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カール5世とは わかりやすい世界史用語2558 |
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著作名:
ピアソラ
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カール5世とは
カール5世という名は、16世紀ヨーロッパの政治と宗教の激動を一身に体現する、巨大な存在として歴史に刻まれています。彼は、偶然と巧みな婚姻政策の積み重ねによって、ヨーロッパと新大陸にまたがる、かつてないほど広大な領域を継承し、「太陽の沈まぬ帝国」と形容されるほどの支配者となりました。フランドルのヘントで生を受けたこの青年は、ブルゴーニュ公、スペイン王、そして神聖ローマ皇帝という、幾重にも重なる冠を戴き、その肩には、中世以来の理想である「普遍的キリスト教帝国」の理念を維持し、カトリック信仰の統一性を守るという、あまりにも重い責務がのしかかっていました。しかし、彼の治世は、その壮大な理想とは裏腹に、次々と噴出する脅威との、絶え間ない闘争の連続でした。東からはオスマン帝国のスレイマン大帝がキリスト教世界の心臓部へと迫り、西ではフランスのヴァロワ家が宿敵として彼の覇権に執拗に挑みかかり、そして帝国の内側からは、マルティン=ルターの宗教改革という、キリスト教世界の統一性を根底から揺るがす、新たな霊的な力が燎原の火のごとく燃え広がっていました。
血統の遺産
カール5世が手にした空前の帝国は、彼自身の征服によるものではなく、ハプスブルク家とスペイン王家による、数世代にわたる巧みな婚姻政策の偶然の産物でした。
ハプスブルク家の遺産
父方の祖父は、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世であり、彼はハプスブルク家のオーストリア大公国の領地(現在のオーストリアとその周辺地域)の支配者でした。マクシミリアンは、野心的で巧みな婚姻政策によってハプスブルク家の勢力拡大を図り、その息子であるフィリップ美公を、当時ヨーロッパで最も豊かで洗練された文化を誇っていたブルゴーニュ公国の女子相続人、マリーと結婚させました。この結婚によって、ハプスブルク家は、ブルゴーニュ公国の広大で裕福な領地、すなわちフランドル地方(現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルク)とフランシュ=コンテを手中に収め、カールは父フィリップを通して、このブルゴーニュの遺産を継承する第一の権利者となったのです。
スペイン王家の遺産
母方の祖父母は、「カトリック両王」として知られる、カスティーリャ女王イサベル1世とアラゴン王フェルナンド2世でした。彼らの結婚は、イベリア半島における二大王国を統合し、近代スペイン国家の基礎を築くとともに、レコンキスタ(国土回復運動)を完成させ、クリストファー=コロンブスの航海を支援して、広大な新大陸の領有権を確保しました。カールの母であるフアナ(狂女王フアナとして知られる)は、このカトリック両王の娘であり、男子相続人が次々と早世した結果、スペイン全土の正当な相続人となりました。カールは、この母フアナを通して、カスティーリヤとアラゴンの王国だけでなく、ナポリ、シチリア、サルデーニャといった南イタリアの領地、そしてメキシコやペルーを含む、計り知れない富を生み出す広大なアメリカ大陸の植民地のすべてを相続することになったのです。
偶然の継承
1500年にフランドルのヘントで生まれたカールは、当初、これらすべての領地を一人で相続するとは考えられていませんでした。しかし、運命は彼に味方します。1506年に父フィリップ美公が急死し、母フアナは夫の死による悲しみのために精神を病み、統治能力を失いました。さらに1516年には、母方の祖父フェルナンド2世が死去し、カールはわずか16歳で、母フアナとの共同統治者として、スペイン王カルロス1世として即位しました。そして1519年、父方の祖父である皇帝マクシミリアン1世が亡くなると、カールはオーストリアのハプスブルク家領をも相続し、さらに神聖ローマ皇帝の選挙に名乗りを上げることになります。
皇帝選出と帝国の課題
1519年の皇帝選挙は、若きカールの治世の方向性を決定づける、最初の大きな試練でした。
皇帝選挙
神聖ローマ皇帝の位は世襲ではなく、帝国内の7人の有力な選帝侯による選挙で選ばれることになっていました。カールの最大のライバルは、フランス王フランソワ1世でした。フランソワは、ハプスブルク家の領土に包囲されることを恐れ、自らが皇帝となることで、その包囲網を破ろうと画策しました。両陣営は、フッガー家をはじめとする国際的な銀行家から巨額の資金を借り入れ、選帝侯たちに莫大な賄賂を贈るという、熾烈な選挙戦を繰り広げました。最終的に、ハプスブルク家が伝統的に皇帝位を保持してきたことや、ドイツの諸侯がフランス人の支配を嫌ったこと、そして何よりもカール側が投じた圧倒的な資金力が決め手となり、カールは満場一致で神聖ローマ皇帝カール5世として選出されました。しかし、この勝利は、フランス王フランソワ1世との間に、生涯にわたる個人的なライバル意識と、ハプスブルク=ヴァロワ間の宿命的な対立を決定づけることになりました。
ヴォルムス帝国議会とルター問題
カールが皇帝として最初に取り組まなければならなかったのが、マルティン=ルターによって引き起こされた、宗教的な混乱でした。1521年、カールはヴォルムスで最初の帝国議会を召集し、すでに教皇から異端として破門されていたルターを喚問しました。カールは、敬虔なカトリック教徒として、またブルゴーニュの騎士道精神を受け継ぐ君主として、教会の分裂を許容することはできませんでした。彼は、ルターに自説の撤回を求めましたが、ルターは「聖書と明白な理性によって論破されない限り、私は撤回しないし、できない」と述べ、これを拒否しました。この有名な言葉は、カールの権威に対する公然の挑戦でした。カールは、議会の最終日に、自らフランス語で起草した感動的な演説を行い、ルターの教えを断固として拒絶し、自らの祖先が守ってきたカトリック信仰のために、命と帝国を懸けて戦うことを宣言しました。彼は、ヴォルムス勅令を発布してルターを帝国の無法者とし、その著作を禁じましたが、ザクセン選帝侯フリードリヒ賢公がルターをヴァルトブルク城に匿ったため、ルターの教えは、活版印刷の助けを借りて、ドイツ中に急速に広まっていきました。この瞬間から、プロテスタント問題は、カールの治世を通じて、彼の心身を最も悩ませる、解決不能な内なる戦線となったのです。
イタリア戦争
カールがドイツでルター問題に直面している間、彼の最大のライバルであるフランス王フランソワ1世は、イタリアにおけるハプスブルク家の覇権に挑戦すべく、行動を開始していました。北イタリアのミラノ公国は、フランスと神聖ローマ帝国の間の戦略的な要衝であり、両者の争いの中心地となりました。1521年に始まったこの戦争は、イタリア全土を巻き込み、断続的に数十年間にわたって続く「イタリア戦争」の新たな段階の始まりでした。1525年のパヴィアの戦いは、この戦争の転換点となりました。この戦いで、カール率いる皇帝軍はフランス軍に決定的な勝利を収め、フランソワ1世自身を捕虜にするという、前代未聞の戦果を挙げました。フランソワは、マドリード条約に署名して、ブルゴーニュとイタリアにおける権利を放棄することを約束させられましたが、解放されるやいなや、その約束を反故にし、今度は教皇クレメンス7世やヴェネツィア、イギリスと同盟(コニャック同盟)を結んで、カールへの抵抗を続けました。
ローマ劫掠と戴冠
コニャック同盟に対する報復として、1527年、カールに雇われていた給料未払いの皇帝軍(主にドイツ人のルター派傭兵)が暴走し、ローマ市を侵略して、大規模な略奪と破壊を行いました。この「ローマ劫掠」は、キリスト教世界に大きな衝撃を与え、教皇クレメンス7世はサンタンジェロ城に幽閉されるという屈辱を味わいました。この事件は、カールの直接の命令によるものではありませんでしたが、結果として教皇を完全に屈服させ、イタリアにおける彼の覇権を決定的なものにしました。1530年、カールは、和解した教皇クレメンス7世の手によって、ボローニャで神聖ローマ皇帝としての戴冠式を執り行いました。これは、神聖ローマ皇帝が教皇によって戴冠される、最後の戴冠式となりました。この時、カールは30歳にして、フランス王を打ち破り、教皇を屈服させ、その権力の絶頂に立っているかのように見えました。
三重の戦線との闘争
戴冠によって権力の頂点を極めたかに見えたカールの治世でしたが、その後の四半世紀は、フランス、オスマン帝国、そしてドイツのプロテスタント諸侯という、三つの戦線における、絶え間ない闘争に明け暮れることになります。
対オスマン帝国戦争
カールが西ヨーロッパでフランソワ1世と戦っている間、東方では、オスマン帝国のスルタン、スレイマン大帝が、その勢力を急速に拡大していました。1521年にベオグラードを、1522年にロドス島を攻略したオスマン軍は、1526年のモハーチの戦いでハンガリー王国軍を壊滅させ、カールの弟フェルディナントが王位を継いだハンガリーの大部分を支配下に置きました。そして1529年、スレイマンは、ハプスブルク家の本拠地であるウィーンにまで迫り、大規模な包囲戦を敢行しました(第一次ウィーン包囲)。ウィーンは何とか持ちこたえましたが、この事件は、キリスト教ヨーロッパ全体に、オスマン帝国の脅威を深刻に認識させました。カールは、自らをキリスト教世界の防衛者と任じており、このオスマン帝国の脅威は、彼の治世における最優先課題の一つとなりました。彼は、地中海においても、オスマン帝国の支援を受けたバルバリア海賊の脅威に直面し、1535年には、自ら大艦隊を率いてチュニスを攻略するという、十字軍的な遠征を成功させ、大きな名声を得ました。しかし、1541年のアルジェ遠征は、嵐のために壊滅的な失敗に終わり、オスマン帝国との戦いは、彼の治世を通じて、莫大な戦費と兵力を消耗させる、終わりのない消耗戦であり続けました。
フランスとの再度の対決
フランソワ1世は、カールの覇権を覆すためなら、手段を選びませんでした。彼は、キリスト教世界の宿敵であるはずのオスマン帝国のスレイマン大帝と、公然とではないにせよ、事実上の同盟関係を結び、カールを東西から挟撃しようとさえしました。この「不浄な同盟」は、当時のキリスト教君主の行動としては前代未聞であり、カールの怒りと軽蔑をかき立てました。フランスとハプスブルク家の間の戦争は、1530年代から1540年代にかけて、さらに二度にわたって再燃し、イタリアやフランドル、そしてドイツ国境が、再び戦場となりました。これらの戦争は、どちらの側にも決定的な勝利をもたらすことなく、互いの財政を破綻寸前に追い込みながら、延々と続きました。1544年のクレピーの和約によって、一時的な和平が成立し、フランソワ1世は最終的にイタリアへの野心を断念しますが、この長年にわたる対立は、カールがドイツの宗教問題に集中することを、常に妨げ続けました。
ドイツの宗教問題
フランスとオスマン帝国という、二つの外敵と常に対峙しなければならなかったため、カールは、帝国内のプロテスタント問題に対して、一貫した強硬策をとることができませんでした。彼は、トルコの脅威に対抗するために、プロテスタント諸侯の軍事的・財政的な支援を必要としており、その見返りとして、宗教的な問題で譲歩せざるを得ないことが度々ありました。1530年のアウクスブルク帝国議会では、プロテスタント側が、彼らの信仰箇条をまとめた「アウクスブルク信仰告白」を提出しましたが、カトリック側との神学的な和解は失敗に終わりました。これを受けて、プロテスタント諸侯は、翌1531年、「シュマルカルデン同盟」という軍事同盟を結成し、皇帝に対して公然と対抗する姿勢を見せました。カールは、この同盟を武力で鎮圧する機会をうかがっていましたが、フランスやオスマン帝国との戦争が再燃するたびに、その機会は先送りされました。
シュマルカルデン戦争とアウクスブルク仮信条協定
1544年にフランスとの和平が成立し、オスマン帝国との間でも休戦協定が結ばれると、カールは、ついにドイツの宗教問題を武力で解決する好機が到来したと判断しました。彼は、プロテスタント陣営の有力諸侯の一人であったザクセン公モーリッツを巧みに味方に引き入れ、1546年、シュマルカルデン同盟との戦争を開始しました(シュマルカルデン戦争)。1547年のミュールベルクの戦いで、皇帝軍は決定的な勝利を収め、同盟の指導者であったザクセン選帝侯ヨハン=フリードリヒとヘッセン方伯フィリップを捕虜にしました。この勝利によって、カールは、ドイツにおける自らの権威の頂点を極めました。彼は、この軍事的な勝利を背景に、1548年の帝国議会で、「アウクスブルク仮信条協定」を帝国法として発布しました。これは、プロテスタントに対して、聖職者の結婚や、信徒が聖餐式でパンとぶどう酒の両方を受けることなど、いくつかの譲歩は認めるものの、基本的にはカトリックの教義と儀式を再び導入しようとする、妥協的な宗教規定でした。しかし、この協定は、カトリック側からもプロテスタント側からも、不満をもって受け止められ、帝国内に真の宗教的統一をもたらすことはできませんでした。
帝国の黄昏
ミュールベルクの戦いにおける輝かしい勝利は、カールの治世の最後の輝きであり、その後の数年間で、彼の壮大な帝国構想は、次々と崩壊していくことになります。
諸侯の反乱とパッサウ条約
カールが強権的に推し進めたアウクスブルク仮信条協定と、帝国内におけるスペインの影響力の増大は、ドイツの諸侯たちの間に、宗教的な理由だけでなく、彼らの伝統的な「ドイツの自由」が脅かされているという、強い反発を引き起こしました。かつてカールに味方してシュマルカルデン戦争の勝利に貢献したザクセン公モーリッツは、密かに他のプロテスタント諸侯や、カールの宿敵であるフランス王アンリ2世(フランソワ1世の息子)と手を結び、1552年、突如としてカールに対して反旗を翻しました。完全に油断していたカールは、インスブルックで危うく捕虜になるところを、アルプスを越えて辛くも逃れるという、屈辱的な敗走を経験しました。この「諸侯の反乱」によって、カールの軍事的・政治的権威は完全に失墜し、彼は、弟のフェルディナントに交渉を委ねざるを得なくなりました。その結果結ばれたパッサウ条約は、アウクスブルク仮信条協定を事実上撤回し、プロテスタントの信仰を容認するものであり、カールの宗教政策の完全な敗北を意味していました。
アウクスブルクの和議
パッサウ条約で示された妥協の精神は、1555年のアウクスブルク帝国議会で、最終的な法的解決へと至りました。この議会で定められた「アウクスブルクの和議」は、ドイツの宗教紛争を終結させるための、画期的な取り決めでした。その中心的な原則は、「クーイウス=レギオ、エイウス=レリギオ」、すなわち「その地の支配者が、その地の宗教を決定する」というものでした。これにより、帝国内の各領邦君主は、自らの領地において、カトリックとルター派のいずれかを選択する権利を認められました。これは、カールが生涯をかけて守ろうとしてきた、キリスト教世界の統一という理想の、完全な放棄を意味していました。帝国は、法的に、宗教的に分裂した存在として、存続していくことになったのです。カール自身は、この妥協を受け入れることができず、議会の交渉を弟フェルディナントに一任し、自らは姿を見せませんでした。
退位と隠棲=重荷からの解放
長年にわたる統治と、絶え間ない戦争、そして痛風をはじめとする数々の病に心身ともに疲れ果てたカールは、自らの理想が完全に潰えたことを悟り、その巨大な帝国を放棄することを決意しました。1555年から1556年にかけて、彼はブリュッセルで一連の感動的な退位式典を執り行いました。彼は、ネーデルラントの統治権とスペイン王位、そしてその広大な海外領土を、息子のフェリペ2世に譲りました。そして、神聖ローマ皇帝の位と、オーストリアのハプスブルク家領は、長年彼を支え続けてきた弟のフェルディナントに委ねられました。これにより、彼の巨大な帝国は、スペイン=ハプスブルク家と、オーストリア=ハプスブルク家という、二つの系統に分割されることになりました。すべての公務から解放されたカールは、スペインのユステにある修道院に隠棲し、祈りと、趣味であった時計いじりに没頭する、静かな晩年を送りました。そして1558年9月21日、マラリアが原因で、58年の波乱に満ちた生涯を閉じました。
中世最後の皇帝
カール5世の生涯は、壮大な野心と、それに対する過酷な現実との間の、悲劇的な闘争の物語でした。彼は、中世的な「普遍的キリスト教帝国」という、統一された理想を体現する、最後の皇帝でした。彼は、その理想の実現のために、誠実に、そして精力的に戦い続けましたが、彼が直面した現実は、もはや一つの権力、一つの信仰の下にヨーロッパを統合することが不可能な、新しい時代の到来を告げていました。ナショナリズムの台頭、宗教改革による信仰の多様化、そして分権的な帝国の構造は、すべてが彼の壮大な構想に逆らう、強力な遠心力として働きました。
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