支配に対する反乱(八十年戦争)が激化し、1585年にアントウェルペンがスペイン軍によって陥落すると、この地の国際市場としての機能は崩壊してしまいました。
マーチャント=アドベンチャラーズは、その拠点を、ハンブルクやミデルブルフ、シュターデといったドイツやオランダの他の都市へと移さざるを得なくなりました。
この危機は、同時にイングランドの商人たちに新しい市場を開拓する必要性を痛感させました。政府もまた、重商主義的政策、すなわち輸出を促進し輸入を抑制することで国富(特に金銀)を増大させることを目指すようになります。
この時代、マーチャント=アドベンチャラーズ以外にも、特定の地域との独占的な貿易権を与えられた多くの勅許会社が設立されました。
イーストランド会社(1579年設立):バルト海沿岸地域との貿易を独占しました。彼らは、ヨークシャー産のカーシーなどを輸出し、見返りに船の建造に不可欠な木材、タール、ピッチ、そして穀物などを輸入しました。
レヴァント会社(1581年設立):オスマン帝国が支配する東地中海地域との貿易を担いました。彼らは、東アングリア産の軽くて色彩豊かな「ニュー=ドレイパリー」をこの温暖な地域に輸出し、大きな成功を収めました。
東インド会社(1600年設立):アジアとの貿易を目指したこの最も有名な勅許会社も、その初期には毛織物を主要な輸出品の一つとしてアジアの市場に売り込もうと試みました。しかし、これはあまり成功せず、彼らの主要な輸入品は香辛料やインド産の綿織物(キャラコ)へと移っていきました。
これらの新しい市場の開拓、特にニュー=ドレイパリーが南ヨーロッパや地中海で成功を収めたことは、イングランドの毛織物輸出の構造を大きく変えました。伝統的な未染色のブロードクロスが依然として重要であった一方で、より多様な製品がより多様な市場へと向けられるようになったのです。
17世紀を通じて、毛織物産業はイングランド経済の牽引役であり続けました。内乱や大陸での戦争によって一時的な不況に見舞われることもありましたが、その全体的な成長のトレンドは揺らぎませんでした。17世紀末には、毛織物とその製品が、イングランドの国内輸出総額の実に3分の2から4分の3を占めるに至ったのです。この産業がいかにイングランドの富と国力にとって決定的な重要性を持っていたかが、この数字からうかがい知ることができます。
社会と文化への影響
毛織物産業の数世紀にわたる発展は、イングランドの経済構造を変えただけではありませんでした。それは、人々の暮らし、社会の階層、そして文化や政治のあり方にまで深く広範囲な影響を及ぼしました。羊と毛織物は、イングランドの物理的な風景だけでなく、社会的な風景をも形作っていったのです。
囲い込み運動と農村社会の変化
毛織物産業の成長は、その原料である羊毛の需要を絶えず増大させました。より多くの羊をより効率的に飼育するため、多くの地主(ジェントリや貴族)は、「囲い込み(エンクロージャー)」として知られる土地利用の改革を推し進めました。
これは、それまで村の共同利用地(コモンズ)であったり、あるいは個々の農民が細かく分散して耕作していた開放耕地を、生垣や石塀で囲い込み、個人所有の大規模な牧草地へと転換する動きでした。
この囲い込みは、農業生産性の向上には貢献しましたが、農村社会に深刻な影響を与えました。共同利用地に依存して家畜を飼っていた貧しい農民や土地を失った小作人たちは、その生活の糧を奪われました。彼らの多くは、土地を持たない農業労働者になるか、あるいは仕事を求めて都市へと流入していきました。
16世紀の思想家トマス=モアは、その著書『ユートピア』の中で、「羊が、人間を、食い殺している」と、この状況を痛烈に批判しました。囲い込みは、しばしば社会不安や農民反乱の原因となり、政府も囲い込みを規制しようとする法令を度々発布しましたが、その大きな流れを止めることはできませんでした。こうして、毛織物産業の繁栄は、イングランドの農村から伝統的な共同体的な社会を解体させ、より階級分化の進んだ資本主義的な社会へと変貌させていく大きな力となったのです。
新しい社会階級の出現
毛織物産業は、新しい裕福な社会階級を生み出しました。その筆頭が、西イングランドのクロスメーカーや、ロンドンのマーチャント=アドベンチャラーズに代表される大商人たちでした。彼らは、産業と商業から莫大な富を蓄積し、その経済力はしばしば伝統的な土地所有貴族を凌駕するほどでした。
彼らは、その富を使って土地を買い、ジェントリ(郷紳)の仲間入りを果たし、地方の政治や中央の議会(特に下院)においても大きな影響力を持つようになりました。彼らの存在は、生まれや家柄ではなく、個人の才覚と富によって社会的地位が決まるという、新しい価値観を体現していました。
一方で、産業の成長は、賃金に依存して生活する巨大な労働者階級も生み出しました。紡ぎ手、織工、縮絨工、染色工といった生産の各工程を担う職人たちは、名目上は独立していても、実質的には原料を供給し製品を買い上げる商人やクロスメーカーの資本に従属していました。彼らの生活は、市場の価格変動や貿易の浮き沈みに直接左右される不安定なものでした。不況期には失業や賃金の引き下げが頻繁に起こり、それはしばしば暴動やストライキといった労働争議へと発展しました。毛織物産業の内部に、資本家と賃金労働者という近代的な階級対立の構図が早くも見て取れるのです。
都市の盛衰と建築
毛織物産業の発展は、イングランドの都市の運命にも明暗を分けました。リンカンやヨーク、ウィンチェスターといった、かつてはギルドの規制の下で伝統的な毛織物生産を行っていた古い都市の多くは、生産の中心が規制の緩やかな農村部へと移るにつれて、その経済的な活力を失い停滞していきました。
その一方で、新しい産業の中心地となった場所は目覚ましい発展を遂げました。西イングランドのストラウドや、東アングリアのノリッジ、ヨークシャーのリーズやハリファックスといった町は、人口が急増し、活気あふれる商業の中心地となりました。そして、何よりもロンドンは、この産業の最大の受益者でした。イングランド中から富が毛織物貿易を通じてロンドンに集中し、その首都としての地位を不動のものとしていったのです。
この産業が生み出した富は、イングランドの風景に具体的な形でその痕跡を残しました。特にコッツウォルズ地方やサフォーク州のラヴェンハムのような場所には、「ウール=チャーチ(羊毛教会)」と呼ばれる壮麗な教会が数多く現存しています。これらは、毛織物貿易で莫大な富を得た商人やクロスメーカーが、神への感謝と自らの富と名声を後世に示すために私財を投じて建設、あるいは改築したものです。その壮大なスケールと精緻な装飾は、この時代、毛織物産業がいかに巨大な富を生み出していたかを今日に伝える石造りの証言者です。
また、裕福な商人たちは町や田園地帯に豪華な邸宅を建設しました。これらの建物は、彼らの新しい社会的地位を誇示するものであり、イングランドの建築様式の発展にも影響を与えました。
政治と文化への影響
毛織物産業は、イングランドの政治、そして国家のあり方にも深く関わっていました。羊毛と毛織物の輸出にかかる関税は、特にテューダー朝以前の王室にとって極めて重要な財政収入の柱でした。国王は、この収入を当てにして戦争を遂行し、国家の統治を行いました。
議会、特に商人やジェントリがその議席の多くを占める下院は、しばしばこの関税率をめぐって国王と対立、あるいは交渉を行いました。議会は、課税への同意を武器として、王権に対してその発言権を強めていきました。毛織物産業の利害は、国家の政策決定において、常に考慮されるべき最重要事項の一つでした。貿易の保護と市場の拡大を求める商人階級の声は、イングランドが重商主義政策と海軍力の増強へと向かう大きな原動力となったのです。
文化的な面でも、毛織物産業はその影響を及ぼしました。富裕な商人たちは、芸術や学問のパトロンとなり、文化の発展を支えました。また、「羊」や「織物」は、イングランドのことわざや民謡、文学の中に頻繁に登場するモチーフとなりました。シェイクスピアの劇中にも、様々な種類の布地や織物に関わる職業への言及が見られます。それは、この産業がイングランド人の日常生活と意識の中にいかに深く浸透していたかを示しています。
産業革命への道
17世紀末から18世紀初頭にかけて、イングランドの毛織物産業はその絶頂期にありました。それは、依然としてイングランド経済の最大の牽引役であり、その生産システムは高度に洗練されていました。しかし、その足元では、新たな競争相手が台頭し、そして産業構造そのものを根底から覆す技術革新の波が静かに近づいていました。
綿織物産業との競争
17世紀後半から、東インド会社がインドから輸入する安価で軽く、美しいプリントが施された綿織物(キャラコ)が、イングランド国内で爆発的な人気を博するようになりました。この新しい布地は、特に女性の衣服の素材として、従来の毛織物の市場を急速に侵食し始めました。
危機感を抱いた毛織物産業の関係者たちは、議会に強力なロビー活動を行い、自分たちの産業を保護するように求めました。その結果、政府は18世紀初頭に、キャラコの使用と輸入を禁止、あるいは制限する一連の法律(キャラコ法)を制定しました。
しかし、この保護主義的な政策は、皮肉な結果をもたらしました。キャラコへの根強い需要は消えることがなく、それはイングランド国内で綿織物を模倣、生産しようとする新しい産業の勃興を促したのです。ランカシャー地方を中心に発展したこの新しい綿織物産業は、当初から毛織物産業の古い伝統や規制に縛られることなく、新しい技術と生産方法を積極的に採用しました。
技術革新の胎動
18世紀を通じて、増大する織物への需要に応えるため、生産性の向上を目指す様々な試みがなされました。そのブレークスルーは、まず織りの工程で起こりました。1733年、ジョン=ケイが発明した「飛び杼(フライング=シャトル)」は、織工が紐を引くことで、シャトルを自動的に左右に往復させることができる画期的な装置でした。これにより、織りの速度は倍増し、これまで二人必要だった幅広の織機も一人で操作できるようになりました。
この織布工程の劇的な効率化は、今度はその前の工程である紡績に深刻なボトルネックを生み出しました。「糸不足」が産業全体の大きな課題となったのです。一人の織工に糸を供給するためにさらに多くの紡ぎ手が必要となり、糸の価格は高騰しました。
この課題を解決しようとする強い圧力こそが、18世紀後半の産業革命を引き起こす直接の引き金となりました。1760年代から70年代にかけて、ジェームズ=ハーグリーヴズの「ジェニー紡績機」、リチャード=アークライトの「水力紡績機」、そしてサミュエル=クロンプトンの「ミュール紡績機」といった一連の紡績機械の発明が相次ぎました。これらの機械は、一人の人間が同時に何十本、何百本もの糸を紡ぐことを可能にし、紡績の生産性を爆発的に向上させたのです。
これらの新しい機械は、当初綿織物産業で主に採用されました。しかし、その技術はやがて毛織物産業にも応用されるようになります。特に梳毛ウール(ウーステッド)の生産において、機械化は急速に進みました。
そして、ジェームズ=ワットによる蒸気機関の改良が決定的な変化をもたらしました。工場はもはや水力のある川沿いに立地する必要がなくなり、労働力と石炭が豊富な都市部に集中するようになりました。生産の場は農村のコテージから、蒸気機関が何百台もの力織機を動かす巨大な工場(ミル)へと完全に移っていきました。
14世紀にその本格的な発展を開始したイングランドの毛織物産業は、約四世紀にわたりこの国の経済と社会の中心にあり続けました。それは、イングランドを単なる羊毛の原料供給地からヨーロッパ最大の工業製品輸出国へと変貌させ、その過程で国家の富の巨大な源泉となりました。
その発展は、農村をその主要な舞台とし、商人資本の下で多数の家内労働者を組織する、「問屋制家内工業」という産業革命以前の典型的な生産システムを作り上げました。それは、イングランドの風景、社会階級、都市のあり方、そして政治や文化に至るまであらゆる側面にその深い刻印を残しました。
そして18世紀、この伝統的な巨大産業が直面した糸不足という内部の課題と、綿織物という外部からの挑戦が、結果として産業革命として知られる一連の画期的な技術革新を誘発しました。新しい機械と動力は、毛織物産業そのものを変質させると同時に、それをモデルケースとして、あるいは競争相手として、人類の歴史を一変させる工場制機械工業の時代を切り開いたのです。
中世の羊飼いがその杖で羊を導いたように、イングランドの毛織物産業は、数世紀にわたり、この島国を近代世界へと導く力強い牽引役であったと言えるでしょう。
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