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シク教徒の反乱とは わかりやすい世界史用語2386
著作名: ピアソラ
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シク教徒の反乱とは

ムガル帝国とシク教徒の間の紛争は、17世紀から18世紀にかけてインド亜大陸の歴史における重要な時代を画する一連の深刻な対立でした。これらの戦争は、当時の宗教的、文化的、政治的な構造に深く根ざしており、ムガル帝国の圧政的な政策に対するシク教徒の抵抗によって特徴づけられていました。この闘争は、シク教の歴史の方向性を形作っただけでなく、地域に永続的な影響を残しました。
シク教とムガル帝国の関係は、初代グル・ナーナクの時代から複雑な様相を呈していました。当初、ムガル帝国の創始者バーブルとその孫アクバルの時代には、比較的寛容な政策が取られ、シク教は平和的に発展しました。 しかし、アクバルの後継者であるジャハーンギール帝の時代になると、シク教の急速な拡大が政治的脅威と見なされるようになり、関係は悪化の一途をたどります。 1606年、第5代グル・アルジャン・デヴがジャハーンギール帝の命令により殉教した事件は、シク教徒のコミュニティにとって大きな転換点となりました。 この出来事をきっかけに、シク教は平和的な宗教団体から、信仰と共同体を守るために武装する覚悟を持った集団へと変貌を遂げたのです。
第6代グル・ハルゴービンドは、この弾圧に応える形でシク教徒の軍事化を推し進めました。彼は「ミーリー・ピーリー」(世俗的権威と精神的権威)の概念を導入し、シク教徒が自らの信仰と共同体を守るために備えなければならないことを強調しました。 グル・ハルゴービンドは、精神的権力と世俗的権力を象徴する2本の剣を身につけ、この変化を象徴しました。 彼の時代には、アムリトサルでの戦い(1634年)やカルタールプルでの戦い(1635年)など、ムガル軍との武力衝突が発生しました。
その後、第7代グル・ハル・ラーイは、シャー・ジャハーンの息子たちの後継者争いにおいて中立的な立場を維持しようとしましたが、ムガル帝国との緊張関係は続きました。 そして、第9代グル・テグ・バハードゥルの時代に、対立は決定的なものとなります。



アウラングゼーブの宗教政策とグル・テグ・バハードゥルの殉教

17世紀後半、ムガル帝国の皇帝アウラングゼーブは、厳格なイスラム教に基づく統治を推し進め、非イスラム教徒に対する不寛容な政策を次々と打ち出しました。 彼は、アクバル帝によって廃止されていたジズヤ(非イスラム教徒に課される人頭税)を復活させ、ヒンドゥー教寺院の破壊を命じるなど、多くの人々の反感を買いました。
このような状況下で、カシミールのパンディット(ヒンドゥー教徒の学者)たちが、強制的なイスラム教への改宗から救済を求めて、第9代グル・テグ・バハードゥルの元を訪れました。グル・テグ・バハードゥルは彼らの訴えを受け入れ、信教の自由を守るために立ち上がりました。 彼の行動はアウラングゼーブの怒りを買い、1675年、グル・テグ・バハードゥルはデリーで捕らえられ、イスラム教への改宗を拒否したために処刑されました。
この殉教は、シク教徒のコミュニティに計り知れない衝撃と憤りをもたらしました。 父の死を目の当たりにした第10代グル・ゴービンド・シングは、シク教徒を単なる宗教共同体から、不正と戦うための武装集団へと変革させることを決意します。 グル・テグ・バハードゥルの殉教は、シク教徒の抵抗運動を決定的に方向づけ、ムガル帝国との全面的な対立へと導く引き金となったのです。
グル・ゴービンド・シングとカールサーの創設

父グル・テグ・バハードゥルの殉教を受け、第10代グル・ゴービンド・シングは、シク教徒が自らの信仰と尊厳を守るためには、強力な軍事組織が必要であると確信しました。 彼はシク教徒を「カールサー」と呼ばれる、洗礼を受けた戦士の共同体へと再編成することを決意します。
1699年3月30日、グル・ゴービンド・シングはアナンドプル・サーヒブにシク教徒を招集し、歴史的な集会を開きました。 彼は集まった群衆の前で剣を抜き、信仰のために命を捧げる覚悟のある者はいないかと問いかけました。この呼びかけに応じた5人の信者(パンジ・ピアーレー、五人の敬愛される者)が、カールサーの最初のメンバーとなりました。彼らはアムリットと呼ばれる聖なる水を飲み、洗礼を受けました。これにより、カースト制度は否定され、すべてのカールサーは平等な同胞として結ばれました。男性は「シング」(ライオン)、女性は「カウル」(王女)という姓を名乗ることになりました。
カールサーの創設は、シク教の歴史における画期的な出来事でした。 それは、シク教徒を単なる信者の集まりから、規律と高い士気を持つ軍事的な同胞団へと変貌させました。 カールサーは、信仰を守り、抑圧された人々を保護するという使命を帯びていました。 この新しい組織は、ムガル帝国の支配に対するシク教徒の抵抗運動の中核を担うことになります。
カールサーの創設後、グル・ゴービンド・シングはアナンドプルを拠点とし、その影響力を拡大していきました。しかし、彼の力の増大は、周辺の丘陵地帯のラージャ(ヒンドゥー教徒の王侯)たちやムガル当局の警戒心を強めることになりました。 彼らはグル・ゴービンド・シングの勢力を脅威とみなし、連合して攻撃を仕掛けてきます。
ムガル帝国との激化する戦い:アナンドプルの包囲とその後

カールサーの創設により、グル・ゴービンド・シングの指導下のシク教徒は、ムガル帝国とその同盟者である丘陵地帯のラージャたちにとって、看過できない脅威となりました。 1700年から1705年にかけて、シク教徒の拠点であるアナンドプル・サーヒブは、ムガル軍とラージャたちの連合軍による度重なる攻撃にさらされました。
特に1704年から1705年にかけての長期にわたる包囲戦は熾烈を極めました。 数で圧倒的に劣るシク教徒は、食料や物資が尽きる過酷な状況下で、驚くべき勇気と忍耐力をもって戦い抜きました。 しかし、長引く包囲により状況は絶望的となり、グル・ゴービンド・シングは苦渋の決断の末、アナンドプルを離れることを決意します。
撤退の途中、シク教徒は追撃を受け、多くの犠牲者を出しました。この混乱の中で、グル・ゴービンド・シングの母と二人の幼い息子たち(サーヒブザーダー・ゾーラーワル・シングとサーヒブザーダー・ファテープ・シング)が捕らえられてしまいます。彼らはシルヒンドの知事ワズィール・カーンの前に連行され、イスラム教への改宗を迫られました。しかし、わずか9歳と7歳の兄弟は、毅然として改宗を拒否したため、生きたまま壁に塗り込められて処刑されました。 この悲劇は、シク教徒の心に消えることのない傷跡を残し、ムガル支配への憎しみを一層燃え上がらせることになります。
さらに、チャムカウルの戦いでは、グル・ゴービンド・シングはわずかな手勢で数万のムガル軍と対峙し、二人の年長の息子たち(サーヒブザーダー・アジート・シングとサーヒブザーダー・ジュジャール・シング)もこの戦いで命を落としました。グル自身は辛くも脱出に成功しましたが、家族のほとんどを失うという大きな犠牲を払いました。
その後、グル・ゴービンド・シングは南へと向かい、ムクツァルの戦いでムガル軍を破り、再びカールサーを再編成しました。 1707年にアウラングゼーブが亡くなると、後継者争いが勃発します。グル・ゴービンド・シングは、アウラングゼーブの息子であるバハードゥル・シャー1世と会見し、和解の兆しが見え始めました。 しかし、1708年、グル・ゴービンド・シングは、シルヒンドの知事ワズィール・カーンが送ったとされる刺客によって暗殺されてしまいます。 彼の死は、シク教徒の抵抗運動に新たな指導者を求めることになりました。
バンダ・シング・バハードゥルの蜂起と最初のシク教国家の樹立

グル・ゴービンド・シングの死後、シク教徒の抵抗運動の指導者として現れたのが、バンダ・シング・バハードゥルでした。 彼はもともとラッチマン・デーヴという名の隠者でしたが、1708年にグル・ゴービンド・シングと出会い、その弟子となりました。 グルは彼の指導力を見抜き、ムガル帝国に対する闘争を率いるよう命じました。 グル自身の剣や矢などの象徴的な武具を授けられ、パンジャーブ地方の解放という使命を託されたバンダ・シングは、北インドへと向かいました。
パンジャーブに到着したバンダ・シングは、グルの名の下にシク教徒を結集させ、瞬く間に強力な軍隊を組織しました。 彼の軍には、長年ムガル帝国の圧政に苦しんできた農民や下層階級の人々が多数参加しました。 バンダ・シングの呼びかけは、宗教的な枠を超え、社会経済的な平等を求める人々にも響いたのです。
1709年、バンダ・シングの軍は、グル・テグ・バハードゥルの処刑に関与した役人がいた都市サマーナーを攻撃し、これを陥落させました。 これは、彼の軍事行動の最初の大きな成功であり、シク教徒の士気を大いに高めました。 続いて、サダーウラーの戦いでも勝利を収め、その勢いは止まりませんでした。
そして1710年5月、バンダ・シングは、グル・ゴービンド・シングの幼い息子たちが惨殺された因縁の地、シルヒンドへと進軍します。 チャッパル・チリの戦いで、シク軍はワズィール・カーン率いるムガル軍と激突し、圧倒的な勝利を収めました。 この戦いでワズィール・カーンは討ち取られ、シク教徒は長年の恨みを晴らしました。
シルヒンドの占領後、バンダ・シングはサトレジ川とヤムナー川に挟まれた地域を支配下に置き、事実上の独立国家を樹立しました。 彼は、グル・ナーナクとグル・ゴービンド・シングの名を刻んだ独自の硬貨を発行し、新しい暦を制定するなど、主権者としての行動を開始しました。 彼の統治下で最も特筆すべきは、ザミーンダーリー制度(封建的な地主制度)の廃止です。 彼は広大な土地を大地主から取り上げ、実際に土地を耕す農民たちに分配し、所有権を与えました。 この画期的な土地改革は、封建的な抑圧からの解放を意味し、多くの農民から熱狂的な支持を得ました。
バンダ・シング・バハードゥルの蜂起は、単なるムガル帝国への反乱にとどまらず、社会正義を実現しようとする革命的な運動でもありました。 彼の指導の下、シク教徒は初めてパンジャーブに独自の政治的権力を確立し、その後のシク教国家建設の礎を築いたのです。
ムガル帝国の反撃とバンダ・シング・バハードゥルの殉教

バンダ・シング・バハードゥルによるシク教国家の樹立と急進的な改革は、ムガル帝国にとって深刻な脅威でした。 皇帝バハードゥル・シャー1世は、この反乱を鎮圧するために自ら大軍を率いてパンジャーブへ遠征しました。 帝国軍の圧倒的な兵力の前に、シク軍は徐々に追い詰められていきます。シク教徒は平野部からヒマラヤの丘陵地帯へと後退を余儀なくされました。
バハードゥル・シャー1世の死後も、ムガル帝国のシク教徒に対する攻撃は続きました。1715年、ファッルフシヤル帝の治世下で、ラホール総督アブドゥス・サマド・カーンが指揮する大軍が、バンダ・シングとその軍をグルダース・ナングルの村に追い込み、砦を包囲しました。
この包囲戦は8ヶ月にも及び、シク教徒は食料が尽き、飢餓に苦しむという絶望的な状況下で英雄的に戦い続けました。 しかし、1715年12月7日、ついに砦は陥落し、バンダ・シングは数百人の部下と共に捕虜となりました。
捕らえられたバンダ・シングと彼の部下たちは、デリーへと連行されました。 彼らはそこで見せしめとして、イスラム教への改宗を迫られましたが、誰もがそれを拒否しました。 1716年6月、バンダ・シングは、息子の目の前で拷問を受け、赤く熱した鉄の棒で肉を引き裂かれるという残虐な方法で処刑されました。 彼の殉教は、シク教徒の抵抗運動に大きな打撃を与えましたが、同時に彼の不屈の精神は後世のシク教徒にとって伝説となり、抵抗の象徴として語り継がれることになります。
バンダ・シングの死後、ムガル当局はシク教徒に対する徹底的な弾圧を開始しました。 シク教徒であると発覚した者は見つけ次第処刑され、彼らの首には懸賞金がかけられました。 この「暗黒時代」において、多くのシク教徒が命を落とし、生き残った者たちはジャングルや山岳地帯に身を隠し、ゲリラ戦術で抵抗を続けることを余儀なくされました。 この過酷な時代は、シク教徒の共同体にとって最大の試練期となりましたが、彼らの抵抗の精神が完全に潰えることはありませんでした。
受難の時代とゲリラ戦:ジャッターとミスルの形成

バンダ・シング・バハードゥルの殉教後、シク教徒はムガル帝国による前例のない規模の迫害に直面しました。 ラホール総督ザカリーヤー・カーンをはじめとするムガル当局は、シク教徒の根絶を目指し、彼らの首に懸賞金をかけるなど、残忍な弾圧政策を推し進めました。 この厳しい弾圧を逃れるため、多くのシク教徒はパンジャーブの平野部を離れ、森や丘陵地帯に隠れ住むことを余儀なくされました。
しかし、このような逆境の中にあっても、シク教徒の抵抗の炎は消えませんでした。彼らは「ジャッター」と呼ばれる小規模な武装集団を組織し、ゲリラ戦術を用いてムガル支配に抵抗し続けました。 これらのジャッターは、高い機動力を活かして神出鬼没に現れ、ムガル軍の補給部隊を襲撃したり、政府の施設を攻撃したりしました。 彼らは土地から食料を調達し、厳しい環境の中で生き延びながら、信仰と共同体を守るために戦いました。
当初、これらのジャッターはそれぞれ独立して活動していましたが、共通の敵であるムガル帝国に対抗するため、次第に連携する必要性を認識するようになります。 特に、バイサキー祭やディワーリー祭といった宗教的な祝祭の際には、アムリトサルに集結し、共同での行動計画を協議するのが慣例となりました。
1733年、武力による鎮圧が困難であると判断したザカリーヤー・カーンは、一時的にシク教徒との和解を図り、彼らの指導者に「ナワーブ」の称号と領地(ジャギール)を与えることを提案しました。 シク教徒はこの提案を受け入れ、カプール・シングがナワーブの称号を授与されました。 この一時的な和平期間を利用して、カプール・シングは分散していたジャッターをより大きな組織へと統合しようと試みます。
1734年、彼はシク教徒の戦士たちを年齢に応じて二つの主要な部隊に分けました。40歳以上のベテラン戦士で構成される「ブッダ・ダル」(古参軍)と、40歳未満の若い戦士で構成される「タルナー・ダル」(青年軍)です。 この組織化は、後の「ダル・カールサー」の結成に向けた重要な一歩となりました。
やがて、ムガル帝国の弱体化と、アフガニスタンからのアフマド・シャー・ドゥッラーニーの侵攻という新たな脅威に直面する中で、これらのジャッターはさらに発展し、「ミスル」と呼ばれる12の独立した軍事・政治連合体へと進化していきます。 各ミスルは特定の地域を支配し、独自の首長(サルダール)と旗を持っていましたが、共通の信仰と目的の下に緩やかに結びついていました。 このミスル体制が、18世紀後半のパンジャーブにおけるシク教徒の勢力拡大の原動力となったのです。
ダル・カールサーの結成とシク教徒の組織的抵抗

18世紀半ば、ムガル帝国の支配力がパンジャーブで著しく低下し、さらに西からはアフマド・シャー・ドゥッラーニー(アブダーリー)によるアフガン勢力の侵攻が繰り返されるという混乱した状況が生まれました。 この権力の真空状態の中で、シク教徒は自らの生存と独立をかけて、より強固な組織的抵抗体制を構築する必要に迫られました。
この要求に応える形で、1748年のバイサキー祭の日に、アムリトサルに集結したシク教徒の指導者たちは、「サルバット・カールサー」(全カールサー会議)を開催しました。 この会議で、ナワーブ・カプール・シングの提唱により、当時存在した約65のジャッター(武装集団)を11の主要な部隊に再編成し、それらを「ダル・カールサー」という統一された軍事組織の下に統合するという歴史的な決議(グルマター)が採択されました。 後に12番目のミスルも加わります。この連合体が「ミスル」として知られるようになります。
ダル・カールサーは、各ミスルの連合軍であり、その最高司令官にはジャッサー・シング・アフルワーリーアーが任命されました。 各ミスルはそれぞれの首長(サルダール)に率いられ、自治権を維持していましたが、共通の敵に対する軍事行動や重要な政治的決定に際しては、ダル・カールサーとして一体となって行動しました。 ダル・カールサーは主に騎兵部隊で構成され、ゲリラ戦術を得意としました。
ダル・カールサーの結成は、シク教徒の歴史における画期的な出来事でした。 これにより、分散していたシク教徒の軍事力が一つの指揮系統の下に統合され、ムガル帝国やアフガン勢力といった強大な敵に対抗するための組織的な力が飛躍的に向上しました。 ダル・カールサーは、シク教徒の共同体を内外の脅威から守るための強力な防衛機構として機能したのです。
また、ダル・カールサーは軍事的な役割だけでなく、政治的な役割も担いました。サルバット・カールサーは、シク教徒全体の最高意思決定機関として機能し、アムリトサルのアカール・タクト(シク教の最高の精神的・世俗的権威の座)がその中心となりました。
この新しい組織体制の下、シク教徒はムガル帝国やアフガン勢力との戦いを有利に進めていきます。彼らは「ラーキー」と呼ばれる保護税制度を導入し、村々を外部の攻撃から守る見返りに税を徴収することで、支配地域の行政と財政の基盤を築きました。 ダル・カールサーの結成は、シク教徒が単なる抵抗勢力から、パンジャーブにおける支配的な政治・軍事勢力へと転換する上で決定的な役割を果たしました。
アフガン勢力との抗争とパンジャーブの支配権確立

18世紀半ば、ムガル帝国の衰退に乗じて、アフガニスタンのドゥッラーニー朝を建国したアフマド・シャー・ドゥッラーニー(アブダーリー)が、インドへの侵攻を繰り返しました。 彼の目的はインドの富を略奪し、パンジャーブ地方を自らの支配下に置くことでした。これにより、パンジャーブの支配権を巡る争いは、ムガル帝国対シク教徒という構図から、アフガン勢力、ムガル残存勢力、そしてシク教徒による三つ巴の複雑な様相を呈するようになります。
アフマド・シャーは1748年から1767年にかけて、計9回にわたりパンジャーブに侵攻しました。 これらの侵攻は、シク教徒にとって過酷な試練となりました。特に1762年の侵攻では、「ワッダー・ガルーガーラー」(大虐殺)として知られる悲劇が起こりました。 この戦いで、アフガン軍は数万人のシク教徒を、女性や子供を含めて無差別に殺害しました。 これはシク教徒の歴史上、最大の受難の一つとして記憶されています。
しかし、このような大虐殺にもかかわらず、シク教徒の抵抗精神はくじけませんでした。 ダル・カールサーに組織された彼らは、不屈の闘志でアフガン軍に立ち向かいました。彼らはゲリラ戦術を駆使し、アフガン軍の補給路を断ち、撤退する部隊を執拗に追撃しました。アフマド・シャーがパンジャーブを占領し、デリーまで進軍して略奪を行った後、アフガニスタンへ引き上げるたびに、シク教徒は即座に失地を回復し、支配領域を拡大していきました。
アフガン勢力との戦いにおいて、シク教徒は驚異的な回復力と粘り強さを示しました。大虐殺からわずか数ヶ月後には、ダル・カールサーは再び勢力を結集し、アフマド・シャーがシルヒンドに残した総督を破り、1762年10月にはアムリトサルでアフマド・シャー自身が率いる軍を打ち負かすという勝利を収めました。
1764年1月、ダル・カールサーは決定的な勝利を収め、因縁の地シルヒンドを完全に占領しました。 これにより、パンジャーブにおけるムガル帝国とアフガン勢力の支配力は大きく後退します。シク教徒は、次々とパンジャーブの主要都市を解放していきました。1765年には、シク教のミスル連合がラホールを占領し、独自の硬貨を発行して、パンジャーブにおける主権を宣言しました。
アフマド・シャー・ドゥッラーニーの度重なる侵攻は、結果的にパンジャーブにおけるムガル帝国の権威を完全に破壊し、シク教徒がその権力の空白を埋める機会を与えることになりました。 18世紀後半までに、シク教徒は外国勢力をパンジャーブから駆逐し、北西からの侵略者の通り道を永久に閉ざすことに成功しました。 各ミスルはパンジャーブの各地に領土を確立し、独立した支配者として君臨するようになります。こうして、アウラングゼーブの死から約半世紀を経て、シク教徒は長年の闘争の末に、ついにパンジャーブの支配者となったのです。
ミスル間の抗争からシク王国の樹立へ

18世紀後半、ムガル帝国とアフガン勢力という共通の敵をパンジャーブから駆逐した後、シク教徒の12のミスルは、それぞれが独立した領主として地域を支配するようになりました。 しかし、外部からの脅威が薄れると、ミスル間の内部対立や権力争いが表面化し始めます。
各ミスルのサルダール(首長)たちは、自らの領土と影響力を拡大しようと、互いに同盟を結んだり、敵対したりを繰り返しました。 カーンハイヤー・ミスルのサダー・カウルがバンギー・ミスルの力を削いだり、ラームガリヤー・ミスルと他のミスル連合が対立したりするなど、パンジャーブは内戦状態に陥りました。 このような内紛は、シク教徒全体の力を削ぎ、統一国家の形成を妨げる要因となっていました。
この混乱した状況の中から、一人の傑出した指導者が現れます。それが、スケールチャキアー・ミスルの首長であったランジート・シングです。 彼は卓越した軍事的才能と政治的手腕を発揮し、18世紀末から19世紀初頭にかけて、分裂していたミスルを次々と統合していくことに成功します。
1799年、ランジート・シングは、当時3つのミスルによって共同統治されていたパンジャーブの中心都市ラホールを占領しました。 この出来事は、シク教の歴史における新たな時代の幕開けを告げる象徴的なものでした。 1801年4月12日、彼はグル・ナーナクの子孫によって正式に「パンジャーブのマハーラージャ(大王)」として戴冠され、シク王国の建国を宣言しました。
ランジート・シングは、戦略的な同盟、軍事征服、そして巧みな外交を駆使して、すべてのミスルを自らの旗の下に統一しました。 彼は、アフガン勢力をパンジャーブから完全に駆逐し、カシミール、ムルターン、ペシャーワルといった地域も王国の版図に加えました。 さらに、ヨーロッパ式の訓練を取り入れた近代的で強力な軍隊「カールサー軍」を創設し、王国の軍事力を磐石なものにしました。
ランジート・シングの治世下で、シク王国は平和と繁栄の時代を迎えました。 彼は宗教的に寛容な政策をとり、シク教徒だけでなく、イスラム教徒やヒンドゥー教徒も政府や軍の要職に登用しました。 彼の宮廷は「ラホール・ダルバール」として知られ、多様な背景を持つ人々が集う多文化的な空間でした。
アウラングゼーブの迫害に端を発したシク教徒の長い抵抗の歴史は、バンダ・シング・バハードゥルの蜂起、ダル・カールサーの組織的抵抗、そしてミスル時代を経て、ついにランジート・シングによる統一国家、シク王国の樹立という形で結実しました。 これは、シク教徒が政治的な頂点を極めた時代であり、彼らの不屈の精神と百数十年にわたる闘争の集大成であったと言えます。
反乱がインド史に与えた影響

ムガル帝国のアウラングゼーブ帝による迫害以降に始まったシク教徒の反乱は、単なる一地方の宗教的反抗に留まらず、インド亜大陸の歴史、特にムガル帝国の衰退とパンジャーブ地方の政治的変容に極めて重大な影響を及ぼしました。
第一に、シク教徒の執拗な抵抗は、ムガル帝国の軍事力と財政を著しく消耗させ、その衰退を加速させる一因となりました。 グル・ゴービンド・シングの時代からバンダ・シング・バハードゥル、そしてダル・カールサーに至るまで、シク教徒はゲリラ戦術と不屈の精神で帝国軍を悩ませ続けました。 特にパンジャーブという戦略的に重要な地域での支配権を失ったことは、ムガル帝国にとって大きな打撃でした。 シク教徒の成功は、マラーターやラージプート、ジャートといった他の勢力にも反乱を促す効果をもたらし、帝国全体の崩壊を早めることにつながりました。
第二に、この闘争の過程で、シク教は平和的な宗教共同体から、強力な軍事・政治勢力へと変貌を遂げました。グル・ゴービンド・シングによるカールサーの創設は、シク教徒に共通のアイデンティティと強固な結束をもたらし、彼らを規律ある戦士集団に変えました。 その後、迫害の時代に生まれたジャッターやミスル、そしてダル・カールサーといった組織は、シク教徒の軍事的能力と統治能力を飛躍的に高めました。 この軍事化と組織化の経験がなければ、19世紀初頭のランジート・シングによるシク王国の樹立は不可能だったでしょう。
第三に、シク教徒の反乱は、パンジャーブ地方に新たな政治秩序を打ち立てました。バンダ・シング・バハードゥルによるザミーンダーリー制度の廃止は、封建的な社会構造に対する革命的な挑戦であり、農民に土地所有権を与えるという画期的な改革でした。 また、ミスル時代に導入された「ラーキー」制度は、地域の安全保障と引き換えに税を徴収するという、独自の統治システムの原型となりました。 これらの経験は、ランジート・シングが築いた、宗教的に寛容で比較的安定したシク王国の統治の基礎を形成しました。
アウラングゼーブの不寛容な政策から始まったシク教徒の反乱は、ムガル帝国の衰退を決定づけ、アフガン勢力の侵攻を頓挫させ、そして最終的にはパンジャーブに強力な独立国家を誕生させるという、壮大な歴史的帰結をもたらしました。 この一連の出来事は、抑圧に対する抵抗が新たな国家とアイデンティティを生み出す力強いプロセスを示す歴史事例として、インド史において重要な位置を占めています。シク教徒の不屈の闘争の遺産は、彼らの共同体の価値観と集合的記憶の中に深く刻み込まれ続けています。

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