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「大航海時代」とは わかりやすい世界史用語2253 |
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著作名:
ピアソラ
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大航海時代の定義と歴史的意義
大航海時代は、ヨーロッパ史における画期的な一時期であり、おおよそ15世紀初頭から17世紀初頭、あるいは一部の歴史家によれば18世紀まで続いたとされます。この時代は、ヨーロッパの海洋国家が主導し、それまでヨーロッパ人にとって未知であった世界中の海域へと大規模な探査航海を敢行し、その結果として新たな大陸、島々、航路を発見し、最終的には広範な植民地化とグローバルな貿易網の構築へと至った期間として定義されます。この時代は、中世の閉鎖的な世界観から、地球規模で相互に連結された近世の世界システムへと移行する決定的な転換点となりました。帆船技術の発展を背景に、ヨーロッパの船乗りたちが大洋へと乗り出したこの期間は、帆船時代とも密接に重なり合います。
この時代の探検活動は、単なる地理的発見にとどまらず、政治、経済、社会、文化、そして生態系に至るまで、地球全体に永続的かつ不可逆的な変化をもたらしました。特に、イベリア半島の二大海洋国家、ポルトガルとスペインが先陣を切り、東インド諸島への香辛料貿易ルートの確立や、アメリカ大陸の「発見」とそれに続く征服・植民地化を推し進めたことは、国際貿易の構造を根底から覆しました。彼らの成功は、後発の海洋国家であるイギリス、フランス、オランダの野心を刺激し、世界的な植民地獲得競争を激化させることになります。この過程で、ヨーロッパの主要国において植民地主義が国家の基本政策として採用され、広大な植民地帝国が次々と形成されていきました。そのため、大航海時代は、しばしばヨーロッパによる植民地化の第一波、すなわち初期近代帝国主義の黎明期と同義で語られます。
この歴史的な大変動は、世界の地政学的な力関係を劇的に再構築しました。ヨーロッパが世界の新たな覇権の中心として台頭する一方で、アメリカ大陸、アフリカ、アジアの既存の政治・社会構造は深刻な打撃を受け、変容を余儀なくされました。人類の歴史が、それまで地域ごとに多様な発展を遂げていた状態から、ヨーロッパを中心とする単一の世界史的文脈へと収斂していく過程は、この時代に始まったと言えます。ヨーロッパの海洋探査の具体的な始まりは、1336年のポルトガルによるカナリア諸島への遠征に遡ることができます。その後、マデイラ諸島(1419年)やアゾレス諸島(1427年)といった大西洋上の無人島が次々と発見され、植民が行われました。そして、アフリカ大陸西岸に沿った南下政策が粘り強く続けられ、1434年には当時のヨーロッパ人が航海の限界と考えていたボハドル岬を突破するという画期的な成果を上げます。この成功が、さらなる南方への探検を加速させ、ついに1498年、ヴァスコ・ダ・ガマがアフリカ南端を周回してインド洋を横断し、インドのカリカットに到達するという歴史的偉業を成し遂げました。これにより、ポルトガルはインド洋における海上貿易の主導権を握り、アジアにおける広範なプレゼンスを確立するに至ります。
大航海時代は、世界の地理的知識を飛躍的に増大させ、新たな世界観を形成しました。それまでヨーロッパの地図では曖昧な輪郭でしか描かれていなかった大陸が、探検家たちの報告に基づいて、より正確で認識可能な形へと描き直されていきました。しかし、このグローバルな接触は、負の側面も伴いました。特に、ヨーロッパ人が持ち込んだ天然痘や麻疹といった病原菌は、免疫を持たないアメリカ大陸の先住民社会に壊滅的な打撃を与え、多くの地域で人口の激減を引き起こしました。この時代は、先住民に対する広範な奴隷化、過酷な搾取、そして軍事力による征服といった暴力的な側面を色濃く持っています。その一方で、西洋の科学技術、法制度、宗教、そして文化が世界中に拡散し、また「コロンブスの交換」と呼ばれる動植物や物産の相互交換が、世界的な食糧生産の増大と人口増加に寄与したという側面も無視できません。このように、大航海時代は光と影が複雑に交錯する、人類史における極めて重要な時代なのです。
大航海時代の歴史的背景
大航海時代の到来は、単一の出来事によって引き起こされたのではなく、中世後期からルネサンス期にかけてヨーロッパ社会が経験した、経済的、宗教的、政治的、そして技術的な変化が複雑に絡み合った結果でした。これらの要因が相互に作用し、ヨーロッパを内向きの世界から外洋へと駆り立てる強力な原動力となったのです。
ヨーロッパ貿易の興隆と新たな交易路への渇望
中世後期、特に12世紀以降のヨーロッパでは、農業生産性の向上や都市の発展に伴い、商業活動が活発化していました。十字軍の遠征(11世紀末~13世紀)は、ヨーロッパ人が中東のレヴァント地方を通じて、アジアの奢侈品に直接触れる機会を増やしました。絹、宝石、そして特に香辛料(胡椒、クローブ、ナツメグ、シナモンなど)は、上流階級の間で非常に高い需要がありました。香辛料は、単なる調味料としてだけでなく、冬場の食肉保存のための防腐剤や、腐敗しかけた食材の臭みを消すため、さらには医薬品としても重宝され、その価値は金に匹敵するとも言われました。
しかし、この東方貿易(レヴァント貿易)は、いくつかの深刻な問題を抱えていました。第一に、その流通経路が極めて長く、複数の仲介業者を経ていたことです。アジアで産出された香辛料は、まずインド洋を航行するアラブ商人やインド商人の手に渡り、紅海やペルシャ湾を経由して地中海東岸の港(アレクサンドリア、ベイルートなど)まで運ばれました。そこから先は、ヴェネツィアやジェノヴァといったイタリアの海洋都市国家の商人が独占的に買い付け、ヨーロッパ各地へと高値で転売していました。この多段階の流通プロセスは、最終的な商品価格を法外なものに引き上げていました。
第二に、この貿易ルートがイスラム勢力の支配下にあったことです。13世紀にモンゴル帝国がユーラシア大陸に広大な版図を築いた「パクス・モンゴリカ」の時代には、マルコ・ポーロのように陸路で比較的安全にアジアへ旅することも可能でしたが、14世紀半ばにモンゴル帝国が分裂・衰退すると、陸路の安全性は失われました。そして決定的な打撃となったのが、1453年のオスマン帝国によるコンスタンティノープルの陥落です。東ローマ帝国の首都であり、東西交易の要衝であったこの都市がオスマン帝国の手に落ちたことで、ジェノヴァは黒海方面の交易拠点を失い、ヴェネツィアもオスマン帝国との交渉を余儀なくされるなど、キリスト教世界のヨーロッパは、東方への主要な交易路に対するアクセスを著しく制限されることになりました。オスマン帝国は、ヨーロッパ商人に対して高い関税を課し、時には政治的・軍事的対立から交易路を完全に封鎖することもありました。
このような状況下で、イベリア半島のポルトガルやスペインといった、地中海貿易から疎外されていた国々の君主や商人たちは、イタリア商人やイスラム商人の独占を打破し、香辛料の産地であるアジア(インドや「香料諸島」と呼ばれたモルッカ諸島)へ直接到達するための、新たな海上ルートを開拓することに国家の存亡をかけた強い意欲を燃やすようになりました。アフリカ大陸を南に周回してインド洋に出るというポルトガルの計画や、地球球体説に基づいて大西洋を西に進めばアジアに到達できるというコロンブスの構想は、まさにこの経済的要請から生まれた必然的な帰結だったのです。
宗教的情熱とレコンキスタの遺産
経済的動機と並んで、あるいはそれ以上に強力な推進力となったのが、宗教的な情熱、すなわちキリスト教の布教への熱意でした。この情熱は、特にイベリア半島の歴史的文脈と深く結びついています。スペインとポルトガルは、8世紀以来、イベリア半島を支配していたイスラム教徒(ムーア人)をキリスト教徒の支配下に取り戻すための国土回復運動(レコンキスタ)を、何世紀にもわたって続けてきました。この長きにわたる戦いは、両国の国民性に戦闘的で熱烈なカトリック信仰を深く刻み込みました。
1492年、スペインがイベリア半島最後のイスラム王朝であるナスル朝の首都グラナダを陥落させ、レコンキスタを完了させたことは、象徴的な出来事でした。この勝利によって解放された軍事力と宗教的エネルギーは、新たな「十字軍」の舞台を海外に求めることになります。探検家やコンキスタドール(征服者)たちは、自らの航海や征服活動を、異教徒を打ち破り、未知の土地の住民をキリスト教に改宗させるという神聖な使命の一部と捉えていました。カトリック教会もまた、プロテスタントの宗教改革に対抗し、失われた信者を補って余りある新たな改宗者を世界中で獲得するため、探検事業を積極的に後援しました。教皇は、探検によって発見された土地の領有権を特定のカトリック国家に与える教皇子午線を設定するなど、探検と植民地化に宗教的な正当性を与える役割を果たしました。宣教師たちは探検隊に同行し、時には武力を背景に、時には現地の文化と融合しながら、アメリカ大陸やアジア、アフリカの各地で精力的な布教活動を展開しました。
中央集権国家の形成と国家間の競争
15世紀後半、ヨーロッパでは封建領主の力が衰え、国王のもとに権力が集中する中央集権的な国民国家(ネーション・ステート)が形成されつつありました。特に、レコンキスタを完了させたスペインや、いち早く中央集権化を達成したポルトガル、そして百年戦争を経て国民意識が高まったフランスやイギリスなどがその代表です。これらの新興国家は、強力な官僚機構と常備軍を維持するために莫大な資金を必要としており、その財源として海外の富、特に貴金属や香辛料貿易による利益に目をつけました。
国家の威信は、その領土の広さや富の量によって測られるという考え方が広まり、ヨーロッパの君主たちの間には、富と領土、そして貿易の覇権をめぐる激しい競争意識が生まれました。ある国が探検で成功を収め、新たな領土や富を獲得すると、他の国々もその成功に倣い、遅れを取るまいと躍起になりました。探検家や船乗りたち自身も、王室からの報奨や貴族の称号、そして歴史に名を刻むという個人的な名誉や栄光を求めて、危険な航海へと乗り出しました。純粋な知的好奇心や、未知の世界への冒険心も、多くの人々を海へと駆り立てた重要な動機でしたが、それを国家規模の事業へと押し上げたのは、こうした国家間の熾烈な競争でした。
ルネサンス期における科学技術の進歩
大航海時代を物理的に可能にしたのは、ルネサンス期を通じてヨーロッパが蓄積、あるいは東方から導入・改良した科学技術の進歩でした。
第一に、造船技術の革新が挙げられます。15世紀のポルトガルとスペインの造船技術者たちは、それまでのヨーロッパの船の長所を組み合わせ、外洋航海に適した新しい船種、キャラベル船を開発しました。キャラベル船は、比較的小型(50~100トン程度)で、喫水が浅く、高い機動性を誇りました。これにより、未知の沿岸や河川の探査が可能になりました。その最大の特徴は、複数のマストに四角帆と三角帆(ラティーンセイル)の両方を装備したことです。地中海で伝統的に使われてきた三角帆は、逆風の中でもジグザグに進む(タッキング)ことを可能にし、北ヨーロッパで主流だった四角帆は、追い風を受けて高速で航行するのに適していました。この二つの帆を組み合わせることで、キャラベル船は様々な風の状況に対応できる、極めて優れた帆走性能を獲得しました。さらに、船体の構造も改良され、荒波に耐えうる頑丈さを備えるようになりました。後に、より大型で積載量の多いナオ船(またはキャラック船)が開発され、長距離の交易航海に用いられるようになります。
第二に、航海術の飛躍的な進歩があります。古代から船乗りたちは、太陽や北極星の位置を頼りに方角や緯度を測定していましたが、天候に左右されるという大きな欠点がありました。この問題を解決したのが、磁気コンパス(羅針盤)の普及です。羅針盤は中国で発明され、イスラム世界を経て12世紀頃にヨーロッパに伝わりましたが、14世紀には船に搭載されるのが一般的になり、天候に関わらず常に方角を知ることができるようになりました。また、アストロラーベや四分儀といった天体観測儀器も改良され、星の高度から緯度をより正確に測定できるようになりました。さらに、羅針儀海図と呼ばれる、港や沿岸の地形、航程線などを詳細に記した実用的な海図が作成されるようになり、これまでの経験と勘に頼った航海から、より科学的で予測可能な航海術へと移行していきました。
第三に、兵器技術の優位性です。中国で発明された火薬は、ヨーロッパで兵器として急速な発展を遂げました。大航海時代のヨーロッパの船は、強力な大砲を装備しており、海上での戦闘において他国の船を圧倒する力を持っていました。また、火縄銃や鉄製の剣、鎧といった武器は、アメリカ大陸やアフリカの先住民との戦闘において、ヨーロッパのコンキスタドールたちに圧倒的な軍事的優位性をもたらしました。
これらの経済的、宗教的、政治的、そして技術的な要因が、15世紀のヨーロッパにおいて完璧な嵐のように結集し、世界史を永遠に変えることになる大航海時代の幕を開けたのです。
大航海時代の主要な出来事と探検家
大航海時代は、数多くの勇敢な探検家たちの個人的な偉業と、それを後押しした国家の戦略が織りなす壮大なドラマでした。ここでは、時代を切り開いた主要な国々とその代表的な探検家、そして彼らが成し遂げた画期的な発見や征服について、時系列に沿って詳述します。
ポルトガルの先駆的役割とアフリカ航路の開拓
大航海時代の先鞭をつけたのは、ヨーロッパの西端に位置し、大西洋に面した小国ポルトガルでした。15世紀から16世紀にかけて、ポルトガルは国家事業として海洋探検を組織的に推進し、ヨーロッパのどの国よりも早く、遠くへと到達しました。
この偉業の中心にいたのが、「航海王子」として知られるエンリケ王子です。彼は国王ジョアン1世の三男であり、自らはほとんど船に乗ることはありませんでしたが、1419年頃から1460年に亡くなるまで、ポルトガル南部のサグレスに航海学校や天文台を設立し、地図製作者、天文学者、造船技術者、船乗りたちを結集させました。彼の後援のもと、ポルトガルはアフリカ西岸を探検する遠征隊を毎年組織的に派遣しました。その目的は、伝説的なキリスト教国「プレスター・ジョン」の王国と連携してイスラム勢力を挟撃すること、そして西アフリカの金や奴隷の交易ルートを確立することでした。
エンリケの遠征隊は、まず1419年にマデイラ諸島、1427年にアゾレス諸島を発見し、これらの無人島に植民してサトウキビやブドウの栽培を始め、後の植民地経営のモデルケースを築きました。当時のヨーロッパの船乗りにとって最大の難関は、アフリカ西岸のボハドル岬でした。この岬の先は、強い潮流と逆風のため「帰れない海」として恐れられていましたが、1434年、エンリケの部下ジル・エアネスがついにこの岬を越えることに成功します。これは心理的な障壁を打ち破る大きな一歩であり、これ以降、ポルトガルの探検は加速度的に南下していきます。1440年代にはセネガル川に到達し、金や奴隷、象牙の直接取引を開始しました。1482年には、現在のガーナにエルミナ城を建設し、西アフリカ貿易の拠点としました。
エンリケ王子の死後も探検は続き、国王ジョアン2世の時代にクライマックスを迎えます。1488年、バルトロメウ・ディアス率いる船団は、嵐に流されながらもアフリカ大陸の南端を通過し、大陸が東へと続いていることを確認しました。ディアスは、この岬を「嵐の岬」と名付けましたが、インドへの航路開拓に希望を見出したジョアン2世は、これを「喜望峰」と改名させました。ディアスの発見は、大西洋とインド洋が繋がっていることを証明し、インドへの海上ルートが現実のものであることを示しました。
そしてついに1497年、ヴァスコ・ダ・ガマが4隻の船団を率いてリスボンを出航します。彼はディアスの経験を活かし、アフリカ西岸から大きく沖合に出て南大西洋の偏西風を利用するという大胆な航路を取り、喜望峰を無事に周回しました。その後、アフリカ東岸を北上し、マリンディ(現在のケニア)で熟練のアラブ人水先案内人イブン・マージドを雇い、季節風(モンスーン)に乗ってインド洋を横断。1498年5月20日、インド南西岸の香辛料貿易の中心地、カリカット(現在のコーリコード)に到達しました。ヨーロッパからインドへの直接航路が開かれた歴史的瞬間でした。この航海は、往路で2年を要し、多くの船員を壊血病で失うなど過酷なものでしたが、持ち帰った香辛料は航海の経費の60倍もの利益を生んだと言われています。ダ・ガマの成功により、ポルトガルはヴェネツィアやイスラム商人が支配していた高価な香辛料貿易に直接参入し、莫大な富を築く基盤を確立しました。ポルトガルはその後、武力を用いてインド洋の主要な港(ゴア、マラッカ、ホルムズなど)を次々と占領し、航行許可証制度を導入してインド洋の制海権を掌握。アジアからアフリカ、ブラジルに至る広大な海上帝国を築き上げ、世界初のグローバルな海洋大国として君臨したのです。
スペインの参入、新大陸の「発見」とトルデシリャス条約
ポルトガルがアフリカ航路の開拓に専念している間、隣国スペインは別の野心的な計画に賭けました。1492年にレコンキスタを完了させ、国内統一を成し遂げたスペインの共同統治者、イサベル1世とフェルナンド2世は、ジェノヴァ出身の航海家クリストファー・コロンブスが提唱する西回りでのアジア到達計画を採用しました。コロンブスは、古代ギリシャの地理学者プトレマイオスの地球周長計算(実際よりもかなり小さい)を信じ、大西洋を西へ進めば、比較的短期間で日本(ジパング)やインドに到達できると主張しました。ポルトガル王室に一度は却下されたこの計画を、スペインはポルトガルへの対抗上、そして一発逆転の可能性を秘めた投資として支援することを決定します。
1492年8月3日、コロンブスは3隻の船(サンタ・マリア号、ピンタ号、ニーニャ号)を率いてパロス港を出航。約2ヶ月間の航海の末、10月12日に現在のバハマ諸島に属する島(彼がサン・サルバドルと命名)に上陸しました。彼は生涯を通じて、自分が到達した土地をアジアの一部(「インディアス」)であると信じ続けていましたが、実際にはヨーロッパ人にとって全く未知の大陸、アメリカ大陸でした。この出来事は、しばしば「新大陸の発見」と呼ばれますが、そこにはすでに何百万人もの先住民が独自の文明を築いて生活していたため、今日では「遭遇」という言葉がより適切とされています。コロンブスの航海は、旧世界(ユーラシア・アフリカ)と新世界(アメリカ)の間の永続的な交流を開始させ、その後の世界の歴史を根底から変える引き金となりました。
コロンブスの帰還後、彼が発見した土地の領有権をめぐって、スペインとポルトガルの間で激しい対立が生じました。この紛争を調停するため、スペイン出身のローマ教皇アレクサンデル6世が仲介に乗り出します。1494年、両国はトルデシリャス条約を締結しました。この条約は、アフリカ大陸西端のカーボベルデ諸島のさらに西370レグア(約2,000キロメートル)の地点を通る子午線を境界線(教皇子午線)とし、その線より西側で発見された非キリスト教徒の土地をスペイン領、東側をポルトガル領とすることを定めたものです。この条約により、意図せずして当時まだヨーロッパ人に発見されていなかったブラジル東部がポルトガル領に含まれることになり、後にペドロ・アルヴァレス・カブラルが1500年にブラジルに漂着した際、ポルトガルがその領有権を主張する根拠となりました。トルデシリャス条約は、地球を二つの大国で分割するという前代未聞の取り決めであり、ヨーロッパ中心主義的な世界観と、海外領土の収奪を正当化する論理を象徴するものでした。
世界周航の達成と太平洋の探検
トルデシリャス条約で西半球の探検権を得たスペインは、アメリカ大陸がアジアとは別の大陸である可能性を認識し始めると、その先に広がる海を越えて、真の香辛料の産地であるモルッカ諸島(香料諸島)へ到達する西回り航路の探索を続けました。
この壮大な挑戦に挑んだのが、ポルトガル人の航海家でありながら、ポルトガル王室に冷遇され、スペイン王カルロス1世(後の神聖ローマ皇帝カール5世)に仕えたフェルディナンド・マゼランでした。マゼランは、南アメリカ大陸のどこかに西の海へと抜ける海峡が必ず存在すると信じていました。1519年9月、彼は5隻の船団と約270人の乗組員を率いてスペインのサンルカル・デ・バラメダ港を出航しました。航海は困難を極め、食糧不足、壊血病、そして反乱に苦しめられながらも、マゼランは粘り強く南アメリカ大陸の沿岸を南下しました。そして1520年10月、ついに大陸の南端に目的の海峡を発見します(後にマゼラン海峡と命名)。荒れ狂う海峡を38日間かけて通過した彼らの目の前には、広大で穏やかな海が広がっていました。マゼランは、この海を「太平洋(Mar Pacífico)」と名付けました。
しかし、太平洋は彼らの想像を絶する広さでした。約100日間、陸地を全く見ることなく航海を続け、船団は深刻な飢餓と壊血病に見舞われ、多くの乗組員が命を落としました。1521年3月、ようやくグアム島に到達し、その後フィリピン諸島にたどり着きます。マゼランはそこで地元の首長との同盟を結び、キリスト教への改宗を進めましたが、近隣の島との戦闘に巻き込まれ、1521年4月27日、マクタン島で戦死しました。
指導者を失った船団でしたが、残された乗組員たちはフアン・セバスティアン・エルカーノの指揮のもと、航海の目的であったモルッカ諸島に到達し、大量のクローブを積み込みました。帰路はポルトガルの支配海域を避けるため、インド洋と大西洋をひたすら西進するルートを選びました。そして1522年9月6日、出発時に5隻あった船のうち、わずか1隻のビクトリア号と18人の生存者だけがスペインに帰還しました。この3年近くに及ぶ壮絶な航海は、人類史上初の世界周航を達成するという不滅の金字塔を打ち立てました。この偉業は、地球が球体であることを実証し、その真の大きさを明らかにし、そして全ての大洋が繋がっていることを証明しました。マゼランとエルカーノの航海は、地球に対する人々の認識を完全に変え、真のグローバル時代の到来を告げるものでした。
アメリカ大陸における帝国の征服
スペインの探検家たちは、単なる探検や交易に留まらず、新大陸の富を求めて内陸部へと進出し、そこで高度な文明を築いていた先住民の帝国と対峙しました。彼らはコンキスタドール(征服者)と呼ばれ、わずかな兵力で巨大な帝国を滅ぼすという、信じがたい軍事的成功を収めました。
1519年、エルナン・コルテス率いる約500人のスペイン兵士の一団が、メキシコのユカタン半島に上陸しました。彼らの目的は、黄金に満ちていると噂されるアステカ帝国の征服でした。当時、アステカ帝国はメキシコ中央高原を支配する強大な軍事国家であり、首都テノチティトランは湖上に浮かぶ壮麗な都市で、人口20万人以上を擁していました。コルテスは、アステカの圧政に苦しんでいたトラスカラ族などの周辺部族を巧みに味方につけ、同盟軍を組織しました。また、アステカの神話にあった「羽毛の蛇の神ケツァルコアトルが東から再来する」という予言を巧みに利用し、皇帝モクテスマ2世を心理的に揺さぶりました。
当初、モクテスマ2世はコルテスらを丁重に迎え入れましたが、コルテスは皇帝を人質に取り、間接的に帝国を支配しようとします。しかし、スペイン人の横暴に耐えかねたアステカの民衆が蜂起し、激しい市街戦の末、スペイン軍は多くの犠牲者を出しながら首都から撤退を余儀なくされました(「悲しき夜」)。コルテスは同盟軍を再編成し、テノチティトランを包囲します。この時、スペイン人が持ち込んだ天然痘がアステカの首都で大流行し、免疫のないアステカの戦士や指導者たちを次々と薙ぎ倒しました。この疫病による人口の激減が、アステカの抵抗力を決定的に奪いました。1521年8月13日、数ヶ月にわたる壮絶な攻防の末、テノチティトランは陥落し、アステカ帝国は滅亡しました。スペインはアステカの旧領土の上にニュースペイン副王領を設立し、メソアメリカ全域の支配を開始しました。
アステカ征服の報は、さらなるコンキスタドールたちを刺激しました。その一人、フランシスコ・ピサロは、南米に黄金郷(エル・ドラド)があると聞きつけ、アンデス山脈に広がるインカ帝国の征服に乗り出しました。ピサロが1532年にペルーに上陸した時、インカ帝国は偶然にも絶好の状況にありました。皇帝ワイナ・カパックが天然痘(ヨーロッパからすでに伝播していた)で急死した後、その二人の息子、ワスカルとアタワルパの間で激しい帝位継承の内戦が勃発し、アタワルパが勝利した直後だったのです。帝国はこの内戦で疲弊し、分裂していました。
ピサロは、わずか168人の兵士と数頭の馬を率いて、カハマルカの町で皇帝アタワルパとの会見に臨みました。そして、周到な計画のもと、奇襲をかけてアタワルパを捕虜にすることに成功します。インカ社会では皇帝は太陽神の化身であり、絶対的な存在でした。その皇帝が捕らえられたことで、数万のインカ軍は組織的な抵抗ができなくなりました。アタワルパは解放の身代金として、自分のいる部屋を埋め尽くすほどの金銀を差し出すことを約束し、それは実行されましたが、ピサロは約束を破り、アタワルパを処刑しました。指導者を失ったインカ帝国は混乱に陥り、スペインはその後、インカの旧都クスコを占領し、内部分裂を利用しながら抵抗勢力を各個撃破していきました。最後のインカ皇帝トゥパク・アマルが1572年に処刑されるまで抵抗は続きましたが、事実上、帝国はピサロの奇襲によって崩壊したのです。スペインはインカ帝国の広大な領土にペルー副王領を設立し、南米大陸の支配を確立しました。
これらの征服が、なぜこれほど少数のヨーロッパ人によって可能だったのか。その要因は、銃や鉄の剣、馬といったヨーロッパの軍事技術の優位性、先住民の同盟者の存在、そして何よりも、ヨーロッパ人が持ち込んだ病原菌という「見えざる兵器」の壊滅的な影響にありました。
後発諸国の参入と世界的な競争
スペインとポルトガルが築いた莫大な富と広大な帝国は、他のヨーロッパ諸国を黙って見過ごさせるものではありませんでした。16世紀後半から17世紀にかけて、イギリス、フランス、オランダが本格的に海洋探検と植民地獲得競争に参入します。
イギリスは、当初、スペインやポルトガルよりも出遅れていました。1497年にヘンリー7世の支援を受けたイタリア人ジョン・カボットが北米のニューファンドランド島に到達し、イギリスの北米領有権の根拠を築きましたが、その後しばらくは国内問題で海外進出は停滞します。しかし、エリザベス1世の時代になると、フランシス・ドレークに代表される「私掠船(プライベーティア)」が、スペインの財宝船を襲撃(実質的な海賊行為)し、国家の富を増やしました。ドレークは1577年から1580年にかけて世界周航を達成し、その過程でカリフォルニアの領有を宣言しました。1588年のアルマダ海戦でスペインの無敵艦隊を破ったことは、イギリスが海洋国家として台頭する転換点となり、17世紀には北米東岸(バージニア、ニューイングランド)やカリブ海の島々に本格的な植民地を建設していきます。
フランスもまた、スペインとポルトガルによる世界の二分割に異を唱え、独自の探検を後援しました。1524年、フランソワ1世はイタリア人ジョヴァンニ・ダ・ヴェラッツァーノを派遣し、北米東岸を探検させました。そして1534年、ジャック・カルティエがセントローレンス川を遡り、現在のモントリオール周辺に到達。これが後の広大なフランス植民地「ヌーベルフランス(ニューフランス)」の基礎となりました。フランスは北米の毛皮交易に重点を置き、先住民と比較的良好な関係を築きながら、五大湖からミシシッピ川流域へと勢力を拡大しました。また、カリブ海のハイチやインドにも拠点を築きました。
16世紀末にスペインから独立を達成したオランダ(ネーデルラント連邦共和国)は、急速に海洋貿易国家として成長しました。彼らは、既存のポルトガル・スペインの交易網に割り込む形で、効率的な商業システムを武器に勢力を拡大しました。1602年に設立されたオランダ東インド会社(VOC)は、世界初の株式会社と言われ、条約締結権、軍隊保有権、植民地経営権など、国家に匹敵する権限を与えられていました。VOCは、ポルトガルから香料諸島の支配権を奪い、バタヴィア(現在のジャカルタ)を拠点にアジア貿易を支配しました。また、1609年にヘンリー・ハドソンが北米のハドソン川を発見し、ニューアムステルダム(後のニューヨーク)を建設。1621年にはオランダ西インド会社を設立し、大西洋貿易にも進出しました。さらに、アベル・タスマンの航海(1642-44年)によって、タスマニア島やニュージーランド、フィジー諸島が発見されるなど、太平洋地域の探検にも大きな足跡を残しました。
これらの後発国の参入により、大航海時代はイベリア半島諸国だけの事業ではなく、ヨーロッパ全体のグローバルな事業へと変貌し、世界各地で植民地と貿易の覇権をめぐる熾烈な戦争が繰り広げられる時代へと移行していったのです。
大航海時代がもたらした世界的影響
大航海時代は、単にヨーロッパの歴史における一時代に留まらず、地球上のあらゆる地域の歴史、文化、社会、そして自然環境にまで、永続的かつ根源的な影響を及ぼしました。その影響は多岐にわたり、現代世界のグローバルな構造を形成する上で決定的な役割を果たしました。
コロンブス交換
大航海時代がもたらした最も広範で劇的な結果は、歴史家アルフレッド・クロスビーが「コロンブス交換」と名付けた現象です。これは、1492年のコロンブスの航海を契機として始まった、旧世界(ヨーロッパ、アジア、アフリカ)と新世界(アメリカ大陸)の間での、動植物、病原菌、人間、技術、そして文化などが、意図的・非意図的に大規模に相互交換されたプロセスを指します。この交換は、両世界の生態系と人類社会を永遠に変えました。
植物の交換は、世界の食糧事情と農業を一変させました。アメリカ大陸原産のトウモロコシ、ジャガイモ、サツマイモ、トマト、カカオ、唐辛子、インゲンマメ、カボチャ、ピーナッツ、そしてタバコなどが旧世界にもたらされました。これらの作物は、旧世界の食生活を豊かにしただけでなく、世界の人口動態に絶大な影響を与えました。特に、トウモロコシとジャガイモは、単位面積あたりのカロリー生産量が非常に高く、それまでヨーロッパやアジアの痩せた土地や寒冷な気候では栽培が難しかった地域でも生育が可能でした。ジャガイモは北ヨーロッパの主要な食糧となり、アイルランドやドイツの人口増加を支えました。サツマイモは中国の食糧危機を救い、人口爆発の一因となりました。唐辛子はアジアやアフリカの料理に革命をもたらし、今日では多くの地域の食文化に不可欠な要素となっています。一方、旧世界からは小麦、大麦、米、サトウキビ、コーヒー、ブドウ、オレンジ、バナナなどが新世界に持ち込まれました。特にサトウキビとコーヒーは、カリブ海地域やブラジルで大規模なプランテーション農業の基盤となり、ヨーロッパ市場向けの主要な商品作物となりましたが、その生産は後述する奴隷労働に大きく依存していました。
動物の交換もまた、新世界の環境と社会に大きな変化をもたらしました。ヨーロッパ人は、馬、牛、豚、羊、ヤギ、鶏などをアメリカ大陸に持ち込みました。これらの家畜は、それまで大型の家畜がいなかった新世界で急速に繁殖しました。特に馬の導入は、北米の平原インディアンの生活様式を劇的に変えました。彼らは馬を乗りこなし、バッファロー狩りの効率を飛躍的に向上させ、より広範囲を移動する遊牧民的な文化を発展させました。牛や豚は新たな食肉源となり、牛は農耕の労働力としても利用されました。しかし、これらの家畜の放牧は、植生を破壊し、土地の浸食を引き起こすなど、新世界の生態系に負の影響も与えました。一方、新世界から旧世界に渡った動物は、七面鳥やモルモットなど、比較的限定的でした。
コロンブスの交換がもたらした最も悲劇的で壊滅的な側面は、病原菌の交換でした。旧世界の人々は、何千年にもわたって家畜と共に生活する中で、天然痘、麻疹(はしか)、インフルエンザ、腺ペスト、ジフテリア、腸チフス、コレラといった多くの感染症に対する免疫を世代から世代へと受け継いでいました。しかし、アメリカ大陸の先住民は、これらの病原菌に一度も接触したことがなく、全く免疫を持っていませんでした。そのため、ヨーロッパ人が無自覚に持ち込んだこれらの病原菌は、先住民社会で「処女地流行(未伝播地流行)」と呼ばれる爆発的な大流行を引き起こしました。病気はヨーロッパ人よりも先に内陸部へと伝播し、先住民の村々を次々と壊滅させました。その致死率は極めて高く、地域によっては人口の80%から95%が失われたと推定されています。アステカ帝国やインカ帝国の征服が、あれほど少数のスペイン人によって可能になった最大の要因は、軍事技術の差以上に、この天然痘の流行にあったと言われています。この人口の激減は、アメリカ大陸の社会構造、文化、宗教体系を根底から破壊し、労働力の喪失を通じてヨーロッパによる土地の収奪と植民地化を容易にする結果を招きました。
人間の移動もまた、コロンブスの交換の重要な要素でした。まず、数百万人のヨーロッパ人が、新たな機会を求めて、あるいは宗教的迫害から逃れるために、自発的にアメリカ大陸へと移住しました。しかし、それとは比較にならないほど大規模で、かつ強制的な人間の移動が、大西洋を舞台に展開されました。アメリカ大陸の先住民人口が疫病で激減し、鉱山やプランテーションでの労働力が不足すると、ヨーロッパの植民者たちはその代替労働力としてアフリカ人に目をつけました。こうして、16世紀から19世紀にかけて、歴史上最大規模の強制移住である大西洋奴隷貿易が始まりました。約1250万人ものアフリカ人が、非人道的な環境の奴隷船に詰め込まれ、暴力的に故郷から引き離されてアメリカ大陸へと運ばれました。この過程で数百万人が命を落としたとされています。この奴隷貿易は、ヨーロッパの商人や国家に莫大な富をもたらす「三角貿易」(ヨーロッパからアフリカへ武器や雑貨を、アフリカからアメリカへ奴隷を、アメリカからヨーロッパへ砂糖やタバコなどのプランテーション生産物を運ぶ貿易)の中核をなしました。アフリカ社会は、最も生産的な若者世代を奪われ、社会的な混乱と長期的な停滞に苦しみました。一方、アメリカ大陸では、人種に基づく厳格な社会階層を持つ奴隷制社会が形成され、その遺産は現代に至るまで深刻な人種問題として残っています。
世界経済の構造変革
大航海時代は、世界経済の構造を根本的に変え、近代資本主義の基礎を築きました。
第一に、真にグローバルな貿易ネットワークが形成されました。ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路開拓とマゼランの世界周航により、ヨーロッパ、アフリカ、アジア、アメリカ大陸という四つの大陸が、初めて一つの巨大な海上貿易網で結ばれました。アジアの香辛料、絹、陶磁器、アメリカ大陸の銀、砂糖、タバコ、アフリカの金、象牙、そして奴隷といった商品が、大陸間を大規模に移動するようになりました。これにより、地域ごとに孤立していた経済圏が統合され、世界規模での分業体制が生まれ始めました。ヨーロッパは、この新たな世界経済システムの中心に位置し、製造品を輸出し、世界中から原材料と貴金属を収奪する構造を作り上げました。
第二に、重商主義という経済思想が、ヨーロッパ各国の国家政策の指針となりました。重商主義とは、国の富の総量は固定的であり、その指標は金や銀などの貴金属の保有量であると考える思想です。したがって、国家は輸出を最大限に促進し、輸入を抑制することで貿易黒字を確保し、国内に貴金属を蓄積することを目指すべきだとされました。この考えに基づき、各国は高い関税、輸入制限、そして自国産業の保護育成といった政策をとりました。植民地は、この重商主義政策において極めて重要な役割を担いました。植民地は、本国が必要とする原材料(木材、綿花、砂糖など)を安価に供給する供給地であり、同時に本国が生産した工業製品を売りつける排他的な市場として位置づけられました。植民地が本国以外の国と貿易することは、航海法などの法律によって厳しく制限され、植民地の富は徹底的に本国へと吸い上げられました。
第三に、「価格革命」と呼ばれる現象がヨーロッパ経済を揺るがしました。スペインがアメリカ大陸、特に現在のボリビアにあるポトシ銀山やメキシコのサカテカス銀山から、前例のない量の銀を採掘し、ヨーロッパへと流入させました。この大量の貴金属の流入は、ヨーロッパの通貨供給量を急増させ、貨幣価値の下落、すなわち激しいインフレーションを引き起こしました。16世紀の100年間で、物価は全体で約3倍から6倍に上昇したと言われています。この価格革命は、固定された地代収入に依存していた封建領主層に打撃を与え、その没落を加速させた一方で、価格上昇の恩恵を受けた商人や企業家といったブルジョワジーの台頭を促しました。
第四に、近代的な金融・企業システムの発展が促進されました。長距離の海洋貿易は、莫大な利益の可能性がある一方で、船の難破や海賊の襲撃など、非常に高いリスクを伴いました。このリスクを分散させるため、複数の投資家が共同で出資する株式会社という形態が生まれました。その代表例が、1600年に設立されたイギリス東インド会社や、1602年に設立されたオランダ東インド会社(VOC)です。これらの会社は、単なる貿易会社ではなく、条約締結権、軍隊の保有、貨幣の鋳造、植民地の統治といった、国家に匹敵するほどの強力な権限を与えられていました。彼らは株式を発行して広く資本を集め、世界的な商業活動を展開し、近代資本主義の発展において中心的な役割を果たしました。また、アムステルダムやロンドンには、世界初の為替銀行や証券取引所が設立され、国際金融の中心地として発展しました。
政治的・社会的影響と植民地帝国の形成
大航海時代は、世界の政治地図を塗り替え、新たな社会構造を生み出しました。
最も顕著な結果は、ヨーロッパ諸国による広大な植民地帝国の形成です。スペインは、メキシコ、中央アメリカ、カリブ海の島々、そして南米大陸の大部分(ブラジルを除く)を支配する巨大な帝国を築きました。ポルトガルは、ブラジル、アフリカの東西沿岸、そしてインド洋から東南アジア、中国(マカオ)に至る交易拠点のネットワークからなる海上帝国を確立しました。遅れて参入したイギリスは、北米東岸、カリブ海の島々、そしてインドを支配下に置き、後の「太陽の沈まぬ国」大英帝国の基礎を築きました。フランスは、カナダとミシシッピ川流域に広がるヌーベルフランス、カリブ海の島々、インドの一部を領有しました。オランダは、東南アジアの香料諸島(インドネシア)や南アフリカ、北米の一部に植民地を築きました。これらの植民地帝国は、その後何世紀にもわたって世界の政治と経済を支配し、ヨーロッパの覇権を確立しました。
この植民地化のプロセスは、世界の地政学的なパワーバランスを劇的に変化させました。それまで地中海貿易で栄えていたヴェネツィアやジェノヴァといったイタリアの都市国家は、貿易の中心が大西洋に移ったことで衰退しました。代わって、リスボン、セビリア、アントワープ、アムステルダム、ロンドンといった大西洋岸の港湾都市が、新たな世界の経済・政治の中心として繁栄しました。また、植民地と貿易の覇権をめぐるヨーロッパ列強間の対立は、17世紀から18世紀にかけて、世界各地を舞台とする大規模な戦争(英蘭戦争、七年戦争など)へと発展していきました。
植民地化された地域社会への影響は、破壊的でした。アメリカ大陸、アフリカ、アジア、オセアニアの多くの先住民社会は、ヨーロッパ人の到来によって深刻な危機に直面しました。前述の疫病による人口の激減に加え、軍事的な征服、土地の収奪、鉱山やプランテーションでの強制労働、そして伝統文化や宗教の破壊などにより、多くの社会が崩壊に追い込まれました。ヨーロッパの言語、宗教(キリスト教)、法制度、そして価値観が、しばしば暴力的に押し付けられ、現地の文化は劣ったものとして扱われました。しかし、その一方で、異文化間の接触は、シンクレティズム(文化融合)と呼ばれる新たな文化の創造も生み出しました。例えば、ラテンアメリカでは、カトリックの信仰と先住民やアフリカの伝統的な信仰が融合した、独特の宗教文化が生まれました。食文化、音楽、芸術の分野でも、様々な要素が混じり合った新しい表現が誕生しました。
科学・地理的知識の飛躍的拡大
大航海時代は、ヨーロッパ人の世界に対する知識を根底から覆し、科学革命を準備する上で重要な役割を果たしました。
探検家たちの航海によって、それまでヨーロッパの地図では空白であったり、伝説上の怪物や楽園が描かれていたりした広大な地域が、具体的な地理情報として埋められていきました。アメリカ大陸という全く新しい大陸の存在が明らかになり、太平洋という巨大な海洋が発見され、アフリカ大陸の正確な形が判明しました。マゼランの世界周航は、地球が球体であることを実証し、その大きさを初めて正確に測定することを可能にしました。これらの発見は、古代ギリシャの権威であるプトレマイオスの地理学の誤りを明らかにし、経験的な観察と探求の重要性を人々に認識させました。ゲルハルトゥス・メルカトルに代表される地図製作者たちは、これらの新しい情報を基に、航海に適したより正確な世界地図(メルカトル図法など)を作成し、地理学を大きく進歩させました。
航海術そのものも、天文学や数学の発展を促しました。特に、外洋で船の正確な位置を知るために、緯度は比較的容易に測定できましたが、経度の測定は極めて困難な課題でした。この「経度問題」を解決するために、各国は巨額の懸賞金をかけ、天体の運行を精密に観測する天文台を設立し、また正確な時間を刻む携帯可能な時計(クロノメーター)の開発を奨励しました。これらの努力は、天文学、物理学、そして精密機械工学の発展に大きく貢献しました。
さらに、探検家や博物学者が新世界から持ち帰った、見たこともない多種多様な動植物の標本やスケッチは、ヨーロッパの博物学に衝撃を与えました。聖書に記されたノアの箱舟の物語では説明できないほどの生物の多様性が明らかになり、生物を分類し、体系化しようとする試みが活発になりました。これは、後のリンネによる分類学や、ダーウィンの進化論へとつながる、近代生物学の基礎を築く上で重要な一歩となりました。
大航海時代の終焉とその遺産
大航海時代の明確な終わりを特定することは困難です。なぜなら、それは一つの出来事で終わったのではなく、徐々にその性格を変えていったからです。一般的には、17世紀初頭から半ばにかけて、大規模な「発見」の時代は終わりを告げたと見なされています。その理由として、地球上の主要な大陸や交易路がほぼ発見され尽くしたこと、造船技術や航海術の進歩によって長距離航海が比較的安全で日常的なものになったこと、そしてヨーロッパ諸国の関心が、未知の土地の探検から、すでに獲得した植民地の経営、統治、そして列強間の覇権争いへと移っていったことが挙げられます。世界各地に恒久的な入植地や交易所が設立され、定期的な通信と貿易のネットワークが確立されたことで、かつてのような一攫千金を夢見た大規模な探検航海の時代は、より組織的で制度化された植民地経営の時代へと移行していきました。
しかし、大航海時代が切り開いたグローバルな相互依存関係、世界規模の経済システム、そして文化的な交流と対立の構造は、その後も世界の歴史を規定し続けました。この時代に始まった植民地主義の遺産は、19世紀の帝国主義の時代へと引き継がれ、20世紀の二つの世界大戦や、第二次世界大戦後の脱植民地化の動きにまで深く影響を及ぼしています。かつての植民地であった多くの国々が今日直面している政治的不安定、経済的格差、民族紛争といった問題の根源は、大航海時代に形成された不平等な国際関係や、人為的に引かれた国境線に遡ることができます。
結論として、大航海時代は、人類史における地理的知識の飛躍的な拡大期であり、世界を一つに結びつけたグローバリゼーションの第一歩であったと言えます。しかし同時に、それは世界の多くの地域にとって、ヨーロッパによる侵略、征服、そして搾取の始まりでもありました。その光と影の側面を両方理解することなく、現代世界が直面する複雑な課題を真に理解することはできないでしょう。この時代は、人類の歴史が後戻りできない形で変容した、決定的な分水嶺だったのです。
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