manapedia
更新日時:
【幕府の衰退のはじまり、列強の接近、文化・文政時代】 受験日本史まとめ 47
著作名: Cogito
11,836 views

1804年(文化元年)、ロシア使節レザノフが来航し、幕府がラクスマンに与えた信牌を長崎に向かいました。レザノフは新たな通商関係の樹立を求めましたが、幕府は朝鮮・琉球・中国・オランダ以外とは交易できないとし、これを拒否しました。この幕府の冷淡な対応を、杉田玄白司馬江漢らが批判しています。この幕府の対応により、帰国途中のレザノフはシベリアで日本との通商をはじめるために軍事的圧力が必要であると軍人たちに説いたため、1806年(文化3年)から翌年にかけて、ロシア軍艦が樺太や択捉を攻撃したフヴォストフ事件が起こりました。

1807年(文化4年)、幕府は松前と蝦夷地を直轄とし、松前奉行を設置しました。また、南部・津軽両藩を中心に東北諸藩に警備させ、同じく直轄とした樺太を1808年(文化5年)から翌年にかけて間宮林蔵を派遣し、調査にあたらせました。1811年(文化8年)には、国後島に上陸したロシア海軍の船長ゴローウニンを捕え、箱館ついで松前に監禁しました。これに対し、ロシアも1812年(文化9年)、択捉航路を開拓した淡路の商人高田屋嘉兵衛を捕らえました。1813年(文化10年)、日本はゴローウニンを釈放し、緊張関係は解かれましたが、中央から遠く、東北諸藩にも重い負担となったため、幕府は1812年(文政4年)に蝦夷地を松前藩に返還しました。

一方、1808年(文化5年)には、イギリス軍艦フェートン号が長崎港に侵入し、オランダ商館員を人質にとり薪水・食料を強要したフェートン号事件が起こりました。この事件により、長崎奉行松平康英は責任をとり自害し、長崎警備の責任者であった佐賀藩主は責任を問われ処罰されました。フェートン号事件は、ヨーロッパでナポレオン戦争が起こり、イギリスとフランスが対立する中、当時フランスの属国となっていたオランダのアジア拠点を奪おうとして起こった出来事でした。

イギリス船はその後も1817年(文化14年)、1818年(文政元年)、1822年(文政5年)に浦賀に来航し、1824年(文政7年)には、常陸大津浜に上陸した捕鯨船員や捕鯨船と交易していた漁民を水戸藩が捕らえ、同年、捕鯨船員が薩摩藩領宝島を掠奪するという出来事も起こりました。これまで幕府は、こうした海外勢力に対し、薪水・食料を与えて帰す方法をとっていましたが、1825年(文政8年)に異国船打払令(無二念打払令)を出し、外国船の撃退を諸藩に命じました。海外船に対する方針転換は、幕府天文方高橋景保が中心となり行われました。




このテキストを評価してください。
役に立った
う~ん・・・
※テキストの内容に関しては、ご自身の責任のもとご判断頂きますようお願い致します。






日本史