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ムガル帝国とは わかりやすい世界史用語2364
著作名: ピアソラ
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ムガル帝国の黎明:バーブルの登場

ムガル帝国は、16世紀初頭から19世紀半ばにかけてインド亜大陸の大部分を支配した、テュルク・モンゴル系のイスラム王朝です。 その歴史は、中央アジアの小君主であったバーブルが、インド亜大陸に新たな帝国を築くという野望を抱いたことから始まります。 バーブルは、父方からはティムール朝の創始者であるティムール、母方からはモンゴル帝国の創始者であるチンギス・ハンの血を引いていました。 この高貴な血筋は、彼の野心と、支配者としての正当性を支える重要な要素でした。
1494年、わずか12歳で父の領地であったフェルガナを継承したバーブルでしたが、その治世は当初から困難を極めました。 中央アジアの覇権を巡る争いの中で、彼は故郷を追われ、サマルカンドの奪取と喪失を繰り返すなど、不安定な日々を送ります。 特に、ウズベク族のシャイバーニー・ハーンとの戦いは熾烈を極め、バーブルは中央アジアにおける足場を完全に失うことになります。 この苦難の時期を経て、バーブルは自身の運命を切り開くべく、新たな目標を南、すなわちインドへと向けました。
1504年、バーブルはアフガニスタンのカーブルを占領し、そこを拠点としてインド侵攻の準備を着々と進めます。 当時の北インドは、デリー・スルタン朝のロディー朝が支配していましたが、その力は衰退し、国内は分裂状態にありました。 パンジャーブ地方の総督であったダウラト・ハーン・ロディーや、デリー・スルタンの叔父であるアーラム・ハーンからの支援要請は、バーブルにとってまたとない好機となりました。
1526年、バーブルは満を持してインドへと進軍し、パーニーパットの地でデリー・スルタン、イブラーヒーム・ロディーの軍と対峙します。 これが第一次パーニーパットの戦いです。バーブル軍は数では劣っていましたが、当時最新の兵器であった火縄銃と大砲を効果的に活用し、象を中心としたロディー軍を圧倒しました。 この戦いの勝利により、バーブルはデリーとアグラを占領し、ムガル帝国の礎を築いたのです。
しかし、バーブルの挑戦はまだ終わりませんでした。翌1527年、彼はラージプート諸侯の連合軍を率いるメーワール王国のラナ・サンガと、カーヌワーの戦いで激突します。 ラージプート軍は勇猛果敢に戦いましたが、バーブルは巧みな戦術と火器の威力で再び勝利を収めました。 この勝利は、北インドにおけるムガル朝の支配を決定的なものにしました。 その後もガンジス川流域の支配を固めるための戦いを続け、1530年にその波乱に満ちた生涯を終えるまで、バーブルは帝国の基盤固めに尽力しました。 彼の自伝である『バーブル・ナーマ』は、当時の政治状況や文化、そして彼自身の心情を生き生きと伝える貴重な史料として知られています。 バーブルが築いた帝国は、彼の子孫たちによって受け継がれ、インドの歴史に大きな足跡を残していくことになります。



不安定な継承と帝国の危機:フマーユーンの治世

1530年、父バーブルの死を受けて、その長男であるフマーユーンが22歳の若さでムガル帝国の第二代皇帝として即位しました。 しかし、彼が受け継いだのは、確立された帝国というよりも、むしろその「希望」に過ぎませんでした。 バーブルの勝利はアフガン勢力やラージプート諸侯を一時的に抑え込んだものの、彼らを完全に服従させたわけではなかったのです。 フマーユーンの治世は、内憂外患に絶えず悩まされる苦難の連続でした。
即位当初から、フマーユーンは深刻な課題に直面します。最大の脅威の一つは、彼自身の兄弟たちでした。父バーブルは、息子たちに帝国を分割して与えるというティムール朝の伝統に従い、フマーユーンの異母弟であるカームラーン・ミールザーにカーブルとカンダハールを与えました。 しかし、カームラーンはこれに満足せず、パンジャーブ地方をも支配下に収め、フマーユーンの権力基盤を著しく弱体化させました。兄弟間の対立は、帝国の力を内側から削いでいくことになります。
外部からの脅威も深刻でした。西ではグジャラートのスルタン、バハードゥル・シャーが勢力を拡大し、ラージャスターン地方でムガル朝に挑戦しました。 フマーユーンは1535年にグジャラートを一時占領するものの、確固たる支配を築くことはできませんでした。 そして、東からはさらに強力な敵が現れます。ビハール地方を拠点とするアフガン人の将軍、シェール・ハーン・スール(後のシェール・シャー)です。
シェール・シャーは、卓越した軍事能力と政治手腕を持つ人物でした。彼は着実に勢力を拡大し、ベンガル地方を支配下に収めると、公然とフマーユーンに反旗を翻します。フマーユーンはシェール・シャーの討伐に向かいますが、決断力に欠け、好機を逃すという失策を重ねます。 1539年のチャウサーの戦いで、フマーユーン軍はシェール・シャーの奇襲を受けて壊滅的な敗北を喫しました。 翌1540年のカナウジの戦いでも再び敗れ、フマーユーンはついにインドから追放される身となったのです。
王座を失ったフマーユーンは、約15年間にわたる長い亡命生活を余儀なくされます。 彼はシンド地方などを放浪した後、最終的にサファヴィー朝ペルシャのシャー・タフマースプ1世のもとに庇護を求めました。 この亡命期間は、フマーユーンにとって屈辱的な時期であったと同時に、後のムガル文化に大きな影響を与える重要な転機ともなりました。ペルシャの宮廷で洗練された文化に触れたことは、彼がインドに帰還した際に、ペルシャ風の芸術、建築、言語、文学をムガル宮廷に導入するきっかけとなったのです。
一方、インドではシェール・シャーがスール朝を創始し、優れた行政改革を行っていましたが、彼の死後、後継者争いによってスール朝は急速に弱体化します。 この好機を逃さず、フマーユーンはペルシャの支援を得て反撃に転じました。 1545年にカンダハールとカーブルを弟カームラーンから奪還し、足場を固めます。 そして1555年、ついにデリーを奪還し、ムガル帝国の再興を果たしました。
しかし、彼の幸運は長くは続きませんでした。王座に返り咲いてからわずか半年後の1556年、フマーユーンはデリーの居城の図書館の階段から転落し、その生涯を閉じました。 彼の治世は失敗と苦難の連続であり、統治者としての能力には疑問符が付けられることも少なくありません。 しかし、ペルシャ文化の導入という点で後世に大きな遺産を残し、そして何よりも、不屈の精神で帝国を再興し、次代の偉大な皇帝アクバルへとバトンを渡したという点で、彼の存在はムガル帝国の歴史において不可欠なものでした。

帝国の確立と黄金時代の幕開け:アクバルの治世

1556年、父フマーユーンの事故死により、ジャラールッディーン・ムハンマド・アクバルはわずか14歳でムガル帝国の第3代皇帝として即位しました。 彼が即位した当初、ムガル帝国の支配はまだ不安定な状態にありました。 しかし、アクバルの治世は、ムガル帝国が単なる軍事政権から、インド亜大陸に深く根を下ろした真の帝国へと変貌を遂げる画期的な時代となりました。彼の統治下で、帝国は領土的に拡大しただけでなく、行政、経済、文化、そして宗教の各分野で目覚ましい発展を遂げ、黄金時代の礎が築かれました。
治世の初期、若きアクバルは後見人であるバイラム・ハーンの補佐を受け、帝国の基盤を固めていきました。 当面の最大の脅威は、スール朝の将軍であり、ヒンドゥー教徒の王としてデリーで独立を宣言していたヘームーでした。 1556年、第二次パーニーパットの戦いでムガル軍はヘームー軍と激突します。戦いは熾烈を極めましたが、ヘームーが目に矢を受けて負傷したことで戦況は一変し、ムガル軍は劇的な勝利を収めました。 この勝利は、アクバルの治世の初期における決定的な転換点となり、ムガル朝のインド支配を確固たるものにしました。
1560年頃、アクバルはバイラム・ハーンを解任し、親政を開始します。 ここから、彼の真の力量が発揮されることになります。アクバルは、軍事的な征服活動を精力的に進め、帝国をあらゆる方向に拡大していきました。 彼は、敵を打ち負かすだけでなく、征服した地域の支配者たちと和解し、彼らを帝国の統治機構に組み込むという巧みな政策をとりました。 この「懐柔的征服」の最も顕著な例が、ラージプート諸侯に対する政策です。アクバルは、多くのラージプートの王族と婚姻関係を結び、彼らに高い地位と自治を認め、帝国の忠実な同盟者としました。 この政策により、かつてはムガル朝の強力な敵であったラージプートは、帝国の最も強固な支柱の一つへと変わったのです。
アクバルの偉大さは、軍事的な成功だけに留まりません。彼は、広大で多様な帝国を統治するための、近代的で中央集権的な行政システムを構築しました。 その中核となったのが「マンサブダーリー制」です。 これは、帝国の官僚と軍人に「マンサブ」と呼ばれる位階を与え、その位階に応じて給与(現金またはジャーギールと呼ばれる土地の徴税権)と、維持すべき兵力を定める制度でした。 この制度は、能力主義に基づいて官僚を登用し、皇帝への忠誠心を確保する上で非常に効果的でした。
経済面では、アクバルは税制改革を断行しました。特に重要なのが、土地の測量に基づいて税額を定める新たな土地税制度です。 この改革は、農民の負担を公平化し、帝国の歳入を安定させることに大きく貢献しました。 安定した経済基盤は、商業の発展を促し、ムガル帝国の富を増大させました。
アクバルの政策の中で最も独創的で後世に大きな影響を与えたのが、彼の宗教的寛容政策です。 イスラム教徒の支配者でありながら、彼は帝国内の大多数を占めるヒンドゥー教徒をはじめとする非イスラム教徒との融和を重視しました。 1564年には、非イスラム教徒に課せられていた人頭税(ジズヤ)を廃止し、ヒンドゥー教徒の巡礼税も撤廃しました。 これらの政策は、非イスラム教徒の支持を獲得し、帝国の安定に不可欠な役割を果たしました。
さらにアクバルは、宗教的な真理を探究することに深い関心を示しました。彼は首都ファテープル・シークリーに「イバーダト・ハーナ(祈りの館)」を建設し、イスラム教の各宗派、ヒンドゥー教、ジャイナ教、ゾロアスター教、キリスト教など、様々な宗教の学者たちを招いて宗教討論会を催しました。 これらの討議を通じて、アクバルは特定の宗教の教義に捉われない普遍的な真理の存在を確信するに至ります。そして最終的に、彼は「ディーネ・イラーヒー(神の宗教)」と呼ばれる、諸宗教の要素を統合した新たな信条を提唱しました。 これは国教として強制されるものではありませんでしたが、宗教間の対立を超えて人々を統合しようとする、アクバルの理想主義を象徴するものでした。
アクバルの治世下で、ムガル文化はペルシャ、中央アジア、そしてインド土着の伝統が融合し、独自の輝きを放ち始めました。 彼の宮廷は、詩人、建築家、芸術家、学者たちが集まる文化の中心地となり、特にミニアチュール(細密画)は目覚ましい発展を遂げました。
1605年にアクバルが亡くなるまでに、ムガル帝国は北インドのほぼ全域からアフガニスタン、そしてデカン高原の一部にまで広がる広大な版図を築き上げ、強固で安定した経済と、多様な文化が共存する社会を実現しました。 彼の残した遺産は計り知れず、その統治はインド史上における一つの黄金時代の幕開けとして高く評価されています。

文化の爛熟と帝国の安定:ジャハーンギールの時代

1605年、偉大な皇帝アクバルの死後、その息子であるサリームがヌールッディーン・ムハンマド・ジャハーンギールとして第4代皇帝の座に就きました。ジャハーンギールの治世は、父アクバルが築き上げた広大な帝国の安定を維持し、文化、特に芸術の分野でさらなる爛熟期を迎えた時代として特徴づけられます。彼の統治は、大規模な領土拡大よりも、国内の統治と文化の庇護に重点が置かれました。
ジャハーンギールは、父アクバルが確立した行政制度と宗教的寛容政策を概ね継承しました。これにより、帝国内の平和と秩序は保たれ、経済的な繁栄も続きました。しかし、彼の治世は全く平穏無事だったわけではありません。即位直後には、長男のフスrauが反乱を起こし、ジャハーンギールはこれを鎮圧せざるを得ませんでした。この事件は、後のムガル帝国の歴史で繰り返される皇位継承争いの前兆とも言えるものでした。
ジャハーンギールの治世で特筆すべきは、皇后ヌール・ジャハーンの存在です。ペルシャ出身の貴族の娘であったヌール・ジャハーンは、類稀なる美貌と知性、そして政治的手腕を兼ね備えた女性でした。ジャハーンギールは彼女を深く寵愛し、やがて彼女は帝国の政治に絶大な影響力を持つようになります。彼女は自身の名前で勅令を発し、貨幣にその名を刻ませるなど、事実上の共同統治者として君臨しました。彼女の一族も帝国の要職に就き、権力を掌握しましたが、その一方で、彼女の権勢は宮廷内に新たな対立の火種を生むことにもなりました。特に、ジャハーンギールの三男であり、有能な皇子であったシャー・ジャハーンとの関係は悪化し、後の皇位継承争いへとつながっていきます。
この時代、ムガル帝国とヨーロッパ諸国との接触が本格化します。特にイギリス東インド会社は、ポルトガルに対抗してインドでの貿易権益を確保しようと活発に活動しました。1615年、イギリス国王ジェームズ1世の使節としてトーマス・ローがジャハーンギールの宮廷を訪れ、数年間にわたる交渉の末、貿易上の特権を獲得することに成功しました。 この出来事は、その後のインドとイギリスの関係において重要な一歩となりました。ローの記録は、当時のムガル宮廷の様子や皇帝の権威、そしてヨーロッパ人が直面した文化的な隔たりを詳細に伝えています。
ジャハーンギールの最大の功績は、芸術、特に絵画の庇護にあります。彼自身が優れた審美眼を持つ鑑定家であり、自然主義的な描写に深い関心を示しました。 彼の工房では、ペルシャの伝統的な様式にヨーロッパ絵画の写実主義的な技法が取り入れられ、ムガル絵画は新たな高みへと到達しました。 動物、植物、鳥などが極めて精緻かつ写実的に描かれた細密画は、この時代の特徴です。 また、皇帝や宮廷の人々の肖像画も数多く制作され、個人の特徴を捉える描写力は目覚ましい発展を遂げました。ジャハーンギールは、これらの絵画や書を「ムラッカ」と呼ばれる豪華なアルバムに収集し、個人的な鑑賞を楽しみました。
建築の分野では、ジャハーンギールの治世は、父アクバルの赤砂岩を多用した壮大な様式と、息子シャー・ジャハーンの白大理石を基調とする優美な様式との過渡期に位置づけられます。この時代の代表的な建築物としては、アグラにあるイティマード・ウッダウラ廟が挙げられます。これはヌール・ジャハーンが自身の両親のために建てたもので、壁面全体が白大理石で覆われ、精緻な「ピエトラ・ドゥーラ」(貴石象嵌細工)で装飾されています。その優美さから「ベビー・タージ」とも呼ばれ、後のタージ・マハルに大きな影響を与えたとされています。
また、ジャハーンギールは庭園造営にも情熱を注ぎ、カシミール地方にシャーラマール庭園やニシャート庭園など、数多くの美しい庭園を造らせました。 ペルシャ様式の「チャハールバーグ」(四分庭園)の様式を取り入れ、水路や噴水を巧みに配置したこれらの庭園は、ムガル帝国の権力と洗練された美意識を象徴するものでした。
ジャハーンギールの治世は、帝国の版図を大きく広げることはありませんでしたが、アクバルが築いた平和と繁栄を享受し、文化、特に芸術の分野で独自の輝かしい成果を上げた時代でした。彼の洗練された趣味と芸術への深い愛情は、ムガル文化の黄金時代をさらに豊かなものにしたのです。

建築の黄金時代と帝国の絶頂:シャー・ジャハーンの治世

1628年、父ジャハーンギールの死後、激しい皇位継承争いを制してムガル帝国の第5代皇帝となったのが、シャー・ジャハーンです。 彼の治世は、ムガル帝国の国力が絶頂に達し、特に建築の分野で空前絶後の輝かしい成果が生み出された「黄金時代」として知られています。
シャー・ジャハーンは、即位するとすぐに帝国の支配を固めるための行動を開始しました。彼はデカン地方への遠征を積極的に行い、アフマドナガル王国を併合し、ビジャープル王国やゴールコンダ王国といったデカンのスルタン国をムガル帝国の宗主権下に置きました。 これにより、帝国の領土は南方へと大きく拡大しました。また、北西方面では、中央アジアのバルフやバダフシャーンへの遠征を行いましたが、これらの地域を永続的に支配することは困難でした。 さらに、かつてムガル帝国が領有していたカンダハールをサファヴィー朝ペルシャから奪還しようとしましたが、数度にわたる試みも失敗に終わっています。 これらの軍事行動は、帝国の財政に大きな負担をかけましたが、同時にムガル帝国の威信を内外に示すものでもありました。
シャー・ジャハーンの治世を最も象徴するのは、彼の建築に対する比類なき情熱です。 彼は、帝国の富と権力を壮麗な建造物によって示すことを意図し、数々の大規模な建設プロジェクトを推進しました。 彼の建築様式は、父ジャハーンギールの時代に萌芽が見られた白大理石とピエトラ・ドゥーラ(貴石象嵌細工)を全面的に採用し、左右対称性、優美な曲線、そして精緻な装飾を特徴としています。
その最高傑作として世界中に知られているのが、アグラに建つタージ・マハルです。 これは、シャー・ジャハーンが深く愛した妃ムムターズ・マハルのために建設した霊廟であり、1632年から約20年もの歳月をかけて完成しました。 純白の大理石で造られた廟堂は、完璧なシンメトリーをなし、その周りにはペルシャ様式の四分庭園が広がっています。 太陽の光によって刻一刻と表情を変えるその姿は、まさに「地上の楽園」と呼ぶにふさわしい壮麗さを誇ります。タージ・マハルは、イスラム建築の伝統とインド、ペルシャの要素が融合したムガル建築の到達点であり、シャー・ジャハーンの妃への愛の物語とともに、人類の至宝として輝き続けています。
1639年、シャー・ジャハーンは帝国の首都をアグラからデリーへ移すことを決定し、新たな首都「シャー・ジャハーナーバード」(現在のオールド・デリー)の建設に着手しました。 この新都市の中心に築かれたのが、壮大な城塞であるラール・キラー(赤い城)です。 赤砂岩の高い城壁に囲まれた城内には、「ディーワーネ・アーム(一般謁見の間)」や「ディーワーネ・ハース(特別謁見の間)」など、白大理石と豪華な装飾が施された壮麗な宮殿が立ち並びました。 特に、ディーワーネ・ハースの壁には「もし地上に天国があるならば、それはここだ、ここだ、ここだ」というペルシャ語の詩が刻まれており、当時のムガル宮廷の栄華を物語っています。
シャー・ジャハーナーバードには、インド最大のモスクの一つであるジャーマー・マスジドも建設されました。 赤砂岩と白大理石で造られたこの巨大なモスクは、広大な中庭と天にそびえるミナレット(尖塔)を持ち、帝国の威厳とイスラム教の権威を象徴しています。
その他にも、シャー・ジャハーンはアグラ城内の「ハース・マハル」や「モーティー・マスジド(真珠のモスク)」、ラホール(現パキスタン)のシャーラマール庭園など、数多くの壮麗な建築物を残しました。 これらの建設事業は、帝国の財政を圧迫する一因とはなりましたが、同時に数多くの職人や芸術家に仕事を与え、技術の発展を促す役割も果たしました。
しかし、シャー・ジャハーンの治世の晩年は、悲劇的な形で終わりを迎えます。1657年、彼が重い病に倒れると、4人の息子たちの間で凄惨な皇位継承戦争が勃発しました。 この戦いを勝ち抜いたのは、最も厳格で野心的な三男のアウラングゼーブでした。アウラングゼーブは、兄のダーラー・シコーを処刑し、病から回復した父シャー・ジャハーンをアグラ城に幽閉しました。 シャー・ジャハーンは、残りの8年間を、自らが建てたタージ・マハルを遠くに眺めながら、幽閉の身で過ごし、1666年にその生涯を終えました。
シャー・ジャハーンの時代は、ムガル帝国が政治的、軍事的に最も安定し、文化、特に建築において頂点を極めた時代でした。彼が残した壮麗な建築群は、ムガル帝国の栄光を今に伝える不滅の記念碑として、世界中の人々を魅了し続けています。

帝国の最大版図と衰退の兆し:アウラングゼーブの治世

1658年、父シャー・ジャハーンを幽閉し、兄弟たちとの血なまぐさい後継者争いに勝利して帝位に就いたのが、第6代皇帝アウラングゼーブです。 彼の約50年にわたる長い治世は、ムガル帝国が領土的に最大の版図を築き上げた一方で、その後の急速な衰退の種が蒔かれた、光と影の交錯する時代でした。
アウラングゼーブは、敬虔なスンニ派イスラム教徒であり、厳格な道徳観を持つ人物でした。彼の政策は、これまでのムガル皇帝、特に曾祖父アクバルが推し進めた宗教的寛容と文化の融合という路線から大きく転換するものでした。 彼は、帝国を厳格なイスラム法(シャリーア)に基づいて統治することを目指し、イスラム教の優位性を確立するための一連の政策を実施しました。
その最も象徴的な政策が、1679年に復活させたジズヤ(非イスラム教徒への人頭税)です。 アクバルによって廃止されていたこの税の復活は、帝国内の大多数を占めるヒンドゥー教徒に大きな不満と反発をもたらしました。 さらに、アウラングゼーブは一部のヒンドゥー教寺院の破壊を命じ、ヒンドゥー教徒の公職からの追放も行ったとされています。 これらの政策は、帝国の基盤であったヒンドゥー教徒、特にラージプート諸侯との関係を著しく悪化させました。 かつては帝国の忠実な同盟者であったラージプートは、アウラングゼーブに対して反乱を起こし、帝国の軍事力を消耗させる一因となりました。
アウラングゼーブの治世の後半は、デカン地方での絶え間ない戦争に費やされました。彼の最大の敵は、デカン高原西部に勢力を築いたマラーター王国でした。 マラーターの指導者シヴァージーは、巧みなゲリラ戦術でムガル軍を苦しめ、ヒンドゥー教徒の独立を掲げて抵抗を続けました。 アウラングゼーブは、シヴァージーの死後もマラーターとの戦いをやめず、1680年代には自ら大軍を率いてデカンに乗り込みます。 彼は、1686年にビジャープル王国、1687年にゴールコンダ王国というデカンの二つのスルタン国を滅ぼし、ムガル帝国の領土を南インドの奥深くまで拡大させ、史上最大の版図を実現しました。
しかし、この勝利は高くつきました。デカンでの長期にわたる戦争は、帝国の財政を破綻寸前にまで追い込みました。 皇帝が長期間にわたって首都を離れたため、北インドの統治はおろそかになり、各地で反乱が頻発するようになります。 パンジャーブ地方ではシク教徒が武装蜂起し、アグラ周辺ではジャート族が反乱を起こすなど、帝国の支配は各地で揺らぎ始めました。 マラーターとの戦争も泥沼化し、ムガル軍は広大なデカン高原で消耗を続けました。
アウラングゼーブの厳格なイスラム政策は、文化の面にも影響を及ぼしました。彼は宮廷での音楽や舞踏を禁じ、絵画や建築への後援も前代の皇帝たちほど熱心ではありませんでした。 そのため、シャー・ジャハーンの時代に頂点を極めたムガル文化の華やかさは、彼の治世下で影を潜めることになります。
1707年、アウラングゼーブは88歳で、25年以上にも及ぶデカンでの遠征の最中に陣中で亡くなりました。 彼の死の時点で、ムガル帝国はかつてないほどの広大な領土を支配していましたが、その内実は深刻な危機に瀕していました。 破綻した財政、弱体化した貴族層、絶え間ない反乱、そして何よりも、宗教的不寛容政策によって損なわれた帝国の統合基盤。 これらはすべて、アウラングゼーブが残した負の遺産でした。
アウラングゼーブは、個人的には質素で規律正しい生活を送った有能な軍事指導者であり、勤勉な統治者であったと評価されています。 しかし、彼の宗教的原理主義と、中央集権化への過度な執着は、帝国の多様性を許容できず、結果として帝国を内側から崩壊させる要因を作ってしまいました。 彼の死後、ムガル帝国は急速な衰退の道を転がり落ちていくことになります。偉大なムガル皇帝の時代の終わりは、帝国の最大版図を築いた皮肉な皇帝の死とともに訪れたのです。

帝国の衰退と崩壊

1707年のアウラングゼーブの死は、ムガル帝国の歴史における大きな転換点となりました。 彼が亡くなった時、帝国はインド亜大陸のほぼ全域を覆う広大な版図を誇っていましたが、その死からわずか50年ほどの間に、強大だった帝国は急速に崩壊への道をたどります。 アウラングゼーブの治世末期から見え始めていた衰退の兆候は、彼の後継者たちの時代に決定的となり、帝国の解体へとつながっていきました。
衰退の最も直接的な原因の一つは、アウラングゼーブの死後に繰り返された、弱体な後継者たちによる皇位継承戦争でした。 ムガル朝には長子相続制のような明確な継承ルールがなかったため、皇帝が亡くなるたびに息子たちの間で血なまぐさい権力闘争が繰り広げられました。 これらの内紛は、帝国の政治的な安定を著しく損ない、中央政府の権威を失墜させました。貴族たちは、それぞれが支持する皇位請求者に味方することで自らの権力を拡大し、宮廷は派閥争いの場と化しました。 アウラングゼーブの後継者たちは、こうした貴族たちの陰謀の犠牲となり、統治者としての実権をほとんど持たない傀儡と化していきました。
アウラングゼーブの政策が残した負の遺産も、衰退を加速させました。彼の宗教的不寛容政策によって敵対的になったラージプート、マラーター、シク教徒、ジャート族といった勢力は、中央の権威が弱まると、各地で公然と独立の動きを見せ始めます。 特に、マラーター勢力の台頭は著しく、彼らはデカン地方から北インドへと進出し、18世紀半ばにはムガル帝国の領土の大部分を支配下に置きました。 ムガル皇帝の権威は、デリー周辺のわずかな地域に限定されるようになります。
経済的な破綻も深刻でした。 アウラングゼーブのデカン戦争によって枯渇した国庫は、その後も回復することなく、後継者たちの財政管理のまずさによってさらに悪化しました。 帝国の歳入の根幹であったジャーギールダーリー制(徴税権授与制度)も機能不全に陥ります。「ジャーギール危機」と呼ばれるこの現象は、授与すべきジャーギール(土地)が不足し、多くの貴族(マンサブダール)が給与を受け取れなくなるという事態を引き起こしました。 これにより、貴族たちは農民から過酷な搾取を行うようになり、農村は荒廃し、農民反乱が頻発しました。
軍事力の弱体化も衰退の大きな要因でした。 かつては無敵を誇ったムガル軍も、有能な指揮官の不足、そしてアクバルの時代のような軍事技術の革新が途絶えたことにより、その力は衰えていきました。 貴族たちの堕落は軍の士気をも低下させ、各地の反乱を鎮圧する能力を失っていきました。
こうした内部からの崩壊に追い打ちをかけたのが、外部からの侵略でした。1739年、ペルシャのナーディル・シャーがインドに侵攻し、デリーを占領、略奪の限りを尽くしました。 この侵攻により、ムガル帝国は天文学的な額の富を失い、その権威は決定的に失墜しました。この時、シャー・ジャハーンが制作した有名な「孔雀の玉座」もペルシャに持ち去られました。その後も、アフガニスタンのアフマド・シャー・ドゥッラーニーによる度重なる侵攻を受け、帝国はなすすべもなく蹂躙されていきました。
18世紀後半になると、ムガル帝国は名目上の存在となり、実際の権力はマラーター同盟や、ベンガル、アワド、ハイダラーバードなどの独立した地方政権の手に移っていました。 さらに、この混乱に乗じてインドにおける影響力を急速に拡大したのが、イギリス東インド会社でした。 当初は貿易商人であったイギリス人は、インドの政治的混乱を利用して軍事介入を始めます。
1757年のプラッシーの戦いでイギリス東インド会社がベンガル太守軍に勝利し、1764年のブクサールの戦いでムガル皇帝とアワド太守の連合軍を破ったことは、インドの運命を決定づけました。 ブクサールの戦いの後、イギリス東インド会社はムガル皇帝シャー・アーラム2世からベンガル、ビハール、オリッサのディーワーニー(徴税権)を獲得します。これにより、会社は単なる貿易組織から、インドの広大な領土を支配する統治者へと変貌を遂げました。 ムガル皇帝は、今やイギリス東インド会社の年金受給者となり、その権威は完全に名目だけのものとなりました。
最後のとどめとなったのが、1857年に勃発したインド大反乱(セポイの反乱)です。 反乱を起こしたインド人兵士(セポイ)たちは、デリーを占領し、老齢のムガル皇帝バハードゥル・シャー2世を反乱の象徴として担ぎ上げました。 しかし、反乱はイギリスによって容赦なく鎮圧されます。 反乱鎮圧後、イギリスはムガル皇帝を反乱の首謀者として断罪し、ビルマ(現在のミャンマー)のラングーンへ追放しました。
1858年、イギリスはムガル帝国の終焉を正式に宣言し、インドを直接統治下に置くことを決定しました。これにより、バーブルによって築かれ、300年以上にわたってインド亜大陸に君臨したムガル帝国は、その長い歴史に完全に幕を下ろしました。 帝国の崩壊は、インドにおけるイスラム支配の時代の終わりと、イギリス植民地時代の本格的な始まりを意味するものでした。

ムガル帝国の統治機構と社会

ムガル帝国の長期にわたる支配を可能にしたのは、その精緻に構築された中央集権的な統治機構と、多様な人々を包摂する社会構造にありました。 帝国のシステムは、ペルシャ、ティムール朝、そしてインド土着の伝統を融合させたものであり、特にアクバル帝の時代にその基礎が確立されました。
帝国の頂点に君臨したのは、絶対的な権力を持つ皇帝でした。皇帝は、最高立法者、最高行政官、そして最高司令官であり、その意思は帝国の隅々にまで及ぶとされていました。 皇帝は「ディーワーネ・アーム(一般謁見の間)」で臣民に姿を見せ、請願を聞き、裁きを下す一方、「ディーワーネ・ハース(特別謁見の間)」では高官たちと重要な国事を協議しました。 このように公の場に姿を現すことは、皇帝の権威を可視化し、臣民との結びつきを強めるための重要な儀式でした。
皇帝を補佐したのは、中央政府の各部門を司る大臣たちでした。最も重要な役職は「ワキール」(宰相)でしたが、時代と共にその権限は縮小され、実質的な行政のトップは「ディーワーン」(財務大臣)が務めるようになりました。 ディーワーンは帝国の歳入と歳出を管理し、財政全般に責任を負っていました。 その他、軍事を司る「ミール・バクシー」、宮廷と皇帝の家政を取り仕切る「ミール・サーマーン」、そして宗教問題と司法を担当する「サドル・ウッスドゥール」などが中央政府の主要な役職でした。
ムガル帝国の行政と軍事を支える根幹となったのが、アクバルが創設した「マンサブダーリー制」です。 これは、帝国の官僚(貴族)に「マンサブ」と呼ばれる位階を与える制度でした。マンサブは「ザート」と「サワール」という二つの数字で示され、「ザート」はその官僚の序列と給与額を、「サワール」は彼が維持すべき騎兵の数を規定していました。 マンサブダール(マンサブを持つ者)は、給与を現金で受け取るか、「ジャーギール」と呼ばれる特定の土地からの徴税権として受け取りました。 この制度は、能力に基づいて人材を登用し、皇帝への忠誠を確保するための強力な手段となりました。また、ヒンドゥー教徒のラージプート諸侯などもマンサブダールとして帝国の統治機構に組み込まれ、帝国の安定に貢献しました。
地方行政は、「スーバ」(州)、「サルカール」(県)、「パルガナー」(郡)という単位に分けられていました。 各スーバには、皇帝によって任命された総督(スーバダールまたはナワーブ)が置かれ、州内の行政と治安維持に責任を負いました。 スーバダールを監視し、権力の集中を防ぐために、州の財務官であるディーワーンや軍事監察官であるバクシーも中央から直接派遣されました。 このように、地方の主要な役職を皇帝が直接任命し、互いに牽制させることで、中央集権体制が維持されていました。
法制度は、主にイスラム法(シャリーア)に基づいていましたが、ヒンドゥー教徒間の民事問題に関しては、彼ら自身の慣習法が適用されるなど、ある程度の柔軟性が見られました。 司法の最高責任者は皇帝自身であり、その下に首席カーディー(裁判官)がいました。
ムガル社会は、非常に階層的でした。頂点には皇帝とその一族、そして高位のマンサブダールからなる貴族階級が存在しました。 彼らは帝国の富の大部分を独占し、豪華な生活を送っていました。その下には、小規模なザミーンダール(地主)、商人、職人、そして大多数を占める農民がいました。 商業は活発で、インド国内の交易網が整備されていたほか、ヨーロッパや中東、東南アジアとの海外貿易も盛んに行われ、帝国に莫大な富をもたらしました。
社会の多様性もムガル帝国の大きな特徴でした。 支配者層はテュルク・モンゴル系やペルシャ系のイスラム教徒が中心でしたが、人口の大多数はヒンドゥー教徒でした。 アクバルの宗教的寛容政策は、これら異なる宗教を持つ人々が共存するための基盤を築きました。ジズヤの廃止やヒンドゥー教徒の登用は、帝国の統合を促進しました。 しかし、アウラングゼーブの時代にこの政策が転換されると、宗教間の緊張が高まり、帝国の分裂を招く一因となりました。
ムガル帝国は、強力な中央集権体制と、多様性を許容する柔軟な社会構造を組み合わせることで、長期間にわたる安定と繁栄を実現しました。しかし、そのシステムは皇帝個人の能力に大きく依存しており、後継者たちの無能と内紛、そして宗教政策の失敗によって、最終的には崩壊へと向かっていったのです。

ムガル帝国の経済と貿易

ムガル帝国は、その最盛期において世界で最も豊かで強力な経済大国の一つでした。 帝国の広大な領土、豊富な天然資源、そして発達した農業と手工業が、その驚異的な富の源泉となっていました。 安定した中央集権的な統治は、国内商業の発展を促し、インド亜大陸は活発な交易網で結ばれていました。
帝国の経済基盤は、何よりもまず農業にありました。 人口の大多数は農村に居住し、農業に従事していました。主な作物は米、小麦、雑穀などの穀物に加え、換金作物としての綿花、藍、ケシ、サトウキビなどが広範囲で栽培されていました。 ムガル政権は、農業生産の安定と拡大に大きな関心を払いました。 アクバルの治世に行われた土地測量と税制改革は、その最も重要な政策の一つです。 「ザプト制」として知られるこの制度では、土地の生産性に応じて税率が定められ、過去10年間の平均生産高と価格に基づいて現金で納税することが義務付けられました。 このシステムは、農民の負担を予測可能にし、同時に帝国の歳入を安定させ、最大化することに貢献しました。 帝国の歳入の大部分は、この土地税によって賄われていました。
農業と並んでムガル経済のもう一つの柱であったのが、手工業生産です。 特に、インド産の綿織物と絹織物は、その品質の高さで世界的に有名でした。 ベンガル地方のモスリン、グジャラート地方のキャラコ、コロマンデル海岸の更紗などは、アジア、アフリカ、ヨーロッパの市場で非常に高い需要がありました。 帝国各地に点在する都市や町は、それぞれが特定の繊維製品の生産センターとして機能していました。 繊維産業以外にも、造船、金属加工、武器製造、宝飾品加工なども盛んでした。
これらの生産活動は、活発な国内商業によって支えられていました。 ムガル帝国は、比較的安全な交易路網を維持し、国内の物資の流通を促進しました。 河川交通も重要な役割を果たし、特にガンジス川やインダス川は主要な輸送路でした。 帝国は「サーラーイー」と呼ばれる宿駅を街道沿いに整備し、商人の安全な旅を保障しました。 また、標準化された貨幣制度(銀ルピーが基軸通貨)の確立も、円滑な商取引を大いに助けました。
ムガル帝国は、世界的な貿易ネットワークにおいても中心的な役割を果たしていました。 陸路では、アフガニスタンを経由してペルシャや中央アジアと結ばれ、海路では、西海岸のスーラトやカンベイといった港からアラビア海を越えて中東や東アフリカへ、東海岸の港からはベンガル湾を越えて東南アジアや中国へとつながっていました。
インドからの主要な輸出品は、前述の綿織物や絹織物を筆頭に、香辛料(特にマラバール海岸の胡椒)、藍、硝石(火薬の原料)、砂糖などでした。 これらの商品は世界中で高い需要があり、その対価として大量の金銀がインドに流入しました。 ムガル帝国は、本質的に輸出超過の経済であり、世界の貴金属を吸収する「金銀の受け皿」と形容されるほどでした。
16世紀から17世紀にかけて、ヨーロッパの貿易会社、特にポルトガル、オランダ、イギリス、フランスの東インド会社がインド洋に進出し、ムガル帝国の貿易に深く関わるようになります。 彼らは当初、インドの香辛料や織物を求めてやってきた商人でしたが、次第に沿岸部に拠点を築き、インドの国内政治にも影響を及ぼすようになりました。 特に、グジャラート地方のスーラト港は、ヨーロッパとの貿易における最も重要な窓口となりました。 ヨーロッパ商人は、インド製品を買い付けるために新大陸から得た銀を持ち込み、これがムガル帝国の貨幣経済をさらに活性化させました。
しかし、この繁栄の裏には影の部分も存在しました。 帝国の富は、皇帝や貴族階級に集中しており、一般の農民や職人の生活水準は必ずしも高くはありませんでした。 ジャーギールダーリー制の崩壊が進むにつれて、貴族による農民からの搾取は激化し、農村の貧困化を招きました。 また、18世紀に入り帝国の政治的混乱が深まると、交易路の安全性は損なわれ、商業活動は停滞し始めました。 イギリス東インド会社が政治的・軍事的な力を強め、インドの経済を自らの利益のために再編していく中で、かつて世界を席巻したインドの手工業は衰退の道を歩むことになります。
それでもなお、ムガル帝国の時代は、インド亜大陸が世界経済の中で輝かしい地位を占めていた時代として記憶されています。 その巨大な生産力と活発な商業活動は、帝国の壮麗な文化を支える経済的基盤であり、近代以前の世界における最もダイナミックな経済圏の一つを形成していました。

ムガル帝国の文化:芸術、建築、文学

ムガル帝国の時代は、インドの文化史において最も創造的で輝かしい時代の一つでした。 ムガル文化は、支配者層が持ち込んだ中央アジアのテュルク・モンゴル文化とペルシャ文化を基盤としながら、インド土着のヒンドゥー文化と深く融合することによって、独自の洗練された様式を生み出しました。 皇帝たちの熱心な庇護のもと、建築、絵画、文学、音楽など、あらゆる分野で不朽の名作が数多く誕生しました。
建築
ムガル建築は、帝国の権力と富、そして洗練された美意識を最も雄弁に物語る遺産です。その様式は、時代と共に変化していきました。初期の皇帝バーブルやフマーユーンの時代には、まだペルシャ様式の影響が色濃く残っていました。
建築における独自のムガル様式を確立したのは、アクバル帝です。 彼の時代には、インドの伝統的な建材である赤砂岩が多用され、イスラム建築のアーチやドームと、ヒンドゥー建築の柱や梁、ブラケットといった要素が大胆に融合されました。 この様式の代表例が、新首都として建設されたファテープル・シークリーです。 ここには、ディーワーネ・ハースの独創的な中央柱や、パンチ・マハルの仏教建築を思わせる階層構造など、多様な建築様式が混在しており、アクバルの実験精神と文化融合への意欲が表れています。
ジャハーンギールの治世は、赤砂岩から白大理石への移行期と位置づけられます。 アグラにあるイティマード・ウッダウラ廟は、壁面全体を白大理石で覆い、ピエトラ・ドゥーラ(貴石象嵌細工)と呼ばれる技法で壁面を宝石や貴石で装飾した最初の主要な建築物です。この優美な様式は、次の時代に頂点を迎えます。
ムガル建築の黄金時代を築いたのは、シャー・ジャハーンです。 彼の時代には、白大理石とピエトラ・ドゥーラが全面的に用いられ、完璧な左右対称性、優美な曲線、そして繊細な装飾を特徴とする、壮麗で洗練された様式が完成しました。 その最高傑作が、妃ムムターズ・マハルのために建てられたタージ・マハルです。 純白の霊廟と四分庭園が織りなす幻想的な美しさは、ムガル建築の到達点であり、世界中の人々を魅了し続けています。 その他、デリーのラール・キラー(赤い城)内の宮殿群やジャーマー・マスジドも、シャー・ジャハーン時代の壮麗さを今に伝えています。
アウラングゼーブの時代になると、彼の厳格な宗教観を反映して、建築活動は以前ほどの規模と豪華さを失いますが、ラホールにあるバードシャーヒー・モスクなど、壮大で力強い印象を与える建築物も造られました。

絵画
ムガル絵画は、主に書籍の挿絵やアルバムに収められるミニアチュール(細密画)として発展しました。 その起源は、フマーユーンがペルシャから亡命先から連れてきた二人の細密画家に遡ります。 彼らによってペルシャの洗練された画法がインドにもたらされ、インドの伝統的な画法と融合してムガル様式が形成されました。
アクバル帝は、巨大な絵画工房を設立し、100人以上の画家を雇いました。 彼の時代には、『アクバル・ナーマ』や『マハーバーラタ』のペルシャ語訳である『ラズム・ナーマ』など、歴史書や叙事詩の挿絵が数多く制作されました。 その画風は、ダイナミックな構図、鮮やかな色彩、そして活気あふれる人物描写を特徴としています。
絵画が芸術的頂点に達したのは、ジャハーンギールの時代です。 皇帝自身が優れた審美眼を持ち、自然主義的な描写を好んだため、この時代の絵画は極めて写実的で精緻なものとなりました。 特に、マンスールのような画家による動植物の細密画は科学的な正確さを備え、肖像画においても人物の個性や心理が巧みに表現されるようになりました。 ヨーロッパ絵画の影響を受け、陰影法や遠近法といった技法も取り入れられました。
シャー・ジャハーンの時代には、絵画はより形式的で豪華なスタイルへと変化しました。 皇帝や宮廷の栄華を描いた壮麗な作品が多く制作され、金彩が多用されるなど、装飾性が高まりました。

文学
ムガル帝国の公用語はペルシャ語であり、宮廷ではペルシャ文学が花開きました。 歴史書の編纂が盛んに行われ、アブル・ファズルによるアクバル帝の伝記『アクバル・ナーマ』とその補遺である帝国地誌『アーイーネ・アクバリー』は、当時の社会や制度を知る上で第一級の史料であると同時に、文学作品としても高く評価されています。 バーブルの自伝『バーブル・ナーマ』は、率直で生き生きとした描写で知られるテュルク語文学の傑作です。
詩作も盛んで、多くの皇帝自身が詩を嗜みました。 ペルシャ語の詩に加え、この時代にはヒンディー語とペルシャ語が融合して生まれたウルドゥー語が、特にデリーの宮廷で文学言語として発展し始め、ワリー・ダカニーやミール・タキー・ミールといった偉大な詩人たちを輩出しました。
また、サンスクリット語の古典である『マハーバーラタ』や『ラーマーヤナ』、ウパニシャッドなどがペルシャ語に翻訳されたことも、文化融合の象徴的な出来事でした。これにより、ヒンドゥーの思想や物語がイスラムの知識人層にも広く知られるようになりました。

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