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「人は信仰を通して神に救われる」とは わかりやすい世界史用語2555 |
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著作名:
ピアソラ
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「人は信仰を通して神に救われる」とは
「人は信仰を通じて神に救われる」というマルティン=ルターの言葉は、単なる神学的な一つの命題ではなく、プロテスタント宗教改革全体の心臓部であり、西洋キリスト教世界の歴史を根底から揺るがした革命的な宣言です。この教義は、ラテン語で「ソラ=フィデ」、すなわち「信仰のみによって」という標語で知られ、人が神の前にいかにして正しいと認められ、永遠の救いを得ることができるのかという、人間存在の根源的な問いに対する、ルターの画期的な答えでした。それは、何世紀にもわたってカトリック教会が築き上げてきた、善行、秘跡、そして教会の権威を介した複雑な救済のシステムに対する、聖書に基づいた根本的な挑戦状でした。ルターにとって、この発見は、長年にわたる深刻な霊的苦悩と、裁き主としての神への恐れからの解放を意味する、個人的で劇的な「塔の体験」と分かちがたく結びついています。彼は、人間が自らの努力や功績によって神の義の基準を満たすことは不可能であり、救いは、ただ神がキリストの十字架と復活を通して一方的に与えてくださる恵みを、信頼をもって受け入れること、すなわち「信仰」によってのみ与えられるという福音の真理を再発見したのです。この教えは、贖宥状の販売に象徴されるような、功績主義的な信仰のあり方を根底から覆し、神と個人との直接的で人格的な関係を回復させました。それは、信者一人ひとりを、教会の権威の仲介なしに、直接神の御前に立たせるものであり、個人の良心の自由という近代的な精神の礎を築くことにもつながりました。したがって、「信仰による義認」の教義を深く理解することは、ルター個人の思想の核心に触れるだけでなく、宗教改革がなぜそれほどまでに爆発的な力でヨーロッパ全土に広がったのか、そしてそれが現代に至るまで、私たちの信仰観、人間観、そして社会観にどのような影響を及ぼし続けているのかを解き明かすための、不可欠な鍵となります。
ルターの発見に至る道
「信仰による義認」の教義は、ルターの書斎における単なる知的な思索の産物ではなく、彼の全存在を懸けた、血のにじむような霊的探求の末に勝ち取られたものでした。
アンフェヒトング
若きルターは、アウグスティノ会の修道士として、極めて厳格で模範的な禁欲生活を送っていましたが、彼の内面は、決して平安ではありませんでした。彼は、「アンフェヒトング」と呼ばれる、神の怒りと裁きに対する激しい恐怖と霊的な苦悩に、絶えず苛まれていました。彼は、自らの心の奥底に渦巻く、妬み、怒り、欲望といった罪深い思いから逃れることができず、どんなに厳しい修行、断食、祈り、そして頻繁な告解を繰り返しても、聖なる神の御前に立つには、自分はあまりにも不完全で罪深い存在であるという絶望感から解放されませんでした。当時の神学が教えるように、人間は神の恵みに協力して善行を積むことで救いに備えるべきだとされていましたが、ルターにとっては、その「協力する」こと自体が、罪に汚された意志を持つ人間には不可能に思えたのです。彼は、神を愛するどころか、その恐ろしいほどの義の要求の前に、神を憎みさえしました。
「神の義」という壁
ルターの苦悩を特に深めたのが、使徒パウロのローマの信徒への手紙に出てくる「神の義」という言葉でした。彼は、この言葉を、神が罪人を裁き、罰するために用いる、積極的で能動的な義、すなわち「裁きの義」として理解していました。彼にとって、「神の義が福音の中に啓示されている」という聖句は、福音、すなわち「良き知らせ」であるはずのものが、実際には、神の恐ろしい裁きの基準を突きつける「悪しき知らせ」に他なりませんでした。彼は、この「神の義」という言葉を憎み、この聖句が聖書になければよいのにとさえ願うほど、追い詰められていました。この神学的な行き詰まりは、彼の霊的な苦悩の核心であり、彼が乗り越えなければならない巨大な壁でした。
塔の体験
この絶望的な状況に転機が訪れたのが、1515年から1519年の間のある時、ヴィッテンベルクの修道院の塔の書斎で起こったとされる、いわゆる「塔の体験」でした。ルターは、ローマの信徒への手紙1章17節の「福音には、神の義が啓示されている。その義は、信仰に始まり信仰に至らせる。『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりである」という聖句と、再び格闘していました。その時、彼は聖霊の光に照らされ、この「神の義」が、神が罪人を裁くための義ではなく、神が罪人に、信仰を通して、無償の賜物として与えてくださる義、すなわち「受動的な義」であるということを、突如として理解したのです。それは、人間が達成すべき目標ではなく、神から与えられるプレゼントでした。「義人は信仰によって生きる」という言葉は、信仰という行いによって義人になるという意味ではなく、信仰によって神から与えられた義を受け取ることによって、生きることができる、という意味だったのです。この発見は、ルターにとって、天国の門が大きく開かれるような体験でした。彼は、自分が探し求めていた救いが、自分自身の内側や行いの中にあるのではなく、完全に自分の外側、すなわち、キリストの功績の中にのみ存在することを知りました。この瞬間、彼の神学、そして彼の全生涯は、不可逆的に変えられたのです。
「信仰による義認」の神学的構造
ルターが発見した「信仰による義認」の教義は、いくつかの重要な神学的概念によって構成されており、それらは相互に緊密に結びついています。
神の義と人間の義
ルターは、神の前に人が義とされるプロセスを理解するために、「二つの義」という区別を用いました。一つは「人間の義」または「地上の義」であり、これは、社会生活における法律や道徳を守ることによって得られる、相対的な義です。私たちは、良き市民、良き親、良き労働者として、この義を追求すべきですが、この義は、神の絶対的な基準の前では、全く無価値であり、救いをもたらすことはできません。もう一つが「神の義」または「天上の義」であり、これこそが、私たちを神の前に義とする、唯一の義です。そして、この義は、私たち自身の内側から生じるものではなく、完全に私たちの「外側」から、すなわち天から、キリストを通して与えられる「外来の義」なのです。
法廷における義認
「義認」という言葉は、もともと法廷で用いられる法律用語です。ルターはこのイメージを用いて、義認のプロセスを説明しました。神は、聖なる裁判官であり、私たちは、その法廷に引き出された罪人です。私たちの罪は明白であり、本来であれば有罪判決を受け、永遠の罰を受けるしかありません。しかし、その法廷で、驚くべきことが起こります。神は、私たち自身の功績や善行に目を留めるのではなく、私たちの代理人であるイエス=キリストの完全な義と、彼の十字架上の贖いの死に目を留めます。そして、私たちが信仰によってキリストと結びついているのを見て、キリストの義を、あたかも私たち自身の義であるかのように見なし、私たちに「無罪」を宣告してくださるのです。重要なのは、この時点で私たちが倫理的に完全な人間になったわけではないということです。私たちは、依然として罪深い性質を内に抱えていますが、神の法廷においては、キリストのゆえに、すでに「義しい者」として扱われるのです。
信仰
では、このキリストの義を受け取るための手段とは何でしょうか。それこそが「信仰」です。ルターにとって、信仰とは、単に教会の教えを理性で受け入れることや、歴史上の事実を承認することではありません。それは、溺れる者が救命浮輪に必死でしがみつくように、神がキリストにおいて差し出してくださる救いの約束を、全存在をかけて信頼し、掴み取ることです。信仰は、空っぽの手のようなものであり、それ自体には何の価値もありませんが、神からの賜物であるキリストの義を受け取るための、唯一の器なのです。ルターは、信仰を、人間が生み出す「行い」と厳密に区別しました。もし信仰が、救いを得るための人間側の「善行」の一つであるならば、それは結局、功績主義に戻ってしまいます。そうではなく、信仰とは、人間側のあらゆる努力を放棄し、ただ神の恵みに完全に身を委ねるという、受動的な信頼の態度なのです。
恵みのみ
なぜ神は、罪深い人間を、ただ信じるだけで義としてくださるのでしょうか。その唯一の根拠は、神の「恵み」にあります。恵みとは、受け取るに値しない者に、一方的に与えられる、神の好意と愛のことです。救いは、人間の側に、いかなる価値や功績があったから与えられるのではなく、完全に神の側の、主権的で自由な決断によってのみ与えられます。もし救いに、ほんのわずかでも人間の行いが付け加えられる必要があるならば、それはもはや100パーセントの恵みではなくなってしまいます。ルターが「信仰のみによって」と強調したとき、彼の真意は、救いの原因が「恵みのみ」にあることを守るためでした。信仰は、恵みを受け取る手段ではありますが、救いの原因そのものではないのです。
キリストのみ
神の恵みが、具体的に私たちに与えられる唯一の通路が、イエス=キリストです。キリストの生涯、特に彼の十字架上の死と復活こそが、私たちの義認の客観的な土台です。キリストは、十字架の上で、私たちが受けるべきであった神の罰をすべて身代わりに引き受け、神の義の要求を完全に満たしてくださいました。彼の完全な生涯の功績と、彼の贖罪の死が、神が私たちに与えてくださる「義」の内容そのものです。したがって、「信仰のみ」という教えは、必然的に「キリストのみ」という教えと結びつきます。私たちは、聖母マリアや聖人たちの執り成しや、教会の秘跡の力に頼るのではなく、ただ唯一の仲介者であるイエス=キリストを通してのみ、神の御前に出ることができるのです。
義認と聖化
「信仰によってのみ義とされる」という教えは、しばしば、「それでは、クリスチャンはどんな生き方をしてもよいのか」という倫理的な無関心や放縦につながるのではないか、という批判にさらされてきました。ルター自身もこの危険性を認識しており、この問いに答えるために、「義認」と「聖化」の関係を明確にしました。
シムル=ユストゥス=エト=ペッカトル
ルターは、地上におけるクリスチャンの状態を、「シムル=ユストゥス=エト=ペッカトル」という有名なラテン語の言葉で表現しました。これは、「義にして同時に罪人」という意味です。信仰によってキリストと結ばれた信者は、神の御前では、キリストの義のゆえに、すでに100パーセント義しい者として見なされています(これが義認です)。しかし、その信者の実存的な経験においては、依然として古い罪の性質が残っており、日々、罪深い思いや行いと戦い続けなければならない存在です(これが罪人としての側面です)。クリスチャンは、天国に行くまで、この二つの側面を併せ持つ、緊張関係の中を生きるのです。この理解は、クリスチャンを、霊的な傲慢と絶望の両方から守ります。私たちは、自分の内側を見れば、自分が依然として罪人であることを認めざるを得ませんが、自分の外側にあるキリストを見上げれば、自分がすでに完全に義とされていることを確信できるのです。
義認から流れる新しい人生
ルターは、義認と善行を明確に区別しましたが、両者を分離したわけではありません。彼は、真の信仰は、必ず「善行」という実を結ぶと主張しました。ただし、その順序が決定的に重要です。私たちは、善行を行うことによって救われるのではなく、救われたからこそ、善行を行うのです。義認は、いわば木の根であり、聖化(日々の生活において、聖霊の助けによって、よりキリストに似た者へと変えられていくプロセス)と善行は、その根から養分を得て自然に生えてくる幹や枝や実にたとえられます。ルターは、『キリスト者の自由』という著作の中で、「善い人が善い行いをするのであって、善い行いが善い人を作るのではない」と述べています。信仰によって神に愛され、受け入れられているという確信から生まれる感謝と喜びこそが、クリスチャンが隣人に仕え、善い行いをするための、唯一の正しい動機なのです。救いの確信がないままに行う善行は、神の歓心を買おうとする、自己中心的な取引に過ぎませんが、義認された者が行う善行は、神への愛と隣人への愛から自由に流れ出る、真の奉仕となります。
解放の福音
マルティン=ルターの「人は信仰を通して神に救われる」という教義は、中世末期の功績主義的な宗教の重荷の下で呻吟していたヨーロッパのキリスト教世界に、解放の福音として響き渡りました。それは、救いを、人間の不確かな努力や、教会の気まぐれな権威から解放し、神の揺るぎない約束と、キリストの完成された御業という、確固とした土台の上に置き直しました。この教えは、教皇や聖職者といった特権的な階級を介さずに、すべての信者が、ただ信仰によって、直接神の恵みにあずかることができるという「全信徒祭司」の思想への道を開きました。それは、個人の内面的な確信と良心を、外面的な権威の上に置くという、近代的な個人主義の精神の源流の一つともなりました。もちろん、この教義は、キリスト教世界の分裂という悲劇的な結果も招きましたが、それは、福音が持つ根源的な力が、既存の秩序や権威と衝突せざるを得なかったことの証でもあります。ルターが再発見したこのメッセージは、人が自らの力では決して乗り越えることのできない罪と死の問題に対して、神ご自身が、キリストにおいて、完全な解決を与えてくださったという、時代を超えた「良き知らせ」です。それは、私たちを、自分自身を義としようとするあらゆる試みから解放し、ただ神の無償の愛に安らぎ、その愛に応えて生きるという、真の自由へと招き続けているのです。
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