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『愚神礼賛』とは わかりやすい世界史用語2510
著作名: ピアソラ
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『愚神礼賛』とは

デシデリウス・エラスムスが、親友トマス・モアの家に滞在していたわずか一週間ほどの間に書き上げたとされる『愚神礼賛』。それは、北方ルネサンスが生んだ、最も独創的で、最も鋭利な風刺文学の傑作です。ラテン語の原題『モリアエ・エンコミウム』は、「痴愚の賛歌」であると同時に、エラスムスがこの書を捧げたトマス・モアの名前にもかけた、巧妙な言葉遊びになっています。この書物において、エラスムスは、自らの批判精神を、痴愚の女神フォリア(モリア)という、奇妙で魅力的な語り手の仮面の後ろに隠しました。
女神フォリアは、学者風の演壇に立ち、自らが人間社会にとっていかに不可欠で、偉大な存在であるかを、自信満々に、そして雄弁に語り始めます。彼女の賛歌は、最初は陽気で、人間存在の根源にある「愚かさ」を、生命の源泉として称賛します。しかし、その舌鋒は次第に鋭さを増し、社会のあらゆる階層、特に学問と宗教の世界に巣食う偽善、虚栄、そして自己欺瞞を、容赦なく暴き出していきます。凝り固まったスコラ神学者、互いを褒め合うだけの文法学者、そして何よりも、キリストの教えから最も遠い生活を送る聖職者たちが、彼女の痛烈な風刺の格好の餌食となります。
しかし、『愚神礼賛』は、単なる破壊的な風刺に終わるものではありません。物語の終盤、女神フォリアは、真のキリスト教的敬虔もまた、この世の知恵を超越した、一種の「聖なる痴愚」であると説きます。こうして、エラスムスは、俗なる愚かさと聖なる愚かさという二つの鏡を読者の前に掲げ、人間とは何か、そして真の信仰とは何かという、根源的な問いを突きつけるのです。この書物は、笑いという武器を用いて、来るべき宗教改革の時代の精神を誰よりも早く告発し、ヨーロッパの知的風景を一変させる狼煙となったのです。



女神フォリアの誕生と自己紹介

奇抜な語り手の登場

『愚神礼賛』は、読者の意表を突く形で幕を開けます。演壇に登場するのは、威厳ある哲学者でも、敬虔な神学者でもありません。彼女は自らをフォリア(痴愚)と名乗り、居並ぶ聴衆に向かって、これから自画自賛の演説を始めると宣言します。この設定そのものが、エラスムスの巧妙な戦略です。真面目な顔をして真理を語るのではなく、愚かさを擬人化した女神に、逆説的な真実を語らせる。この「信頼できない語り手」を用いることで、エラスムスは、自らが展開する痛烈な社会批判や教会批判の責任を、ある意味で回避することができます。もし誰かがその内容に腹を立てたとしても、「これは痴愚の女神が言っていることで、真に受ける方がおかしい」と、はぐらかすことが可能になるのです。
女神フォリアは、自らの出自を、大仰に、そして神話的に語り始めます。彼女の父は、富と若さの神プルートス。彼は、神々の宴で神酒ネクタルに酔いしれ、若さの女神ヘベとの間に、フォリアをもうけたと言います。彼女が生まれた場所は、苦役も老いも病気も存在しない、幸運の島々。そして、彼女を育てたのは、「自己愛」と「追従」という二人のニンフでした。彼女に仕える侍女たちもまた、人間のあらゆる弱さや快楽を擬人化した存在です。「忘却」「怠惰」「快楽」「狂気」「大食」「深眠」といった仲間たちが、常に彼女の周りを取り巻いているのです。
この自己紹介は、単なる滑稽な作り話ではありません。エラスムスは、人間の「愚かさ」が、富と若さという、誰もが望むものから生まれ、自己愛や追従によって育まれるという、鋭い人間観察をここに忍ばせています。人間が愚かな行いに走るのは、それが、怠惰や快楽といった、抗いがたい魅力を持つものと結びついているからなのです。フォリアは、自らが、神々から人間まで、あらゆる存在に喜びと活気を与えている、普遍的な力の源泉であると高らかに宣言します。
生命の源泉としての痴愚

女神フォリアの自己賛美の最初の論点は、彼女がいなければ、生命そのものが存在し得ない、というものです。彼女は、冷徹で計算高い「賢者」たちが、子孫を残すという面倒な営みに手を染めるだろうかと問いかけます。結婚という制度もまた、夫が妻の欠点に目をつぶり、妻が夫の愚かさに耐えるという、ある種の「愚かさ」や「自己欺瞞」なしには成り立ちません。もし人々が、常に理性的に、相手の欠点を分析していたとしたら、誰も結婚などしないでしょう。男女が互いに惹かれ合い、家庭を築き、子を育てるという、人間の根源的な営みはすべて、理性の計算を超えた、フォリアの力がもたらす「甘美な狂気」のおかげなのです。
彼女の力は、人間の一生を通じて発揮されます。子供時代の無邪気な楽しさ、若者の向こう見ずな情熱、これらはすべて、フォリアからの贈り物です。そして、老年期。老いは、賢者にとっては耐え難い重荷かもしれませんが、フォリアの助けがあれば、老人は、自らのしわや白髪を忘れ、子供返りして、人生の最後の日々を陽気に過ごすことができます。彼らが、若い娘に色目を使ったり、踊りの輪に加わろうとしたりする滑稽な姿も、フォ-リアの慈悲深い配慮の表れなのです。
フォリアは、人間社会そのものが、彼女の力によって成り立っていると主張します。友情は、友人の欠点を見て見ぬふりをする「愚かさ」によって維持されます。社会的な結束や国家の運営もまた、人々が、指導者の欠点や政策の矛盾に目をつぶり、ある種の「お世辞」や「追従」を受け入れることで、かろうじて成り立っているのです。もし、誰もが常に、ありのままの真実を語り、他人の欠点を指摘しあう世界があったとしたら、それは、たちまち憎しみと対立に満ちた、住むに堪えない場所になってしまうでしょう。
このように、エラスムスは、女神フォリアの口を通して、人間存在の根底にある、非合理的な側面を、肯定的に描き出します。理性や知恵だけが、人間の価値ではない。むしろ、ある種の「愚かさ」こそが、人間を人間たらしめ、社会に潤滑油を与え、生命の活力を維持しているのだ、という逆説的な真理を提示してみせるのです。
社会風刺の舞台=痴愚の女神が見る人間模様

女神フォリアの演説は、生命賛歌という普遍的なテーマから、次第に、彼女の時代のヨーロッパ社会に生きる、具体的な人間たちの姿を活写する、風刺の舞台へと移っていきます。彼女の目は、社会のあらゆる階層、あらゆる職業の人々の間に、自らの信奉者たち、すなわち「愚か者」たちを見出し、その生態を、生き生きと、そして皮肉たっぷりに描き出します。
学者と芸術家の虚栄

フォリアの風刺の最初の標的となるのは、知の世界に生きる人々、すなわち学者や芸術家たちです。彼らは、自らを「賢者」と称していますが、女神の目から見れば、彼らこそ、最も滑稽で、救いようのない「愚か者」に他なりません。
まず、文法学者。彼らは、子供たちを教えるという、最も重要な仕事をしているはずですが、その実態は、薄汚い教室で、文法の些細な規則をめぐって、互いに罵り合い、生徒たちを鞭で打ちのめすことしか考えていない、惨めで傲慢な人々として描かれます。彼らは、一つの単語の語源を突き止めるために一生を費やし、その発見に、まるで世界を征服したかのような喜びを見出します。
次に、詩人や著述家たち。彼らは、自らの才能に酔いしれ、互いの作品を褒め合うことで、自己満足に浸っています。彼らは、自分の作品が不滅の名声をもたらすと信じていますが、そのほとんどは、たちまち忘れ去られる運命にあります。彼らは、他人の作品から盗用(剽窃)することに何の良心も痛めず、それを自らの独創であるかのように見せかけます。
法律家たちも、格好の標的です。彼らは、シシュポスが岩を転がすように、延々と法律の条文を引用し、互いに矛盾する見解を並べ立て、最も単純な問題を、最も複雑怪奇なものにしてしまいます。彼らの仕事は、正義を実現することではなく、議論に勝つことだけです。
そして、哲学者たち。彼らは、自然界のあらゆる秘密を知っているかのように振る舞い、世界の成り立ちや、星の大きさ、雷の原因などについて、壮大な理論を構築します。しかし、彼らの理論は、互いに矛盾しており、何一つ証明されたものはありません。彼らは、自分自身のこと、例えば、自分の鼻の先にいる虫のことさえ、ろくに知らないのです。
これらの学者たちの描写を通して、エラスムスは、当時の学問が、いかに現実の生活から乖離し、空虚な言葉の遊びや、自己満足的な虚栄に堕してしまっているかを、痛烈に批判しています。彼が理想とする、実践的で、人間性を豊かにするための学問(ボナエ・リッテラエ)とは、全く逆の世界が、そこには広がっているのです。
一般大衆の迷信と欲望

女神フォリアの視線は、次に、より広く、一般の人々の生活に向けられます。彼女は、人々の間に蔓延する、様々な迷信や、愚かな欲望を、次々と指摘していきます。
例えば、聖人崇拝。人々は、毎日決まった聖人に祈りを捧げれば、ギャンブルに勝てるとか、商売が繁盛するとか、病気が治るといった、現世的な利益が得られると信じています。彼らは、聖ゲオルギウスの絵の前で祈れば、戦で死なないと信じ、聖クリストフォロスの像を見れば、その日は災難に遭わないと信じます。彼らは、聖人の生涯や教えには全く関心がなく、ただ、自分たちの都合の良い「お守り」として、聖人を利用しているに過ぎません。
免罪符(贖宥状)もまた、フォリアの絶好の標的です。人々は、小さな硬貨を支払って、一枚の羊皮紙を買えば、煉獄での苦しみの期間が、何百年、何千年と短縮されると、本気で信じています。彼らは、自らの罪を悔い改め、生活を改めるという、キリスト教の本来の教えを忘れ、金で救いが買えるという、安易な考えに飛びついているのです。この部分は、ルターの宗教改革の直接の引き金となった問題を、エラスムスが、誰よりも早く、そして的確に批判していたことを示しています。
また、フォリアは、人間の普遍的な欲望である、富と名声への渇望を、皮肉たっぷりに描き出します。商人たちは、儲けのためなら、平気で嘘をつき、偽りの誓いを立て、人々を騙します。しかし、彼らは、自分たちの不正な行いを、抜け目のない「商才」として正当化します。そして、ひとたび富を築くと、人々から尊敬され、賢者として扱われるのです。
フォリ-アの演説は、人間社会が、いかに多くの欺瞞と自己満足、そして根拠のない迷信によって成り立っているかを、明らかにします。しかし、彼女の口調は、怒りに満ちた道徳家のそれではありません。彼女は、これらの愚かさを、ある種の愛情を込めて、まるで、自分の可愛い子供たちの悪戯を眺めるかのように、語るのです。なぜなら、これらの愚かさこそが、多くの人々にとって、人生の辛い現実を忘れさせ、幸福な幻想を与えてくれる、唯一の慰めだからです。
聖職者批判

女神フォリアの演説がクライマックスに達するのは、彼女の舌鋒が、当代のキリスト教会の指導者たち、すなわち聖職者階級に向けられる時です。ここでは、それまでの陽気な皮肉は影を潜め、エラスムスの改革への情熱が、女神の仮面を通して、最も直接的に、そして最も痛烈に表明されます。
スコラ神学者の空虚な議論

フォリアがまず血祭りにあげるのは、神学者、特に当時の大学で権勢を誇っていたスコラ神学者たちです。彼らは、自らを神学の番人と任じていますが、その実態は、聖書から遠く離れた、空虚で難解な言葉の迷宮に閉じこもっている人々として描かれます。
彼らは、世界がどのように創造されたか、原罪がどのように子孫に伝わるか、聖体のパンとワインの中にキリストがどのように実在するか(実体変化)、といった問題について、延々と議論を戦わせます。彼らは、「インスタンス」「フォーマリティ」「クィディティ」といった、誰も理解できないような専門用語を駆使し、髪の毛よりも細い議論を延々と続けます。彼らは、一本の針の上に、何人の天使が踊れるか、といった、現実とは何の関係もない問題を、大真面目に論じているのです。
フォリアは、もし使徒たちが、このような神学者たちの議論を聞いたら、どう思うだろうかと問いかけます。ペテロやパウロといった、素朴な信仰に生きた使徒たちは、このような複雑怪奇な神学理論を、全く理解できないでしょう。彼らが説いたのは、愛と信仰という、単純で、しかし実践的な教えでした。スコラ神学者たちは、キリスト教を、生きるべき道ではなく、分析すべき知的なパズルにしてしまったのです。
このスコラ神学批判は、エラスムス自身の思想の中核をなすものです。彼は、聖書の原典と、初期の教父たちの著作に立ち返り、キリストの単純な教え(フィロソフィア・クリスティ)を回復することこそが、教会改革の鍵であると信じていました。スコラ神学は、その最大の障害物だったのです。
修道士の偽善と無知

次に、フォリアの容赦ない攻撃の対象となるのは、修道士たちです。彼らは、自らを「敬虔な人々」と呼んでいますが、その多くは、キリストとは何の関係もない、とフォリアは断言します。彼らは、世俗から離れていると称しながら、実際には、社会の隅々にまで入り込み、人々の生活に干渉しています。
彼らの敬虔さとは、一体何でしょうか。それは、自分たちが着る服の色や素材、帯の結び方、サンダルの紐の数といった、些細で外面的な規則を、厳格に守ることだけです。彼らは、聖書を読むことよりも、自分たちの会則を守ることの方を、はるかに重要視します。彼らは、托鉢によって物乞いをしながら、実際には、王侯貴族のような贅沢な生活を送っています。
彼らは、説教壇から、大声で、しかし無内容な説教をがなり立てます。彼らは、自分たちの学識をひけらかすために、物語を四つの異なる意味(歴史的、寓意的、道徳的、神秘的)にこじつけて解釈してみせますが、その内容は、支離滅裂で、聴衆を眠らせるだけです。
そして、彼らは、臨終の床にある金持ちの周りに集まり、その遺産を自分たちの修道会に寄進させようと、互いに争います。彼らは、人々の罪の意識と、死への恐怖を利用して、自らの懐を肥やしているのです。フォリアは、このような偽善的な修道士たちを、キリストが最も厳しく非難した「偽善な律法学者やファリサイ派の人々」になぞらえます。
高位聖職者の世俗化

女神フォリアの批判の矛先は、さらに上へ、教会の最高指導者たちへと向けられます。司教、枢機卿、そして教皇。彼らは、使徒たちの後継者であるはずですが、その生活は、使徒たちのそれとは、似ても似つかないものです。
使徒たちは、貧しく、謙遜で、人々に仕えるために、自らの命を捧げました。しかし、当代の司教や枢機卿たちは、富と権力を追い求め、豪華な宮殿に住み、まるで王侯のように振る舞っています。彼らの関心は、人々の魂を救うことではなく、領地からの収入を増やすことや、政治的な陰謀を巡らすことだけです。
そして、ついに、フォリアは、キリストの代理人であるはずの教皇その人に、その批判の目を向けます。彼女は、もし教皇たちが、キリストの生涯、すなわち、その貧しさ、労苦、教え、そして十字架の死について、少しでも思いを巡らせたなら、誰が、金と権力を使ってまで、教皇の座に就こうとするだろうかと問いかけます。
当代の教皇たちは、キリストが「剣をさやに収めよ」と命じたにもかかわらず、自ら軍隊を率いて、戦争に明け暮れています。彼らは、キリスト教世界全体の父であるはずなのに、自分たちの世俗的な権益を守るために、キリスト教徒同士を殺し合わせているのです。彼らは、聖書を読むことよりも、財産の管理や、外交交渉に時間を費やしています。
この教皇批判は、『愚神礼賛』の中でも、最も危険で、最も大胆な部分でした。エラスムスは、痴愚の女神という仮面を借りることで、他の誰もが口にできなかった、教会の中枢に対する根本的な批判を、公然と表明したのです。この部分は、多くの保守的な神学者たちから、激しい攻撃を受ける原因となりましたが、同時に、改革を求める多くの人々に、絶大な影響を与えました。
キリスト教的逆説

『愚神礼賛』は、痛烈な社会風刺と教会批判だけで終わるわけではありません。作品の終盤、女神フォリアの演説は、驚くべき転回を見せ、読者を、より深く、より難解な、キリスト教神学の核心へと導いていきます。彼女は、これまで嘲笑の対象としてきた「愚かさ」が、実は、真のキリスト教的敬虔の本質でもあるという、逆説的な真理を語り始めるのです。
この世の知恵と神の知恵

フォリアは、聖パウロの言葉を引用し、自らの主張の根拠とします。パウロは、「コリントの信徒への手紙一」の中で、「この世の知恵は、神の前では愚かなものである」そして「神の愚かさは、人よりも賢い」と述べています。また、キリスト自身も、福音書の中で、「知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになった」神を賛美しています。
これらの聖書の言葉は、真の信仰が、人間的な理性や、この世的な知恵とは、全く異なる次元にあることを示しています。フォリアは、プラトンの洞窟の比喩を引用し、この世の現実に執着する人々を、洞窟の壁に映る影だけを見て、それを実体だと思い込んでいる囚人になぞらえます。真のキリスト者とは、この洞窟から抜け出し、影の世界ではなく、イデアの世界、すなわち、目に見えない、霊的な実在の世界に目を向ける人々のことです。
しかし、この洞窟から抜け出した人が、再び洞窟に戻り、囚人たちに真実の世界について語ろうとしても、囚人たちは、彼を、気が狂った「愚か者」として、嘲笑するでしょう。同様に、この世の富や名声、快楽を捨てて、天上の霊的な価値を追求するキリスト者は、世間の人々からは、「愚か者」と見なされる運命にあるのです。
キリスト

フォリアの議論は、さらに大胆になります。彼女は、キリスト自身こそが、この「聖なる痴愚」を、最も完全に体現した存在であると主張します。
神の子であるキリストが、人間の姿をとり、この不完全な世界に生まれてきたこと。それは、神の無限の知恵から見れば、一種の「愚行」ではなかったでしょうか。彼は、貧しい馬小屋で生まれ、罪人や徴税人と交わり、当時の宗教的権威であったファリサイ派と対立しました。そして、最終的には、最も不名誉な、十字架という形で、死んでいきました。この世の基準から見れば、彼の生涯は、失敗と敗北の連続でした。
しかし、キリスト教の信仰によれば、この「十字架の愚かさ」こそが、人類を罪から救う、神の知恵の現れなのです。キリストは、この世の権力や知恵を、徹底的に退け、謙遜と自己犠牲という、全く逆の価値を身をもって示しました。したがって、キリストに従う者たちもまた、この世の賢者であることをやめ、キリストと共に、「愚か者」となることが求められるのです。
至福の狂気

そして、フォリアは、キリスト教的生の最終目標である、神との神秘的な合一の状態を、一種の「狂気」あるいは「恍惚」として描写します。敬虔な魂が、瞑想の中で、この世の肉体的な感覚から解放され、神の霊的な光の中に没入していく時、それは、理性的な意識が停止した、至福の「狂気」の状態に他なりません。
この状態は、来世で、善き人々が天国で経験する、永遠の至福の、ほんのわずかな前触れです。そこでは、魂は、もはや肉体の牢獄から完全に解放され、神という最高の善の中に、完全に吸収されます。この究極の幸福は、この世の言葉では表現できず、理性では理解できない、まさに「聖なる痴愚」の極致なのです。
このようにして、女神フォリアの演説は、人間社会のあらゆる愚かさを嘲笑するところから始まり、最終的には、その「愚かさ」を、キリスト教信仰の最も深い神秘と結びつけるという、壮大な円環を描いて閉じられます。エラスムスは、読者を、笑いから思索へ、そして風刺から神秘主義へと、巧みに導いていきます。
『愚神礼賛』は、その多層的な構造と、逆説に満ちた論理によって、単純な解釈を許さない、極めて複雑な作品です。それは、教会を批判しながらも、真の信仰を擁護し、人間を嘲笑しながらも、人間への深い共感を失わない、ルネサンス・ヒューマニズムの精神が、最も凝縮された形で結晶した古典なのです。

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