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アカプルコ貿易とは わかりやすい世界史用語2306 |
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著作名:
ピアソラ
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アカプルコ貿易の黎明:大航海時代の新たな地平
アカプルコ貿易、またはマニラ・ガレオン貿易として知られるこの交易は、1565年から1815年までの250年間にわたり、フィリピンのマニラとメキシコのアカプルコを結んだスペインの海上貿易路でした。 この貿易は、スペイン帝国にとって経済的な生命線であっただけでなく、史上初の太平洋を横断する定期航路として、世界の一体化、すなわちグローバリゼーションの初期段階を象徴する出来事でした。 アジア、アメリカ、そしてヨーロッパ大陸を結びつけ、銀、絹、香辛料、磁器といった商品だけでなく、文化、思想、人々、さらには動植物や病原菌までもが大陸間を移動する巨大な交流網を形成したのです。
16世紀、世界はスペインとポルトガルという二つの海洋大国によって分割されつつありました。 1494年のトルデシリャス条約と1529年のサラゴサ条約により、両国は地球を二分し、それぞれが探検と植民地化を進める領域を定めました。 ポルトガルがアフリカ南端の喜望峰を回る東回り航路でアジアの香辛料貿易を独占しようとしたのに対し、スペインは西回りでアジアへ到達するルートの開拓を目指しました。 この西回り航路の探求が、結果的にアメリカ大陸の「発見」へとつながり、スペインは広大な植民地(ヌエバ・エスパーニャ)を築き上げます。しかし、アジアへの到達という当初の目標は未完のままでした。
この状況を打開したのが、アウグスティヌス会の修道士であり、熟練の航海士でもあったアンドレス・デ・ウルダネタでした。 1564年、ミゲル・ロペス・デ・レガスピが率いるフィリピン遠征隊に参加したウルダネタは、フィリピンからアメリカ大陸への復路、すなわち「トルナビアッヘ」の発見という重要な任務を託されます。 大西洋の貿易風が循環するように、太平洋の風も同様の循環を描くのではないかと推論したウルダネタは、北へ向かい、日本の東方沖、北緯38度線付近まで北上しました。 そこで西風(偏西風)を捉えることに成功し、太平洋を横断してメキシコへ帰還するという、前人未到の航海を成し遂げたのです。 1565年のこのウルダネタによる復路開拓こそが、マニラとアカプルコを結ぶ定期航路の確立を可能にし、アカプルコ貿易の輝かしい歴史の幕開けを告げる画期的な出来事となりました。 この航路は「ウルダネタルート」とも呼ばれ、メキシコ独立戦争が勃発する1815年まで、2世紀半にわたってスペイン帝国の太平洋における大動脈として機能し続けることになります。
航海の実際:ガレオン船の構造と危険な旅路
アカプルコ貿易を支えたガレオン船は、当時のヨーロッパの造船技術の粋を集めた巨大な帆船でした。 16世紀には平均1,700トンから2,000トン、全長は40メートルから50メートルに達し、300人から500人の乗客を運ぶことができました。 1638年に難破した「コンセプシオン号」は、排水量2,000トンに及んだと記録されています。 これらの船の多くは、フィリピンのカビテにある造船所で建造されました。 フィリピン産のチーク材のような硬質の木材が船体に使われ、帆はイロコス地方で、そして塩分に強いマニラ麻が帆船の索具やロープの材料として用いられるなど、現地の資源と労働力が最大限に活用されたのです。 ガレオン船の建造と維持にかかる費用はスペイン国王が負担する国家事業であり、その建造費は18世紀には1隻あたり10万から20万ペソにも上りました。 例えば、巨大なガレオン船として知られる「サンティシマ・トリニダード号」の建造費は19万1,000ペソに達したとされています。
ガレオン船の航海は、年に1回か2回の往復が基本でした。 マニラからアカプルコへの東行きの航海は、特に過酷を極めました。 6月下旬から7月上旬にかけてマニラ湾のカビテを出航した船は、まず北上して日本の沖合で黒潮に乗り、その後、偏西風を捉えて太平洋を東へと横断しました。 この航海は平均して6ヶ月、時には4ヶ月から8ヶ月もかかる、当時としては世界最長の無寄港航海でした。 長い航海の途中では、食料や真水が不足し、壊血病や赤痢などの病気が蔓延しました。 17世紀末にこの航海を体験したイタリア人冒険家ジェメリ・カレーリは、その悲惨な状況を「船は害虫で溢れ、保存食のビスケットは虫に食われ、肉は奇跡でもないのに蛇のように硬い木片に変わる」と記録しています。 壊血病は「オランダ病」とも呼ばれ、歯茎が腐り、歯が抜け落ちる恐ろしい病気でした。 劣悪な衛生環境と栄養失調により、船員の死亡率は極めて高く、ある調査では、16世紀末から18世紀末にかけてアジアへ向かったヨーロッパの船員の実に54%が生きて帰れなかったと推定されています。
嵐や座礁も大きな脅威であり、250年の歴史の中で少なくとも30隻のガレオン船が海に沈んだと記録されています。 しかし、意外なことに、海賊による襲撃で拿捕されたガレオン船は、250年間でわずか4隻でした。 これは、ガレオン船が巨大で、武装も充実しており、乗組員も16世紀には約100人、18世紀には最大250人に達したためです。 さらに、フィリピン産の硬材で造られた船体は、砲弾に対して驚くほどの耐久性を誇りました。 ガレオン船は、さながら「海に浮かぶ要塞」であり、敵の攻撃よりも、嵐や火災、座礁といった自然の猛威や事故によって失われることの方がはるかに多かったのです。
一方、アカプルコからマニラへの西行きの航海は、比較的容易でした。 3月か4月にアカプルコを出航した船は、赤道に近い低緯度帯を進み、貿易風に乗ってグアムを経由し、約3ヶ月から4ヶ月でマニラに到着しました。 1668年以降は、王令によりグアムへの寄港が義務付けられ、ここで食料や水を補給するとともに、スペイン本国とマリアナ諸島の植民地との間の唯一の通信手段としての役割も果たしました。
交易のメカニズム:銀とアジアの奢侈品
アカプルコ貿易の根幹をなしていたのは、新大陸の銀とアジアの奢侈品の交換でした。 16世紀の中国(明王朝)は、税の支払いを銀で行う「一条鞭法」と呼ばれる税制改革を進めており、国内の銀需要が急激に高まっていました。 しかし、中国国内の銀産出量は限られており、日本からの輸入に頼っている状況でした。 そこに、ポトシ(現在のボリビア)やサカテカス(メキシコ)といった新大陸の巨大銀山から産出される、安価で豊富な銀が登場したのです。 1545年に発見されたポトシ銀山は、その後2世紀にわたって4万トンの銀を産出し、18世紀末までの総産出量は15万トンを超えたと推定されています。 1500年から1800年にかけて、ボリビアとメキシコは世界の銀産出量の約80%を占め、そのうちの約30%が最終的に中国に流入したと言われています。
この銀とアジア商品の価格差が、アカプルコ貿易に莫大な利益をもたらしました。 例えば16世紀、アムステルダムでは金1オンスが銀11オンスと交換されていたのに対し、中国では同じ量の銀で金2オンスを手に入れることができました。 この価格差を利用し、スペイン商人は莫大な富を築いたのです。
ガレオン船がアカプルコからマニラへ運んだのは、主にこの銀でした。 ヌエバ・エスパーニャ副王がスペイン国王に報告したように、中国人が欲しがったのは実質的に銀だけだったのです。 1570年から1840年の間に、約4億ペソの銀が太平洋を渡ってアジアに送られたと推定されています。 この銀は、スペインが鋳造した「レアル・デ・ア・オチョ(8レアル銀貨)」、通称「ピース・オブ・エイト」という貨幣で、世界初の国際通貨としての役割を果たしました。
一方、マニラからアカプルコへ運ばれた商品は、多岐にわたるアジアの奢侈品でした。 最も重要な商品は中国産の絹製品で、生糸や絹織物、刺繍が施された衣服などが大量に運ばれました。 あるガレオン船は、一度に10万反、時には40万反もの絹を積んでいたと記録されています。 17世紀初頭には、ヌエバ・エスパーニャにアジアから輸入された織物の99%を中国産の絹が占めていたという研究もあります。 これらの絹製品は、ヨーロッパ製のものよりも安価で質が高く、メキシコの上流階級の人々の服装や室内装飾に欠かせないものとなりました。
絹に次いで重要だったのが、中国の磁器です。 その他にも、インドからは綿織物や絨毯、インドネシアやマレーシアからはクローブやシナモンといった香辛料、日本の漆器や屏風、象牙製品、宝石、火薬、茶など、アジア各地のありとあらゆる貴重品がマニラに集められ、ガレオン船に積み込まれました。 これらの商品は、アカプルコで陸揚げされた後、ラバの隊商によってメキシコを横断し、大西洋側のベラクルス港へ運ばれ、そこから「インディアス艦隊」と呼ばれる船団によってスペイン本国やヨーロッパ各地の市場へと送られていきました。 このようにして、アカプルコ貿易はアジア、アメリカ、ヨーロッパを結ぶ壮大なグローバル交易網の中核を担っていたのです。
この貿易は、スペイン国王の厳格な管理下に置かれた独占事業でした。 当初は比較的自由な交易が行われていましたが、セビリアの商人たちが自分たちの利益を守るよう国王に働きかけた結果、1593年に勅令が出され、年間の航海は各港から2隻(うち1隻は予備)に制限されました。 また、マニラ在住のスペイン人に交易の権利を限定し、貨物量を制限するなど、様々な規制が設けられました。 しかし、これらの規制は密輸や積荷の過少申告といった不正行為を横行させる原因ともなり、実際には規定をはるかに超える商品が取引されていたと考えられています。
経済への影響:マニラの繁栄とフィリピン経済の歪み
アカプルコ貿易は、中継地となったマニラに空前の繁栄をもたらしました。 スペイン人が到来する以前から、マニラは中国や日本、東南アジア諸国との交易拠点でしたが、ガレオン貿易の開始により、アジアとアメリカ大陸を結ぶ世界的な商業ハブへと変貌を遂げたのです。 中国の福建省などから多くの中国人商人がジャンク船でマニラを訪れ、スペイン人に絹や磁器、象牙などを売りました。 彼らは「パリアン」と呼ばれる中国人居住区に住み、マニラの経済活動に不可欠な存在となりました。 この交易によって流入する莫大なメキシコ銀は、マニラ在住のスペイン人エリート層、役人、教会関係者に巨万の富をもたらしました。 彼らは「ボレタ」と呼ばれる、ガレオン船の積荷スペースの権利証を売買することで、投機的に利益を上げていました。
しかし、この繁栄はマニラとその周辺に限定されたものであり、フィリピン全体の経済発展にはむしろ負の影響を与えたという側面も否定できません。 スペイン人植民者たちの関心と資本が、ほぼすべてガレオン貿易という投機的な事業に集中してしまったため、農業や国内産業の育成が著しく疎かにされたのです。 地方の経済は停滞し、先住民たちはガレオン船の建造や植民地経営を支えるための強制労働(ポロ・イ・セルビシオ)や貢納(トリブート)に苦しみました。 ガレオン船の建造のために森林が伐採され、農民が農作業の時期に労働力として徴用されたため、農業生産にも支障をきたしました。 つまり、ガレオン貿易はマニラの一部の富裕層に富を集中させる一方で、フィリピンの他の地域の経済的発展を阻害し、植民地としての従属的な経済構造を固定化させる結果を招いたのです。
18世紀後半になると、ホセ・バスコ・イ・バルガス総督のように、こうしたメキシコ貿易への過度な依存から脱却し、フィリピン経済の自立を目指す改革の動きも現れました。 彼は「経済友好協会」を設立し、綿や香辛料、サトウキビといった輸出作物の栽培を奨励したり、鉱業開発を促したりしました。 また、タバコの専売制を導入し、政府の歳入を増やすことにも成功しました。 これらの改革は、ガレオン貿易の独占体制に風穴を開け、フィリピン経済が新たな方向へ向かうきっかけを作ったと言えます。
メキシコ側では、アカプルコ港がガレオン船の到着とともに活気づきました。 荷揚げ作業に従事する港湾労働者や、船に食料を供給する農民や農園主にとって、ガレオン船の来航は重要な収入源でした。 アジアから運ばれた奢侈品は、メキシコシティをはじめとするヌエバ・エスパーニャの富裕層の消費生活を彩り、現地の職人たちが中国のデザインを取り入れた製品を作るなど、経済的な刺激を与えました。
社会的・文化的影響:混血と文化の融合
アカプルコ貿易がもたらした影響は、経済的な側面に留まりません。250年にわたる人々の往来は、フィリピンとメキシコの社会と文化に深く、永続的な刻印を残しました。
フィリピン社会は、スペインによる植民地支配の下で、厳格な階層社会が形成されました。 最上位に位置したのは、スペイン本国生まれのスペイン人(ペニンスラール)と、植民地生まれのスペイン人(インスラールまたはクリオーリョ)でした。 彼らが政治、経済、宗教のすべてを支配していました。 その下には、スペイン人や中国人との混血であるメスティーソ、そして伝統的な現地の指導者層であるプリンシパリアが中間層を形成しました。 そして、社会の最下層に置かれたのが、大多数を占める先住民であり、「インディオ」と呼ばれていました。 ガレオン貿易による富は、主に最上位のスペイン人エリート層に独占され、この階層構造をさらに強化する役割を果たしました。
一方で、ガレオン貿易は人々の移動を促進し、新たなコミュニティを生み出しました。フィリピンからメキシコへは、ガレオン船の船員として多くのフィリピン人が渡りました。 彼らの中には、過酷な労働から逃れるために脱走し、メキシコに定住する者も少なくありませんでした。 彼らは、アジアからの移民を総称して「チーノス」と呼ばれた人々の中核をなし、特にアカプルコ周辺の地域にコミュニティを形成しました。 また、メキシコやペルーから募集された兵士や入植者も、ガレオン船に乗ってフィリピンに渡り、現地の守備隊などに配属されました。 このようにして、フィリピンにおける「スペイン人」の中には、実際にはメキシコ系のルーツを持つ人々も多く含まれており、フィリピンのヒスパニック文化は、スペイン本国だけでなく、メキシコ文化の影響を色濃く受けているのです。
文化的な交流は、日常生活の様々な側面に浸透しました。食文化においては、メキシコからトウモロコシ、トマト、カカオ(チョコレートの原料)、唐辛子などがフィリピンに伝わりました。 フィリピン料理の「チャンポラード(チョコレート粥)」や「タマレス」は、メキシコにも同じ名前の料理が存在し、その起源がガレオン貿易にあることを示唆しています。 逆に、フィリピンのマンゴーはメキシコに渡り、「マンガ・デ・マニラ(マニラのマンゴー)」として知られるようになりました。 また、フィリピン人がココナッツから作る蒸留酒「トゥバ」の製法はメキシコに伝わり、テキーラやメスカルの製造に応用されたという説もあります。 言語においても、フィリピンのタガログ語には「ナナイ(母)」や「タタイ(父)」のように、メキシコのナワトル語に由来すると考えられる単語が見られます。
この貿易ルートは、単なる商品の道ではなく、思想や宗教が伝播する道でもありました。 スペイン人宣教師たちはガレオン船に乗ってフィリピンへ渡り、カトリックの布教を進めました。 その結果、フィリピンはアジアで唯一のキリスト教国となり、その文化や価値観はスペイン植民地時代の影響を深く受けています。 同時に、ヨーロッパで生まれた啓蒙思想などの新しい考え方も、このルートを通じてフィリピンに流入し、後の独立運動につながる知的土壌を育んだ側面もありました。
終焉とその遺産
2世紀半にわたって栄華を誇ったアカプルコ貿易も、18世紀後半から衰退の兆しを見せ始めます。 その原因は複合的なものでした。まず、スペイン帝国の独占体制に対する外部からの挑戦が挙げられます。イギリスやオランダといった他のヨーロッパ諸国が、直接中国との貿易に乗り出すようになり、スペインの独占が崩れていったのです。 また、フランス人ピエール・ポワブルがインド洋の島で香辛料の栽培に成功したことで、モルッカ諸島の香辛料独占も終わりを告げました。
内部的な要因としては、貿易システム自体の非効率性や腐敗が深刻化していたことが挙げられます。 厳格な規制は密輸を蔓延させ、正規の投資家の利益を損ないました。 さらに、18世紀を通じて頻発したヨーロッパでの戦争、特にイギリスによるマニラ占領(1762-1764年)は、ガレオン貿易に大きな打撃を与えました。
そして決定的な転機となったのが、19世紀初頭のラテンアメリカにおける独立の動きでした。 1810年にメキシコで独立戦争が勃発すると、アカプルコ港も反乱軍の手に落ち、ガレオン船の運航は事実上不可能となりました。 これを受けてスペイン政府は1813年にガレオン貿易の廃止を布告し、1815年に最後の船「サン・フェルナンド号(またはマガリャネス号)」がアカプルコからマニラに到着したのを最後に、250年にわたるアカプルコ貿易の歴史は完全に幕を閉じました。
アカプルコ貿易の終焉は、フィリピンにとって大きな転換点となりました。 貿易の利益に依存していたマニラは一時的に経済的な打撃を受けましたが、これを機にフィリピンはヨーロッパとの直接貿易へと舵を切り、新たな経済関係を構築していくことになります。 蒸気船の発明やスエズ運河の開通(1869年)により、ヨーロッパとの距離は劇的に縮まり、フィリピンは世界経済の新たな潮流の中に組み込まれていきました。
アカプルコ貿易が残した遺産は、計り知れません。それは、世界で初めて太平洋を定期的に結び、アジア、アメリカ、ヨーロッパを一つの経済圏に統合した、グローバリゼーションの先駆けでした。 この交易路を通じて、メキシコ銀は世界通貨として機能し、中国をはじめとするアジア経済を動かしました。 そして、商品や富の交換だけでなく、人々、文化、宗教、動植物、思想がかつてない規模で混ざり合い、フィリピンやメキシコをはじめとする関係諸国のアイデンティティ形成に不可逆的な影響を与えました。 負の側面として、植民地経済の歪みや搾取、病気の伝播といった問題も引き起こしましたが、それらも含めて、アカプルコ貿易は世界史を大きく動かした巨大な歴史的現象であったと言えるでしょう。
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