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シーア派とは わかりやすい世界史用語2350
著作名: ピアソラ
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シーア派とは

サファヴィー朝(1501年-1736年)は、イランの歴史において最も重要な画期の一つとして位置づけられています。 この王朝がもたらした最大の変革は、十二イマーム派シーア派を国教として樹立したことであり、これはイスラーム世界の歴史における重大な転換点となりました。 サファヴィー朝以前のイランは、そのイスラーム史の大部分においてスンニ派が優勢な地域でした。 しかし、サファヴィー朝の出現と宗教政策により、イランはシーア派の中心地へと姿を変え、その影響はのちのイランの国家的な価値観や中東の地政学的状況にまで及んでいます。



サファヴィー教団の起源とシーア派への傾倒

サファヴィー朝の起源は、13世紀末にアルダビールで設立されたサファヴィー教団というスーフィー(イスラーム神秘主義)教団に遡ります。 この教団の創始者は、シャイフ・サフィー・アッディーン・アルダビーリー(1253年-1334年)という人物です。 初期のサファヴィー教団は、スンニ派のシャーフィイー法学派に従う穏健な教団でした。 しかし、教団はその普遍的なメッセージによってスンニ派とシーア派双方の信徒を惹きつけ、次第にシーア派的な色彩を帯びていきます。 特に、預言者ムハンマドの従弟であり娘婿であるアリーへの民衆的な崇敬が、この変化を後押ししたと考えられています。
教団の歴史における決定的な転換点は、サフィー・アッディーンの曾孫にあたるシャイフ・ジュナイド(1460年没)の時代に訪れます。 ジュナイドは、教団の指導者として精神的な権威に留まることに満足せず、政治的・軍事的な権力を追求し始めました。 この野心を実現するため、彼は教団の教義を明確にシーア派的なものへと変え、自らを神格化するような極端なシーア派思想(グラート)を取り入れました。 ジュナイドの信奉者たちは、彼を神の化身と信じるほど熱狂的であり、その多くはイスラームに改宗して間もない異教的慣習を色濃く残すトルクメン系の遊牧民でした。
ジュナイドの息子ハイダルは、この軍事的な路線をさらに推し進め、キジルバシュ(「赤い頭」の意)として知られる軍事組織を創設しました。 キジルバシュは、サファヴィー教団への忠誠の証として特徴的な赤い帽子を被ったトルクメン系の戦士たちであり、サファヴィー朝建国のための軍事的中核を形成することになります。 彼らは、教団の指導者を精神的指導者(ムルシデ・カーミル)として絶対的に服従し、その命令に従って戦いました。 こうして、元々は穏健なスンニ派の神秘主義教団であったサファヴィー教団は、ジュナイドとハイダルの下で、シーア派を掲げる戦闘的な宗教・政治運動体へと完全に変貌を遂げたのです。

シャー・イスマーイール1世によるシーア派国教化

1501年、ハイダルの息子であり、当時わずか14歳だったイスマーイール1世は、キジルバシュの軍事力を背景にタブリーズを占領し、自らをシャー(王)と宣言しました。 これがサファヴィー朝の始まりです。 イスマーイール1世は、権力を掌握すると直ちに、十二イマーム派シーア派を帝国の公式な国教とすることを布告しました。 当時のイランの住民の大多数はスンニ派であり、この決定は極めて大胆かつ画期的なものでした。 イスラームの歴史において、スンニ派が普遍的に支配的であった状況に終止符を打ち、イランの宗教的景観を根本から変える歴史的な転換点となったのです。
イスマーイール1世の国教化政策は、極めて強硬かつ徹底したものでした。 彼は、自らの強固な宗教的信念が王位をもたらしたと信じ、その政治的・軍事的権威を行使してシーア派のイデオロギーを強制しました。 帝国内の全てのスンニ派教徒に対してシーア派への改宗が命じられ、抵抗する者は死罪に処されました。 スンニ派のウラマー(宗教指導者)や神学者たちは、改宗か国外追放かの選択を迫られました。 タブリーズでは、改宗に抵抗したスンニ派住民が多数殺害されたと記録されています。 また、シーラーズやイスファハーンといった主要都市でも、抵抗したスンニ派の指導者たちが処刑されました。 スンニ派のモスクは破壊されるかシーア派のモスクに転用され、スンニ派の著名な学者の墓も破壊の対象となりました。
さらに、イスマーイール1世は、シーア派の教義を社会の隅々にまで浸透させるための制度的な改革も断行しました。彼は、シーア派版の礼拝への呼びかけ(アザーン)を全てのモスクで使用するよう命じました。 また、初代から三代までのカリフ(アブー・バクル、ウマル、ウスマーン)を公然と呪詛する儀式(タバッラー)を制度化し、これを拒否する者には厳しい罰が科されました。 このような過激な政策は、スンニ派住民の間に恐怖を植え付け、改宗を加速させる大きな要因となりました。
一方で、イスマーイール1世は、シーア派の教義的基盤を強化するため、国外からシーア派の学者を積極的に招聘しました。 当時のイランには、シーア派の法学や教義に精通した学者が不足していたため、主にアラブ地域のジャバル・アーミル(現在のレバノン南部)やバーレーン、イラク南部などから著名な十二イマーム派の学者たちが招かれました。 彼らは、サファヴィー朝の庇護の下でシーア派神学校(マドラサ)を設立し、シーア派の教義や法学の教育と普及に努めました。 このようにして、イスマーイール1世は、武力による強制的な改宗と、学問的な基盤整備という両面から、イランのシーア派化を強力に推進したのです。

国教化の政治的・社会的影響

サファヴィー朝によるシーア派の国教化は、単なる宗教的な変革に留まらず、イランの政治、社会、そして国家的アイデンティティの形成に深遠な影響を及ぼしました。
イラン独自の国民的アイデンティティの形成
シーア派の国教化は、イランを周辺のスンニ派国家、特に西のオスマン帝国と東のウズベクといった強大な隣国から明確に区別する役割を果たしました。 宗教的な差異は、政治的・文化的な境界線を強化し、サファヴィー朝下の多様な民族的・言語的集団を「イラン人」として統合する強力な求心力となりました。 アシューラー(イマーム・フサインの殉教を追悼する儀式)のようなシーア派特有の儀式や祝祭が国家的に奨励され、国民的な文化の象徴として定着しました。 これにより、シーア派信仰はイランのナショナリズムの礎となり、ペルシャの文化と深く結びついた独自の国民的アイデンティティが育まれていったのです。

オスマン帝国との対立激化

サファヴィー朝がシーア派を国教としたことは、スンニ派の盟主を自認するオスマン帝国との間に深刻なイデオロギー的対立を引き起こしました。 オスマン帝国のスルタン、セリム1世は、サファヴィー朝のシーア派拡大政策を自国への脅威とみなし、アナトリア東部のシーア派住民(キジルバシュと共鳴する人々)を迫害しました。 この対立は、1514年のチャルディラーンの戦いで頂点に達します。 この戦いで、火器(マスケット銃や大砲)で武装したオスマン軍は、伝統的な騎馬戦術に依存するサファヴィー軍に壊滅的な打撃を与えました。 イスマーイール1世自身も敗走し、この敗北は彼の神格化された権威に大きな傷をつけました。 チャルディラーンの戦いは、オスマン帝国とサファヴィー朝の間の国境線を事実上確定させるとともに、その後300年以上にわたって続く両帝国の地政学的・宗教的対立の始まりを告げるものでした。

ウラマー(宗教指導者)の台頭

イスマーイール1世が始めたシーア派学者の招聘は、その後のサファヴィー朝の社会構造に大きな変化をもたらしました。 特に、イスマーイール1世の後を継いだタフマースブ1世(在位1524年-1576年)の治世下で、ウラマーの権力と影響力は著しく増大しました。 タフマースブ1世は、治世初期にキジルバシュの有力部族間の内紛に直面したため、彼らの力を抑制し、中央集権化を進める上で、ウラマーとの協力を不可欠としました。
この時期にイランへ移住した学者の中でも、ジャバル・アーミル出身のアリー・アル=カラキーは特に重要な役割を果たしました。 彼は、隠れイマーム(ガイバ)の代理人として、シーア派法学者が国家の統治に関与する正当性を理論化しました。 この理論は、サファヴィー朝のシャーの統治に宗教的な正統性を与える一方で、ウラマーが国家の政治・社会問題において重要な役割を担う道を開きました。 ウラマーは、司法、教育、そしてワクフ(宗教寄進財)の管理といった分野で大きな権限を握り、徐々にシャーの権威と並び立つほどの社会階級を形成していきました。 この「王権(王冠)」と「聖職者(ターバン)」の間の権力関係は、その後のイラン史における重要なテーマの一つとなります。

サファヴィー朝におけるシーア派思想の深化

サファヴィー朝の時代は、イランにおけるシーア派化が強制的に進められただけでなく、シーア派の神学や哲学が大きく発展した時期でもありました。 特に首都イスファハーンは、学問と文化の中心地として栄え、「イスファハーン学派」と呼ばれる哲学・神学の一大潮流を生み出しました。

イスファハーン学派の隆盛

シャー・アッバース1世(在位1588年-1629年)の治世下で最盛期を迎えたイスファハーンは、世界中から学者、芸術家、商人たちが集まる国際都市となりました。 この知的活気に満ちた環境の中で、ミール・ダーマードやその弟子であるモッラー・サドラーといった傑出した思想家たちが登場しました。 彼らは、シーア派の教義、イブン・スィーナーに代表されるペリパトス派(逍遙学派)哲学、イブン・アラビーの神秘主義思想、そしてスフラワルディーの照明学派の思想などを統合し、独創的な哲学体系を築き上げました。
モッラー・サドラーは、特に「存在の優位性」と「実体的運動」という独自の概念を提唱し、存在論における革新をもたらしました。彼の哲学は、理性的探求と神秘的直観を融合させることを目指したものであり、その後のシーア派思想に計り知れない影響を与えました。イスファハーン学派の学者たちは、神学、法学、哲学、倫理学など多岐にわたる分野で膨大な著作を残し、シーア派の知的伝統を豊かにしました。

マフディー主義と王権

サファヴィー朝の王権イデオロギーにおいて、マフディー主義(救世主思想)は重要な役割を果たしました。 十二イマーム派シーア派では、第12代イマームであるムハンマド・アル=マフディーが、人々の目から隠れ(ガイバ)、終末の日に救世主(マフディー)として再臨し、地上に正義と平和を確立すると信じられています。
サファヴィー朝のシャーたちは、自らを隠れイマームの代理人、あるいはその再臨までの地上の統治者として位置づけることで、自らの支配を正当化しようとしました。 初期のサファヴィー朝の指導者、特にイスマーイール1世は、自らを神格化し、マフディーそのものであるかのような主張さえ行いました。 しかし、チャルディラーンの戦いでの敗北後、このような過激な主張は影を潜め、より穏健な「隠れイマームの代理人」としての王権理論が主流となりました。 この理論は、ウラマーによって精緻化され、シャーの権威は、隠れイマームからその代理人である高位の法学者を通じて付与される、という考え方が確立されていきました。 サファヴィー朝の歴史家たちは、王朝の出来事をマフディーの再臨という終末論的な文脈の中に位置づけ、王朝の正統性を強調する歴史書を著しました。

アフバーリー派とウスーリー派の対立

サファヴィー朝後期には、シーア派法学の解釈を巡って、アフバーリー派とウスーリー派という二つの学派間の対立が顕在化しました。
アフバーリー派は、法源をクルアーンと、預言者ムハンマドおよび12人のイマームの言行録(ハディース、アフバール)に厳格に限定するべきだと主張しました。彼らは、イジュティハード(法学者が法源から新たな法解釈を導き出すための独立的・理性的推論)の実践に否定的であり、一般の信徒は法学者(ムジュタヒド)に従う(タクリード)必要はなく、直接ハディースを参照すべきだと考えました。
一方、ウスーリー派は、クルアーンとハディースに加えて、理性(アクル)と合意(イジュマー)も法源として認め、イジュティハードの重要性を強調しました。彼らは、隠れイマームの時代においては、資格のあるムジュタヒドがイジュティハードを行うことが不可欠であり、一般の信徒は最も優れたムジュタヒドに従う義務があると主張しました。
サファヴィー朝の時代を通じて、両派は激しい論争を繰り広げましたが、王朝末期からその後の時代にかけて、次第にウスーリー派が優勢となっていきました。 このウスーリー派の勝利は、高位の法学者(マルジャエ・タクリード)が一般信徒に対して絶大な権威を持つという、シーア派社会の階層的な構造を確立する上で決定的な役割を果たしました。

宗教政策の変遷と社会への浸透

サファヴィー朝の2世紀半にわたる統治の中で、その宗教政策は初期の過激な強制から、より制度化され、社会に深く根を下ろす形へと変化していきました。
シャー・アッバース1世の改革
シャー・アッバース1世の治世は、サファヴィー朝の黄金時代と称されますが、宗教政策においても重要な転換期でした。 彼は、建国の功臣でありながらしばしば王権を脅かす存在となっていたキジルバシュの軍事力を抑制するため、グルジア人やアルメニア人、チェルケス人といったカフカース系のキリスト教徒からなる新しい常備軍(グラーム)を創設しました。 これにより、国家の軍事基盤をキジルバシュへの依存から脱却させ、中央集権体制を強化しました。
宗教面では、アッバース1世はイスファハーンに壮麗なモスクやマドラサを建設し、シーア派の学問と芸術を厚く庇護しました。 彼の治世下で、シーア派はイラン社会の隅々にまで浸透し、人々の日常生活や文化と不可分に結びついていきました。しかし、彼の政策はスンニ派に対して寛容であったわけではありません。特定の地域ではスンニ派への迫害が続けられ、税制上の差別なども存在しました。

ムハンマド・バーキル・マジュリスィーの影響

サファヴィー朝後期、特にスルターン・フサイン(在位1694年-1722年)の治世において、宗教界で絶大な影響力を持ったのが、シャイフ・アル=イスラーム(最高宗務官)の地位にあったムハンマド・バーキル・マジュリスィーです。 彼は、シーア派のハディースを網羅的に収集・編纂した巨大な叢書『ビハール・アル=アンワール(光の海)』の編者として知られています。
マジュリスィーは、極めて厳格な法解釈を採る人物であり、スーフィズムや哲学、そしてスンニ派や他の非シーア派の宗教に対して強い敵意を示しました。 彼の指導の下、異端と見なされた思想や集団への弾圧が強化され、シーア派の教義の「純化」が図られました。 彼の活動は、シーア派の教義を大衆に広く普及させる上で大きな役割を果たしましたが、一方でシーア派内部の知的多様性を狭め、硬直化させる結果も招いたと評価されています。 彼の思想は、サファヴィー朝の末期における宗教的不寛容の風潮を助長し、王朝の衰退の一因になったとも指摘されています。

サファヴィー朝の遺産

1722年、アフガンのスンニ派勢力によるイスファハーン占領によってサファヴィー朝は事実上崩壊し、1736年にナーディル・シャーによって完全に終焉を迎えました。 しかし、サファヴィー朝がイランとイスラーム世界に残した遺産は、計り知れないほど大きなものです。
最大の遺産は、イランを十二イマーム派シーア派が支配的な国家へと変貌させたことです。 サファヴィー朝による改宗政策の結果、かつてはスンニ派が多数を占めていたイランとアゼルバイジャンの地域は、シーア派が人口の大多数を占めるようになりました。 この宗教的景観の変化は不可逆的なものであり、ナーディル・シャーが後にスンニ派への回帰を試みましたが、ほとんど成功しませんでした。
サファヴィー朝時代に確立されたシーア派のウラマーと国家権力の関係、そしてウラマーとバザール(市場商人層)の同盟関係は、その後のイラン史、特に1905年から1906年のイラン立憲革命や1979年のイスラーム革命において重要な役割を果たしました。 サファヴィー朝によって形成された、シーア派信仰とペルシャの文化的アイデンティティが固く結びついた「イラン・シーア派」という枠組みは、現代に至るまでイランの国家と社会の根幹をなし続けています。
サファヴィー朝は、元来スンニ派の神秘主義教団から出発しながらも、政治的野心とシーア派イデオロギーを結びつけ、強硬な改宗政策を通じてイランをシーア派国家へと作り変えました。この過程は、周辺のスンニ派国家との激しい対立を生み出す一方で、イラン独自の国民的アイデンティティを形成し、ウラマーという強力な社会階級を台頭させました。

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