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ダンテとは わかりやすい世界史用語2503
著作名: ピアソラ
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ダンテとは

ダンテ・アリギエーリ。その名は、西洋文学の広大な空に燦然と輝く、最も偉大な星の一つとして知られています。彼は詩人であり、政治家であり、哲学者であり、そして何よりも、その不朽の名作『神曲』によって、地獄の深淵から天国の高みまで、人間の魂が経験しうるあらゆる領域を壮大な筆致で描き出した人物です。彼の作品は、中世ヨーロッパの精神世界を集大成すると同時に、ルネサンスという新しい時代の到来を告げる曙光でもありました。しかし、その文学的功績の輝かしさとは裏腹に、ダンテ自身の生涯は、愛と憎しみ、栄光と挫折、そして何よりも、愛する故郷フィレンツェからの永久追放という、癒えることのない痛みに貫かれていました。
彼の人生を理解することは、13世紀末から14世紀初頭にかけてのイタリア、特にフィレンツェという都市国家が経験した激しい政治的=社会的な動乱の渦中へと分け入っていくことに他なりません。教皇派と皇帝派の対立、そしてその内部でのさらなる分裂と抗争。こうした混沌とした時代の中で、ダンテは一人の市民として、政治家として、自らの理想を追求しようとしましたが、その試みは無残にも打ち砕かれます。彼の後半生は、故郷を追われた流浪の旅であり、その苦悩と憤り、そして魂の救済への渇望が、『神曲』という人類史上に類を見ない文学的宇宙を創造する原動力となったのです。ダンテの生涯を辿る旅は、一人の人間の個人的な悲劇が、いかにして普遍的な価値を持つ芸術へと昇華されうるのか、その深遠な謎を探求する旅でもあります。
フィレンツェの光と影=青年時代のダンテ

誕生と家系

ダンテ・アリギエーリは、1265年、北イタリアのトスカーナ地方で最も栄華を誇る都市国家フィレンツェに生まれました。正確な誕生日は記録に残っていませんが、彼自身の著作『神曲』の記述から、双子座の時期、すなわち5月の半ばから6月の半ばにかけて生まれたと推定されています。彼の洗礼名はドゥランテ・デッリ・アリギエーリでしたが、一般にはその短縮形である「ダンテ」として知られています。
彼のアリギエーリ家は、フィレンツェの旧い家柄ではありましたが、当時すでに没落しつつあった小貴族の家系でした。彼らは、都市の支配階級であった大商人や銀行家の一族に比べれば、富も権力も限られていました。しかし、ダンテ自身は自らの家系に誇りを持っており、特に、第二次十字軍に参加して聖地で殉教したとされる高祖父カッチャグイーダの存在を、自身の貴族としての血筋の証として『神曲』天国篇の中で誇らしげに語っています。このカッチャグイーダとの対話の場面は、ダンテが自身のルーツと使命をどのように捉えていたかを知る上で、非常に重要な意味を持っています。
ダンテがまだ幼い頃に母ベッラが亡くなり、父アリギエーロ・ディ・ベッリンチョーネはラパ・ディ・キアリッシモ・チャルフィッセという女性と再婚しました。父は高利貸しに近い形で金銭の貸し付けを行っていたとされ、ダンテは父の職業に対して複雑な感情を抱いていたようです。『神曲』地獄篇で高利貸したちが蔑まれている描写は、その反映かもしれません。父もまた、ダンテが18歳になる頃に亡くなり、彼は若くして一家の主となりました。
教育と知的形成

ダンテがどのような正規の教育を受けたのか、その詳細は明らかではありません。しかし、彼の著作が示す恐るべき博識ぶりから、彼が当代最高の教育を受けていたことは疑いようがありません。当時のフィレンツェには、フランシスコ会やドミニコ会といった修道会が運営する学校があり、彼はそこでアリストテレス哲学やスコラ神学、そしてラテン語の古典文学といった、中世の学問体系の基礎を学んだと考えられています。
特に、彼の知的形成に大きな影響を与えた人物として、ブルネット・ラティーニの名を挙げることができます。ラティーニは、フィレンツェの書記官長を務めた政治家であり、該博な知識を持つ学者でもありました。ダンテは彼を師と仰ぎ、その薫陶を受けました。ダンテは『神曲』地獄篇で、師であるラティーニが同性愛の罪によって罰せられている姿を描くという、衝撃的な場面を挿入しています。しかし、その一方で、ダンテはラティーニに対して深い敬愛の念を示し、「人がいかにして永遠の存在となるかを教えてくれた」と感謝の言葉を述べています。この複雑な描写は、罪に対する神の正義を認めつつも、師への個人的な恩情を忘れないダンテの人間的な葛藤を浮き彫りにしています。
また、ダンテは独学で詩作の技術を磨きました。彼は、プロヴァンス地方のトルバドゥール(吟遊詩人)たちの恋愛詩や、シチリア派の詩、そしてボローニャ派の詩人グイド・グイニツェッリらが提唱した「清新体」(ドルチェ・スティル・ノーヴォ)の詩に深く傾倒しました。清新体とは、女性への愛を、神へ通じる精神的な浄化の道として捉える、極めて洗練された新しい詩のスタイルでした。ダンテは、この清新体の理念をさらに深化させ、自らの詩作の中心に据えることになります。
ベアトリーチェとの出会いと『新生』

ダンテの生涯と文学を語る上で、ベアトリーチェという一人の女性の存在を抜きにすることはできません。彼女は、ダンテにとって単なる恋愛の対象ではなく、神の恩寵を体現する天上の存在であり、彼の魂を救済へと導く永遠の導き手でした。
ダンテが自らの詩と散文を織り交ぜて綴った最初の主要な著作『新生』(La Vita Nuova)によれば、彼がベアトリーチェに初めて出会ったのは、彼が9歳の時でした。同い年の彼女が、深紅のドレスをまとって現れたその瞬間、彼の魂は愛の神によって支配されたと、ダンテは詩的に語ります。この「9」という数字は、三位一体の「3」の二乗であり、ベアトリーチェが奇跡の存在であることを象徴しています。
二度目の出会いは、その9年後、ダンテが18歳の時でした。アルノ川にかかるサンタ・トリニタ橋の上で、ベアトリーチェは二人の女性に付き添われて歩いており、彼に優雅な会釈を送りました。この会釈こそが、ダンテにとって至福の体験であり、彼の詩作の源泉となりました。彼は、ベアトリーチェへの愛を、見返りを求めない純粋な賛美の詩として表現しようと決意します。これが、清新体の理念を実践する彼の詩作の出発点でした。
しかし、この天上の愛の物語は、悲劇的な結末を迎えます。1290年、ベアトリーチェは若くしてこの世を去りました。彼女の死は、ダンテに計り知れない衝撃と悲嘆をもたらしました。彼は一時期、絶望の淵に沈み、他の女性に心を移すなど、精神的な彷徨を経験します。しかし、やがて彼は、ベアトリーチェの死を、彼女が真に天上の存在となったことの証しと捉え直します。そして、彼女にふさわしい、かつて誰も書いたことのないような偉大な作品を創造することを誓うのです。この誓いこそが、後の『神曲』の執筆を予感させるものでした。『新生』は、このベアトリーチェへの愛の軌跡と、彼女の死を乗り越えて新たな文学的使命を見出すまでの、ダンテの魂の記録なのです。
なお、ベアトリーチェのモデルは、フィレンツェの裕福な銀行家フォルコ・ポルティナーリの娘、ビーチェであったと一般的に考えられています。彼女はシモーネ・デイ・バルディという銀行家と結婚し、ダンテが記した通り1290年に亡くなっています。ダンテと彼女が実際にどのような関係にあったのか、その事実は定かではありません。しかし、重要なのは、ダンテが彼女という実在の女性を、自らの詩的世界の中で、神学的な意味を担う普遍的な象徴へと昇華させたという点にあります。
政治の渦中へ=フィレンツェでの公的生活

教皇党と皇帝党の抗争

ベアトリーチェの死後、ダンテは自らの悲しみを癒すかのように、哲学の研究に没頭すると同時に、フィレンツェの政治の世界へと足を踏み入れていきます。当時のイタリアの都市国家は、教皇を支持する教皇党(グェルフィ党)と、神聖ローマ皇帝を支持する皇帝党(ギベッリーニ党)という二大勢力の対立によって、絶えず分裂と抗争を繰り返していました。フィレンツェは伝統的にグェルフィ党の牙城でしたが、その内部でも権力闘争は絶えませんでした。
青年時代のダンテは、一市民としてフィレンツェの軍務にも服しています。1289年、彼はカンパルディーノの戦いに騎士として参加し、ギベッリーニ党の牙城であったアレッツォに対するフィレンツェ軍の勝利に貢献しました。この戦いの激しい記憶は、『神曲』地獄篇の描写にも生かされていると言われています。
白党と黒党への分裂

1290年代半ば、ダンテはフィレンツェの政治に本格的に関わるようになります。当時のフィレンツェでは、公職に就くためにはいずれかの同業者組合(ギルド)に加入する必要があったため、彼は医師=薬剤師組合に登録しました。これは、彼が実際に薬学を修めたというよりは、哲学や書物に関わる学者がしばしばこの組合に属したためです。
1295年から1300年にかけて、ダンテは市の様々な評議会や委員会のメンバーを務め、その政治的手腕を発揮していきました。しかし、この頃、フィレンツェのグェルフィ党は、二つの派閥へと決定的に分裂してしまいます。一つは、チェルキ家を中心とする「白党」(ビアンキ)で、彼らはフィレンツェの独立を重んじ、教皇の過度な内政干渉に批判的でした。もう一つは、ドナーティ家を中心とする「黒党」(ネーリ)で、彼らは教皇との連携を重視し、その支援を積極的に求めました。
ダンテは、自らの信念に基づき、白党に与しました。彼は、フィレンツェの自由と共和制の理念を守るためには、外部勢力、特に教皇ボニファティウス8世の野心から距離を置くべきだと考えていたのです。この選択が、彼の運命を大きく左右することになります。
プリオーレ就任と政治的絶頂

1300年、ダンテの政治家としてのキャリアは頂点に達します。この年の6月15日から8月14日までの2ヶ月間、彼はフィレンツェ共和国の最高行政職である6人のプリオーレ(統領)の一人に選出されたのです。この時期は、白党と黒党の対立が最も激化した時期であり、プリオーレとしての彼の立場は極めて困難なものでした。
市内の騒乱を鎮めるため、ダンテを含むプリオーレたちは、両派の首謀者たちをフィレンツェから追放するという苦渋の決断を下します。この時追放された者の中には、黒党の指導者コルソ・ドナーティだけでなく、白党に属していたダンテの親友であり、詩人仲間でもあったグイド・カヴァルカンティも含まれていました。カヴァルカンティは、追放先のサルザーナでマラリアに罹り、フィレンツェへの帰還を許された直後に亡くなってしまいます。この出来事は、ダンテに深い心の傷を残しました。彼は後に、この決断を「すべての不運の始まりであった」と述懐しています。
追放と流浪=終わりのない旅

ボニファティウス8世の陰謀とヴァロワのシャルル

ダンテがプリオーレの任期を終えた後も、フィレンツェの政情は悪化の一途をたどりました。教皇ボニファティウス8世は、トスカーナ地方における自らの影響力を拡大するため、フィレンツェの内紛に介入する機会を虎視眈々と狙っていました。彼は、黒党と密かに連携し、フランス国王フィリップ4世の弟であるヴァロワのシャルルを「平和の調停者」としてフィレンツェに派遣する計画を立てます。
1301年秋、白党が政権を握るフィレンツェ政府は、教皇の真意を探るため、ローマへ使節団を派遣することを決定します。ダンテは、この使節団の主要なメンバーの一人として選ばれました。しかし、これは黒党と教皇が仕組んだ巧妙な罠でした。ダンテがフィレンツェを留守にしている間に、事態は急変します。
1301年11月1日、ヴァロワのシャルルが軍隊を率いてフィレンツェに入城します。彼は中立を装いながらも、実質的に黒党に加担し、市内でのクーデターを黙認しました。白党の指導者たちは追放され、黒党が完全に権力を掌握したのです。
欠席裁判と永久追放

ローマに滞在していたダンテのもとに、故郷での政変の報が届きます。彼は急いでフィレンツェに戻ろうとしましたが、時すでに遅しでした。1302年1月、黒党の新政権は、ダンテを含む多くの白党員に対して、職権乱用、公金横領、反教皇的な活動といった、事実無根の罪状で告発を行いました。ダンテは、指定された期日までにフィレンツェに出頭して弁明し、罰金を支払うよう命じられますが、彼はこの不正な裁判に従うことを拒否しました。
その結果、彼は欠席裁判で有罪とされ、全財産の没収、2年間の追放、そしてフィレンツェの公職からの永久追放という判決を言い渡されます。さらに同年3月、彼がもしフィレンツェ共和国の領内に足を踏み入れた場合は、生きたまま火刑に処するという、さらに過酷な判決が下されました。
こうして、37歳のダンテは、愛する故郷フィレンツェから永久に追放されることになったのです。彼は二度と、その美しい洗礼堂のドームを見ることはありませんでした。この瞬間から、彼の人生は、イタリア各地をさまよう、苦難に満ちた流浪の旅となったのです。
流浪の宮廷生活と著作活動

追放された当初、ダンテは他の白党の亡命者たちと合流し、武力によってフィレンツェに帰還しようと試みました。しかし、亡命者たちの間でも意見の対立は絶えず、その計画はことごとく失敗に終わります。彼は、思慮に欠ける仲間たちに愛想を尽かし、やがて「自分自身で一つの党派をなす」ことを決意し、孤独な道を歩み始めます。
彼の後半生は、北イタリア各地の有力な君主や貴族の宮廷を渡り歩く、庇護を求める旅でした。彼はヴェローナのスカラ家、ルニジャーナのマラスピーナ家、そしてラヴェンナのダ・ポレンタ家など、様々なパトロンのもとで食客としての日々を送りました。宮廷詩人としての彼の名声は、彼にある程度の敬意をもたらしましたが、他人のパンを食べ、他人の家の階段を上り下りする流浪の生活は、誇り高い彼の魂を深く傷つけました。『神曲』天国篇で、高祖父カッチャグイーダがダンテの未来を予言する場面には、この流浪の苦しみが痛切に表現されています。
しかし、この苦難の時代こそ、ダンテの創作活動が最も実り豊かになった時期でもありました。彼は、追放という個人的な悲劇を、より普遍的な人間の魂の探求へと昇華させるべく、壮大な文学的プロジェクトに着手します。
追放初期に書かれた『饗宴』は、哲学的な主題を扱った未完の散文作品です。この作品で彼は、ラテン語ではなく、一般の人々が用いるイタリア語(俗語)で深遠な思想を語ることの重要性を説き、知識を一部の学者だけでなく、より広い人々と分かち合おうとしました。
同じ頃に書かれた『俗語論』は、ラテン語で書かれた言語学的な論文です。ここで彼は、イタリア各地で話されている様々な方言を分析し、それらを超えた、文学にふさわしい洗練された「輝かしい俗語」を確立する必要性を論じました。これは、イタリア語をラテン語と同等の格調高い文学言語として確立しようとする、壮大な試みでした。
そして何よりも、彼の流浪の生涯のすべてが注ぎ込まれたのが、畢生の大作『神曲』です。この作品の執筆は、1308年頃に始まったとされ、彼の死の直前まで続けられました。
皇帝ハインリヒ7世への期待と絶望

流浪の日々を送るダンテに、一筋の希望の光が差し込みます。1310年、新しく神聖ローマ皇帝に選出されたルクセンブルク家のハインリヒ7世が、イタリアへの遠征を開始したのです。ハインリヒ7世は、グェルフィ党とギベッリーニ党の対立を超越し、皇帝の権威のもとにイタリア全土に平和と正義をもたらすことを理想としていました。
ダンテは、この皇帝こそが、腐敗したイタリアを救済し、教皇の不当な権力介入を終わらせ、そして自分を故郷フィレンツェに帰還させてくれる救世主であると信じ、熱狂的な期待を寄せました。彼は、イタリアの諸都市や君主たちに宛てて、皇帝に服従するよう呼びかける書簡を書き送ります。また、政治論文『帝政論』を執筆し、その中で、人類の平和と幸福のためには、世俗の事柄は皇帝が、精神的な事柄は教皇が、それぞれ独立して統治するべきであるという、政教分離の理念を力強く主張しました。
しかし、ダンテのこの熱烈な期待は、無残にも裏切られます。ハインリヒ7世の理想は、イタリアの複雑な政治的現実の前にはあまりにも無力でした。教皇クレメンス5世は当初の支持を撤回し、フィレンツェをはじめとする多くのグェルフィ党の都市は、皇帝に対して頑なな抵抗を続けました。1313年8月、ハインリヒ7世は、ナポリ王国への遠征の途上、シエナ近郊で熱病のために急死してしまいます。
救世主と信じた皇帝の突然の死は、ダンテにとって決定的な打撃でした。故郷への帰還という最後の望みは断ち切られ、彼は再び深い絶望の淵に突き落とされました。この経験を経て、彼は地上の政治への期待を断念し、その眼差しを、もっぱら『神曲』が描き出す来世の秩序と、神の正義へと向けていくことになります。
ラヴェンナでの最期と不滅の遺産

『神曲』の完成

ハインリヒ7世の死後、ダンテはヴェローナなどを経て、最終的にラヴェンナの領主グイド・ノヴェッロ・ダ・ポレンタの宮廷に安住の地を見出します。ラヴェンナは、かつて西ローマ帝国や東ゴート王国の首都であった古都であり、そのビザンティン様式の壮麗なモザイクは、ダンテの『神曲』天国篇のイメージに影響を与えたと言われています。
このラヴェンナでの穏やかな数年間で、ダンテは『神曲』の最後の部分である天国篇の執筆に全精力を注ぎ込み、その死の直前に、この壮大な叙事詩を完成させました。全三部、百歌、一万四千二百三十三行からなるこの作品は、ダンテ自身を主人公とし、彼が古代ローマの詩人ウェルギリウスに導かれて地獄と煉獄を、そして永遠の淑女ベアトリーチェに導かれて天国を巡り、最終的に神の姿をかいま見るまでの、魂の遍歴の物語です。それは、中世の神学、哲学、天文学、歴史の知識を網羅した百科全書的な作品であると同時に、ダンテ自身の個人的な体験と、同時代人への痛烈な批判、そして人類の罪と救済への普遍的な問いかけが込められた、比類のない文学的宇宙でした。
死と埋葬

1321年、ダンテはラヴェンナの領主グイドの代理として、外交使節としてヴェネツィアに赴きます。その帰途、彼はマラリアに罹患し、病状は急速に悪化しました。そして、1321年9月13日から14日にかけての夜、ダンテはラヴェンナでその波乱に満ちた56年の生涯を閉じました。
彼の亡骸は、ラヴェンナのサン・フランチェスコ教会に手厚く葬られました。彼の死後、その偉大さが認識されるにつれて、故郷フィレンツェは何度もラヴェンナに対して遺骨の返還を要求しました。ミケランジェロも、ダンテのために壮麗な墓をフィレンツェに建設することを申し出ています。しかし、ラヴェンナの人々は、生前のダンテを追放したフィレンツェに彼の遺骨を渡すことを頑なに拒み続けました。一度は、遺骨を盗み出そうとするフィレンツェの使節から守るため、フランシスコ会の修道士たちが遺骨を壁の中に隠したこともありました。ダンテの墓は、今日もラヴェンナにあり、彼の不屈の精神と、故郷への叶わなかった想いを静かに物語っています。
ダンテ・アリギエーリは、政治家としては敗北し、愛する故郷から追放され、失意のうちに生涯を終えました。しかし、彼はその苦難を、人類史上に燦然と輝く不滅の芸術へと結晶させました。彼がイタリア俗語で書き上げた『神曲』は、イタリア語をヨーロッパの主要な文学言語の一つとして確立し、「イタリア語の父」としての彼の地位を不動のものにしました。

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