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中国における官吏登用制度の変遷 ~郷挙里選、九品官人法、科挙の違い~
著作名: エンリケ航海王子
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はじめに


中国の歴史上、官吏登用制度はさまざまな変遷を遂げてきました。
このテキストでは、その内容を時代ごとに見ていきましょう。

前漢・後漢

郷挙里選

この制度は、能力のある人物を、地方の長官が推薦することで、優秀な人材を集めようとするものです。武帝がはじめてこの制度を作りました。
この制度はやがて、豪族や有力者の子弟が中央の官吏の大部分を占めるという弊害を生むようになります。

魏晋南北朝

九品官人法

この制度は、中央から派遣された中正官という役人が、地方の有力な人物を、郷里の評判などで探し出し、それぞれ9等級に評定(郷品)して、その後中央でその結果に応じた職位に就かせるというものです。
220年から魏の文帝が開始し、その後、晋・南北朝に受け継がれます。
しかし、この制度も弊害がありました。中正官を抱き込んだ豪族の子弟が、高い評価(郷品)を得るようになり、その後中央で門閥貴族として様々な権力を握るようになります。
この制度を批判する言葉が、「上品に寒門なく、下品に勢族なし」というものです。これは、九品のうち上の格付けの上品には寒門、すなわち身分の低い者はおらず、下の格付けの下品には勢族、つまり豪族や貴族出身者はいないということを表しています。


隋・唐・北宋〜清

科挙

科挙は清朝まで続いた官吏登用制度で、試験制度です。隋の文帝(楊堅)が598年に中正官を廃止し、学科試験を課す登用制度をはじめます。隋や唐の時代には、唯一の官吏登用の方法ではなかったので、貴族の優遇は残りましたが、郷挙里選や九品官人法など、推薦制度の弊害だった地方貴族の高級官職独占を防ぎ、身分に関係なく重要な官職への門戸を開きました。
北宋の太祖が、これに皇帝が直接試問する殿試というものを課すようになり、またこの時代に官吏登用の唯一の制度となります。
これにより、州試という地方試験、省試という州試合格者のための試験、その後通過者に行われた殿試という三段階制が確立します。この試験を通じて登用された官吏は長い間君主独裁体制を支えました。
元の時代に一時中断しますが、その後、清朝に引き継がれますが、清朝末期には、地方の学校の生徒であることがこの試験の受験資格となり、学校教育の場が科挙受験資格取得だけの場所となる状況がおこり、1905年に廃止されます。

その後朝鮮や日本でも、この科挙を参考にして、受験制度が確立しました。


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