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ペルシア語とは わかりやすい世界史用語2377 |
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著作名:
ピアソラ
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ペルシア語とは
インド亜大陸におけるペルシア語の歴史は、11世紀にガズナ朝のスルタン、マフムードが北西インドに侵攻し、征服した地域でペルシア化政策を推進したことに始まります。 これに続くデリー・スルターン朝(1206年~1526年)の時代を通じて、ペルシア語はインドの地に深く根を下ろしていきました。 この時期、中央アジア出身でテュルク諸語を母語とするペルシア化されたテュルク系の支配者たちが、ペルシア語を庇護し、その文化の発展に貢献しました。
1526年、中央アジアのフェルガナ地方出身のバーブルがデリー・スルターン朝を破り、ムガル帝国を建国しました。 バーブルはティムール朝の血を引く君主であり、彼自身もチャガタイ・テュルク語を母語としていましたが、ペルシア文化にも深く通じていました。 バーブルとその後のムガル皇帝たちは、ペルシア語を帝国の公用語として採用し、その地位を揺るぎないものにしました。 この決定は、ムガル帝国が広大な領土と多様な言語を持つ人々を統治するための、極めて重要な政治的・文化的選択でした。ペルシア語は、特定の民族や宗派に限定されない普遍的な性格を持ち、エリート層の共通言語として機能するのに適していたのです。
ムガル帝国の支配者たちは、自らをより大きなイスラム世界の、特にペルシアのサファヴィー朝と並び立つ存在と位置づけていました。 ペルシア語を採用することは、帝国の威信を高め、外交関係を円滑にする上でも有利に働きました。 こうして、ムガル帝国はインド・ペルシア文化の黄金時代を築き上げ、ペルシア語はその中心的な役割を担うことになったのです。
公用語としてのペルシア語:行政と司法の言語
ムガル帝国において、ペルシア語は行政、司法、外交のあらゆる場面で用いられる公用語でした。 皇帝の勅令(ファルマーン)から、宮廷の議事録、公式な書簡、歴史記録に至るまで、すべてがペルシア語で記されました。 この言語の統一は、広大で言語的に多様な帝国を効率的に統治するための基盤となりました。
アクバル帝(在位1556年~1605年)の治世において、ペルシア語の公用語としての地位はさらに強化されました。 彼は、帝国の統治システム全体をペルシア語化し、それまでテュルク語を話していた王家でさえもペルシア語へと移行させました。 この政策により、ペルシア語の知識は都市部だけでなく農村部にまで広がり、行政官僚や書記を目指す人々にとって必須のスキルとなりました。 財務部門で働くヒンドゥー教徒たちは、特にペルシア語の文書作成に長けており、彼らが書いた文書は教育機関で見本として使われるほどでした。
ムガル帝国の税収制度も、ペルシア語の用語に大きく依拠していました。 これは、ムガル帝国の行政システムが、その後のマラーター同盟のような後継国家にも引き継がれたことを示唆しています。 裁判所においてもペルシア語が使用され、法的な文書や判決もこの言語で記録されました。 このように、ペルシア語はムガル帝国の隅々まで浸透し、帝国の統治機構を支える神経系のような役割を果たしていたのです。
文化と教育の言語:インド・ペルシア文化の隆盛
ムガル帝国時代、ペルシア語は単なる行政言語にとどまらず、文化、教育、そして社会的威信の象徴でした。 ムガル宮廷は、ペルシア語の詩人、学者、芸術家たちを積極的に庇護し、インド亜大陸はペルシア文学の一大中心地となりました。 16世紀から17世紀にかけては、ペルシア語文学の創作の中心が、その発祥の地であるイランからインドへ移ったとさえ言われています。
ムガル皇帝自身も文学の才能に恵まれていることが多く、初代皇帝バーブルはペルシア語とテュルク語の両方で詩作を行いました。 彼の自伝である『バーブル・ナーマ』は、当初チャガタイ・テュルク語で書かれましたが、後にペルシア語に翻訳され、広く読まれました。 アクバル帝の時代には、文学活動が頂点に達し、アブル・ファズルの『アクバル・ナーマ』や『アーイーネ・アクバリー』といった歴史書や、多くの優れた詩が生まれました。
教育の分野でもペルシア語は中心的な役割を担いました。 イスラム教の教育機関であるマクタブ(初等学校)やマドラサ(高等学院)では、アラビア語とともにペルシア語が主要な教授言語でした。 アクバル帝は、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の文化融合を目指し、翻訳局を設置しました。 ここでは、『マハーバーラタ』(『ラズムナーマ』として翻訳)や『ラーマーヤナ』、『アタルヴァ・ヴェーダ』といったサンスクリット語の膨大な文献がペルシア語に翻訳されました。 これにより、インド古来の知識がペルシア語話者の世界に紹介され、文化的な交流が促進されたのです。
インド・ペルシア文学の発展と「インド様式」
ムガル帝国時代のインドでは、ペルシア語文学が独自の発展を遂げました。 特に17世紀、ジャハーンギール帝(在位1605年~1627年)とシャー・ジャハーン帝(在位1628年~1658年)の治世には、インドの風土や場所性に根差した新しい文学が生まれました。 宮廷詩人たちは、都市の喧騒から離れ、田園風景の魅力、特にカシミール地方の美しさを詩に詠みました。 カシミールは「地上の楽園」として称賛され、このテーマはペルシア詩の一つのジャンルとして確立されるほどでした。
この時期、ペルシア語の詩には「新鮮な表現」を意味する「ターザ・グーイー」と呼ばれる新しいスタイルが生まれ、その流行はペルシア語圏全体に広がりました。 インドで生み出された詩やテクストは、17世紀のサファヴィー朝イランやオスマン帝国、中央アジアの読者からも求められるほどの人気を博しました。 当初はイランからの移住者が文学界を主導していましたが、シャー・ジャハーンの時代になると、ヒンドゥー教徒を含むインド生まれの詩人たちも重要な役割を果たすようになりました。
インドで発展したこの独特なペルシア語文学のスタイルは、後に「サブケ・ヒンディー」(インド様式)として知られるようになります。この様式は、複雑な比喩、哲学的な思索、そして新しい語彙の創造を特徴としていました。インドの文化的土壌で育まれたこの文学は、ペルシア語の表現可能性を大きく広げ、その豊かさを増すことに貢献したのです。
ペルシア語の遺産:インド諸語への影響
ムガル帝国時代を通じて、ペルシア語はインド亜大陸の諸言語に計り知れない影響を与えました。 約800年にわたり、威信ある言語、そしてリンガ・フランカ(共通語)として機能した結果、膨大な数のペルシア語の語彙がインド・アーリア語派の言語に取り入れられました。 その影響は、地理的に北西に行くほど強くなる傾向が見られ、パンジャーブ語、シンド語、カシミール語、グジャラート語では特に顕著です。
最も注目すべきは、ヒンドゥスターニー語の形成におけるペルシア語の役割です。 ヒンドゥスターニー語は、デリー周辺で話されていたカリーボリー方言を基盤に、ペルシア語の要素が融合して生まれた共通語です。 このヒンドゥスターニー語から、ペルシア・アラビア文字で書かれ、ペルシア語の語彙を多く含むウルドゥー語と、サンスクリット語化されデーヴァナーガリー文字で書かれるヒンディー語という二つの公式な言語が発展しました。 日常会話レベルのヒンドゥスターニー語においても、ペルシア語の影響は色濃く残っており、多くのペルシア語由来の単語がヒンディー語話者とウルドゥー語話者の双方によって共通して使われています。
ペルシア語の影響は語彙にとどまりません。文法や慣用句、さらには文学的な表現方法に至るまで、その影響は多岐にわたります。ムガル帝国の行政用語や法廷用語の多くがペルシア語由来であり、それらは形を変えながらも、インドの様々な言語の中に生き続けています。
ペルシア語の衰退とその後
ムガル帝国の衰退とともに、ペルシア語の地位も徐々に低下していきました。 1707年のアウラングゼーブ帝の死後、ムガル宮廷ではウルドゥー語がペルシア語に取って代わるようになりました。 18世紀から19世紀にかけてイギリスの政治的権力が強まると、英語の影響力が増大します。
最終的に、1837年、イギリス東インド会社はペルシア語の公用語としての地位を廃止し、英語に置き換えました。 この決定は、インドにおけるペルシア語の800年にわたる時代の終わりを告げるものでした。行政や司法の場からペルシア語が姿を消すと、その学習意欲も次第に薄れていきました。
しかし、ペルシア語がインド亜大陸に残した文化的・言語的な遺産は、決して消えることはありませんでした。 ウルドゥー語やヒンディー語をはじめとする多くの現代インド諸語の中に、その語彙や表現が深く刻み込まれています。
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