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イェニチェリとは わかりやすい世界史用語2325
著作名: ピアソラ
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イェニチェリとは

イェニチェリは、オスマン帝国のスルタンの世帯を構成するエリート歩兵部隊の一員でした。 彼らはヨーロッパで最初の近代的な常備軍であり、おそらく世界で最初に銃器を装備した歩兵部隊でした。 この部隊は、14世紀後半、スルタン・ムラト1世(在位1362年頃-1389年)またはその父であるオルハン(在位1324年頃-1362年)の治世中に設立されたとされています。 その創設の正確な時期については学者の間で見解が分かれていますが、一般的にはムラト1世の時代とされています。 オスマン帝国が新たな国家としての性格を帯びるにつれて、部族の指導者に忠誠を誓う従来のテュルクマン人の部族兵に代わり、スルタン個人にのみ忠実な有給の兵士が必要となったのです。
イェニチェリ、トルコ語で「新しい兵士」を意味する「イェニチェリ」から派生したこの名称は、オスマン帝国がその軍事力を中央集権化し、スルタンの権威を絶対的なものにするための画期的な試みを象徴しています。 当初、この部隊は戦争で捕らえられた捕虜や奴隷から構成されていました。 これは、スルタンが軍の戦利品の5分の1を金銭ではなく現物で受け取るという伝統的な権利を行使した結果であったと考えられています。 しかし、間もなくデヴシルメとして知られる、より体系的な徴兵制度が導入されることになります。
デヴシルメ制度は、バルカン半島を中心とする帝国内のキリスト教徒の臣民から、青少年を強制的に徴兵するものでした。 この制度は「子供の徴用」または「血税」とも訳され、オスマン帝国が非イスラム教徒の臣民に対して課した一種の貢納でした。 8歳から18歳までの最も有望なキリスト教徒の少年たちが選ばれ、家族から引き離されました。 彼らはイスラム教への強制的な改宗と割礼を受け、オスマン社会の習慣と言語を学ぶためにトルコ人の家庭に送られました。 この初期段階を終えた後、彼らは首都イスタンブールのアジェミ・オウラン(新兵)学校に集められ、厳格な軍事訓練と教育を受けました。
このデヴシルメ制度の導入は、いくつかの重要な目的を果たしました。第一に、部族的な忠誠心や地方の有力者とのつながりを持たない、スルタン個人に絶対的な忠誠を誓う兵士の集団を創り出すことでした。 第二に、広大な帝国を統治するために必要な、有能な軍人および官僚の安定した供給源を確保することでした。 そして第三に、被征服民であるキリスト教徒のコミュニティを統制下に置き、反乱の可能性を抑制する手段としても機能しました。
デヴシルメによって徴兵された少年たちは、法的にはスルタンの奴隷(クル)と見なされましたが、彼らの地位は一般的な奴隷とは大きく異なりました。 彼らは定期的な給与を受け取り、厳しい訓練を経てイェニチェリとして認められると、帝国内で高い社会的地位と特権を享受することができました。 才能のある者は、軍事だけでなく、行政、芸術、建築などの分野で最高の教育を受け、帝国の最高位に上り詰めることさえ可能でした。 実際に、多くの大宰相や高官がデヴシルメ出身者で占められていた時期もあります。
イェニチェリ部隊の創設は、オスマン軍の構造を根本的に変えました。それまでのテュルクマン人の騎兵を中心とした軍隊から、高度に訓練され、規律の取れた歩兵が中核をなす、より近代的な軍事組織へと移行するきっかけとなったのです。 特に、イェニチェリはヨーロッパの軍隊に先駆けて火器を大規模に導入し、その運用に習熟したことで知られています。 ムラト2世(在位1421年-1444年、1446年-1451年)の時代には、すでに火器が採用され始めており、これがオスマン帝国の軍事的優位性を確立する上で決定的な要因となりました。
部隊は、ハジ・ベクタシュ・ヴェリというスーフィーの聖人の教えに従うことも学びました。彼の弟子たちが最初のイェニチェリ部隊を祝福したとされ、ベクタシュ教団はイェニチェリの従軍聖職者のような役割を果たしました。 この精神的な結びつきは、部隊内の結束力をさらに強固なものにしました。イェニチェリは、部隊を自らの家、家族と見なし、スルタンを父として崇めるよう教えられました。 このような徹底した教育と訓練を通じて、イェニチェリは個人のアイデンティティを捨て、スルタンの最も忠実で強力な道具として生まれ変わったのです。



デヴシルメ制度と訓練

イェニチェリの強さの根源は、デヴシルメとして知られる独自の徴兵制度と、それに続く厳格な訓練課程にありました。 デヴシルメは、オスマン帝国がバルカン半島のキリスト教徒臣民から少年を徴兵する制度で、「子供の徴用」または「血税」と訳されます。 この制度は14世紀後半に始まり、17世紀半ばまでイェニチェリの主要な人材供給源であり続けました。 3年から7年ごとに、オスマン帝国の役人がバルカン半島の村々を巡り、8歳から18歳までの身体的に健康で知的に優れた少年たちを選抜しました。 この徴兵は、被征服民に対する一種の税であり、多くのキリスト教徒の家族にとっては悲劇的な出来事でした。 しかし一方で、貧しい家庭にとっては、息子が帝国のエリートとして出世する機会と見なされることもありました。
徴兵された少年たちは、まずアナトリア地方のトルコ人イスラム教徒の家庭に預けられました。 ここで彼らはトルコ語、イスラム教の教義、そしてオスマン社会の文化と習慣を学びました。 この過程で、彼らはキリスト教徒としての過去のアイデンティティを捨て、イスラム教に改宗し、割礼を受けることが強制されました。 この初期段階は、彼らを故郷の文化や家族から切り離し、オスマン帝国への忠誠心を植え付けるための重要なステップでした。
この予備訓練を終えると、少年たちは「アジェミ・オウラン」(新兵)として首都イスタンブールにある養成学校に集められました。 ここから、彼らの才能と適性に応じた本格的な選別と専門訓練が始まります。最も知的に優れた少年たちは「イチ・オウラン」(宮殿の少年)として選抜され、トプカプ宮殿内のエンデルーン学校で教育を受けました。 彼らは行政、宗教、軍事、宮廷儀礼など多岐にわたる分野で最高の教育を受け、将来の帝国を担う高官や官僚となるべく育成されました。 多くの大宰相や将軍がこのエリート教育機関の出身者です。
一方、大多数の少年たちは軍務に就くための訓練を受けました。彼らはアジェミ・オウラン学校で、厳しい規律と重労働のもと、修道院のような環境で生活しました。 この訓練期間中、彼らは独身であることが義務付けられ、俗世との関わりを断たれました。 訓練内容は非常に過酷で、レスリング、アーチェリー、剣術といった伝統的な武術に加え、土木工事や兵站支援などの実践的な作業も含まれていました。 この厳しい訓練を通じて、彼らは強靭な肉体と精神力、そして絶対的な服従心を養いました。
アジェミ・オウランとしての訓練期間は通常6年から8年に及び、24歳か25歳になる頃、十分に強いと認められた者だけが、正式なイェニチェリとしての地位を得ることができました。 彼らはオルタ(中隊)と呼ばれる部隊に配属され、スルタン直属の兵士としてのキャリアを開始します。イェニチェリは、その出自や過去に関係なく、実力と忠誠心のみによって評価される組織でした。
イェニチェリの訓練は、単なる戦闘技術の習得にとどまりませんでした。彼らは科学、歴史、文学などの分野でも教育を受け、幅広い知識を持つことが奨励されました。 これにより、彼らは単なる兵士ではなく、変化する状況に適応し、戦略を理解できる、バランスの取れた人材となることが期待されたのです。
イェニチェリの生活は、部隊全体で共有される強い仲間意識によって特徴づけられていました。彼らは兵舎で共同生活を送り、共に食事をし、戦い、死んでいきました。 彼らの象徴的な帽子である「ボルク」には、「カシュクルク」と呼ばれるスプーンを挿すための場所がありました。 これは「スプーンの兄弟愛」を象徴し、寝食を共にする仲間としての強い連帯感を表していました。 部隊は、亡くなった兵士の財産を相続し、その富を蓄積しました。また、退役した兵士には年金が支給され、その子供たちの面倒も部隊が見ることがありました。 このように、イェニチェリは単なる軍事組織ではなく、兵士たちの生涯にわたる生活を保障する、包括的な社会制度でもあったのです。

軍事組織、武器、戦術

イェニチェリは、その卓越した組織構造、先進的な武器、そして効果的な戦術によって、近世最強の歩兵部隊の一つとして名を馳せました。 彼らはオスマン軍の中核をなし、帝国の数々の輝かしい勝利に不可欠な役割を果たしました。
イェニチェリ部隊の基本単位は「オルタ」(中隊または大隊)と呼ばれ、平時には数百人、戦時には数千人規模で構成されました。 部隊全体は「オジャク」(隊)として知られ、その最高指揮官は「イェニチェリ・アガ」でした。 イェニチェリ・アガはスルタンによって直接任命され、帝国の軍事および政治において絶大な権力を持つ重要な役職でした。部隊はさらに、ジェマート(一般兵)、ボルクハルク(スルタン護衛兵)、セグバン(猟兵)の3つの主要な部門に分かれていました。 このような階層的な組織構造は、指揮系統の明確化と部隊の効率的な運用を可能にしました。
イェニチェリが他の軍隊と一線を画した最大の要因は、火器の早期導入と巧みな活用です。 彼らは1440年代、ムラト2世の治世にはすでに火器を採用し始めており、これはヨーロッパの多くの軍隊よりも早い時期でした。 当初は弓の名手でしたが、すぐに銃器の重要性を認識し、その扱いに習熟しました。 16世紀初頭には、マスケット銃が彼らの標準装備となり、その射撃技術は敵に恐れられました。 特に、口径80ミリメートルの巨大な「塹壕銃」は、その破壊力で敵陣に恐怖を与えました。 また、手榴弾や手持ち砲といった初期の火薬兵器も広範囲に使用しました。
彼らの武器は銃器だけではありませんでした。白兵戦では、オスマン帝国特有の湾曲した片刃の刀であるキリジや、斧、そしてヤタガンと呼ばれる短剣が用いられました。 特にヤタガンはイェニチェリの象徴的な武器と見なされ、部隊のシンボルともなりました。 平時において、国境警備隊として勤務する場合を除き、彼らが携行を許されたのは棍棒か短剣のみでした。
戦場におけるイェニチェリの戦術は、その規律と火力を最大限に活かすように設計されていました。オスマン軍の典型的な陣形では、イェニチェリは中央に位置し、スルタンを守護する役割を担いました。 戦闘が始まると、両翼のシパーヒー(封建騎兵)が敵に攻撃を仕掛け、偽の退却を行って敵を中央へとおびき寄せます。 敵軍が追撃して陣形を崩したところを、中央で待ち構えるイェニチェリが銃の一斉射撃で迎え撃つという戦術は、オスマン軍の常套手段でした。この戦術は、1526年のモハーチの戦いなどで絶大な効果を発揮しました。
イェニチェリはまた、攻城戦の名手でもありました。 彼らは工兵、坑夫、そしてサッパー(土木工作兵)としての高い技術を持ち、難攻不落とされた城壁を何度も打ち破りました。 1453年のコンスタンティノープル包囲戦では、彼らの工兵技術と大砲、戦術が、ビザンツ帝国の首都を陥落させる上で決定的な役割を果たしました。
さらに、イェニチェリは1605年には、ヨーロッパの軍隊の中でもいち早く、回転式の一斉射撃戦術を導入した部隊の一つでした。 これは、前列が射撃している間に後列が装填を行い、途切れることのない射撃を可能にする高度な戦術であり、彼らの高い訓練度と規律の証左です。彼らは集団での一斉射撃よりも、個々の兵士の正確な射撃技術に重きを置く傾向があり、敵の陣形の弱点を狙って効果的に攻撃しました。
イェニチェリ部隊には、補給部隊、移動病院、武具職人なども随行しており、彼らの軍事行動は高度に組織化された兵站システムに支えられていました。 この自己完結した軍事機構は、イェニチェリを近世において最も洗練され、恐るべき戦闘集団の一つたらしめていたのです。

オスマン帝国の征服における役割

イェニチェリは、創設からその最盛期に至るまで、オスマン帝国の驚異的な領土拡大の原動力であり、数々の重要な戦いにおいて決定的な役割を果たしました。 彼らの卓越した軍事力、厳格な規律、そしてスルタンへの絶対的な忠誠心は、オスマン軍を当時の世界で最も恐るべき軍事機関の一つへと変貌させました。
イェニチェリがその名を歴史に刻んだ最初の大きな戦いの一つが、1444年のヴァルナの戦いです。 この戦いで、スルタン・ムラト2世率いるオスマン軍は、ハンガリー王国を中心とする十字軍を打ち破りました。イェニチェリはこの勝利に大きく貢献し、オスマン帝国のバルカン半島における支配を確固たるものにしました。 この勝利は、後のコンスタンティノープル征服への道を開く重要な布石となりました。
イェニチェリの歴史における最も輝かしい功績は、間違いなく1453年のコンスタンティノープル陥落です。 スルタン・メフメト2世の指揮の下、イェニチェリはビザンツ帝国の首都を包囲しました。彼らはその高度な工兵技術と、ウルバン砲をはじめとする巨大な大砲を駆使して、難攻不落と謳われたテオドシウスの城壁を破壊しました。 規律の取れた歩兵戦術と銃器の力で城壁を突破し、最終的に都市を陥落させたのはイェニチェリでした。 この歴史的な勝利は、ビザンツ帝国の終焉を告げ、オスマン帝国をヨーロッパとアジアにまたがる大帝国として確立させました。
16世紀に入ると、イェニチェリの活動はさらに続きます。1514年のチャルディラーンの戦いでは、イェニチェリの銃器と大砲が、サファヴィー朝ペルシャの伝統的な騎兵部隊を圧倒しました。 この勝利により、オスマン帝国は東アナトリアと中東の大部分に対する支配を固め、サファヴィー朝の影響力を後退させました。
1517年には、エジプトのマムルーク朝を破り、イスラム世界の二大聖地であるメッカとメディナの保護権を獲得しました。 これにより、オスマン帝国のスルタンはイスラム世界の最高権威であるカリフの称号を名乗るようになり、帝国の威信は頂点に達しました。
そして、1526年のモハーチの戦いは、イェニチェリの戦術的優位性を最も劇的に示した戦いの一つです。 スルタン・スレイマン1世率いるオスマン軍は、ハンガリー王ラヨシュ2世の軍隊と対峙しました。この戦いでイェニチェリは、中央に強固な陣地を築き、大砲とマスケット銃を効果的に配置しました。オスマン軍の騎兵がハンガリー軍の重騎兵を誘い込むと、イェニチェリは壊滅的な一斉射撃を浴びせ、わずか数時間でハンガリー軍を粉砕しました。 この勝利により、ハンガリー王国の大部分がオスマン帝国の支配下に入りました。
イェニチェリは、陸上での戦闘だけでなく、要塞の守備や海上での作戦においても重要な役割を担いました。 彼らは帝国の広大な国境線に沿って駐屯し、治安維持や警察活動にも従事しました。 首都イスタンブールでは、スルタンの身辺警護だけでなく、消防隊としての役割も果たしていました。
スルタンは常に自らイェニチェリを率いて戦場に赴き、彼らは戦利品の分け前を常に受け取りました。 このスルタンとの強い結びつきと、勝利によってもたらされる報酬は、彼らの士気を高く維持する上で重要な要素でした。 イェニチェリはオスマン軍の唯一の歩兵師団であり、その存在なくしてオスマン帝国の急速な拡大は考えられなかったでしょう。 彼らは、帝国の征服事業のまさに屋台骨だったのです。

政治的・経済的影響力の増大

当初はスルタンに絶対的な忠誠を誓うエリート兵士集団であったイェニチェリは、時が経つにつれて、オスマン帝国の政治と経済において無視できない強大な力を持つようになりました。 彼らの軍事的な重要性が高まるにつれて、その影響力は宮廷の内外に及び、やがて帝国の安定を脅かすほどの存在へと変貌していきました。
イェニチェリが自らの重要性を認識し始めたのは15世紀半ばのことです。1449年には、より高い給与を要求して最初の反乱を起こしました。 彼らは食事を拒否し、食器を叩いて不満を表明するという独特の抗議行動を取りました。スルタンは、自らの権力の基盤であるイェニチェリの要求を無視できず、譲歩せざるを得ませんでした。 この出来事は、イェニチェリがスルタンに対して自らの意思を押し通す力を持っていることを示す、最初の兆候でした。
16世紀末から17世紀初頭にかけて、イェニチェリの政治的影響力は頂点に達します。 彼らは政府を支配し、国策に口を出し、軍の近代化への努力を妨害するようになりました。 さらに、宮殿クーデターを通じて、意に沿わないスルタンを廃位させ、自分たちの望む人物を即位させることさえ可能になりました。 最も悪名高い事件は1622年に起こりました。若きスルタン・オスマン2世が、ポーランド遠征の失敗を機にイェニチェリの力を削ぎ、軍を改革しようと試みたところ、彼らは反乱を起こし、スルタンを捕らえて殺害しました。 この事件は、イェニチェリがスルタンの権威をも超越する存在となったことを象徴しています。
この影響力の増大の背景には、部隊の構成と規則の変化がありました。創設以来200年近く厳格に守られてきたデヴシルメ制度が形骸化し始めたのです。 16世紀後半、スルタンはイェニチェリからの圧力に屈し、イェニチェリの息子たちが部隊に加わることを許可しました。 これにより、かつては実力でのみ入隊が許されたエリート部隊は、世襲的な特権階級へと変質し始めました。 さらに、17世紀にはデヴシルメ制度自体がほぼ廃止され、イスラム教徒のトルコ人志願者にも門戸が開かれました。 これにより、部隊の規模は急激に膨張しましたが、その質と規律は著しく低下しました。 16世紀初頭には約8,000人だった兵力は、17世紀初頭には40,000人近くに、そして19世紀初頭には135,000人を超えるまでに膨れ上がりました。 しかし、このうちの多くは実際に戦闘に参加しない名目上の兵士でした。
経済的な面でも、イェニチェリは大きな力を持つようになりました。当初は禁じられていた結婚が1566年にスルタン・セリム2世によって許可されると、彼らは家族を持ち、社会に深く根を下ろすようになりました。 さらに、商業や手工業に従事することも許され、独自の事業を営み、ギルド(同業者組合)内で強い影響力を持つようになりました。 彼らは兵士としての給与に加え、商業活動からも利益を得て富を蓄積し、一種の武装した既得権益層を形成していきました。 彼らの経済的利権は、都市の一般市民との間に広範な家族的、社会的、商業的なつながりを生み出し、その政治的基盤をさらに強固なものにしました。
イェニチェリは、もはやスルタンの忠実な僕ではなく、自らの特権と利益を守るためにはいかなる手段も厭わない、強力な政治的圧力団体と化していました。 彼らは帝国の財政を圧迫し、軍事改革にことごとく反対し、帝国の近代化を阻む最大の障害となりました。 かつて帝国の拡大を支えた最強の軍団は、その内部から帝国を蝕む存在へと変貌してしまったのです。

イェニチェリの衰退と抵抗

17世紀に入ると、かつてオスマン帝国の栄光を支えたイェニチェリ部隊は、徐々にその輝きを失い、帝国の衰退を象徴する存在へと変貌していきました。 軍事的な精鋭部隊から、自己の特権維持に固執する保守的で反動的な勢力へと堕落したのです。 この衰退は、内部的な規律の緩みと、外部環境であるヨーロッパの軍事技術の急速な発展という、二つの要因によって加速されました。
内部的な要因として最も大きかったのは、部隊の構成と性質の根本的な変化です。16世紀後半にイェニチェリの息子たちの入隊が許可され、17世紀にはデヴシルメ制度が事実上廃止されたことで、部隊は世襲化し、イスラム教徒のトルコ人が多数を占めるようになりました。 これにより、スルタン個人への絶対的な忠誠心という、イェニチェリの創設以来の根幹が揺らぎました。 新たに入隊した者たちは、かつての厳しい訓練や修道院のような生活を経ることなく、特権的な地位を得ることができました。 その結果、部隊全体の軍事的能力と規律は著しく低下しました。
兵士たちは戦闘よりも商業活動や政治的陰謀に熱心になり、多くは名目上の兵士として給与を受け取るだけの存在となりました。 19世紀初頭には、部隊の数は13万人以上に膨れ上がっていましたが、その多くは職人や店主であり、実際の戦闘能力はほとんどありませんでした。 彼らはもはや帝国の守護者ではなく、国家の財政を圧迫する寄生的な階級と化していたのです。
一方で、ヨーロッパでは軍事革命が進行し、戦術、組織、技術が飛躍的に進歩していました。 新しい訓練方法や兵器が次々と導入される中、イェニチェリは旧来の戦術と装備に固執し、いかなる改革にも頑なに抵抗しました。 彼らは、自らの特権的な地位が脅かされることを恐れ、軍の近代化を目指すスルタンや改革派の官僚たちの試みをことごとく妨害しました。
イェニチェリの抵抗は、しばしば暴力的な反乱という形で現れました。17世紀以降、彼らは頻繁に反乱を起こし、スルタンの廃位や殺害にまで及ぶ宮殿クーデターを画策しました。 1622年のオスマン2世殺害はその象徴的な事件です。 18世紀から19世紀初頭にかけても、改革を目指したスルタンたちは常にイェニチェリの脅威に直面しました。スルタン・セリム3世(在位1789年-1807年)は、西欧式の新しい軍隊「ニザーム・ジェディード」を創設しようとしましたが、イェニチェリの猛烈な反発に遭い、最終的に廃位され殺害されました。
イェニチェリの軍事的な非効率性は、戦場での敗北という形で顕著に現れました。 かつてはヨーロッパ中を震撼させた最強の歩兵部隊も、近代化されたヨーロッパの軍隊の前では時代遅れの存在となり、オスマン帝国はオーストリアやロシアとの戦争で次々と領土を失っていきました。 ギリシャ独立戦争(1821年-1829年)においても、イェニチェリ部隊は反乱を鎮圧することができず、その無力さを露呈しました。
このように、イェニチェリは帝国の軍事力を強化するどころか、その近代化を阻む最大の障害となり、帝国の弱体化を加速させる要因となりました。 かつて帝国の強さの象徴であったイェニチェリは、今や帝国の深刻な病巣と見なされるようになったのです。スルタンと帝国の存続のためには、この強力かつ腐敗した組織を排除することが不可欠であることは、誰の目にも明らかでした。

イェニチェリの解体

19世紀初頭、オスマン帝国は深刻な内外の危機に直面していました。ヨーロッパ列強の軍事的圧力と、国内のナショナリズムの高まりにより、帝国の存続そのものが脅かされていました。 この状況を打開するためには、時代遅れとなった軍隊の抜本的な改革が急務でした。しかし、その最大の障害となっていたのが、既得権益と化したイェニチェリ部隊でした。 この長年の課題に最終的な決着をつけたのが、スルタン・マフムト2世(在位1808年-1839年)でした。
マフムト2世は、叔父であるセリム3世がイェニチェリの抵抗によって改革に失敗し、命を落としたことを教訓に、慎重かつ周到に計画を進めました。 彼は即位後、すぐにはイェニチェリと対決せず、十数年かけて自らの権力基盤を固め、イェニチェリを政治的に孤立させることに努めました。 彼はウラマー(イスラム法学者)や他の軍部隊、そしてイェニチェリの横暴に不満を抱く市民の支持を徐々に取り付けていきました。
そして1826年5月、マフムト2世はついに改革の時が来たと判断します。彼は、西欧式の訓練を受けた新しい軍隊「アサーキリ・マンスーレイ・ムハンメディーイェ」(ムハンマドの勝利の兵士たち)を創設する勅令を発布しました。 これは、イェニチェリに対する公然たる挑戦でした。案の定、この新しい軍隊の創設を知ったイェニチェリは、自らの存在が脅かされることを悟り、反乱を起こしました。
1826年6月14日から15日にかけて、イスタンブールのイェニチェリ部隊は兵舎を出てアトメイダヌ(競馬場)に集結し、スルタンに対する反乱の意思を明確に示しました。 しかし、マフムト2世は今回は怯みませんでした。彼はこの反乱を、イェニチェリを一掃するための絶好の機会と捉えていました。 スルタンは、預言者ムハンマドの聖なる旗を掲げ、すべての忠実なイスラム教徒に、反逆者であるイェニチェリに対して立ち上がるよう呼びかけました。
マフムト2世が事前に準備していた砲兵部隊が、イェニチェリの兵舎に対して砲撃を開始しました。 砲弾によって兵舎は炎上し、数千人のイェニチェリが殺害されました。 イスタンブールの市街地でも激しい戦闘が繰り広げられ、生き残ったイェニチェリは、スルタンに忠誠を誓う軍隊や、長年彼らの圧政に苦しんできた市民たちの手によって追撃され、殺害されました。 捕らえられた者たちも即座に処刑されました。
この事件は、オスマン帝国の歴史において「ヴァカ・イ・ハイリエ」(吉祥事件)として知られています。 このクーデターによって、イェニチェリ部隊は文字通り壊滅しました。イスタンブールだけで6,000人以上のイェニチェリが殺害されたと推定されています。 生き残った者たちも追放されるか投獄され、彼らの財産はスルタンによって没収されました。 テッサロニキにあった塔は、捕らえられたイェニチェリが斬首された場所となり、後に「血の塔」と呼ばれるようになりました。
1826年6月15日、マフムト2世は正式にイェニチェリ部隊の解体を宣言しました。 これにより、約460年間にわたってオスマン帝国の歴史に深く関わってきた、この特異な軍事組織はその幕を閉じたのです。吉祥事件は、単なる一揆の鎮圧ではありませんでした。それは、帝国の近代化を阻んできた最大の保守勢力を排除し、スルタンの絶対的な権威を再確立するための、マフムト2世による「イェニチェリに対するクーデター」であったと言えます。 この流血の粛清によって、オスマン帝国はようやく本格的な西欧化改革(タンジマート)への道を開くことができたのです。

イェニチェリの遺産

1826年の吉祥事件による劇的な解体は、イェニチェリという組織の終わりを告げましたが、彼らがオスマン帝国、そしてその後の歴史に残した遺産は多岐にわたり、複雑なものです。 約5世紀にわたる彼らの存在は、軍事、政治、社会、文化の各側面に深く刻み込まれています。
軍事的な遺産として、イェニチェリはヨーロッパにおける最初の近代的な常備軍として評価されています。 封建的な騎士や傭兵が主流だった時代に、国家によって維持され、定期的な給与を受け取り、厳格な規律と訓練のもとに統一された指揮系統に従うという彼らのシステムは、非常に先進的なものでした。 また、火器を大規模に導入し、その戦術を体系化させた先駆者でもありました。 彼らの軍事組織や訓練方法は、後の世界の多くの軍隊に影響を与えたと考えられています。 吉祥事件の後、マフムト2世が創設した新しい近代軍も、イェニチェリという反面教師と、彼らが築いた常備軍という概念の基盤の上に成り立っていました。
政治的には、イェニチェリの遺産はより両義的です。初期の彼らは、スルタンの権力を絶対的なものにし、帝国の急速な拡大を支える忠実な道具でした。 デヴシルメ制度を通じて、出身階級に関係なく才能ある人材を登用するシステムは、帝国の官僚機構と軍事機構に活力をもたらしました。 しかし、その後の時代、特に17世紀以降、彼らは自らの特権を守るために政治に介入し、スルタンの権威に挑戦する強力な圧力団体へと変貌しました。 彼らの反乱と宮殿クーデターは、帝国の政治的安定を著しく損ない、近代化への改革を遅らせる最大の要因となりました。 この経験は、後のオスマン帝国およびトルコ共和国において、軍部が政治に介入することへの強い警戒心を生み出す一因となったとも言えます。 イェニチェリの解体は、スルタンの絶対君主制を一時的に回復させましたが、それは同時に、帝国が西欧型の官僚国家へと移行していく過程における、避けられない痛みを伴う変革の象徴でもありました。
社会文化的な側面では、イェニチェリはオスマン社会に深く根付いた存在でした。 彼らは単なる兵士ではなく、都市の職人、商人、そして時には芸術家でもありました。 特に、彼らが篤く信仰したベクタシュ教団は、イェニチェリを通じてバルカン半島やアナトリアの民衆に広まり、オスマン帝国の宗教的・文化的な多様性の一端を担いました。 イェニチェリの兵舎は、単なる軍事施設ではなく、地域の社会的な中心地としての機能も果たしていました。
また、イェニチェリ音楽隊(メフテルハーネ)は、その独特で力強い音楽によって知られています。 彼らが軍楽として発展させた音楽は、トライアングル、シンバル、バスドラムといった打楽器を多用するもので、ヨーロッパの軍楽に大きな影響を与えました。 18世紀には、モーツァルトの「トルコ行進曲」に代表されるように、ヨーロッパのクラシック音楽において「トルコ趣味(テュルクリ)」と呼ばれるブームが起こりましたが、そのインスピレーションの源泉は、紛れもなくイェニチェリの音楽でした。
イェニチェリの象徴であったヤタガン(短剣)や、彼らの特徴的な制服と帽子(ボルク)は、オスマン帝国の視覚的なイメージとして後世に伝えられています。 彼らの物語は、絶対的な忠誠を誓うエリート兵士から、帝国の安定を脅かす腐敗した既得権益層へと変貌し、最終的に暴力的に排除されるという劇的なものであり、権力と組織の盛衰に関する普遍的な教訓を含んでいます。

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