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ヴァスコ=ダ=ガマとは わかりやすい世界史用語2258 |
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著作名:
ピアソラ
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ヴァスコ=ダ=ガマとは
ヴァスコ=ダ=ガマは、大航海時代の最も重要で、同時に最も物議を醸す人物の一人です。彼の名は、ヨーロッパから喜望峰を回り、インドへ至る直接の航路を初めて発見した偉業と分かちがたく結びついています。この功績は、世界の交易地図を塗り替え、ポルトガルを強大な海洋帝国へと押し上げ、ヨーロッパとアジアの関係を永遠に変えました。しかし、その栄光の裏には、容赦ない暴力と冷酷な野心が存在し、彼の遺産を複雑なものにしています。
大航海時代の幕開け
ヴァスコ=ダ=ガマの探検の時代を理解するためには、彼が生きた時代、すなわち15世紀ポルトガルの歴史的背景を把握することが不可欠です。当時のヨーロッパは、東方からもたらされる香辛料、絹、宝石といった高価な品々への渇望に満ちていました。これらの商品は、ヴェネツィアやジェノヴァといったイタリアの都市国家が、中東のイスラム商人との取引を介して独占的にヨーロッパへ供給していました。陸路と海路を組み合わせたこの交易ルートは、多くの仲介者を経るためコストが非常に高く、またオスマン帝国の台頭によって、その安定性も脅かされていました。
このような状況下で、ポルトガルは新たな道を模索し始めます。大西洋に面した地理的条件を活かし、アフリカ大陸を南下して直接インドへ至る海上ルートを開拓するという壮大な計画です。この野心的な事業の先駆者となったのが、エンリケ航海王子(1394-1460)でした。 彼は、航海術の研究を奨励し、探検家たちを次々とアフリカ西岸へと送り出しました。 彼の死後も探検は続き、ポルトガル人航海士たちは着実に南へと進んでいきました。1488年、バルトロメウ=ディアスがついにアフリカ大陸南端の喜望峰に到達し、大西洋とインド洋が繋がっていることを証明しました。 これにより、インドへの海上ルート開拓は、夢物語から現実的な目標へと変わったのです。
ヴァスコ=ダ=ガマは、このような国家的な探検熱が高まる中で、1460年頃、ポルトガル南西部の港町シーネスで生まれました。 彼の家系は下級貴族であり、父エステヴァン・ダ=ガマは軍人であり、サンティアゴ騎士団の一員でした。 ヴァスコ=ダ=ガマの幼少期については多くが知られていませんが、貴族の子息として相応の教育を受け、数学や航海術を学んだと推測されています。 港町で育った彼は、幼い頃から船や航海に親しんでいたことでしょう。
彼の名が歴史の表舞台に初めて登場するのは1492年のことです。フランスの海賊行為に対する報復として、ポルトガル王ジョアン2世は、ダ=ガマにリスボン南方の港セトゥーバルやアルガルヴェ地方でフランス船を拿捕するよう命じました。 ダ=ガマはこの任務を迅速かつ効果的に遂行し、有能で断固とした指揮官としての評価を確立しました。 この成功が、後に彼がインド航海の指揮官として抜擢される一因となったことは間違いありません。
1495年にマヌエル1世がポルトガル王位に就くと、インド航路開拓計画は再び国家の最優先課題となります。 マヌエル1世は、富と名声、そしてキリスト教の布教という野心に燃えており、父祖の事業を完成させることを強く望んでいました。 当初、この歴史的な航海の指揮はヴァスコ=ダ=ガマの父、エステヴァンに任される予定でしたが、彼が計画の実現前に亡くなったため、その息子であるヴァスコ=ダ=ガマに白羽の矢が立てられました。 彼のこれまでの実績、特にその断固とした性格と実行力が、この前人未到の困難な任務の指揮官としてふさわしいと判断されたのです。
第一次航海(1497年~1499年)
1497年7月8日、ヴァスコ=ダ=ガマ率いる艦隊がリスボンの港から歴史的な航海へと旅立ちました。 艦隊は、この航海のために特別に建造された2隻のナウ船(大型帆船)、サン・ガブリエル号(ダ=ガマの旗艦)とサン・ラファエル号(兄のパウロ・ダ=ガマが指揮)、そして軽快なカラベル船ベリオ号(ニコラウ・コエーリョが指揮)、さらに補給用の貯蔵船1隻の計4隻で構成されていました。 乗組員は約170名で、ポルトガルで最も経験豊富な航海士たちが集められました。 彼らの船には、最新の航海計器であるアストロラーベや海図が備えられ、アフリカ沿岸の情報はバルトロメウ=ディアスからもたらされたものが活用されました。
ダ=ガマは、これまでの探検家たちが辿ったアフリカ沿岸航路ではなく、大胆な決断を下します。シエラレオネ沖まで南下した後、彼は艦隊を大きく西、大西洋の沖合へと向けました。 これは、ギニア湾の無風地帯と南向きの海流を避けるためであり、バルトロメウ=ディアスが発見した南大西洋の西風帯を捉えるための航海術でした。 この決断は大きな賭けでしたが、結果的に航海期間を大幅に短縮することに成功します。約3ヶ月間陸地を見ることなく航海を続けた後、1497年11月4日、艦隊はついにアフリカ南西岸に到達しました。 そして11月22日、彼らは嵐の海を乗り越え、喜望峰を回航することに成功したのです。
喜望峰を越えた艦隊は、ヨーロッパ人にとって未知の海域であるインド洋東アフリカ沿岸を北上し始めました。彼らはいくつかの地点で停泊し、現地住民との接触を試みます。しかし、文化や宗教の違いから、その関係は常に緊張をはらんでいました。1498年3月2日、艦隊はモザンビーク島に到着します。 この島は、アラブ商人が支配するインド洋交易網の重要な拠点でした。ダ=ガマは当初、自らをイスラム教徒と偽り、スルタン(地元の支配者)との謁見に成功します。 しかし、彼らがキリスト教徒であることが発覚すると、敵意にさらされ、砲撃を交わしながら島を脱出せざるを得なくなりました。
次に立ち寄ったモンバサ(現在のケニア)でも、彼らは同様の敵対的な歓迎を受けます。 しかし、その北方に位置するマリンディでは、状況が一変します。モンバサと対立関係にあったマリンディのスルタンは、ポルトガル艦隊を温かく迎え入れました。 ここでダ=ガマは、彼の航海の成功を決定づける重要な出会いを果たします。インドのカリカットまでの航路を知る、経験豊かなアラブ人水先案内人(一説にはグジャラート出身のアフマド・イブン・マージドとされるが、これには異論もある)を雇い入れることができたのです。
この水先案内人の誘導のもと、艦隊は季節風(モンスーン)に乗り、1498年4月24日にマリンディを出航しました。インド洋を横断する23日間の航海の末、1498年5月20日、ついに彼らは目的地のインド南西岸、カリカット(現在のコーリコード)近郊のカッパドに到達しました。 ヨーロッパからアフリカ南端を回り、直接インドへ至る海上ルートが、ここに開かれたのです。
カリカットは、当時インド洋における香辛料交易の中心地の一つであり、ザモリンと呼ばれるヒンドゥー教徒の王が統治していました。ダ=ガマは上陸後、ザモリンとの謁見を果たします。 しかし、彼が持参した交易品(毛織物、帽子、珊瑚の首飾りなど)は、現地の豊かで洗練された市場ではあまりにも粗末なものであり、ザモリンやアラブ商人たちの失笑を買いました。 カリカットの交易を長年支配してきたアラブ商人たちは、新たな競争相手であるポルトガル人を警戒し、ザモリンに彼らを追い出すよう働きかけます。
交渉は難航し、両者の関係は次第に悪化しました。ダ=ガマはザモリンから交易の許可を得ようとしますが、アラブ商人の妨害や文化的な誤解が重なり、十分な成果を上げることはできませんでした。数ヶ月の滞在中、彼はわずかな香辛料を買い付けることしかできず、武力的な衝突寸前の事態も経験します。最終的に、ダ=ガマはこれ以上の滞在は危険と判断し、1498年8月末、数人のインド人を人質として連れ、カリカットを離れることを決意しました。
帰路は往路以上に過酷なものでした。モンスーンの知識が不十分だったため、彼らは逆風の中をインド洋を横断することになり、往路の23日に対し、復路は約3ヶ月もかかりました。 長い航海の間に、多くの乗組員が壊血病(ビタミンC欠乏症)に倒れ、命を落としました。 乗組員の数が大幅に減少したため、ダ=ガマは東アフリカ沿岸でサン・ラファエル号を焼却処分せざるを得ませんでした。
幾多の困難を乗り越え、1499年7月10日、ニコラウ・コエーリョが指揮するベリオ号が最初にリスボンに帰還し、歴史的航海の成功を国王マヌエル1世に報告しました。 ダ=ガマ自身は、病気の兄パウロを看病するためにアゾレス諸島に立ち寄り、少し遅れて9月にリスボンに凱旋しました。 出発時に約170名いた乗組員のうち、生きて故郷の土を踏むことができたのは、わずか55名ほどでした。 甚大な犠牲を払いながらも、この航海はポルトガルに計り知れない富と可能性をもたらしました。持ち帰られた香辛料の価値は、航海にかかった費用の60倍にも達したと言われています。ヴァスコ=ダ=ガマは国民的な英雄として迎えられ、国王から「インド、ペルシャ、アラビア海の提督」の称号と多大な報酬を与えられました。
第二次航海(1502年~1503年)
ヴァスコ=ダ=ガマの第一次航海の成功を受け、ポルトガル国王マヌエル1世は、インド洋における交易の主導権を確立するため、間髪入れずに次の手を打ちます。1500年、ペドロ・アルヴァレス・カブラル率いる13隻の大艦隊がインドへ派遣されました。 この航海の途中、カブラルは偶然ブラジルを発見するという歴史的な出来事も起こしています。 カブラルはカリカットに商館を設立しようと試みましたが、アラブ商人との対立が激化し、ポルトガル人多数が殺害される事件が発生しました。これに対し、カブラルはカリカットの港を砲撃し、報復を行いました。
この事件は、ポルトガルのインド洋戦略が、単なる交易から武力による支配へと大きく舵を切る転換点となりました。マヌエル1世は、インド洋におけるイスラム商人の影響力を徹底的に排除し、ポルトガルの交易独占を確立することを決意します。そして、この強硬策を実行する指揮官として、再びヴァスコ=ダ=ガマが選ばれました。1502年2月、ダ=ガマは提督として、重武装した20隻の軍艦からなる大艦隊を率いて、二度目のインド航海へと出発しました。
この第二次航海におけるダ=ガマの行動は、第一次航海とは比較にならないほど暴力的で冷酷なものでした。彼の任務は、交易ではなく、報復と制圧でした。東アフリカ沿岸を北上する過程で、彼はポルトガルに敵対的だったいくつかの港を砲撃し、服従させました。
彼の残虐性を最も象徴する事件が、メッカからの巡礼者を乗せたイスラム船「ミリ号」への襲撃です。ダ=ガマは、インド洋上でこの非武装の船を拿捕すると、積荷をすべて略奪した後、女性や子供を含む数百人の乗客を船倉に閉じ込めたまま、船に火を放ちました。 抵抗する術を持たない人々が炎の中で絶叫するのを、彼は冷徹に見届けたと言われています。この虐殺行為は、ポルトガルの力を誇示し、イスラム商人たちに恐怖を植え付けるための見せしめでした。
カリカットに到着したダ=ガマは、ザモリンに対し、全てのイスラム教徒を港から追放するよう要求しました。 ザモリンがこれを拒否すると、ダ=ガマは港に停泊していた漁船を拿捕し、乗っていた38人の漁師を捕らえ、彼らを吊るし首にした後、その手足や首を切り落とし、見せしめとして海岸に打ち上げさせました。 さらに、彼はカリカットの街に対して激しい艦砲射撃を行い、街を破壊しました。
武力によってカリカットを屈服させた後、ダ=ガマは南方のコーチン(現在のコーチ)やカンナノールといった、カリカットと敵対関係にある都市に向かいました。彼はこれらの都市の支配者と有利な同盟を結び、香辛料の安定的な供給を確保するとともに、ポルトガルの商館を設立しました。 これにより、ポルトガルはインド南西岸に恒久的な足がかりを築くことに成功します。
第二次航海は、ポルトガルに莫大な経済的利益をもたらすとともに、インド洋におけるポルトガルの軍事的覇権を決定づけるものとなりました。ダ=ガマは、圧倒的な海軍力を背景に、既存の交易秩序を暴力的に破壊し、ポルトガルによる独占体制の基礎を築いたのです。1503年にリスボンに帰還した彼は、再び国王から手厚い褒賞を受け、その地位を不動のものとしました。しかし、その成功は、数え切れないほどの血と涙の上に成り立っていたのです。
最後の航海(1524年)
第二次航海から帰国した後、ヴァスコ=ダ=ガマは約20年間にわたり、表舞台から遠ざかりました。彼は1500年頃にカタリナ・デ・アタイデという貴族の女性と結婚し、6人の息子と1人の娘をもうけました。 彼はエヴォラの街に居を構え、家族と共に引退生活を送りました。 この間も、彼は国王マヌエル1世の相談役としてインド問題に関わり続け、その功績により1519年にはヴィディゲイラ伯爵の称号を与えられています。
一方、インド洋ではポルトガルの帝国支配が急速に拡大していました。アフォンソ・デ・アルブケルケといった有能な後継者たちが、ゴア、マラッカ、ホルムズといった戦略的要衝を次々と占領し、インド洋の主要な交易ルートを完全に掌握しました。 ポルトガルは香辛料交易の独占によって空前の繁栄を謳歌し、リスボンはヨーロッパ随一の豊かな都市となりました。
しかし、その繁栄の裏で、インドにおけるポルトガル人官僚の腐敗と規律の乱れが深刻な問題となっていました。私腹を肥やすことに関心を持つ役人が増え、現地の統治は機能不全に陥りつつありました。この状況を憂慮した新国王ジョアン3世(マヌエル1世の後継者)は、事態を収拾するために、再びあの男に頼ることを決意します。その断固とした性格と厳格さで知られるヴァスコ=ダ=ガマこそ、インドの腐敗を一掃できる唯一の人物だと考えられたのです。
1524年、ダ=ガマは「インド副王」という最高の地位を与えられ、三度目のインド航海へと出発しました。 この時、彼はすでに60代半ばに達していましたが、その使命感は衰えていませんでした。同年9月にインドのゴアに到着した彼は、直ちに綱紀粛正に取り掛かり、腐敗した官僚たちを厳しく処罰し、行政組織の改革に着手しました。 彼の厳格な統治は、現地のポルトガル人社会に再び規律を取り戻させました。
しかし、彼の最後の任務は長くは続きませんでした。インドに到着してからわずか3ヶ月後の1524年12月24日、ヴァスコ=ダ=ガマはコーチンで病(マラリアであったと伝えられている)に倒れ、その波乱に満ちた生涯を閉じました。 彼の遺体は当初、コーチンの教会に埋葬されましたが、後に1538年(または1539年)、彼の遺言に従ってポルトガルに送り返され、ヴィディゲイラの地に埋葬されました。
ヴァスコ=ダ=ガマの遺産と歴史的評価
ヴァスコ=ダ=ガマが歴史に残した影響は、計り知れないほど大きく、また多岐にわたります。彼の最も明白な功績は、ヨーロッパからインドへの直接海上ルートを開拓したことです。 この発見は、いくつかの点で世界史を大きく変えました。
第一に、世界の交易構造を根底から覆しました。 ヴェネツィア商人とイスラム商人が独占していた従来の香辛料交易ルートは、ポルトガルが支配する海上ルートによって迂回されることになりました。 これにより、ポルトガルは香辛料交易を独占し、莫大な富を蓄積しました。 この経済的成功は、ポルトガル黄金時代の礎となり、マヌエル様式と呼ばれる豪華絢爛な建築様式を生み出すなど、文化的な繁栄にも繋がりました。
第二に、ポルトガル海洋帝国の成立を決定づけました。ダ=ガマの航海を皮切りに、ポルトガルはインド洋沿岸から東南アジア、さらには中国や日本に至る広大な交易網と植民地帝国を築き上げました。 彼の第二次航海で見せた武力による制圧という手法は、その後のポルトガルの植民地拡大政策の基本モデルとなりました。
第三に、ヨーロッパによる世界的な植民地主義の時代、いわゆる「大航海時代」を本格化させました。 ダ=ガマの成功は、スペイン、オランダ、イギリス、フランスといった他のヨーロッパ諸国を刺激し、彼らもまた海外への進出と植民地獲得競争に乗り出すことになります。 この意味で、ダ=ガマの航海は、ヨーロッパ中心の世界秩序が形成されていく過程の重要な一歩であったと言えます。
しかし、彼の遺産には暗い側面も存在します。特にインドや東アフリカの視点から見れば、ダ=ガマは侵略者であり、破壊者でした。 彼の暴力的な手法、特に第二次航海における虐殺や破壊行為は、ヨーロッパによる植民地支配がもたらす搾取と暴力の始まりを象徴する出来事として記憶されています。 彼は既存の平和的な交易ネットワークを武力で破壊し、何世紀にもわたるヨーロッパによるアジア支配の道を開いた人物と見なされています。
このように、ヴァスコ=ダ=ガマの評価は、見る立場によって大きく異なります。ポルトガルでは、彼は国家の栄光を築いた偉大な英雄として、国民的叙事詩『ウズ・ルジアダス』で称賛され、その名は橋や都市にも冠されています。 一方で、彼が訪れた多くの地域では、植民地主義の負の遺産の象徴として、その名は批判的に語られています。
ヴァスコ=ダ=ガマは、類まれな航海技術、不屈の精神、そして冷徹な決断力を兼ね備えた、大航海時代を体現する人物でした。彼の航海が世界史に与えた影響は否定できず、その功績は探検史において不滅のものです。しかし同時に、彼の行動がもたらした暴力と破壊もまた、歴史の事実として忘れてはなりません。彼は、新たな世界を切り開いた探検家であると同時に、帝国の野望を冷酷に実行した征服者でもありました。
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