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アイルランド征服とは わかりやすい世界史用語2704
著作名: ピアソラ
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アイルランド征服とは

1649年から1653年にかけてアイルランドを席巻したオリバー=クロムウェルの軍事行動、すなわちクロムウェルによるアイルランド征服は、アイルランド島の歴史における分水嶺となる出来事です。この征服は、単なる軍事的な勝利に留まらず、アイルランドの社会構造、土地所有の形態、宗教的な人口構成、そして民族的アイデンティティそのものを根底から覆し、その後の数世紀にわたるイングランドとアイルランドの関係を決定づける、永続的な影響を及ぼしました。この出来事を理解するためには、その背景にある、何十年にもわたって蓄積されてきた宗教的対立、政治的緊張、そして土地を巡る根深い確執の歴史を解き明かす必要があります。

この征服劇の直接的な引き金となったのは、1641年にアイルランドで発生した大規模な反乱でした。この反乱は、イングランドとスコットランドからのプロテスタント入植者に対する、土着のアイルランド人カトリック教徒による蜂起であり、その過程で数千人規模のプロテスタントが殺害されたと伝えられています。この「1641年の虐殺」の報は、誇張されながらイングランド中に広まり、アイルランド人カトリック教徒に対する深い憎悪と復讐心を植え付けました。しかし、イングランド自体が国王チャールズ1世と議会の間で内戦(イングランド内戦)に突入したため、アイルランドへの本格的な介入は先送りされていました。

1649年、イングランド内戦は議会軍の勝利に終わり、国王チャールズ1世は処刑され、イングランドはコモンウェルス(共和制)へと移行しました。この新たな共和制政府にとって、アイルランドは看過できない脅威でした。アイルランドでは、かつて敵対していたアイルランド=カトリック同盟と、イングランドから逃れてきた王党派が、処刑された国王の息子であるチャールズ2世を新たな王として担ぎ、手を結んでいたのです。この連合は、イングランド共和制の背後を脅かす潜在的な拠点であり、また、フランスやスペインといったカトリック大国が介入するための足掛かりとなる可能性を秘めていました。

このような状況下で、イングランド議会は、アイルランドの反乱を最終的に鎮圧し、王党派の脅威を排除するため、ニューモデル軍の司令官であるオリバー=クロムウェルを遠征軍の指揮官として派遣することを決定します。クロムウェル自身にとっても、この遠征は複数の動機に突き動かされたものでした。第一に、1641年のプロテスタント虐殺に対する神の裁きを下すという、宗教的な使命感。第二に、イングランド共和制の安全を確保するという政治的・軍事的な必要性。そして第三に、内戦で膨れ上がった軍の給料を支払うため、アイルランドの土地を没収し、兵士や投資家に分配するという経済的な動機です。

1649年8月、クロムウェルは精鋭部隊を率いてダブリンに上陸し、アイルランド征服の火蓋が切られました。彼の軍事行動は、その効率性と冷酷さにおいて際立っていました。特に、北東部の港町ドロヘダと南東部のウェックスフォードでの出来事は、この征服の残虐性を象徴するものとして、アイルランド人の記憶に深く刻み込まれることになります。これらの町では、降伏を拒んだ守備隊が徹底的に殲滅され、多くの市民も巻き添えとなりました。クロムウェルは、これらの行為を、さらなる流血を避けるための厳しい必要悪であり、神の正義の執行であると正当化しましたが、アイルランド側にとっては、それは許しがたい虐殺に他なりませんでした。

軍事的な征服に続いて行われたのは、さらに広範で深刻な影響をもたらす「クロムウェル地所」として知られる土地の再分配でした。1652年の「アイルランド鎮圧法」に基づき、反乱に関与した度合いに応じて、アイルランド人カトリック地主の土地が大規模に没収されました。そして、その広大な土地は、戦争の資金を提供した「冒険商人」と呼ばれる投資家たちや、給料の代わりに土地を受け取ったニューモデル軍の兵士たちに与えられたのです。土地を失ったカトリック地主の多くは、不毛とされるコノート地方への強制移住を命じられました。この政策は、アイルランドの土地所有構造を完全に転換させ、プロテスタントの新しい地主階級を創出し、カトリック教徒を小作人や労働者階級へと転落させました。

クロムウェルによるアイルランド征服は、軍事的なキャンペーンであると同時に、社会全体を再構築しようとする壮大な植民地化プロジェクトでした。それは、アイルランドからカトリックの勢力を一掃し、イングランドのプロテスタントによる支配を恒久的に確立しようとする試みでした。この過程で生じた死、破壊、そして土地の喪失は、アイルランド社会に癒しがたい傷を残し、その後のアイルランド・ナショナリズムの形成における中心的な記憶となりました。「クロムウェルの呪い」という言葉は、イングランドによる圧政と苦難の象徴として、アイルランドの歴史の中に生き続けています。



紛争の根源

クロムウェルによるアイルランド征服を単なる17世紀半ばの一軍事行動として捉えることは、その歴史的な深みと複雑さを見誤ることになります。この出来事は、何世紀にもわたってイングランドとアイルランドの間に横たわってきた、宗教、政治、土地、そして民族的アイデンティティを巡る根深い対立の、暴力的で破壊的な頂点でした。その根源を理解するためには、12世紀のノルマン人侵攻にまで遡り、特に16世紀から17世紀にかけてのテューダー朝とステュアート朝によるアイルランド政策を検証する必要があります。

テューダー朝の再征服と宗教改革

イングランドのアイルランドへの関与は、12世紀にノルマン人の騎士たちがアイルランドの一部を征服し、イングランド王ヘンリー2世が「アイルランド卿」の称号を主張したことに始まります。しかし、その後数世紀にわたり、イングランド王権の支配は、ダブリン周辺の「ペイル」と呼ばれる限られた地域にしか及ばず、島の大部分は、独立したゲール人の諸侯や、ゲール化したノルマン人の末裔である「古英語人」の貴族たちによって支配されていました。彼らは、カトリック信仰を共有し、ゲール文化の影響を強く受けていました。

この状況が劇的に変化するのが、16世紀のテューダー朝の時代です。ヘンリー8世は、ローマ教皇庁と決別し、イングランド国教会を設立する宗教改革を断行しました。彼は、アイルランドにおける自らの権威を強化するため、1541年にアイルランド議会に自らを「アイルランド王」と宣言させます。これは、アイルランドを単なる属領ではなく、イングランドと王を共有する一つの王国と位置づけるものでしたが、同時に、アイルランドにもイングランドの宗教改革を押し付けることを意味しました。

しかし、アイルランドのゲール人および古英語人のエリート層は、カトリック信仰に深く帰依しており、この宗教改革に強く抵抗しました。テューダー朝の君主たち、特にエリザベス1世は、この抵抗を政治的な反逆とみなし、アイルランドを完全にイングランドの支配下に置くための「再征服」を開始します。この過程は、数十年にわたる一連の残忍な戦争と反乱の鎮圧によって特徴づけられます。特に、マンスター地方やアルスター地方での反乱は徹底的に鎮圧され、反乱を起こしたアイルランド人領主の土地は没収されました。

植民と土地没収

テューダー朝の再征服と並行して進められたのが、「植民(プランテーション)」政策です。これは、反乱によって没収したアイルランド人の土地に、イングランドやスコットランドから忠実なプロテスタントの入植者を移住させるというものでした。この政策の目的は、アイルランドを軍事的に支配するだけでなく、その社会構造を「文明化」し、「イングランド化」することにありました。入植者たちは、イングランドの法、言語、農業技術を持ち込み、プロテスタント信仰の砦となることが期待されました。

最も大規模かつ組織的に行われたのが、エリザベス1世の死後、ステュアート朝のジェームズ1世の下で進められた「アルスター植民」です。1607年、アルスター地方の有力なゲール人領主たちがアイルランドを去った「伯爵たちの逃走」事件をきっかけに、彼らの広大な領地が王領として没収されました。この土地に、イングランドやスコットランド(特に長老派教徒)からのプロテスタント入植者が組織的に送り込まれました。このアルスター植民は、アイルランド北部の人口構成を根本的に変え、土着のカトリック教徒とプロテスタント入植者の間に、今日まで続く深い宗教的・経済的な亀裂を生み出しました。

この植民政策は、アイルランド人カトリック教徒から土地と社会的地位を奪い、彼らを二級市民へと追いやるものでした。土地は、単なる経済的な資源ではなく、社会的地位、政治的権力、そして民族的アイデンティティの源泉でした。土地を失うことは、すべてを失うことを意味したのです。この土地問題は、アイルランド人カトリック教徒の間に、イングランド支配に対する深い怨恨と、いつか土地を取り戻したいという強い願望を育んでいきました。

1641年の反乱

1630年代後半、イングランド、スコットランド、アイルランドの三王国は、チャールズ1世の宗教政策と専制的な統治によって、緊張の極に達していました。チャールズ1世とその側近であるストラフォード伯爵は、アイルランドにおいて王権を強化し、さらなる土地没収と植民を進めようと計画していました。これは、古英語人のカトリック貴族たちにとっても、自分たちの地位が脅かされるという危機感を抱かせるものでした。

1641年10月、アルスター地方のゲール人カトリック教徒たちが、フェリム=オニールらの指導の下、ついに蜂起します。彼らの当初の目的は、王の権威を否定することなく、自分たちの土地を取り戻し、カトリック信仰の自由を確保することでした。しかし、この蜂起は瞬く間にアイルランド全土に広がり、制御不能な暴力の連鎖を引き起こします。特にアルスター地方では、プロテスタントの入植者たちが、長年にわたる怨恨の標的となり、多くの人々が家を追われ、財産を奪われ、殺害されました。

この「1641年の虐殺」で実際に殺害されたプロテスタントの数は、歴史家の間でも議論がありますが、数千人規模であったと推定されています。しかし、イングランドに伝わった噂は、これを数十万人規模の大虐殺として描き出し、カトリック教徒による残虐行為の物語(例えば、赤ん坊を槍で突き刺す、川で溺れさせるなど)が、パンフレットや説教を通じて広く流布されました。これらのプロパガンダは、イングランドのプロテスタントの心に、アイルランド人カトリック教徒に対する消しがたい恐怖と憎悪を刻み込み、後のクロムウェルによる征服における残虐行為を正当化する、強力なイデオロギー的基盤となったのです。この反乱こそが、クロムウェルがアイルランドに渡った直接的な原因であり、彼の軍事行動の正当化の根拠となったのです。

三王国戦争とアイルランド

1641年のアイルランド反乱は、孤立した出来事ではありませんでした。それは、イングランド、スコットランド、アイルランドの三王国を巻き込んだ、より広範な紛争、すなわち「三王国戦争」または「ブリテン内戦」の複雑なタペストリーの一部でした。アイルランドの運命は、イングランドで繰り広げられる国王と議会の間の壮絶な権力闘争と、密接に絡み合っていたのです。

アイルランド=カトリック同盟の結成

1641年の反乱が拡大する中、アイルランドのカトリック教徒たちは、自らの行動を組織化し、正当化する必要に迫られました。1642年5月、聖職者、ゲール人貴族、そして古英語人地主の代表がキルケニーに集まり、「アイルランド=カトリック同盟」を結成します。これは、事実上の独立政府であり、独自の議会、軍隊、そして外交政策を持っていました。

同盟の旗印は「神、国王、そしてアイルランドのために」でした。彼らは、自らを反逆者ではなく、国王チャールズ1世に忠実な臣民であると主張しました。彼らの敵は、国王の権威を不当に侵害し、カトリック信仰を破壊しようとする、過激なプロテスタント(ピューリタン)が支配するイングランド議会である、と位置づけたのです。同盟の目的は、カトリック信仰の完全な自由、アイルランド議会のイングランドからの独立、そして植民によって没収された土地の返還を勝ち取ることでした。

しかし、同盟の内部は一枚岩ではありませんでした。ゲール人の一派は、イングランドとの完全な決別と、没収された土地の全面的な返還を求める急進派でした。一方、古英語人の貴族たちは、国王との妥協を通じて、自分たちの財産と地位を保全し、限定的な宗教的寛容を確保しようとする穏健派でした。この内部対立は、同盟の政策決定を常に揺るがし、その後の王党派との交渉において、致命的な弱点となっていきます。

イングランド内戦とアイルランドの役割

1642年、イングランドで国王チャールズ1世と議会の間の武力衝突が始まると、アイルランドは両陣営にとって重要な戦略的意味を持つようになりました。国王にとって、アイルランドのカトリック同盟は、イングランドでの戦いに投入できる潜在的な兵力の供給源でした。彼は、同盟に対して、宗教的な譲歩と引き換えに、軍事支援を得ようと画策します。

一方、イングランド議会にとって、アイルランドは二重の脅威でした。一つは、カトリック同盟が国王と結びつき、議会軍の背後を突くという軍事的な脅威。もう一つは、カトリック主義そのものが、イングランドのプロテスタント信仰と自由を破壊する邪悪な力であるという、イデオロギー的な脅威です。議会は、1642年に「冒険商人法」を可決します。これは、アイルランドの反乱鎮圧のための軍資金を一般から募り、その見返りとして、鎮圧後に没収されるアイルランドの土地を分配するという法律でした。この法律は、アイルランドの土地を担保に戦争の資金を調達するものであり、征服後の土地没収を既定路線とするものでした。

戦争中、アイルランドは複雑な多角形の戦場と化しました。カトリック同盟、国王の代理人であるオーモンド侯爵が率いる王党派、ダブリンを拠点とするイングランド議会軍、そしてアルスター地方に駐留するスコットランドの契約軍が、互いに同盟を結んだり、敵対したりしながら、三つ巴、四つ巴の戦いを繰り広げました。チャールズ1世は、同盟との間で秘密交渉を重ねましたが、カトリックへの譲歩を公に認めることができず、交渉は何度も頓挫しました。

王党派とカトリック同盟の連合

1649年1月、イングランドの情勢は劇的に動きます。ニューモデル軍を率いるオリバー=クロムウェルらが主導権を握った議会は、国王チャールズ1世を裁判にかけ、反逆罪で処刑しました。そして、君主制と貴族院を廃止し、イングランドをコモンウェルス(共和制)とすることを宣言したのです。

国王の処刑は、アイルランドの政治情勢を一変させました。これまで国王との妥協を探ってきた王党派のオーモンド侯爵は、もはや躊躇している場合ではないと判断します。彼は、カトリック同盟の穏健派と交渉をまとめ、1649年初頭に第二次オーモンド協定を締結しました。この協定により、カトリック同盟は、処刑された国王の息子であるチャールズ2世を新たな王として承認し、王党派と連合して、イングランドの「国王殺し」の共和制政府と戦うことになりました。

この王党派=カトリック連合軍の結成は、イングランドの新しいコモンウェルス政府にとって、深刻な脅威でした。アイルランド全土が、ダブリンとデリーの二つの拠点を除いて、ほぼ完全にこの連合軍の手に落ちたのです。アイルランドが、王党派の反攻拠点となり、さらには外国勢力の介入を招く危険性が現実のものとなりました。この危機的状況に対応するため、そして、1641年以来の懸案であったアイルランド反乱に最終的な決着をつけるため、イングランド議会は、その最も有能で冷酷な司令官、オリバー=クロムウェルをアイルランドへ派遣することを決定したのです。クロムウェルの遠征は、イングランド共和制の存亡をかけた、予防戦争の性格を帯びていました。

クロムウェルの軍事行動

1649年8月15日、オリバー=クロムウェルは、1万2000人の精鋭からなるニューモデル軍の部隊と、当時としては莫大な額である10万ポンドの戦費を携えて、ダブリンに上陸しました。彼の到着は、アイルランドにおける戦争の様相を完全に変え、効率的で容赦のない征服の時代の幕開けを告げました。クロムウェルの軍事行動は、その周到な準備、優れた兵站、そして何よりも、敵に対して一切の妥協を許さない冷酷な決意によって特徴づけられます。

ラスマインズの戦いとダブリンの確保

クロムウェルが到着するわずか2週間前、アイルランドの戦局を決定づける重要な戦いが起こっていました。王党派=カトリック連合軍を率いるオーモンド侯爵は、議会軍の最後の拠点であるダブリンを攻略するため、市を包囲していました。しかし、8月2日、ダブリンの議会軍司令官マイケル=ジョーンズは、大胆な奇襲攻撃を敢行します。ラスマインズの戦いとして知られるこの戦闘で、準備不足だった王党派軍は完全に打ち破られ、数千人が死傷または捕虜となり、大量の武器弾薬が奪われました。

このラスマインズでの勝利は、クロムウェルにとって望外の幸運でした。彼は、敵の脅威にさらされることなく、安全にダブリンに上陸し、そこを確固たる拠点として、その後の作戦を展開することができたのです。彼は、ジョーンズの勝利を「神が我々のために用意してくださった驚くべき慈悲」と呼び、自らの遠征が神の意志に沿ったものであるという確信を深めました。ダブリンを確保したクロムウェルは、兵士たちに厳しい規律を課し、アイルランドの住民からの略奪を禁じました。彼は、この戦争が、無法な略奪ではなく、神の正義を実行するための規律ある軍事行動であることを示したかったのです。

ドロヘダの虐殺

ダブリンを拠点としたクロムウェルの最初の主要な目標は、ダブリンの北約50キロに位置する、堅固な城壁を持つ港町ドロヘダでした。この町は、王党派のイングランド人兵士とアイルランド人カトリック兵士からなる約3000人の守備隊によって守られていました。司令官は、経験豊富なイングランド王党派のアーサー=アストンでした。

9月3日、クロムウェル軍はドロヘダを包囲し、強力な攻城砲による砲撃を開始しました。9月10日、クロムウェルはアストンに対し、降伏を勧告する書簡を送ります。「もしあなたが降伏を拒むならば、私は武力に訴えることを躊躇しないでしょう。その結果として、あなたの部下たちのうち、剣に倒れる者が出ても、その責任を私に負わせることはできません」。アストンは、この勧告を拒否しました。

9月11日、攻城砲が城壁に二つの大きな突破口を開けると、クロムウェルは総攻撃を命じました。ニューモデル軍の兵士たちは、激しい抵抗に遭いながらも、突破口から市内に突入しました。戦闘は、市街地での熾烈な白兵戦へと発展しました。クロムウェルは、自ら攻撃の先頭に立ったと伝えられています。守備隊が頑強に抵抗を続ける中、クロムウェルは「慈悲を見せるな(No quarter)」、すなわち捕虜を取らず、抵抗する者はすべて殺害せよ、という命令を下しました。

その後の出来事は、まさに虐殺でした。武装していた兵士だけでなく、武器を捨てて降伏しようとした者、教会に逃げ込んだ者も、容赦なく殺害されました。聖ペテロ教会では、中に立てこもった人々が、建物ごと火を放たれて焼き殺されました。司令官のアストンも、彼の部下たちと共に殺害されました。この虐殺で命を落としたのは、守備隊のほぼ全員と、数百人の市民であったと推定されています。

クロムウェルは、議会への報告書の中で、この行為を次のように正当化しています。「私は、これが、神の正当な裁きであり、この者たちが他の多くの人々に流させた罪なき血への報いであると確信しています。そして、これにより、将来の流血を避けることができるでしょう。これは、このような場所での慈悲が、さらなる蛮行を助長することを防ぐための、満足のいく根拠となります」。彼にとって、ドロヘダでの虐殺は、1641年のプロテスタント虐殺に対する神の報復であり、他の町への見せしめとして、戦争を早期に終結させるための、冷徹な計算に基づいた行為だったのです。

ウェックスフォードと南部の制圧

ドロヘダの陥落とその後の虐殺の報は、アイルランド中に衝撃と恐怖をもたらしました。クロムウェルは、次に軍を南に向け、王党派にとって重要な拠点であり、イングランドの船舶に対する私掠船の基地でもあった港町ウェックスフォードを目指しました。

10月2日、クロムウェル軍はウェックスフォードを包囲します。町との間で降伏交渉が行われている最中の10月11日、予期せぬ事態が発生しました。交渉のために城の支配権を議会軍に引き渡したところ、議会軍の兵士たちが協定を破って市内に乱入し、統制を失った兵士たちによる略奪と虐殺が始まったのです。多くの兵士と市民が、市場や川辺で殺害されました。この事件で約2000人が死亡したとされています。ドロヘダと異なり、ウェックスフォードでの虐殺は、クロムウェルの直接的な命令によるものではなかった可能性が高いですが、彼の軍の規律が、復讐心と略奪への欲望の前にもろくも崩れ去ったことを示しています。

ドロヘダとウェックスフォードという二つの重要な港を失ったことで、王党派=カトリック連合軍は大きな打撃を受けました。その後、クロムウェル軍は、ニューロス、カリック=オン=スイアといった南部の拠点を次々と制圧していきます。しかし、ウォーターフォードやクロクメルといった町では、頑強な抵抗と、疫病の蔓延により、クロムウェル軍も大きな損害を被りました。特にクロクメルでは、アイルランド軍の巧妙な罠にはまり、2000人以上の兵士を失うという、この遠征で最大の敗北を喫しました。

1650年5月、スコットランドでの新たな脅威(チャールズ2世がスコットランドと手を結んだ)に対応するため、クロムウェルはアイルランドを離れ、指揮権を義理の息子であるヘンリー=アイアトンに委ねました。クロムウェルがアイルランドに滞在したのはわずか9ヶ月でしたが、その間に、彼は王党派=カトリック連合軍の組織的な抵抗力を事実上打ち砕き、征服の帰趨を決していたのです。

ゲリラ戦と飢饉

クロムウェルがアイルランドを去った後も、戦争は終わりませんでした。彼の後継者であるヘンリー=アイアトン、そしてその死後はチャールズ=フリートウッドとエドマンド=ラドローが指揮を引き継ぎ、残存するアイルランド勢力の掃討作戦を続けました。しかし、戦争の様相は、正規軍同士の大規模な会戦から、より陰湿で破壊的なゲリラ戦と、それに対する焦土作戦へと移行していきました。この最終段階は、アイルランドの民衆に、戦闘そのものよりもはるかに大きな苦難と死をもたらすことになります。

トーリー党の抵抗

主要な都市や城塞を失ったアイルランド軍の残党は、正規の部隊としての抵抗を続けることが困難になりました。彼らの多くは、森や山、沼地といった、イングランド軍が容易に進入できない地域に身を潜め、「トーリー」と呼ばれるゲリラ部隊を組織して抵抗を続けました。「トーリー」とは、元々アイルランド語で「追いはぎ」や「ならず者」を意味する言葉でしたが、この時期には、土地を追われたカトリック教徒で、イングランドの支配に抵抗するゲリラ兵を指すようになりました。

トーリーたちは、小規模な部隊で行動し、イングランド軍の補給部隊を襲撃したり、孤立した守備隊を攻撃したり、プロテスタント入植者の農場を焼き討ちしたりしました。彼らは、地元のカトリック住民の支援に依存しており、彼らから食料や情報を提供され、匿われていました。このゲリラ戦は、イングランド軍を絶えず悩ませ、広大な地域を実質的に支配することを困難にしました。

焦土作戦と飢饉

この執拗なゲリラ抵抗に対し、イングランド軍が取った対策は、極めて残忍なものでした。彼らは、トーリーたちの活動基盤である民衆の支持を断ち切るため、組織的な焦土作戦を展開したのです。兵士たちは、村々を焼き払い、穀物畑を荒らし、家畜を略奪または殺処分しました。これは、ゲリラ兵だけでなく、彼らを支援する可能性のあるすべてのカトリック住民から、食料と隠れ家を奪うことを目的としていました。

この焦土作戦は、アイルランド全土に壊滅的な影響を及ぼしました。農業生産は完全に破壊され、深刻な食糧不足が発生しました。その結果、1650年から1652年にかけて、アイルランドは大規模な飢饉に見舞われます。人々は、草や木の葉を食べて飢えをしのぎ、多くの人々が餓死しました。

さらに、飢饉と栄養失調は、疫病の蔓延を招きました。特に、腺ペスト(黒死病)がアイルランドの都市部や軍の駐屯地で猛威を振るい、おびただしい数の死者を出しました。イングランド軍の司令官であったヘンリー=アイアトン自身も、1651年にリムリック包囲中にペストで病死しています。

この戦争、飢饉、そして疫病の三つの災厄によって、アイルランドの人口は壊滅的な打撃を受けました。17世紀の人口統計学者ウィリアム=ペティの推計によれば、1641年から1653年の間に、アイルランドの人口約150万人のうち、実に60万人以上が死亡したとされています。これは、全人口の約40%に相当する数字です。このうち、直接の戦闘による死者は一部であり、その大部分は飢餓と疫病によるものでした。この人口動態上の大惨事は、アイルランド社会に、回復までに数世代を要するほどの深い傷跡を残しました。

1653年までには、主要なトーリーの部隊は降伏または壊滅し、組織的な抵抗はほぼ終結しました。イングランド議会は、アイルランドの征服を宣言し、次の段階、すなわち、この荒廃した土地をいかに再編し、支配するかという、さらに壮大なプロジェクトへと移行していくのです。

クロムウェル地所

軍事的な征服が完了した後、イングランド共和制政府が着手したのは、アイルランド社会の構造を根底から作り変える、壮大かつ冷徹な社会工学プロジェクトでした。これが「クロムウェル地所」または「クロムウェルによる土地清算」として知られる政策です。この政策の目的は、アイルランドからカトリック地主階級の影響力を一掃し、その土地をプロテスタントの手に移すことで、イングランドによる支配を恒久的かつ不可逆的なものにすることでした。

アイルランド鎮圧法

この土地没収と再分配の法的根拠となったのが、1652年8月にイングランド議会で可決された「アイルランド鎮圧法」です。この法律は、1641年の反乱以降のアイルランド人の行動を遡及的に裁き、その罪の度合いに応じて罰則を定めるものでした。

法律は、アイルランド人をいくつかのカテゴリーに分類しました。
第一に、反乱の指導者、カトリック聖職者、そしてプロテスタント入植者を殺害した者は、死刑と全財産の没収に処せられました。
第二に、反乱軍に兵士として参加した者は、全財産を没収され、アイルランドの他の地域への追放が宣告されました。
第三に、反乱に直接参加はしなかったものの、「好意を示した」者、すなわち反乱軍に協力したり、支援したりした者は、財産の3分の2または3分の1を没収され、残りの土地と引き換えに、アイルランド西部のコノート地方またはクレア県に代替地を与えられることになりました。
第四に、常に議会に「変わらぬ好意」を示してきたごく少数のアイルランド人のみが、土地の没収を免れることができました。

この法律の適用範囲は極めて広く、事実上、アイルランドのカトリック地主のほぼ全員が、何らかの形で土地を没収される対象となりました。たとえ反乱に積極的に関与していなくても、「好意を示した」という曖昧な基準によって、有罪と見なされる可能性があったのです。

「地獄かコノートか」

土地を没収されたカトリック地主たちに命じられたのが、シャノン川の西、すなわちコノート地方とクレア県への強制移住でした。当時のコノート地方は、岩が多く、土地が痩せており、アイルランドで最も不毛な地域と見なされていました。「地獄かコノートか(To Hell or to Connacht)」という言葉は、この過酷な政策を象徴するものとして、後世に伝えられています。これは、カトリック教徒に残された選択肢が、キリスト教の教えに背いて地獄に落ちるか、さもなければコノートの荒れ地へ移住するかの二つしかない、という絶望的な状況を表しています。

1654年の秋、数千人のカトリック地主とその家族、使用人たちが、わずかな家財を手に、故郷を後にして西へ向かうことを強制されました。彼らは、シャノン川を東に渡ることを禁じられ、コノート地方に閉じ込められました。これは、彼らを地理的に隔離し、政治的・軍事的な影響力を完全に奪うことを目的とした、一種の民族浄化政策でした。

土地の再分配

没収された広大な土地は、二つの主要なグループに分配されました。
第一のグループは、「冒険商人」です。彼らは、1642年の「冒険商人法」に基づき、アイルランド反乱鎮圧の軍資金をイングランド議会に前貸しした投資家たちでした。彼らは、投資額に応じて、アイルランドの肥沃な土地をくじ引きで分配されました。

第二のグループは、ニューモデル軍の兵士たちです。長年にわたる内戦で、議会は兵士たちに支払うべき給料が巨額に膨れ上がっていました。政府は、この給料の支払いを現金ではなく、アイルランドの土地の証書(デベンチャー)で支払うことにしました。多くの兵士は、この土地証書を士官や投機家に安値で売却しましたが、一部の兵士は自らアイルランドに移住し、新しい地主となりました。

この土地の再分配は、測量官ウィリアム=ペティが主導した「ダウニー調査」という、当時としては画期的に詳細な国土調査に基づいて行われました。この調査は、没収された土地を正確に地図化し、その価値を評価することで、公平な分配を可能にしました。

この結果、アイルランドの土地所有構造は、わずか10年ほどの間に劇的に変化しました。1641年には、アイルランドの土地の約60%がカトリック教徒(主に古英語人)の所有下にありましたが、1660年代後半には、その割合はわずか20%前後にまで激減しました。逆に、プロテスタントの土地所有率は、約40%から80%近くへと倍増したのです。これにより、アイルランドの伝統的なカトリック地主エリート層は事実上解体され、その代わりに、イングランド出身のプロテスタントの地主階級(プロテスタント=アセンダンシー)が、アイルランドの政治、社会、経済を支配する新たな支配者として確立されました。
その他の社会的影響

クロムウェルによる征服と土地清算は、土地所有以外の面でも、アイルランド社会に深刻な影響を及ぼしました。
カトリック信仰は厳しく弾圧されました。聖職者は追放または処刑の対象となり、公の場でミサを執り行うことは禁じられました。教会は破壊されるか、プロテスタントの礼拝のために接収されました。
また、数万人にのぼるアイルランド人が、奴隷的な労働力として、カリブ海の西インド諸島(特にバルバドスやジャマイカ)へ強制的に送られました。彼らは、年季契約労働者として、サトウキビプランテーションでの過酷な労働に従事させられました。これには、捕虜となった兵士だけでなく、土地を追われた一般市民や、浮浪者と見なされた子供たちも含まれていました。
さらに、多くの元アイルランド兵士たちは、故国を離れて、フランスやスペインといったヨーロッパ大陸のカトリック諸国の軍隊に傭兵として仕える道を選びました。これは「ワイルド=ギース(野生の雁)」として知られる伝統の始まりとなり、その後1世紀以上にわたって、アイルランドの若者たちが故郷を捨てて海外の戦場へ向かうという悲劇的な人材流出が続くことになります。

オリバー=クロムウェルによるアイルランド征服は、17世紀半ばの数年間に凝縮された、アイルランド史における最も破壊的で変革的な出来事でした。それは、イングランド内戦という、より大きな紛争の副産物として始まりましたが、その結果は、アイルランドという一つの国家の運命を恒久的に変えてしまいました。
この征服は、複数の動機が複雑に絡み合ったものでした。イングランド共和制の安全を脅かす王党派の拠点を潰すという戦略的な必要性。1641年の反乱で流されたプロテスタントの血に報いるという、宗教的な使命感と復讐心。そして、戦争の費用を賄い、兵士に報いるためにアイルランドの土地を没収するという、冷徹な経済的計算。これらの動機が一体となり、クロムウェルのニューモデル軍を、容赦のない効率的な破壊と征服の機械へと変えました。
ドロヘダやウェックスフォードでの虐殺に象徴される軍事行動の残虐性、そしてその後に続いたゲリラ戦と焦土作戦がもたらした飢饉と疫病は、アイルランドの人口を激減させ、社会を荒廃させました。しかし、この征服の最も永続的な遺産は、軍事的な勝利そのものよりも、その後に実施された「クロムウェル地所」という大規模な土地没収と再分配にあります。
この政策は、アイルランドの土地所有構造を根底から覆しました。何世紀にもわたってアイルランド社会の中核をなしてきたカトリック地主階級は、その土地と権力を奪われ、事実上解体されました。その代わりに、イングランドから来たプロテスタントの新しい地主階級が、アイルランドの新たな支配者として君臨することになります。この「プロテスタント=アセンダンシー」による支配構造は、その後2世紀以上にわたってアイルランド社会を規定し、土地を巡る対立は、アイルランドにおける政治的・社会的な緊張の根源であり続けました。
クロムウェルによる征服は、アイルランド人の集合的記憶の中に、決して消えることのない深い傷跡として刻み込まれました。オリバー=クロムウェルという名は、アイルランドにおいては、イングランドによる圧政、残虐性、そして不正義の最も強力な象徴となりました。この出来事は、宗教と民族的アイデンティティが不可分に結びついた、近代アイルランド=ナショナリズムの形成における、最も重要な殉教の物語の一つとなります。土地を奪われ、信仰を弾圧され、故郷を追われたという記憶は、世代を超えて語り継がれ、イングランド支配への抵抗の精神を育む土壌となりました。

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